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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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138話『置いてきた違和感、踏み込む原生林』

朝、目が覚めた瞬間から、昨日見た見出しが頭のどこかに薄く残っていた。


寝室を出て、二階から一階へ降りる。

リビングには、いつもの顔ぶれが揃っていた。


ディアが朝食を並べていて、コユキはソファの端、ユキ丸はテーブルの上。いつもの朝の形だ。


でも、詩織だけ少し違った。


表情は整っている。

髪も、姿勢も、表情も、ちゃんとしている――ちゃんとしすぎている。


「おはようございます」


きれいな角度で、きれいな声。

整いすぎているものって、たまにそれだけで違和感になる。


「おはよう」


声はいつも通りに出した。

でも、自分でも少し薄いと分かった。


昨夜の続きが、まだどこかに残っている。

でも、ここで触ると余計に固くなる気がした。


違和感は置いておく。

大人の判断って、たぶんこういう先送りのことでもある。


温かいスープと、軽く焼いたパン。匂いだけなら、いつもの朝だ。


「食べなさい。冷める前に」


「ありがとう」


「ありがとうございます」


詩織もすぐ返す。


少しして、ディアがコーヒーを置く。


「詩織の分、砂糖少なめでいい?」


「はい……申し訳ありません」


コユキが耳を動かす。何か言いかけて、こちらを見る。

僕は黙って目だけで止めた。


今日は刺さない方がいい。


コユキは小さく鼻を鳴らして、それ以上は言わなかった。

助かる。こういう時に空気を読める猫は、本当にありがたい。


朝食を食べ終えて、支度を整える。

玄関で靴を履きながら、仕事の方へ頭を切り替える。


玄関先で、スーラがぴょんと跳ねた。


「おっと」


そのまま服の内側に入り込む。

上半身にぬるい、ぷにっとした感触が広がる。もう驚くより先に、馴染む方が早い。


「……最近、お前ほんとどこに行くにも一緒だな」


胸元のあたりで、スーラが小さく揺れる。

返事みたいなものだ。


最近は、スライムを着るのも驚くより先に受け入れてしまう。

便利なのは事実だけど、感覚が麻痺してきている気もする。


出社して、席に座る。


今日はアポイントがない。

引き継ぎも、もうほとんど終わっている。


自分がいなくても、回り始めている。

それ自体は良いことだ。良いことなんだけど、手を出さない方がいい状況ほど、自分の居場所の輪郭も薄くなる。


フォルダの整理。

最後のメモ残し。

資料の場所を誰でも分かるように整える。

無理に作業を作っている自覚はある。


それでも、手を出しすぎる方が良くない。

いま回り始めているものに、辞める人間が最後にもう一度触るのは、たまに親切じゃなくノイズになる。


午前が、妙に長い。


仕事がないわけじゃない。

むしろ、やろうと思えばいくらでも手は出せる。

ただ、自分が触るべき場所が、目に見えて減っていく。


会社員をやっていると、忙しい時は休みたくなる。

なのに、役目が薄くなると今度は“自分はもういらないのか”と考える。

人は案外、仕事そのものより、“自分が必要とされている感覚”で立っている。

だから引き継ぎがうまくいくのは正しいのに、少しだけ寂しい。


昼はコンビニで買ったおにぎりとサラダを、席で食べた。


今日はほとんど誰にも声をかけられない。

静かだ。順調だ。理想的だ。


なのに少し虚しい。


必要とされなくなっていくのは、引き継ぎが進んでいる証拠だ。

本来なら、達成感のあることのはずなのに。


朝、家を出る前に、今日は少し遅くなると詩織には伝えておいた。

その時の返事も、やっぱり短くて丁寧だった。


「承知しました。お気をつけて」


整いすぎているくらい、きれいな返事だった。

それが今は少しだけ気になる。


その言葉を思い出しながら、僕はスマホをしまって新大阪へ向かった。


昨日、レベルが上がった。

なら、行けるところまで行く。


53階。


新大阪ゲート。

53階に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


湿っている。

葉の匂い。土の匂い。腐葉土の、甘いような重たい匂い。

霧が低く漂っていて、視界が妙に短い。


密度の高い原生林。

枝葉が重なって、光が細く落ちる。地面は柔らかそうに見えて、踏み込むと想像よりも沈まない。その感覚のズレが気持ち悪い。


森なのに、音が吸われる。


普通、こういう場所は虫と鳥でうるさい。

なのに、ここは違う。静かすぎる。

静かなのに、何か重いものが遠くを通った気配だけが、遅れて腹に響く。


「……樹海か」


ブレスレットから出てきたミニディアが、上空を見上げる。


「好きじゃないわね、この感じ」


影の端からコユキが現れる。


「音が吸われてる。嫌な階層」


スーラはすでに装甲化して、服の外側から身体を薄く包んでいる。

黒猫仮面をつける。スーラにも偽色変態(カメレオ・スキン)で黒を被せる。


ミニディアは、僕が渡したスマホをそのまま構えた。


「今日も録るの?」


「録るだけ。公開は後で考える」


「ええ、わかったわ」


上空へ飛んでいくディアの輪郭が、霧で少しだけ滲む。

録画にもノイズが乗るかもしれない。そういう階だ。


一歩、踏み込む。


霧の向こう、樹の間に何か大きい影が滑った気がした。

でも、探知には引っかからない。


“あるはずの反応”が、抜け落ちている。


嫌な感覚だった。

危険が見えないより、“何かが欠けている”方が怖い時がある。


「……変」


コユキが言う。


「探知に穴がある。点じゃなくて、空白が動いてる」


空白。

その表現が一番しっくり来た。


「じゃあ、捉え方を変えよう」


僕は足を止めて、周囲の樹々を見た。


「“いる”を探すんじゃない。“抜けてる場所”を敵とみなす」


ディアが上から返す。


「輪郭が揺れる。完全に消えてるんじゃない。認識から抜け落ちてる感じ」


そこで、ようやく敵が来た。


真正面から。

霧を押しのけるように、巨大な頭部が現れる。

ティラノサウルスに似ている。

だが、目が違う。生き物の目じゃない。冷たすぎる。感情ではなく、機能でこちらを見ている。


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