134話『家の匂いと未来の準備』
日曜日。
目が覚めた時、時計は九時を少し回っていた。
休日の遅起きは、不思議と罪悪感が薄い。
平日なら、もう二回は時計を見ている時間なのに、今日は焦りがない。
もう少し寝ていてもよかった。でも、今日はやることがある。
寝室を出て、二階から階段を降りる。
一階のリビングに近づくにつれて、生活の音がしてきた。食器の触れる小さな音。包丁の、規則的なリズム。焼ける匂い。コーヒーの香り。
ディアは今日はミニサイズのまま、キッチンカウンターの端で全体を見ながら動いていた。
小さなサイズで器用に料理をしながら、スーラやユキ丸の動きまで含めて、朝の段取りを回していた。
「起きたのね」
「起きたよ」
「今日の予定。朝は買い出し。昼は設立準備。そのあと九十四階で訓練。でしょ」
淡々としてるのに、妙に“家の司令塔”っぽい。
しかも間違っていない。
「……うん、その認識」
「よろしい」
コユキがソファの背に乗ったまま、尻尾をゆらした。
「秀人、最近ちょっと楽してるよね」
「分業って言ってほしい」
「楽してる人はみんなそう言う」
朝から容赦がない。
詩織はそのやり取りを聞きながら、テーブルに小皿を並べていた。
もう自然に、その場で自分の役割を探して動いている。
こういう変化は、音がしないぶん気づきにくい。でも、たぶん大きい。
朝食が一段落したところで、詩織が言った。
「……買い出し、私もついていきます」
「うん。行こう」
そう返すと、詩織は小さく頷いた。
午前のスーパーは、日曜らしい混み方をしていた。
日曜の朝らしい賑わい。
家族連れ。まとめ買いのカート。惣菜コーナーの前にできる人だかり。
少しだけ緩んだ空気だった。
そういう中に、僕と詩織が並んで歩いているのが、まだ少しだけ不思議だった。
カゴを持って店内を回る。
詩織は思った以上に、日用品の選び方が的確だった。
洗剤の棚の前で立ち止まって、真剣に柔軟剤の香りを比べている。
眉間に少しだけ皺が寄っていて、妙に本気だ。
「……こだわるんだ」
僕が言うと、詩織は少しだけ照れた顔をした。
「……家の匂いって大事じゃないですか」
その“家”の言い方に、少しだけ意識が止まる。
洗剤の話をしているだけなのに、同じ家の匂いを選ぶって、思ったより距離が近い。
「まあ……大事だね」
そう返した瞬間、自分の声が思ったより柔らかかったのが分かって、内心で少しだけ焦る。
「ですよね」
詩織は、洗剤をカゴに入れながら続けた。
「匂いって、帰ってきた時に……安心するので」
帰る場所の話をしている。
そう言われると、どうしても生活の輪郭が濃くなる。
鶏肉売り場では、詩織が先に値札を見つけた。
「この鶏肉、今日は安いです」
「……高い安いわかるんだ」
「はい。一人暮らしの時から、節約していたので」
僕は少しだけ感心した。
一生懸命さは、向き先を間違えると空回りする。でも今の詩織は、それがちゃんと生活に向いている。
人の少ない棚の前で、僕は何気なく言った。
「詩織、それ取って」
言ってから、自分で一拍遅れて気づく。
詩織が止まった。
「……はい」
返ってきた声は、いつもより少し低くて、素に近かった。
それが妙に耳に残る。
こういう何気ない一言で、距離は変わる。
気をつけていたつもりなのに、自然に出る時は出るらしい。
レジ前では、詩織がお会計係を買って出ようとした。
「私、払います。家賃も払うって決めたので」
「それは別。ここは僕」
「……じゃあ、袋詰めは私が」
引き方が仕事のそれじゃなくて、ちゃんと共同生活の引き方になっている。
二人で袋詰めをしていると、妙に夫婦っぽい空気になって、詩織が自分で少しだけ照れているのが分かった。
僕も気づかないふりをして、気づいている。
家に戻ると、買ってきたものをすぐに仕分ける。
詩織の動きに無駄がない。
「この鶏肉、今日は先に使った方がいいと思います」
「……判断が早いな」
「値引きシールついてたので。あと、今日の献立なら合いそうです」
ディアが横から覗き込んで、くすっと笑った。
「いい嫁ね」
「ちが……っ」
「否定が遅い」
コユキが即座に刺す。
詩織が完全に黙った。耳まで赤い。
こういうのを、たぶん空気が変わるって言うんだろう。
まだ慣れないのに、少しずつ当たり前みたいになってきている。……悪くない。
昼。
ユキ丸が帽子を外し、ホログラムを立ち上げた。
画面には、もう定款の叩き台らしきものが表示されている。
コユキが、司会みたいに言う。
「はい。設立準備の続き。ボクとユキ丸で、定款の叩き台は作った」
「早いな……」
「遅い方が困るでしょ」
その通りなんだけど、たまにこっちの感情が追いつかない。
ホログラムには、「定款」「五つの決定事項」「スケジュール」が整理されて並んでいた。
……速い。
詩織もそれは同じだったらしく、少し目を丸くした。
「もう、そこまで……?」
「今はAIもあるし、叩き台くらいならすぐ出るよ」
僕が言うと、コユキが尻尾を揺らした。
「秀人の周りが特にね」
会社名の欄だけが、空白のまま残っている。
そこを見ながら、僕は少し考えた。




