138話『置いてきた違和感、踏み込む原生林』
朝、目が覚めた瞬間から、昨日見た見出しが頭のどこかに薄く残っていた。
寝室を出て、二階から一階へ降りる。
リビングには、いつもの顔ぶれが揃っていた。
ディアが朝食を並べていて、コユキはソファの端、ユキ丸はテーブルの上。いつもの朝の形だ。
でも、詩織だけ少し違った。
表情は整っている。
髪も、姿勢も、表情も、ちゃんとしている――ちゃんとしすぎている。
「おはようございます」
きれいな角度で、きれいな声。
整いすぎているものって、たまにそれだけで違和感になる。
「おはよう」
声はいつも通りに出した。
でも、自分でも少し薄いと分かった。
昨夜の続きが、まだどこかに残っている。
でも、ここで触ると余計に固くなる気がした。
違和感は置いておく。
大人の判断って、たぶんこういう先送りのことでもある。
温かいスープと、軽く焼いたパン。匂いだけなら、いつもの朝だ。
「食べなさい。冷める前に」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
詩織もすぐ返す。
少しして、ディアがコーヒーを置く。
「詩織の分、砂糖少なめでいい?」
「はい……申し訳ありません」
コユキが耳を動かす。何か言いかけて、こちらを見る。
僕は黙って目だけで止めた。
今日は刺さない方がいい。
コユキは小さく鼻を鳴らして、それ以上は言わなかった。
助かる。こういう時に空気を読める猫は、本当にありがたい。
朝食を食べ終えて、支度を整える。
玄関で靴を履きながら、仕事の方へ頭を切り替える。
玄関先で、スーラがぴょんと跳ねた。
「おっと」
そのまま服の内側に入り込む。
上半身にぬるい、ぷにっとした感触が広がる。もう驚くより先に、馴染む方が早い。
「……最近、お前ほんとどこに行くにも一緒だな」
胸元のあたりで、スーラが小さく揺れる。
返事みたいなものだ。
最近は、スライムを着るのも驚くより先に受け入れてしまう。
便利なのは事実だけど、感覚が麻痺してきている気もする。
出社して、席に座る。
今日はアポイントがない。
引き継ぎも、もうほとんど終わっている。
自分がいなくても、回り始めている。
それ自体は良いことだ。良いことなんだけど、手を出さない方がいい状況ほど、自分の居場所の輪郭も薄くなる。
フォルダの整理。
最後のメモ残し。
資料の場所を誰でも分かるように整える。
無理に作業を作っている自覚はある。
それでも、手を出しすぎる方が良くない。
いま回り始めているものに、辞める人間が最後にもう一度触るのは、たまに親切じゃなくノイズになる。
午前が、妙に長い。
仕事がないわけじゃない。
むしろ、やろうと思えばいくらでも手は出せる。
ただ、自分が触るべき場所が、目に見えて減っていく。
会社員をやっていると、忙しい時は休みたくなる。
なのに、役目が薄くなると今度は“自分はもういらないのか”と考える。
人は案外、仕事そのものより、“自分が必要とされている感覚”で立っている。
だから引き継ぎがうまくいくのは正しいのに、少しだけ寂しい。
昼はコンビニで買ったおにぎりとサラダを、席で食べた。
今日はほとんど誰にも声をかけられない。
静かだ。順調だ。理想的だ。
なのに少し虚しい。
必要とされなくなっていくのは、引き継ぎが進んでいる証拠だ。
本来なら、達成感のあることのはずなのに。
朝、家を出る前に、今日は少し遅くなると詩織には伝えておいた。
その時の返事も、やっぱり短くて丁寧だった。
「承知しました。お気をつけて」
整いすぎているくらい、きれいな返事だった。
それが今は少しだけ気になる。
その言葉を思い出しながら、僕はスマホをしまって新大阪へ向かった。
昨日、レベルが上がった。
なら、行けるところまで行く。
53階。
新大阪ゲート。
53階に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿っている。
葉の匂い。土の匂い。腐葉土の、甘いような重たい匂い。
霧が低く漂っていて、視界が妙に短い。
密度の高い原生林。
枝葉が重なって、光が細く落ちる。地面は柔らかそうに見えて、踏み込むと想像よりも沈まない。その感覚のズレが気持ち悪い。
森なのに、音が吸われる。
普通、こういう場所は虫と鳥でうるさい。
なのに、ここは違う。静かすぎる。
静かなのに、何か重いものが遠くを通った気配だけが、遅れて腹に響く。
「……樹海か」
ブレスレットから出てきたミニディアが、上空を見上げる。
「好きじゃないわね、この感じ」
影の端からコユキが現れる。
「音が吸われてる。嫌な階層」
スーラはすでに装甲化して、服の外側から身体を薄く包んでいる。
黒猫仮面をつける。スーラにも偽色変態で黒を被せる。
ミニディアは、僕が渡したスマホをそのまま構えた。
「今日も録るの?」
「録るだけ。公開は後で考える」
「ええ、わかったわ」
上空へ飛んでいくディアの輪郭が、霧で少しだけ滲む。
録画にもノイズが乗るかもしれない。そういう階だ。
一歩、踏み込む。
霧の向こう、樹の間に何か大きい影が滑った気がした。
でも、探知には引っかからない。
“あるはずの反応”が、抜け落ちている。
嫌な感覚だった。
危険が見えないより、“何かが欠けている”方が怖い時がある。
「……変」
コユキが言う。
「探知に穴がある。点じゃなくて、空白が動いてる」
空白。
その表現が一番しっくり来た。
「じゃあ、捉え方を変えよう」
僕は足を止めて、周囲の樹々を見た。
「“いる”を探すんじゃない。“抜けてる場所”を敵とみなす」
ディアが上から返す。
「輪郭が揺れる。完全に消えてるんじゃない。認識から抜け落ちてる感じ」
そこで、ようやく敵が来た。
真正面から。
霧を押しのけるように、巨大な頭部が現れる。
ティラノサウルスに似ている。
だが、目が違う。生き物の目じゃない。冷たすぎる。感情ではなく、機能でこちらを見ている。




