128話『責任を背負う席』
5月19日、金曜日の朝。
目覚ましより少し早く目が覚めて、しばらく天井を見ていた。
静かだ。
静かなのに、家の中はもう動いてる気がする。そういう日が増えた。
二階を出て、階段を降りる。
リビングに落ちた瞬間、匂いが先に来た。
視界の先には、今日もいつもの顔ぶれ。
ただ、詩織だけが、今日だけ少し違う。
“今日は特別な日だ”と、自分に言い聞かせているのが分かる顔だった。
政府施設に一緒に行くことへの緊張が伝わってくる。
「……おはようございます」
詩織が丁寧に言って、僕は軽く頷いた。
「おはよう。……眠れてる?」
「……はい」
嘘じゃない。でも、安心でもない間がある返事。
コユキが、タイミングを見計らったみたいに言った。
「重要報告。中国の帰還者管理局からDM来た」
スプーンが止まる。
「……中国?」
「うん。しかもね」
コユキが、わざと一拍置いた。
「冒頭が“Shuna様”じゃない。“時任秀人様”」
詩織の表情が、一段落ちた。
さっきまで頑張って整えてた表情が、ほんの少しだけ割れる。
「……え……他国に、バレたってことですか……?」
その反応だけで分かった。
“バレる”が、そのまま“終わる”に繋がる世界で生きてきた顔だった。
コユキは淡々と頷く。
「そういうことね」
……で、僕はというと、驚きより先に、思考の方が勝手に並び始める。
大国なら当然だ。調べる。
むしろ遅いくらいだ。
「ユキ丸。返信、短く」
ユキ丸が帽子を外して、ホログラムに文面を出す。
僕はそこに、必要な言葉だけ置いた。
「ご連絡ありがとうございます。Shunaです。
今後の連絡は日本政府を通してお願いします。
ご連絡いただいた件も日本政府へ共有しておきます」
余計な感情を足さない。余計な説明もしない。
窓口を政府にする。それだけだ。
詩織が、僕を見ていた。
さっきの焦りの目じゃない。“どうして動じないんですか”の目。
「……すごい……」
「慣れだよ」
口に出してから、少しだけ昔の記憶がよぎる。
米国の大手IT企業。
突然、規約違反だと言われて、サービスにAPIを使うなと通知が来た日があった。
あれに比べれば――実害がない分、まだマシだ。
……そう思えてしまう自分が、少しだけ寂しい。
乗り越えるほど、焦ることは減る。けれど、ワクワクまで一緒に薄くなっていく。
出社。
会社は、今日も普通に回っていた。
僕も普通に回した。退職が決まってても、仕事は仕事として終わらせる。
10時、新大阪の客先訪問。
戻って引き継ぎ。昼は社内のコンビニ飯。
そして、13時過ぎ会社を出て淀屋橋へ向かった。
13時50分。
施設前で詩織と合流した。
「宿題、覚えてる?」
説教じゃなく、業務連絡の言い方で言う。
「隣で聞いて、僕の答えと自分の答えの差を認識。正解探しじゃなくて、“差の理由”を考える」
詩織は、整った返事を返した。
「はい。覚えています」
影からコユキが刺す。
『“考える”。今日はそれ。強くなる為には大事』
「……はい」
詩織が小さく頷く。
まだ固い。けれど、逃げてはいない。
耳の奥に、ディアの声だけ落ちた。
『表情、固いわね。詩織。大丈夫、死なないわ』
(慰め方が雑……)
13時55分。
政府施設の受付を抜けて、会議室へ通される。
扉の向こうには、九条さんと柊さん。すでに座っている――はずだった。
入った瞬間、二人の目が詩織に止まる。
柊さんが一拍遅れて瞬きをして、九条さんは眉だけを動かした。
「……連れてきたんだな」
ぼそっと、九条さん。
「はい」
短く返すと、九条さんはそれ以上追及しない。
詩織が、そこで呼吸を整えて挨拶する。
速水えりなの声に切り替わる。その切り替え方が、やっぱり上手い。
「九条さん、ご無沙汰しております」
九条さんが、短く頷く。
「……久しぶりだな」
柊さんは、丁寧に頭を下げた。
「先日は電話で少し。柊です。よろしくお願いします」
詩織も丁寧に返す。
「速水えりなです。よろしくお願いいたします」
整ってる。
整ってるのに、肩だけは固い。身体は正直だ。
僕は先に切り出した。
「このまま、彼女を同席させてもいいですか」
九条さんの目が細くなる。
「……何かあった時、お前が責任取るならな」
詩織が、反射で動きかける。
「……すみません。私、出ま――」
止める。
「いいです。出なくて」
詩織が固まる。
“迷惑を避ける”方向へ身体が動いてしまう癖。見えてしまう。
僕は九条さんを見る。
「……八代さんに、私が言った言葉の意趣返しですね」
九条さんが、口の端だけで笑う。
「そういうことだ」
僕は即答した。
「はい。何かあったら、私が責任を取ります」
詩織の瞳が揺れた。
“責任を取る”を、言葉じゃなく重さとして受け取った顔だった。
まだ、そこに慣れていないのだと思う。
九条さんが、軽く言う。
「お前ならそう言う。責任の取り方を知ってるから、そこに抵抗がない」
「仕事がそういう仕事なので」
言い切ると、詩織は小さく息を飲んだ。
凍る、まではいかない。でも、“世界が違う”を肌で理解した顔。
九条さんが、机の上の資料を整えた。
「じゃあまず。速水えりなの件。話せる範囲で教えてくれ」
僕は簡潔に、経緯だけを置いた。
SOSが来たこと。会って話したこと。引退の発表が出たこと。今は“匿っている”こと。
柊さんのペンが動く。迷いがない。
九条さんが、短くまとめる。
「……要するに、お前が助けて、受け皿になった。そういう理解でいいな」
「はい」
柊さんが顔を上げ、詩織の方を向いた。
「今後、どうする予定ですか」
詩織が固まる。
“正解を言わなきゃいけない”という癖が、顔に出る。言葉が喉の手前で詰まる。
僕は、席を守るための言葉を置く。
「速水さん。思うことを、そのまま言ってください。何かあっても、何とかなるものなので大丈夫です」
詩織が、ゆっくり頷いた。
その頷きはまだ小さい。でも、逃げてない。
「……しばらくは、時任さんのところでお世話になろうと思っています。そして、精神的にも、帰還者としても……強くなりたいと考えています」
九条さんが眉を上げる。
「時任を、師匠にでもしたのか」
僕は少しだけ笑って返した。
「速水さんが弟子ですか。……あながち間違ってないです」
柊さんが小さく瞬く。
「時任さんの……弟子……」
詩織の肩がまた少し硬くなる。
“どう見られるか”が先に来る視座と、“責任を被る”で席を作る視座。
今日の宿題は、もう始まっている。




