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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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133話『器を決める夜』

帰宅した頃には、日が沈み月が顔を出していた。


玄関を開けると、いつもの淡い光が迎える。


【おかえりなさい】


ユキ丸のホログラムが、ふわりと浮いた。

その声に重なるように、影の端からコユキがするりと現れる。ブレスレットからはミニサイズのディア。服の内側では、スーラが飛び出す。


「ただいま」


『……ただいま、です』


小さくなったままの詩織の念話が、バッグの中から聞こえる。


そこから先は、ほとんどいつもの流れだった。


詩織を戻して、僕は先にシャワーを浴びる。

熱い湯を肩に受けると、今日一日の細かい緊張が、ようやく皮膚の表面から剥がれていく感じがした。19階の赤い非常灯も、21階の湿った暗さも、家の浴室には持ち込めない。


着替えてリビングへ戻ると、もう夕食の匂いがしていた。


ディアが料理を並べていて、詩織も自然にその横で皿を運んでいた。

“手伝わせてください”じゃなく、もう動いている。


「そこ、熱いから気をつけて」


「はい」


詩織の返事が、今日の小型ゲートより少しだけ柔らかく見えた。


食卓に料理が並ぶ。

温かい湯気と、明るい照明と、家の中だけの静かな音。


さっきまでいた場所は、暗くて、冷たくて、気配ばかりが神経を削る階だった。

それに比べると、この部屋の温度は少し反則だと思う。人は帰る場所があるだけで、安心して前に進める。


夕食のあと、片付けがひと段落した頃。


ユキ丸が帽子を外し、テーブルの上に淡いホログラムを広げた。

横でコユキが三本の尻尾を揺らしながら、いかにも“進行役”みたいな顔をしている。


コユキが、妙に司会っぽい顔で言った。


「では、本日の二本目。会社設立の基礎整理」


「司会っぽい」


「実際、司会だから」


コユキはそう言って、ホログラムを前足で示した。


最初に映ったのは、三つの選択肢だった。


個人事業主。

合同会社。

株式会社。


「まずは三択の整理」


ユキ丸の表示が切り替わる。


【個人事業主:会社を作らず、個人で事業を行う形態】

【合同会社:出資者=経営者。少人数運営と内部自由度に強み】

【株式会社:株主と経営の分離が可能。対外信用と資金調達に強み】


詩織が画面を見上げる。

その顔は、“会社を作る”という響きだけで少し目を丸くしていた。


僕は逆に、そこに感情はあまり乗らない。

こういう時、僕は感情を少し薄くして考える。……でも、それは怖さを捌く技術でもある。


「仕事と同じだな」


僕はホログラムを見ながら言った。

仕様を決める前に、器を決める。器を間違えると、あとで全部が歪む。


詩織が、少し真面目な顔で頷く。

たぶん半分は分かっていて、半分はまだ距離がある。


コユキが、ホログラムを指すみたいに尻尾を動かす。


「で、要点だけいく」


コユキが続ける。


「個人事業主は始めるのがいちばん楽。手続きも軽い。でも、“本人がそのまま看板”。責任も直撃」


ユキ丸の表示が切り替わる。


【設立容易/事務負荷小/信用面は限定的/官公庁・法人取引で弱くなりやすい】


「つまり、身軽だけど、守りが薄い」


僕が言うと、コユキが頷いた。


「そう。次、合同会社」


【会社としての形を持てる/内部ルールの自由度が高い/意思決定が速い】


「小さく始めるなら、かなり相性がいい」


僕が補足する。


「会社としての信用は持てる。けど、株式会社ほど形式が重くない。中で速く決めて、速く動ける」


詩織が少し首を傾げた。


「合同会社って……あるんですね」


「珍しくないよ」


僕はコーヒーを一口飲んでから続けた。


「大手の通販とか、スマホとか、クラウドとか。会社情報をちゃんと見ると、“株式会社”じゃなく“合同会社”って書いてあるところ、普通にある」


実名は出さない。出す必要もない。

伝われば十分だ。


「信頼がない形じゃなくて、速く決めて動くための器なんだ」


詩織が、少し驚いた顔でホログラムを見る。

“会社を作る”がまだ特別なイベントに見えている顔だ。


「最後、株式会社」


ユキ丸が最後の枠を出す。


【対外信用が高い/資金調達に強い/形式・維持コスト・運営ルールは重め】


「これは将来的には有力。でも、今の段階だとちょっと重い」


「儀式も多いからな」


コユキが言う。


「最初からフル装備で走ると、装備の重さで転ぶ」


「ゲームみたいに言うな」


「似たようなもの」


RPGなら最初から最強装備の方が楽だろ、とは思った。

でも本題からズレるので、そのツッコミは飲み込んだ。


僕は画面全体を見てから、結論だけ先に置いた。


「現状の選択だと、合同会社が一番合ってると思う」


誰も口を挟まないので、そのまま理由も続けた。


「政府絡みの取引が増えるなら、個人より会社の方がいい。でも、株式会社ほどの形式はまだ要らない。小さく始めたいし、意思決定は速くしたい」


「うん。妥当」


コユキが頷く。


詩織は、まだ少しだけ目を丸くしていた。

“会社を作る=すごいこと”に見えているんだろう。


でも僕の中では、もう“すごい話”じゃなくなっていた。

どこから作業に落とせるか、その方が先に気になる。


ユキ丸の表示が、次の画面へ切り替わる。


【まず決めるべき5つ】


「ここから実務」


コユキが、少しだけ楽しそうに続ける。


「一つ目、会社名。二つ目、本店住所。三つ目、事業目的。四つ目、資本金。五つ目、決算期」


「事業目的は広めがいい」


僕が言う。


「先に狭めると、後で詰む」


「住所も同じ」


コユキが続けた。


「秀人の場合、住所も、“どこが便利か”だけじゃなく、“見られて困るか”まで考える」


詩織が、少しだけ感心した顔になる。


「色々、勉強になります……それに思ったより、“作業”なんですね」


「作業だよ」


僕は即答した。


「作業に落とすと、不安はだいぶ扱いやすくなる」


大きな話のままだと、怖さだけが先に立つ。

だから、難しいと思うものほど手順にする。

手順に落ちれば、少なくとも立ち尽くさずには済む。


ユキ丸が、さらに次の工程を箇条書きで出す。


・定款作成(電子定款推奨)

・会社実印(代表者印)発注

・登記書類の作成

・資本金払込み(個人口座)→払込証明

・登録免許税(最低6万円)準備


「……やること多いな」


僕が呟くと、コユキが当たり前みたいに言う。


「だから、先に器を決める」


「はいはい、監督」


「司会」


役職が増えた。


その時、リビングの端でつけっぱなしだったテレビから、ニュースのトーンが変わった。


『速報です。韓国国内で躍進が目覚ましかった韓国トップの帰還者チームが、25階挑戦後、3日間帰還せず——』


全員の空気が、そこで一瞬だけ止まる。


ついさっきまで、会社設立だの器だの、未来の話をしていた。

でも現実は、その途中で簡単に途切れる。


詩織が、小さく息を呑んだ。

それは他人事の反応じゃなかった。自分も、一歩ずれればそっち側にいた。そういう種類の沈黙だった。


僕はテレビから目を離さずに言った。


「……急がない。焦りは死につながる」


詩織がこちらを見る。


「生きて帰る。作るのは、そのための土台」


会社もゲートも、たぶん同じだ。

失敗したときに取り返しがつかないなら、最初に“失敗しない土台”を作るしかない。


しばらくして、コユキがリモコンを操作し、音量を少し下げた。

ディアが何も言わずに立ち上がって、コーヒーの準備を始める。

スーラは、空気の重さが分かるみたいに、静かに僕の膝へ乗ってきた。


その少しあとで、詩織が遠慮がちに口を開いた。


「……明日、私も何か手伝えますか」


“何かありますか”じゃなく、“手伝えますか”。

ちゃんと自分から入りにきている。


僕は少しだけ考えて、いたずらっぽく言った。


「じゃあ、会社名の案を出して」


詩織が瞬きをする。


「会社名……ですか」


「うん。詩織の視点も欲しい」


それは本音だった。

僕一人で考えると、どうしても機能とか合理の方に寄りすぎる。

名前には、“外から見た温度”も必要だ。


「……私の、ですか」


「うん。僕だけで考えると、どうしても偏るから」


数秒の沈黙のあと、詩織は小さく頷いた。


「……分かりました。考えてみます」


コユキが、小さく言った。


「いいね。ボクも考える」


ディアがコーヒーを置く。

ユキ丸のほっぺが、また少しだけ明るくなった。

スーラは膝の上で、安心したみたいに重みを預けてくる。


温かいカップを受け取って、息をついた。


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