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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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130話『同じ地図、違う景色』

施設を出ると、夕方の空気が肌にまとわりついた。

淀川の湿気を含んだ、生ぬるい風。背中に残ってた緊張が、少し遅れて浮き上がってくる。


隣を歩く詩織は、しばらく無言だった。

歩幅が、ほんの少しだけ小さい。

置いていくほどじゃないのに、同じ速度に揃えると息を合わせるみたいで――僕は黙って歩調を落とした。


駅に向かいながら、詩織がぽつりと落とす。


「……凄かったです」


誰の耳があるか分からない場所だし、彼女自身もまだ“外向け”の殻の途中だ。


「ありがとう。……外だし、その話は家に帰ってからにしよっか」


「……はい」


返事だけは整ってる。

でも、声の奥に“揺れ”が残ってるのが分かった。


家に着く。

玄関先で、ユキ丸がちょこんと待っていた。帽子を外すと、淡いホログラムが浮かぶ。


【おかえりなさい】


「ただいま」


その瞬間、影の端が動いてコユキがひょいと出てくる。

ブレスレットが淡く光って、ミニディアも現れた。

スーラは僕の服の内側から、ぴょん、と飛び出す。


――今日みたいな日ほど、家に帰ると落ち着く。


詩織が小さく瞬きをして、でも何も言わずに靴を揃えた。


リビングに入ると、コユキが先に言った。


「お疲れ」


ディアが小さく肩をすくめる。


「コーヒー淹れるわね」


「私も……手伝います」


詩織が、少し急いで立つ。

立ち上がり方が、少し急だった。

何かしていた方が落ち着く――そういう動きに見えた。


コーヒーがテーブルに並ぶ。詩織はディアにも、きっちり頭を下げた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


その一言だけで、詩織の肩の角がほんの少し丸くなる。


詩織が正面に座った。

何を聞かれるか、もう分かっている顔だった。


僕は、宿題を回収するみたいに切り出す。


「どうだった?……見てて、何か残った?」


詩織は一拍置いて、それでも同じ言葉を選んだ。


「凄かったです」


「その“凄い”を、言葉にできる?」


詩織は少しだけ視線を落として、順番に拾うみたいに話し始めた。


「……みんな怖かったのに、時任さんは……怖くなさそうで……」


詩織が、ゆっくり続ける。


「私なら……怒らせないように、正解を言おうとしてました」


「うん」


「でも、時任さんは……正解を探すんじゃなくて、一つ一つを明確にして、流れを作ってました」


「続けて」


「責任を引き受けるって言いながら、その分“条件”もきちんと置いてました。譲るところと譲らないところを…迷わずに」


詩織は言いながら、喉の奥の乾きを飲み込む。


「私、あの席で……自分の言葉が、消えそうでした。九条さんとも、これまで何度かお会いしていましたけど、いつもは“はい”と返して、聞かれたことに答えるだけで終わっていました」


“正しい言葉”を探しすぎて、自分の声が薄くなる感覚。


僕は急がせず、もう一段だけ問いを重ねる。


「差の理由はわかる?」


詩織は小さく息を吸って、答えた。


「……私は、守られる側の目線で生きてきたからです」

「守ってくれる人の機嫌を損ねないのが、正解だった」

「でも時任さんは……守る側で、決める側で……」

「“決めないと、誰かが困る”って前提で話してました」


「……よく見てる」


詩織の目が、ほんの少しだけ楽になる。

褒められた、よりも――“見えてた”のが救いだった顔。


僕はそこで、距離を守るための言葉を置いた。


「別に、僕と同じことができるようになってほしいわけじゃない。ただ、僕がどういう目線で見て、どう判断して、どう動くか――そこは知っておいてほしい」


「……頑張ります」


「もう一点だけ」


僕は少しだけ間を置いた。


「僕も間違える。だから盲信はしないで」


詩織が、まっすぐ頷く。


「……はい」


“依存しない”。

それが、彼女にとっての次の一歩になる。


僕はソファから腰を上げた。


「……ちょっとシャワー」


熱い湯を浴びて、ようやく肩が落ちる。

仕事も交渉も、終わった後に遅れて疲れが来る。だいたい、いつもこうだ。


タオルで髪を拭きながらリビングへ戻ると、今度は出汁の匂いが立っていた。

家の温度が、ちゃんと戻ってきている。


ディアの料理が並んでいて、スーラがぷるんと誇らしげに揺れている。


食事の途中、ディアが詩織に確認する。


「詩織。食べたら、94階に行くのよね」


「……はい。行きます。できるなら少しだけお風呂前に訓練もしたいです」


言い方が、前より少しだけ強い。


「じゃあ、食べたら行きましょう。今日は短めでね。無理はしないこと」


「はい」


食後、詩織は物置部屋へ入っていった。


空気が、少し変わる。

悪い意味じゃない。家が、一度深呼吸したみたいだった。


僕がソファに沈むと、コユキが、ぼそっと言う。


「……ディアやボクと違って、詩織との会話、あんまり楽しくないんでしょ」


一瞬、心臓が変な音を立てた。


「……なんで分かるんだよ」


「分かる。目線がずれてる」


刺すなぁ、コユキ。


僕は、言い訳を探さずに、事実だけ拾う。


「仕事なら、相手に合わせた話し方もできる。空気も読める。……でもさ」


言いながら、自分で分かった。

“合わせ続ける”のと、“自分の視座を下げ続ける”のは、似てるようで違う。


「自分の当たり前を下げたまま会話すると、楽しくなくなる。たぶん、相手も疲れる」


——仕事でも、よくある。

“社長は孤独”って言われるのは、偉いからじゃない。見ている景色が違うからだ。


従業員の視線は“自分の担当”と“目の前の納期”に寄る。

一方で経営の視線は、売上・利益・キャッシュ、炎上の火種、取引先対応や法務リスク――会社全体が倒れないための優先順位に寄る。


同じ言葉でも、前提が違う。

だから、噛み合わない。

噛み合わないし理解されないから、社長は孤独を感じる。


コユキが尻尾を揺らした。


「ね。だから、ズレを埋めようとしている」


ディアが割って入る。小さいのに、目だけは鋭い。


「だからって、強制的に詩織を教育するのは傲慢ね」


「わかってる」


即答してしまった。

わかってるから、余計に難しい。


「だから選択はさせてるつもりだ。……でも、開きが大きいままだと、近いうちにお互い居心地が悪くなる」


言いながら……過去を思い出す。

離婚って、好き嫌いだけじゃなかった。価値観の違い、って言葉で片付けがちだけど——

“見てる景色”が違ってくると、会話の足場がずれていった。きっと、そういうズレもあった。


(……だから、今のうちに“足場”だけは揃えたいんだろうな)


好き嫌いじゃない。

目線が違うと、同じ地図を見てるつもりでも、立ってる場所がずれる。

そのズレは、放置すると静かに削ってくる。


ディアが、ミニチュアのまま僕の横に座る。


「でも詩織は大丈夫だと思う。素直で頑張り屋。センスもある。伸びるの早いわ」


「同じようにできる必要はないんでしょ」


コユキが淡々と続ける。


「九条さんと柊さんみたいな立ち位置でいい。決める人と、支える人。役割が違うだけ」


「……全部わかってるな。猫のくせに」


「猫じゃない。秀人の契約モンスター」


そう言い切って、ちょっとだけ胸を張るのが可愛い。

可愛いけど、言ってることはだいぶ刺さる。


山田の契約モンスターは、派手に背中を押すタイプだった。

一ノ瀬の契約モンスターは、心の古傷を支えるタイプだった。

そしてコユキは……同じ目線で、気兼ねなく話せるタイプ。


たぶん、これが僕が欲しかった“支え方”で。だからコユキが、僕の契約モンスターなんだろうな。


僕は小さく笑って、ソファの背に頭を預けた。


「……ありがと。二人とも」


スーラが、膝にぴょん、と触れてくる。

“いるよ”って言いたいみたいに、ぷるんと揺れた。


頭の中の考えをいったん閉じて――

僕は、長く息を吐いた。


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