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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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136話『場所を決めて、景色を覚える』

月曜日。


朝は、ほとんど流れるように過ぎた。


起きて、支度して、朝食を口に運んで、出社する。

今は一人ではないとはいえ、そこはもう、長年やってきた動きだった。


午前は引き継ぎのミーティングがメインだった。


僕が置いていくのは、“僕がいなくなる前提の仕事”じゃない。

残る人が、そのまま回せる設計だ。


「この案件は順調です。今の進め方で問題ありません」


資料をめくりながら、必要なところだけ置いていく。


「ただ、ここはベンダー回答待ちなので、返答が遅れた時の代替案だけ先に持っておいてください」

「この工程は見た目より依存が多いです。担当を固定しすぎると詰まるので、最低二人で見られる状態にしておいた方がいいです」

「リスクは大きくないですが、起きた時に面倒です。起きてから考えるより、今切っておいた方が安いです」


仕事の話になると、自分でも少し温度が変わるのが分かる。

感情より先に、構造で見る。誰がいなくても崩れない形を考える。


ミーティングを終えて時計を見る。

予定通り、ランチは会社で食べて、午後は半休だ。


難波ターミナル付近に着いたのは、待ち合わせの少し前だった。


帽子、マスク、眼鏡。そこに軽い認識阻害を重ねる。


人混みの流れを見ながら視線を滑らせると、柱の影にそれらしい姿があった。


帽子を少し深くかぶって、周囲を気にするように立っている。

落ち着いて見せようとしているけど、少しそわそわしているのが分かる。


気づくが、すぐには声をかけない。


『気づいてるくせに』


影の中から、コユキが刺した。


『今は、まだ気づかないふりでいい』


『妙な気遣い』


『違う。こういうのは、ワンクッションがこっちにも要るんだよ』


僕が近づくと、詩織がこちらに気づいた。


「……お待たせしました」


「詩織が待ってたよね……」


詩織が一瞬だけ止まる。

そのあと、ほんの少しだけ頬が赤くなった。


「……あ、そうですね」


整えようとして、整えきれない。

そういう瞬間は、前より増えた気がする。


「行こうか」


「はい」


そこから並んで歩き出す。

ただそれだけなのに、最初の数歩だけ妙にぎこちない。

普通って、案外むずかしい。


今日の本題は、オフィスの内覧だった。


コユキとユキ丸が、もう候補を絞って、内覧予約まで取ってくれていた。

最近、この二人、完全に秘書化してきている気がする。


『条件、再確認する』


コユキが念話で確認する。


『共同受付あり。予約制の共同会議室あり。セキュリティ高め。登記目的と、基本リモートだからスペースは小さめでいい。でも“住所だけ”のバーチャルオフィスは避けたい。いざという時の場所がないから』


『完璧だな』


『当然』


詩織が、その横でぽつりと漏らす。


「……本当に会社、作るんですね」


“改めて実感した”顔だった。

僕の中では、もう手続きと判断の順番に落ちている。

でも詩織にはまだ、“会社を作る”という響きそのものが少し特別に見えるらしかった。


一件目、二件目と見ていく。


受付のマニュアル的な所作。

カードキーの動線。

会議室予約の手間。

来客時にどこまで受付が噛んでくれるか。


僕が見ているのは、ほとんどそのへんだ。

見た目の綺麗さより、運用の方が先に気になる。


詩織は詩織で別のところを見ていた。


「ここ、安心感ありますね」


「どこでそう思った?」


「受付の方の感じがいいです。……あと、入口が明るいです」


なるほど、と思う。

詩織は雰囲気を見ていた。

僕は来客前提では考えていないし、受付の印象は担当が変われば揺れるから、そこはあまり見ていなかった。


三件目は、難波ターミナル近くのオフィスビルだった。


規模は小さめ。

でも、共同受付がある。予約制の会議室も十分。カードキー。入退館の導線。セキュリティも悪くない。

登記目的としても問題ないし、必要な時に“ちゃんと場所がある”という条件も満たしている。


「ここだな」


僕がそう言うと、詩織もすぐに頷いた。


「はい。……ここ、いいと思います」


受付の人に案内されている時、詩織が自然に返した一言が妙に綺麗だった。


「ありがとうございます。拝見できて助かりました」


その声音が、あまりにも整っていて、受付の女性が僕ではなく詩織の方を見た。


「ご担当者様でいらっしゃいましたか?」


詩織が固まる。

僕も一瞬だけ止まった。

それまでは、数歩下がった秘書みたいにうつっていただろう。


「彼女は――」


彼女は、の先で言葉が詰まる。


(なんて言うのが正解だ。同居人でも違う。関係者でも薄い……)


数秒だけ考えて、少し笑った。


「まあ……一緒に立ち上げるパートナー、みたいなものです」


そう言って誤魔化すと、詩織が固まった。

耳が赤い。


担当者は好意的に受け取ったらしく、にこやかに頷いた。


「心強いですね」


「はい、そう思います」


そこは軽く流したけど、横の詩織はしばらく黙ったままだった。


コユキが影の中で、ものすごく楽しそうな気配を出していた。


……あとで絶対刺されるな、これ。


結局、その場で仮契約まで進めた。

必要な手続きの説明を受けて、押さえるところだけ押さえる。


ビルを出たところで、詩織が小さく言う。


「……今の、びっくりしました」


「ごめん。咄嗟に言いやすかったのが、それだった」


「いえ……」


否定はしないまま、視線だけ逸らす。

その反応の方が、ちょっと危ない。


「このまま、何か食べて帰る?」


内覧と仮契約の段取りまで終わったところで、僕が言う。

するとブレスレットが、わずかに不穏な気配を出した。


『二人きりのご飯?』


ディアの声だ。


『楽しそうだね』


影の中からは、コユキまで刺してくる。


『大丈夫、考えがあるから』


僕はスマホを出して、以前行ったことがある店を登録リストから探す。


条件は明確だ。

完全個室。

人目がない。

中で出てきても大丈夫。

追加の席が置ける。


電話して数分後、予約が完了した。


中に入って、案内された部屋に通される。

扉が閉まった瞬間、ブレスレットからはミニディアが現れる。


コユキも当然みたいな顔で影から出てきた。


詩織が、そこで少し笑う。


「……本当に、出てくるんですね」


「出てくるよ」


「当然」


ディアが腕を組む。


「二人きりのご飯、楽しそうね?」


「だから今日はみんなも参加できるように個室にした」


「合理」


コユキがすぐに頷く。


詩織が感心したみたいに言う。


「すごい……」


「何が?」


「そこまで先に考えてるのがです」


褒められると、ちょっとだけ困る。


「拗ねられるのが見えてたから」


「見えてたんだ」


「見える」


料理は小皿中心のコースにした。

取り分けやすくて、話しながら食べやすい。こういう時、鍋とか小皿とかは便利だ。全員が少しずつ参加できる形の方が、空気が荒れない。


もちろん、料理が運ばれる間は二人は隠れる。忙しない。


食事の途中、ディアがわざとらしく言う。


「でも、まあ。今日はいいわ。場所も決まったし」


「仮契約まで進んだしな」


食事の空気は、思ったより穏やかだった。


詩織が少しずつ自然に笑って、ディアも必要以上には牽制せず、コユキは合間に的確に刺す。

こうやって、全員いるのに普通にご飯が回る時間があると、家も関係も、少しずつ形になっていくんだなと思う。


食後、店を出たところで僕はふと思い出した。


「そういえば……この前、外でも綺麗な場所行きたいって言ってたよね」


詩織が目を瞬く。


「……はい」


「この近くに、ちょうどいい場所がある」


詩織が少しだけ足を止めた。


「……覚えてたんですか」


「約束したこと忘れてたら困るだろ」


複合施設の上階。

屋上庭園は、思っていたより人が少なかった。


高低差のある緑。

光を柔らかく返す植栽。

下では街が動いているはずなのに、ここまで来るとざわめきが一段遠い。


「……本当に、綺麗」


詩織が言ったその顔が、完全に“素”だった。


整えた笑顔じゃない。

誰かに見せるための表情でもない。

ただ、目の前のものにちゃんと心が動いた顔。


その一瞬に、僕の方が少しだけ言葉を失う。


「うん。いい場所だね」


コユキが影の中から言う。


『約束、回収できてよかった』


『うるさい』


今日は視座がどうとか、教育がどうとか、そういう話をする日じゃない。

ただ、楽しいでよかった。


詩織がぽつりと言う。


「……この場所、覚えておきます」


「覚えておく?」


「困った時、来られる場所があると……落ち着く気がするので」


その答えが、すごく詩織らしかった。


「じゃあ、忘れないようにしないと」


「……はい」


短い返事。

でも、前よりちゃんと自分の意思がある。


帰宅。


ユキ丸のホログラムが、いつものように迎える。


【おかえりなさい】


「ただいま」


ディアが小さく言う。


「良い日だったわね」


「そうだな……」


ディアの本心が少し気になるが、いったんそれは横に置く。

詩織が、こちらを向く。


「……今日は、ありがとうございました」


前より、少しだけ顔が違う。

誰かに連れていってもらった顔じゃない。自分の足で立って、一日を終えた顔だ。


「こちらこそ」


そう返して、ソファに腰を下ろす。


今日決まったのは、会社の住所だけじゃない気がした。

距離の置き方も、たぶん少しだけ変わった。

そう思える一日だった。


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