137話『縮んだ世界と残る見出し』
火曜の朝は、平日らしく短く流れた。
起きて、支度して、家を出る。
玄関を抜ける頃には、頭の中ももう仕事の並びに切り替わっている。
平日の午前は、感情を切るというより、先に工程へ自分を押し込む。
今日は何を終わらせるか。
誰に何を渡すか。
どこまでを自分で見て、どこからを任せるか。
そういう“仕事の顔”に切り替えてから、オフィスへ入った。
朝イチのミーティングは、引き継ぎと段取り確認が中心だった。
必要なことだけ確認して、余計な熱は入れない。
社内作業を手早く片づけて、営業と一緒に客先へ向かった。
10時と11時は神戸のお客様先。
どちらも、挨拶は短く、確認は丁寧に。
もう辞める人間だからこそ、雑にしない。
重い話でもない。
でも、こういう“軽く回っている時”ほど、ちゃんと顔を出しておいた方が残るメンバーは楽になる。
そういう雑にしなかった仕事は、結局、未来の自分を助ける。
二件目を終えて、営業が言った。
「せっかく神戸まで来たので、中華街で食べて帰りませんか?」
一瞬だけ迷う。
断る理由もない。付き合えないこともないが……
『美味しそう』
念話で、コユキが言った。
『中華、いいわね』
今度は、ディアだ。
(……見られてるな)
「少しだけなら」
そう返すと、営業が嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
中華街は平日なのに人が多かった。
店先の湯気と香辛料の匂いだけで、空腹が一段深くなる。
ランチの皿が並んだところで、念話が落ちてきた。
『小籠包』
『焼売』
『二人とも落ち着いて』
頭の中だけ、少し騒がしい。
『美味しそう』
『それ、今度、再現できるかしら』
ディアは相変わらず、生活への落とし込みが早い。
でも、そのやり取りが少しだけ楽しいのも事実だった。
昼を済ませて、そこで解散した。
玄関を開けると、先にユキ丸のホログラムが浮かんだ。
『おかえりなさい』
そのすぐあと、廊下の影が細く揺れて、コユキが音もなく出てくる。
ミニサイズのディアとスーラも、続くみたいに姿を見せる。
この流れも、もう“いつもの”に寄ってきている。
それでいいのかは、たまに考えるけど。
「ただいま」
「おかえりなさい」
詩織も、リビングの方から顔を出した。
いつもの流れで荷物を置いて、少しだけ息をつく。
ソファに腰を下ろしたところで、詩織がふと思い出したように言った。
「……そういえば、私、カバンの中に入って移動してたじゃないですか」
「うん」
「……あれ、今さらですけど。すごい経験でした」
「慣れると逆に怖いよね」
僕がそう返すと、ディアが涼しい顔で口を挟んだ。
「秀人も一回やってみる?」
「いや、僕はいい」
即答した。
すると、コユキがすかさず刺す。
「怖いんだ」
「違う。必要がないだけ」
「それ、怖い人の言い方」
そこで、詩織の口元が一度だけほどけた。
堪えようとして、でも堪えきれていないのが分かる。
ディアがその瞬間を見逃さなかった。
「じゃあ、試してみましょう」
「いや、ちょっ――」
「待たない」
「ディア、僕まだ同意して——」
「縮小化身」
空気がふっと揺れて、次の瞬間。
世界が、一瞬で変わった。
目線が、低い。
いや、違う。
周りが全部、でかい。
「……」
言葉が一回止まる。
目の前のソファの縁が、ほとんど崖だった。
テーブルの脚は、木の柱みたいに太い。
少し離れた場所にあるコップの水なんて、もう小さいプールにしか見えない。
コユキが通常サイズのまま近づいてくる。
でかい。
「どう?世界」
『……近い。近いっていうか、でかい』
顔が近い。大きい。
白銀の毛並みも、三本の尻尾も、全部が“圧”になる。どこのベヒーモスだよ。
思わず一歩下がると、詩織がとうとう耐えきれなくなった。
「ふ、っ……」
それがすぐ、ちゃんとした笑いになる。
「……っ、すごく……可愛い……」
『可愛いはやめて』
「でも……っ、ちょっと……」
駄目だ。完全に笑っている。
その笑い方は、前に見た遠慮混じりのものじゃない。
もっと素で、もっと軽い。
それを見ていると、抗議の説得力が少し落ちる。
「床に降りるのも、一苦労だね」
コユキが面白そうに言う。
「やってみて」
『人にやらせるな』
そう言いつつ、ソファの端まで行って下を見る。
高い。
『……これ、普通に家の上からジャンプするみたいだな』
「頑張ってください」
詩織が、まだ笑いを残した声で言う。
『他人事だと思ってるだろ』
「少しだけ」
思い切って飛び降りると、着地の衝撃も大きい。
床の感覚まで違う。
20センチぐらいの段差が、普通に越える気をなくす高さに見える。
スーラが近くまで来る。
普段なら可愛いスライムなのに、今はかなり大きい。
『……スーラもでかいな』
ぷるん、と揺れるだけで、巨大スライム感がある。
ドアノブを見上げる。
遥か上だ。
「これは無理」
「人間って、こうすると弱そうね」
同じようなミニチュアのディアが容赦なく言った。
『今の僕が弱く見えるの、サイズのせいだから』
「言い訳が小さいわね」
『サイズに引っ張られてるだけだよ』
しばらく遊ばれてから、ようやく元に戻してもらえた。
戻った瞬間、世界の縮尺が正常に戻るのに少し酔う。
「……二度とやらない」
「またやろうね」
「やらない」
コユキとディアの声が、妙に楽しそうだった。
詩織はまだ少し笑っていて、その顔の柔らかさが、さっきまでリビングにあった空気を明るくしていた。
ひと段落ついて、94階へ向かった。
訓練。
僕も詩織も、それぞれディアが作ったモンスターを倒す。
必要以上に口は出さない。
訓練の途中、身体の奥で感覚が一段変わる。
「あ……」
「上がった?」
ディアが聞く。
「うん。64」
レベル64。
気負っていた日より、こういう日の方が、案外するっと上がる。
詩織は、今日は自分から課題を言っていた。
前に出るタイミング。視線を切らないこと。呼吸を止めないこと。
ディアが小さく評価を置く。
「今日の詩織、悪くないわ」
押しつけでもなく、甘やかしでもない。
その一言が、今の詩織にはちょうどいい。
夜。
リビングで情報を流し見していた時だった。
関連ニュースの欄に、嫌な見出しが混ざっていた。
《帰還者アイドル、突然の引退――その真相判明!体調不良の裏の“何か”》
反射で閉じようとする。
でも、その一瞬で詩織も画面を見てしまった。
止まる。
記事の中身は、だいたい予想通りだった。
“体調不良”を建前にしつつ、帰還者への恐怖を煽る文脈。
裏に誰かがいる、支配されている、操られている――そんな憶測ばかりだ。
速水えりな本人ではなく、“消費される物語”として書かれている。
詩織は、表情を整えた。
整えるのが早い。
でも、手だけが止まる。呼吸が、一拍だけ遅れる。
「……大丈夫です」
詩織の、薄い声だった。
自分に言い聞かせるための言葉であって、僕に向けた返事じゃない。
僕は否定しなかった。
「うん。今日はやめよう」
画面を閉じる。
「必要なら、いつでも話して」
詩織は小さく頷いた。
でも視線は少し遠い。まだ、記事の見出しが頭の中に残ってる顔だった。
さっきまで笑っていた空気が、静かに冷えていく。
画面を消しても、“文字”だけが残ることってある。
今日のそれは、たぶん詩織の中に残った。
強くなるって、たぶんレベルを上げるだけじゃない。
こういう言葉を、真正面から受け止めずに受け流せるようになることも、その一つなんだと思う。
ただ――詩織は、まだそこまで行っていない。
画面を閉じても、見出しだけがしばらく空気に残る。
その気配を抱えたまま、夜は静かに深くなっていった。




