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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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137話『縮んだ世界と残る見出し』

火曜の朝は、平日らしく短く流れた。


起きて、支度して、家を出る。

玄関を抜ける頃には、頭の中ももう仕事の並びに切り替わっている。

平日の午前は、感情を切るというより、先に工程へ自分を押し込む。


今日は何を終わらせるか。

誰に何を渡すか。

どこまでを自分で見て、どこからを任せるか。


そういう“仕事の顔”に切り替えてから、オフィスへ入った。


朝イチのミーティングは、引き継ぎと段取り確認が中心だった。

必要なことだけ確認して、余計な熱は入れない。


社内作業を手早く片づけて、営業と一緒に客先へ向かった。


10時と11時は神戸のお客様先。

どちらも、挨拶は短く、確認は丁寧に。

もう辞める人間だからこそ、雑にしない。


重い話でもない。

でも、こういう“軽く回っている時”ほど、ちゃんと顔を出しておいた方が残るメンバーは楽になる。

そういう雑にしなかった仕事は、結局、未来の自分を助ける。


二件目を終えて、営業が言った。


「せっかく神戸まで来たので、中華街で食べて帰りませんか?」


一瞬だけ迷う。

断る理由もない。付き合えないこともないが……


『美味しそう』


念話で、コユキが言った。


『中華、いいわね』


今度は、ディアだ。


(……見られてるな)


「少しだけなら」


そう返すと、営業が嬉しそうに頷いた。


「ありがとうございます」


中華街は平日なのに人が多かった。

店先の湯気と香辛料の匂いだけで、空腹が一段深くなる。


ランチの皿が並んだところで、念話が落ちてきた。


『小籠包』


『焼売』


『二人とも落ち着いて』


頭の中だけ、少し騒がしい。


『美味しそう』


『それ、今度、再現できるかしら』


ディアは相変わらず、生活への落とし込みが早い。

でも、そのやり取りが少しだけ楽しいのも事実だった。


昼を済ませて、そこで解散した。


玄関を開けると、先にユキ丸のホログラムが浮かんだ。


『おかえりなさい』


そのすぐあと、廊下の影が細く揺れて、コユキが音もなく出てくる。

ミニサイズのディアとスーラも、続くみたいに姿を見せる。


この流れも、もう“いつもの”に寄ってきている。

それでいいのかは、たまに考えるけど。


「ただいま」


「おかえりなさい」


詩織も、リビングの方から顔を出した。


いつもの流れで荷物を置いて、少しだけ息をつく。

ソファに腰を下ろしたところで、詩織がふと思い出したように言った。


「……そういえば、私、カバンの中に入って移動してたじゃないですか」


「うん」


「……あれ、今さらですけど。すごい経験でした」


「慣れると逆に怖いよね」


僕がそう返すと、ディアが涼しい顔で口を挟んだ。


「秀人も一回やってみる?」


「いや、僕はいい」


即答した。

すると、コユキがすかさず刺す。


「怖いんだ」


「違う。必要がないだけ」


「それ、怖い人の言い方」


そこで、詩織の口元が一度だけほどけた。

堪えようとして、でも堪えきれていないのが分かる。


ディアがその瞬間を見逃さなかった。


「じゃあ、試してみましょう」


「いや、ちょっ――」


「待たない」


「ディア、僕まだ同意して——」


縮小化身(ミニチュアライズ)


空気がふっと揺れて、次の瞬間。


世界が、一瞬で変わった。


目線が、低い。


いや、違う。

周りが全部、でかい。


「……」


言葉が一回止まる。


目の前のソファの縁が、ほとんど崖だった。

テーブルの脚は、木の柱みたいに太い。

少し離れた場所にあるコップの水なんて、もう小さいプールにしか見えない。


コユキが通常サイズのまま近づいてくる。


でかい。


「どう?世界」


『……近い。近いっていうか、でかい』


顔が近い。大きい。

白銀の毛並みも、三本の尻尾も、全部が“圧”になる。どこのベヒーモスだよ。


思わず一歩下がると、詩織がとうとう耐えきれなくなった。


「ふ、っ……」


それがすぐ、ちゃんとした笑いになる。


「……っ、すごく……可愛い……」


『可愛いはやめて』


「でも……っ、ちょっと……」


駄目だ。完全に笑っている。


その笑い方は、前に見た遠慮混じりのものじゃない。

もっと素で、もっと軽い。


それを見ていると、抗議の説得力が少し落ちる。


「床に降りるのも、一苦労だね」


コユキが面白そうに言う。


「やってみて」


『人にやらせるな』


そう言いつつ、ソファの端まで行って下を見る。


高い。


『……これ、普通に家の上からジャンプするみたいだな』


「頑張ってください」


詩織が、まだ笑いを残した声で言う。


『他人事だと思ってるだろ』


「少しだけ」


思い切って飛び降りると、着地の衝撃も大きい。

床の感覚まで違う。

20センチぐらいの段差が、普通に越える気をなくす高さに見える。


スーラが近くまで来る。

普段なら可愛いスライムなのに、今はかなり大きい。


『……スーラもでかいな』


ぷるん、と揺れるだけで、巨大スライム感がある。


ドアノブを見上げる。

遥か上だ。


「これは無理」


「人間って、こうすると弱そうね」


同じようなミニチュアのディアが容赦なく言った。


『今の僕が弱く見えるの、サイズのせいだから』


「言い訳が小さいわね」


『サイズに引っ張られてるだけだよ』


しばらく遊ばれてから、ようやく元に戻してもらえた。

戻った瞬間、世界の縮尺が正常に戻るのに少し酔う。


「……二度とやらない」


「またやろうね」


「やらない」


コユキとディアの声が、妙に楽しそうだった。


詩織はまだ少し笑っていて、その顔の柔らかさが、さっきまでリビングにあった空気を明るくしていた。


ひと段落ついて、94階へ向かった。


訓練。

僕も詩織も、それぞれディアが作ったモンスターを倒す。

必要以上に口は出さない。


訓練の途中、身体の奥で感覚が一段変わる。


「あ……」


「上がった?」


ディアが聞く。


「うん。64」


レベル64。

気負っていた日より、こういう日の方が、案外するっと上がる。


詩織は、今日は自分から課題を言っていた。

前に出るタイミング。視線を切らないこと。呼吸を止めないこと。


ディアが小さく評価を置く。


「今日の詩織、悪くないわ」


押しつけでもなく、甘やかしでもない。

その一言が、今の詩織にはちょうどいい。


夜。


リビングで情報を流し見していた時だった。


関連ニュースの欄に、嫌な見出しが混ざっていた。


《帰還者アイドル、突然の引退――その真相判明!体調不良の裏の“何か”》


反射で閉じようとする。

でも、その一瞬で詩織も画面を見てしまった。


止まる。


記事の中身は、だいたい予想通りだった。

“体調不良”を建前にしつつ、帰還者への恐怖を煽る文脈。

裏に誰かがいる、支配されている、操られている――そんな憶測ばかりだ。

速水えりな本人ではなく、“消費される物語”として書かれている。


詩織は、表情を整えた。


整えるのが早い。

でも、手だけが止まる。呼吸が、一拍だけ遅れる。


「……大丈夫です」


詩織の、薄い声だった。

自分に言い聞かせるための言葉であって、僕に向けた返事じゃない。


僕は否定しなかった。


「うん。今日はやめよう」


画面を閉じる。


「必要なら、いつでも話して」


詩織は小さく頷いた。

でも視線は少し遠い。まだ、記事の見出しが頭の中に残ってる顔だった。


さっきまで笑っていた空気が、静かに冷えていく。


画面を消しても、“文字”だけが残ることってある。

今日のそれは、たぶん詩織の中に残った。


強くなるって、たぶんレベルを上げるだけじゃない。

こういう言葉を、真正面から受け止めずに受け流せるようになることも、その一つなんだと思う。


ただ――詩織は、まだそこまで行っていない。


画面を閉じても、見出しだけがしばらく空気に残る。

その気配を抱えたまま、夜は静かに深くなっていった。


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