133話『器を決める夜』
帰宅した頃には、日が沈み月が顔を出していた。
玄関を開けると、いつもの淡い光が迎える。
【おかえりなさい】
ユキ丸のホログラムが、ふわりと浮いた。
その声に重なるように、影の端からコユキがするりと現れる。ブレスレットからはミニサイズのディア。服の内側では、スーラが飛び出す。
「ただいま」
『……ただいま、です』
小さくなったままの詩織の念話が、バッグの中から聞こえる。
そこから先は、ほとんどいつもの流れだった。
詩織を戻して、僕は先にシャワーを浴びる。
熱い湯を肩に受けると、今日一日の細かい緊張が、ようやく皮膚の表面から剥がれていく感じがした。19階の赤い非常灯も、21階の湿った暗さも、家の浴室には持ち込めない。
着替えてリビングへ戻ると、もう夕食の匂いがしていた。
ディアが料理を並べていて、詩織も自然にその横で皿を運んでいた。
“手伝わせてください”じゃなく、もう動いている。
「そこ、熱いから気をつけて」
「はい」
詩織の返事が、今日の小型ゲートより少しだけ柔らかく見えた。
食卓に料理が並ぶ。
温かい湯気と、明るい照明と、家の中だけの静かな音。
さっきまでいた場所は、暗くて、冷たくて、気配ばかりが神経を削る階だった。
それに比べると、この部屋の温度は少し反則だと思う。人は帰る場所があるだけで、安心して前に進める。
夕食のあと、片付けがひと段落した頃。
ユキ丸が帽子を外し、テーブルの上に淡いホログラムを広げた。
横でコユキが三本の尻尾を揺らしながら、いかにも“進行役”みたいな顔をしている。
コユキが、妙に司会っぽい顔で言った。
「では、本日の二本目。会社設立の基礎整理」
「司会っぽい」
「実際、司会だから」
コユキはそう言って、ホログラムを前足で示した。
最初に映ったのは、三つの選択肢だった。
個人事業主。
合同会社。
株式会社。
「まずは三択の整理」
ユキ丸の表示が切り替わる。
【個人事業主:会社を作らず、個人で事業を行う形態】
【合同会社:出資者=経営者。少人数運営と内部自由度に強み】
【株式会社:株主と経営の分離が可能。対外信用と資金調達に強み】
詩織が画面を見上げる。
その顔は、“会社を作る”という響きだけで少し目を丸くしていた。
僕は逆に、そこに感情はあまり乗らない。
こういう時、僕は感情を少し薄くして考える。……でも、それは怖さを捌く技術でもある。
「仕事と同じだな」
僕はホログラムを見ながら言った。
仕様を決める前に、器を決める。器を間違えると、あとで全部が歪む。
詩織が、少し真面目な顔で頷く。
たぶん半分は分かっていて、半分はまだ距離がある。
コユキが、ホログラムを指すみたいに尻尾を動かす。
「で、要点だけいく」
コユキが続ける。
「個人事業主は始めるのがいちばん楽。手続きも軽い。でも、“本人がそのまま看板”。責任も直撃」
ユキ丸の表示が切り替わる。
【設立容易/事務負荷小/信用面は限定的/官公庁・法人取引で弱くなりやすい】
「つまり、身軽だけど、守りが薄い」
僕が言うと、コユキが頷いた。
「そう。次、合同会社」
【会社としての形を持てる/内部ルールの自由度が高い/意思決定が速い】
「小さく始めるなら、かなり相性がいい」
僕が補足する。
「会社としての信用は持てる。けど、株式会社ほど形式が重くない。中で速く決めて、速く動ける」
詩織が少し首を傾げた。
「合同会社って……あるんですね」
「珍しくないよ」
僕はコーヒーを一口飲んでから続けた。
「大手の通販とか、スマホとか、クラウドとか。会社情報をちゃんと見ると、“株式会社”じゃなく“合同会社”って書いてあるところ、普通にある」
実名は出さない。出す必要もない。
伝われば十分だ。
「信頼がない形じゃなくて、速く決めて動くための器なんだ」
詩織が、少し驚いた顔でホログラムを見る。
“会社を作る”がまだ特別なイベントに見えている顔だ。
「最後、株式会社」
ユキ丸が最後の枠を出す。
【対外信用が高い/資金調達に強い/形式・維持コスト・運営ルールは重め】
「これは将来的には有力。でも、今の段階だとちょっと重い」
「儀式も多いからな」
コユキが言う。
「最初からフル装備で走ると、装備の重さで転ぶ」
「ゲームみたいに言うな」
「似たようなもの」
RPGなら最初から最強装備の方が楽だろ、とは思った。
でも本題からズレるので、そのツッコミは飲み込んだ。
僕は画面全体を見てから、結論だけ先に置いた。
「現状の選択だと、合同会社が一番合ってると思う」
誰も口を挟まないので、そのまま理由も続けた。
「政府絡みの取引が増えるなら、個人より会社の方がいい。でも、株式会社ほどの形式はまだ要らない。小さく始めたいし、意思決定は速くしたい」
「うん。妥当」
コユキが頷く。
詩織は、まだ少しだけ目を丸くしていた。
“会社を作る=すごいこと”に見えているんだろう。
でも僕の中では、もう“すごい話”じゃなくなっていた。
どこから作業に落とせるか、その方が先に気になる。
ユキ丸の表示が、次の画面へ切り替わる。
【まず決めるべき5つ】
「ここから実務」
コユキが、少しだけ楽しそうに続ける。
「一つ目、会社名。二つ目、本店住所。三つ目、事業目的。四つ目、資本金。五つ目、決算期」
「事業目的は広めがいい」
僕が言う。
「先に狭めると、後で詰む」
「住所も同じ」
コユキが続けた。
「秀人の場合、住所も、“どこが便利か”だけじゃなく、“見られて困るか”まで考える」
詩織が、少しだけ感心した顔になる。
「色々、勉強になります……それに思ったより、“作業”なんですね」
「作業だよ」
僕は即答した。
「作業に落とすと、不安はだいぶ扱いやすくなる」
大きな話のままだと、怖さだけが先に立つ。
だから、難しいと思うものほど手順にする。
手順に落ちれば、少なくとも立ち尽くさずには済む。
ユキ丸が、さらに次の工程を箇条書きで出す。
・定款作成(電子定款推奨)
・会社実印(代表者印)発注
・登記書類の作成
・資本金払込み(個人口座)→払込証明
・登録免許税(最低6万円)準備
「……やること多いな」
僕が呟くと、コユキが当たり前みたいに言う。
「だから、先に器を決める」
「はいはい、監督」
「司会」
役職が増えた。
その時、リビングの端でつけっぱなしだったテレビから、ニュースのトーンが変わった。
『速報です。韓国国内で躍進が目覚ましかった韓国トップの帰還者チームが、25階挑戦後、3日間帰還せず——』
全員の空気が、そこで一瞬だけ止まる。
ついさっきまで、会社設立だの器だの、未来の話をしていた。
でも現実は、その途中で簡単に途切れる。
詩織が、小さく息を呑んだ。
それは他人事の反応じゃなかった。自分も、一歩ずれればそっち側にいた。そういう種類の沈黙だった。
僕はテレビから目を離さずに言った。
「……急がない。焦りは死につながる」
詩織がこちらを見る。
「生きて帰る。作るのは、そのための土台」
会社もゲートも、たぶん同じだ。
失敗したときに取り返しがつかないなら、最初に“失敗しない土台”を作るしかない。
しばらくして、コユキがリモコンを操作し、音量を少し下げた。
ディアが何も言わずに立ち上がって、コーヒーの準備を始める。
スーラは、空気の重さが分かるみたいに、静かに僕の膝へ乗ってきた。
その少しあとで、詩織が遠慮がちに口を開いた。
「……明日、私も何か手伝えますか」
“何かありますか”じゃなく、“手伝えますか”。
ちゃんと自分から入りにきている。
僕は少しだけ考えて、いたずらっぽく言った。
「じゃあ、会社名の案を出して」
詩織が瞬きをする。
「会社名……ですか」
「うん。詩織の視点も欲しい」
それは本音だった。
僕一人で考えると、どうしても機能とか合理の方に寄りすぎる。
名前には、“外から見た温度”も必要だ。
「……私の、ですか」
「うん。僕だけで考えると、どうしても偏るから」
数秒の沈黙のあと、詩織は小さく頷いた。
「……分かりました。考えてみます」
コユキが、小さく言った。
「いいね。ボクも考える」
ディアがコーヒーを置く。
ユキ丸のほっぺが、また少しだけ明るくなった。
スーラは膝の上で、安心したみたいに重みを預けてくる。
温かいカップを受け取って、息をついた。




