136話『場所を決めて、景色を覚える』
月曜日。
朝は、ほとんど流れるように過ぎた。
起きて、支度して、朝食を口に運んで、出社する。
今は一人ではないとはいえ、そこはもう、長年やってきた動きだった。
午前は引き継ぎのミーティングがメインだった。
僕が置いていくのは、“僕がいなくなる前提の仕事”じゃない。
残る人が、そのまま回せる設計だ。
「この案件は順調です。今の進め方で問題ありません」
資料をめくりながら、必要なところだけ置いていく。
「ただ、ここはベンダー回答待ちなので、返答が遅れた時の代替案だけ先に持っておいてください」
「この工程は見た目より依存が多いです。担当を固定しすぎると詰まるので、最低二人で見られる状態にしておいた方がいいです」
「リスクは大きくないですが、起きた時に面倒です。起きてから考えるより、今切っておいた方が安いです」
仕事の話になると、自分でも少し温度が変わるのが分かる。
感情より先に、構造で見る。誰がいなくても崩れない形を考える。
ミーティングを終えて時計を見る。
予定通り、ランチは会社で食べて、午後は半休だ。
難波ターミナル付近に着いたのは、待ち合わせの少し前だった。
帽子、マスク、眼鏡。そこに軽い認識阻害を重ねる。
人混みの流れを見ながら視線を滑らせると、柱の影にそれらしい姿があった。
帽子を少し深くかぶって、周囲を気にするように立っている。
落ち着いて見せようとしているけど、少しそわそわしているのが分かる。
気づくが、すぐには声をかけない。
『気づいてるくせに』
影の中から、コユキが刺した。
『今は、まだ気づかないふりでいい』
『妙な気遣い』
『違う。こういうのは、ワンクッションがこっちにも要るんだよ』
僕が近づくと、詩織がこちらに気づいた。
「……お待たせしました」
「詩織が待ってたよね……」
詩織が一瞬だけ止まる。
そのあと、ほんの少しだけ頬が赤くなった。
「……あ、そうですね」
整えようとして、整えきれない。
そういう瞬間は、前より増えた気がする。
「行こうか」
「はい」
そこから並んで歩き出す。
ただそれだけなのに、最初の数歩だけ妙にぎこちない。
普通って、案外むずかしい。
今日の本題は、オフィスの内覧だった。
コユキとユキ丸が、もう候補を絞って、内覧予約まで取ってくれていた。
最近、この二人、完全に秘書化してきている気がする。
『条件、再確認する』
コユキが念話で確認する。
『共同受付あり。予約制の共同会議室あり。セキュリティ高め。登記目的と、基本リモートだからスペースは小さめでいい。でも“住所だけ”のバーチャルオフィスは避けたい。いざという時の場所がないから』
『完璧だな』
『当然』
詩織が、その横でぽつりと漏らす。
「……本当に会社、作るんですね」
“改めて実感した”顔だった。
僕の中では、もう手続きと判断の順番に落ちている。
でも詩織にはまだ、“会社を作る”という響きそのものが少し特別に見えるらしかった。
一件目、二件目と見ていく。
受付のマニュアル的な所作。
カードキーの動線。
会議室予約の手間。
来客時にどこまで受付が噛んでくれるか。
僕が見ているのは、ほとんどそのへんだ。
見た目の綺麗さより、運用の方が先に気になる。
詩織は詩織で別のところを見ていた。
「ここ、安心感ありますね」
「どこでそう思った?」
「受付の方の感じがいいです。……あと、入口が明るいです」
なるほど、と思う。
詩織は雰囲気を見ていた。
僕は来客前提では考えていないし、受付の印象は担当が変われば揺れるから、そこはあまり見ていなかった。
三件目は、難波ターミナル近くのオフィスビルだった。
規模は小さめ。
でも、共同受付がある。予約制の会議室も十分。カードキー。入退館の導線。セキュリティも悪くない。
登記目的としても問題ないし、必要な時に“ちゃんと場所がある”という条件も満たしている。
「ここだな」
僕がそう言うと、詩織もすぐに頷いた。
「はい。……ここ、いいと思います」
受付の人に案内されている時、詩織が自然に返した一言が妙に綺麗だった。
「ありがとうございます。拝見できて助かりました」
その声音が、あまりにも整っていて、受付の女性が僕ではなく詩織の方を見た。
「ご担当者様でいらっしゃいましたか?」
詩織が固まる。
僕も一瞬だけ止まった。
それまでは、数歩下がった秘書みたいにうつっていただろう。
「彼女は――」
彼女は、の先で言葉が詰まる。
(なんて言うのが正解だ。同居人でも違う。関係者でも薄い……)
数秒だけ考えて、少し笑った。
「まあ……一緒に立ち上げるパートナー、みたいなものです」
そう言って誤魔化すと、詩織が固まった。
耳が赤い。
担当者は好意的に受け取ったらしく、にこやかに頷いた。
「心強いですね」
「はい、そう思います」
そこは軽く流したけど、横の詩織はしばらく黙ったままだった。
コユキが影の中で、ものすごく楽しそうな気配を出していた。
……あとで絶対刺されるな、これ。
結局、その場で仮契約まで進めた。
必要な手続きの説明を受けて、押さえるところだけ押さえる。
ビルを出たところで、詩織が小さく言う。
「……今の、びっくりしました」
「ごめん。咄嗟に言いやすかったのが、それだった」
「いえ……」
否定はしないまま、視線だけ逸らす。
その反応の方が、ちょっと危ない。
「このまま、何か食べて帰る?」
内覧と仮契約の段取りまで終わったところで、僕が言う。
するとブレスレットが、わずかに不穏な気配を出した。
『二人きりのご飯?』
ディアの声だ。
『楽しそうだね』
影の中からは、コユキまで刺してくる。
『大丈夫、考えがあるから』
僕はスマホを出して、以前行ったことがある店を登録リストから探す。
条件は明確だ。
完全個室。
人目がない。
中で出てきても大丈夫。
追加の席が置ける。
電話して数分後、予約が完了した。
中に入って、案内された部屋に通される。
扉が閉まった瞬間、ブレスレットからはミニディアが現れる。
コユキも当然みたいな顔で影から出てきた。
詩織が、そこで少し笑う。
「……本当に、出てくるんですね」
「出てくるよ」
「当然」
ディアが腕を組む。
「二人きりのご飯、楽しそうね?」
「だから今日はみんなも参加できるように個室にした」
「合理」
コユキがすぐに頷く。
詩織が感心したみたいに言う。
「すごい……」
「何が?」
「そこまで先に考えてるのがです」
褒められると、ちょっとだけ困る。
「拗ねられるのが見えてたから」
「見えてたんだ」
「見える」
料理は小皿中心のコースにした。
取り分けやすくて、話しながら食べやすい。こういう時、鍋とか小皿とかは便利だ。全員が少しずつ参加できる形の方が、空気が荒れない。
もちろん、料理が運ばれる間は二人は隠れる。忙しない。
食事の途中、ディアがわざとらしく言う。
「でも、まあ。今日はいいわ。場所も決まったし」
「仮契約まで進んだしな」
食事の空気は、思ったより穏やかだった。
詩織が少しずつ自然に笑って、ディアも必要以上には牽制せず、コユキは合間に的確に刺す。
こうやって、全員いるのに普通にご飯が回る時間があると、家も関係も、少しずつ形になっていくんだなと思う。
食後、店を出たところで僕はふと思い出した。
「そういえば……この前、外でも綺麗な場所行きたいって言ってたよね」
詩織が目を瞬く。
「……はい」
「この近くに、ちょうどいい場所がある」
詩織が少しだけ足を止めた。
「……覚えてたんですか」
「約束したこと忘れてたら困るだろ」
複合施設の上階。
屋上庭園は、思っていたより人が少なかった。
高低差のある緑。
光を柔らかく返す植栽。
下では街が動いているはずなのに、ここまで来るとざわめきが一段遠い。
「……本当に、綺麗」
詩織が言ったその顔が、完全に“素”だった。
整えた笑顔じゃない。
誰かに見せるための表情でもない。
ただ、目の前のものにちゃんと心が動いた顔。
その一瞬に、僕の方が少しだけ言葉を失う。
「うん。いい場所だね」
コユキが影の中から言う。
『約束、回収できてよかった』
『うるさい』
今日は視座がどうとか、教育がどうとか、そういう話をする日じゃない。
ただ、楽しいでよかった。
詩織がぽつりと言う。
「……この場所、覚えておきます」
「覚えておく?」
「困った時、来られる場所があると……落ち着く気がするので」
その答えが、すごく詩織らしかった。
「じゃあ、忘れないようにしないと」
「……はい」
短い返事。
でも、前よりちゃんと自分の意思がある。
帰宅。
ユキ丸のホログラムが、いつものように迎える。
【おかえりなさい】
「ただいま」
ディアが小さく言う。
「良い日だったわね」
「そうだな……」
ディアの本心が少し気になるが、いったんそれは横に置く。
詩織が、こちらを向く。
「……今日は、ありがとうございました」
前より、少しだけ顔が違う。
誰かに連れていってもらった顔じゃない。自分の足で立って、一日を終えた顔だ。
「こちらこそ」
そう返して、ソファに腰を下ろす。
今日決まったのは、会社の住所だけじゃない気がした。
距離の置き方も、たぶん少しだけ変わった。
そう思える一日だった。




