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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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134話『家の匂いと未来の準備』

日曜日。


目が覚めた時、時計は九時を少し回っていた。


休日の遅起きは、不思議と罪悪感が薄い。

平日なら、もう二回は時計を見ている時間なのに、今日は焦りがない。

もう少し寝ていてもよかった。でも、今日はやることがある。


寝室を出て、二階から階段を降りる。

一階のリビングに近づくにつれて、生活の音がしてきた。食器の触れる小さな音。包丁の、規則的なリズム。焼ける匂い。コーヒーの香り。


ディアは今日はミニサイズのまま、キッチンカウンターの端で全体を見ながら動いていた。

小さなサイズで器用に料理をしながら、スーラやユキ丸の動きまで含めて、朝の段取りを回していた。


「起きたのね」


「起きたよ」


「今日の予定。朝は買い出し。昼は設立準備。そのあと九十四階で訓練。でしょ」


淡々としてるのに、妙に“家の司令塔”っぽい。

しかも間違っていない。


「……うん、その認識」


「よろしい」


コユキがソファの背に乗ったまま、尻尾をゆらした。


「秀人、最近ちょっと楽してるよね」


「分業って言ってほしい」


「楽してる人はみんなそう言う」


朝から容赦がない。


詩織はそのやり取りを聞きながら、テーブルに小皿を並べていた。

もう自然に、その場で自分の役割を探して動いている。


こういう変化は、音がしないぶん気づきにくい。でも、たぶん大きい。


朝食が一段落したところで、詩織が言った。


「……買い出し、私もついていきます」


「うん。行こう」


そう返すと、詩織は小さく頷いた。


午前のスーパーは、日曜らしい混み方をしていた。


日曜の朝らしい賑わい。

家族連れ。まとめ買いのカート。惣菜コーナーの前にできる人だかり。


少しだけ緩んだ空気だった。

そういう中に、僕と詩織が並んで歩いているのが、まだ少しだけ不思議だった。


カゴを持って店内を回る。

詩織は思った以上に、日用品の選び方が的確だった。


洗剤の棚の前で立ち止まって、真剣に柔軟剤の香りを比べている。

眉間に少しだけ皺が寄っていて、妙に本気だ。


「……こだわるんだ」


僕が言うと、詩織は少しだけ照れた顔をした。


「……家の匂いって大事じゃないですか」


その“家”の言い方に、少しだけ意識が止まる。


洗剤の話をしているだけなのに、同じ家の匂いを選ぶって、思ったより距離が近い。


「まあ……大事だね」


そう返した瞬間、自分の声が思ったより柔らかかったのが分かって、内心で少しだけ焦る。


「ですよね」


詩織は、洗剤をカゴに入れながら続けた。


「匂いって、帰ってきた時に……安心するので」


帰る場所の話をしている。

そう言われると、どうしても生活の輪郭が濃くなる。


鶏肉売り場では、詩織が先に値札を見つけた。


「この鶏肉、今日は安いです」


「……高い安いわかるんだ」


「はい。一人暮らしの時から、節約していたので」


僕は少しだけ感心した。

一生懸命さは、向き先を間違えると空回りする。でも今の詩織は、それがちゃんと生活に向いている。


人の少ない棚の前で、僕は何気なく言った。


「詩織、それ取って」


言ってから、自分で一拍遅れて気づく。


詩織が止まった。


「……はい」


返ってきた声は、いつもより少し低くて、素に近かった。

それが妙に耳に残る。


こういう何気ない一言で、距離は変わる。

気をつけていたつもりなのに、自然に出る時は出るらしい。


レジ前では、詩織がお会計係を買って出ようとした。


「私、払います。家賃も払うって決めたので」


「それは別。ここは僕」


「……じゃあ、袋詰めは私が」


引き方が仕事のそれじゃなくて、ちゃんと共同生活の引き方になっている。


二人で袋詰めをしていると、妙に夫婦っぽい空気になって、詩織が自分で少しだけ照れているのが分かった。

僕も気づかないふりをして、気づいている。


家に戻ると、買ってきたものをすぐに仕分ける。

詩織の動きに無駄がない。


「この鶏肉、今日は先に使った方がいいと思います」


「……判断が早いな」


「値引きシールついてたので。あと、今日の献立なら合いそうです」


ディアが横から覗き込んで、くすっと笑った。


「いい嫁ね」


「ちが……っ」


「否定が遅い」


コユキが即座に刺す。

詩織が完全に黙った。耳まで赤い。


こういうのを、たぶん空気が変わるって言うんだろう。

まだ慣れないのに、少しずつ当たり前みたいになってきている。……悪くない。


昼。


ユキ丸が帽子を外し、ホログラムを立ち上げた。

画面には、もう定款の叩き台らしきものが表示されている。


コユキが、司会みたいに言う。


「はい。設立準備の続き。ボクとユキ丸で、定款の叩き台は作った」


「早いな……」


「遅い方が困るでしょ」


その通りなんだけど、たまにこっちの感情が追いつかない。


ホログラムには、「定款」「五つの決定事項」「スケジュール」が整理されて並んでいた。


……速い。


詩織もそれは同じだったらしく、少し目を丸くした。


「もう、そこまで……?」


「今はAIもあるし、叩き台くらいならすぐ出るよ」


僕が言うと、コユキが尻尾を揺らした。


「秀人の周りが特にね」


会社名の欄だけが、空白のまま残っている。


そこを見ながら、僕は少し考えた。


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