132話『揺れる水面、揺れない一歩』
20階に入った瞬間、空気が変わった。
石段みたいな地形のあちこちを、透明な水路が走っている。天井は高く、水面の反射光が揺れて――世界そのものが、少しだけ柔らかく見えた。
「……ここ、綺麗ですね」
詩織が、思わず漏らす。
「綺麗だけど、滑る。気をつけて」
静かだった。
水音と、遠くで風鈴みたいな澄んだ共鳴だけがある。
さっきまでの階層との落差がすごい。
「映えるね」
コユキが、また監督みたいな顔で言う。
「歩く姿勢、ちょっと雑。視聴者は“強さ”より“余裕”に憧れるんだから」
「……今日は撮る日じゃないだろ」
「だからだよ。普段から意識してないと、必要な時に出ない」
足元を見る。
水面が鏡みたいで、段差の輪郭がずれる。
綺麗だけど、これは転ばせにくる地形だ。
詩織も慎重に歩いていたが、途中で光の霧がふっと流れた。
一瞬、視界が白くなる。
その直後、段差を踏み外しかける。
「っ」
反射で手が出た。
支えたのは一瞬だけ。肩に触れて、体勢を戻すだけ。
近い。
水面反射の光が、詩織の瞳で揺れた。整える前の顔が、一瞬だけ覗く。
守った、というほどじゃない。崩れる前に、肩へ手を添えただけだ。
なのに、その一瞬の近さだけが、変に意識に残った。
「だ、大丈夫です」
詩織がすぐに笑顔を作る。
でも頬が少し赤い。
「無理しなくていい。ここ、足場がいやらしい」
「……はい」
水を纏った小型精霊と、苔石の小ゴーレムが何体か出た。
攻撃は軽い。
詩織が二度目はきちんと踏み込みを合わせた。
さっきのミスを引きずらず修正できている。そこはいい。
段丘の上まで抜けたところで、詩織が景色を見渡した。
「……ここ、綺麗ですね」
「うん」
「外にも、こういう場所……いきたいですね」
僕は少しだけ考えて、それから答えた。
「今度、落ち着いたら行こう」
詩織がこちらを見る。
すぐに何か返そうとして、でもやめたみたいに小さく頷いた。
「……はい」
その“はい”は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
21階は洞窟だった。
湿った空気が肌に張りつき、濡れた岩肌のせいで足元がぬるりと滑る。一定の水滴音が、距離感を狂わせるみたいに響いていた。
ところどころで青白い微光菌が淡く光っている。見た目は綺麗なのに、落ち着かない。
「次はこれか」
狭い通路を進んだかと思えば、その先で急に広間が開ける。圧迫感と開放感が交互に来て、方向感覚が少しずつずれていく。
反響のせいで、敵の位置も読みにくい。
コウモリの群れ。岩ヤモリ。しかも、不意打ちまで混ざる。
詩織が一度、滑りかける。
抱き止める代わりに、空間斬糸で足元の苔膜を切り、スーラが“溶かす”で摩擦を作る。
詩織が、足元を見て小さく息を呑んだ。
抱え上げられたわけじゃない。倒れないように、ほんの少しだけ支えられただけだ。
その違いは、たぶん彼女の中では小さくなかった。
コウモリで視界が潰れた時、詩織が僕の袖を掴みかけて止める。
遠慮の癖。
僕は自分から、袖を少しだけ近づけた。
「……すみません」
「謝らなくていい。今は安全が優先」
その声の近さに、僕の方が少しドキッとした。
……棚に上げろ。
詩織が、自分で言語化する。
「怖い。……でも、位置。次の一歩。……大丈夫」
それで落ち着きを取り戻す。
竹刀稽古でやった“止まらない”が、ちゃんと繋がってる。
「詩織、いける?」
「……はい」
怖いまま、前に出る。
恐怖が消えてから動くんじゃなく、恐怖を抱えたまま選べるなら――たぶん、大丈夫だ。
一撃目は浅い。
二撃目で足を止める。
三撃目で姿勢を崩させ、最後に喉元へきれいに通した。
今度は、トロルが崩れ落ちる。
静かになった洞窟で、詩織が小さく息を吐いた。
「終わりました……」
「お疲れさま」
「……今日は、ちゃんと頑張れた気がします」
「頑張ってたよ。最初から見てた」
そう言うと、詩織は少しだけ困ったみたいに笑った。
嬉しさを隠しきれていない顔だった。
外に出たころには、もう夕方だった。




