127話『三つのお願いと、ほどける距離』
さらに別のモンスター。
雪面を“滑る”んじゃなく、“走る”ように移動する中型の鬼――雪走鬼というらしい。
足場を崩してくるのが嫌らしい。
一度バランスを崩した瞬間、ミニディアが叫ぶ。
「右!岩陰!」
体が勝手に動く。岩陰に滑り込む。
そこから逆に、相手の突進を利用して仕留める。
仕留める瞬間、コユキが影から出てきた。そして、捕食。
でも、すぐに影の中へ戻った。
仕留めたあと、足元の感覚が変わった。
雪の沈み、滑り――それが“補正”される。
『踏雪歩法、雪・氷上での移動ペナルティ軽減』
コユキが影の中から説明する。
(……これは当たりだな)
時間は流れて、気づけば19時半過ぎ。
52階、クリア。
生きて帰る。
それが、この階での一番の成果だと、息を吐いて認めた。
新大阪ゲートから戻って、駅の空気を吸った瞬間に思った。
――寒さが、まだ骨に残ってる。
家に着いたのは、21時の少し前。
鍵を回して玄関を開けても、いつもの「おかえりなさい」がない。
「……珍しいな」
独り言にしかならない声が、廊下に落ちる。
靴を揃えてリビングの灯りを確認した、そのタイミングで――
ブレスレットからミニディアが出てくる。
「おかえり」
「ただいま。……早見さんは?」
「いるわよ。いま94階。訓練を終えたところ。声かけたから、もう少しで戻る」
安心と同時に、いつもと違うことへの、少しの寂しさも混ざる。
「了解。……先にシャワー行く。雪山、体の芯まで冷えた」
「うん。早く温めて。――その間に、こっちは夕食の準備しておく」
ミニディアはふわりと浮いたまま、すとん、と本体サイズに戻る。
そのままキッチンへ向かって、袖をまくった。
「温いの、作っておくから」
——シャワーを浴びて、ようやく身体の温度が戻る。
髪を拭きながらリビングへ出ると、匂いが先に来た。
出汁と、焼き目と、甘い香りが少し。
テーブルには、もう夕食が並んでいる。
ディアの仕事が早い。スーラも、きっとどこかで手伝ったのだろう。
2階から足音がして、少し遅れて早見さんが降りてきた。
「……遅くなりました」
その声に、返事が二つ重なる。
「おかえり」
「……おかえりなさい」
声が重なった。
被った、と思った瞬間。
早見さんが一拍だけ固まって、視線を落とす。
耳まで赤くなるほどじゃない。……でも、分かるくらいには照れていた。
僕は咳払いで空気を整えて、皿の方へ視線を逃がした。
影の端が動いて、コユキがひょいと出てくる。
「ボクも食べる。秀人、雪山の顔してる」
「……雪山の顔ってなんだよ」
「疲れてる顔」
「それは、正しい……」
スーラがテーブルの端でぷるん、と揺れて、なぜか同意しているみたいに見えた。
食べる。
温かいものが腹に落ちて、ようやく今日が終わる気がする。
食後、ユキ丸が帽子を外した。
淡いホログラムが立ち上がり、今日の“まとめ”が几帳面に並ぶ。
世界のゲート関連の動き。国内の声明。SNSの動き。
僕はそれをざっと目で追って、指先でスクロール――は、しない。
ユキ丸が勝手にページを送る。もうそれが普通になってきているのが怖い。
「……助かる」
ユキ丸のほっぺの薄ピンクが、少しだけ明るくなる。
その時、早見さんが小さく息を吸った。
テーブルの上で両手を揃えて、まっすぐ僕を見る。
「……三つ、お願いがあります」
改まった言い方に、僕の手が一瞬だけ止まった。
(お願い?なんだろう)
顔を上げると、早見さんは逃げずにこちらを見ている。
「……うん。聞くよ」
早見さんが、小さく息を吸って、一つ目を口にした。
「居候で……申し訳ないので。家賃、払わせてください」
「いや、それは——」
反射で断りかけて、止めた。
逆の立場なら分かる。タダで住まわせてもらって、食事まで出される生活は――居心地が悪い。
しかも、“タダより怖いものはない”とも言う。払うことで、自分の居場所を“借り物じゃない”形にしたいんだろうな、と思った。
「……いくら、考えてます?」
早見さんは一拍迷ってから、現実的な数字を出した。
「10万円……は、どうでしょう」
僕は一拍置いて、先に確認だけ入れた。
「……大丈夫ですか。お金」
早見さんは、すぐ頷く。
「はい。しばらく暮らしていける分の貯金はあります」
僕は少しだけ考えて、頷く。
「分かりました。6月から10万で。家賃だけでなく食費も込みでね」
早見さんの肩が、ほんの少し落ちた。
二つ目。
「明日の……政府施設。同行させてください」
言い終えてから、早見さんは一拍置いて、理由も添えた。
「担当が違うのは分かっています。でも……帰還者管理庁に、一度顔を出しておきたいんです。逃げてるみたいに見えるのが、嫌で」
ただの外出じゃない。僕が政府とやり合う場所だ。内密な話も多い。
……でも。
94階で一緒に訓練してる時点で、今さらな気もする。
問題は別だ。
早見さんは、言われたことを正確にこなしてきた人に見える。“正解”を探す癖がある。
僕は逆に、決めて、動かして、責任を背負う側として生きてきた。
視座が、根本から違う。
だからこそ、言葉の圧で固まる可能性はある。
それでも――これからも一緒にいる可能性が高いのなら早い方がいい。
「……分かりました。来てください」
早見さんが目を見開く。
「いいんですか」
「いいです。ただし、宿題」
「……宿題?」
「隣で聞いて、“自分ならどう答えるか”を考えて。僕の答えと違ったら、何が違うかも後で話してください。正解は要りません。……考える癖の方が大事だから」
会社で部下を連れて行って、横で学ばせるのと同じだ。
結局、伸びる人は聞いて理解し、“見て盗める人”だ。
早見さんは、ゆっくり頷いた。
「……やります」
三つ目だけ、言葉が一瞬引っかかったみたいに遅れた。
「もう一つ……お願いです」
早見さんが目を逸らす。指先が、膝の上で小さく握られてほどけた。
視線は逸らしたのに、声は崩れない。――“崩したくない”が混じっている。
「早見さん、じゃなくて……詩織、って呼んでほしいです」
呼び方は、境界線を変える。
だからこそ、その一歩は軽くない。
僕は一拍置いて、息だけ整えてから言った。
「……詩織さん」
言った瞬間、詩織さんが小さく瞬いた。
それから、ほんの少しだけ口元が揺れる。笑いそうで、笑わない。
「……ありがとうございます。でも……“さん”は、まだ遠いです」
“遠い”って言葉が、胸に落ちる。
僕は軽く咳払いして、視線を外してから――ちゃんと戻した。
「……じゃあ。詩織」
詩織が息を吸って、小さく頷く。
「……はい」
間が一秒、余る。
その沈黙だけが、妙に熱を持った。
詩織が続けて、恐る恐る言った。
「……あの。時任さん、じゃなくて……秀人さんって呼んでもいいですか」
僕は答える前に、危うくディアのほうを見そうになって――やめた。
「……好きに呼んでいいよ」
詩織が、また小さく息を吐く。
それが、肩の力が抜けた音に聞こえた。
「……秀人さん」
その瞬間、空気がほんの少し甘くなる。
コユキがすぐ刺す。
「……今、空気が甘い」
「うるさいわね」
ディアが言って、でもその声は荒れていない。
ただ、何も言わずに僕を見ていた。
責めるでもなく、譲るでもなく――その中間で、ちゃんと揺れている目だった。
寝る支度をして、ベッドに沈む。
灯りを落とした、その時。
今日も、ブレスレットが熱を持って、ミニディアがするりと現れた。
そして――昨日と同じみたいに、何も言わず本体に戻って、背中へぴたり。
「……こうさせて」
声は軽く装ってる。けど、触れた瞬間に分かる。
言葉にできないまま抱えてるものが、まだ胸の奥に渦のまま残ってる。
僕は前日と同じように――言葉を探すのをやめた。
向き直って、腕の中に収める。力じゃなく、逃げ道を塞がない程度の“確かさ”で。
ディアの肩が、わずかにほどける。
その反応だけで十分だった。
詩織との距離感も、明日のことも、考えないといけないことが頭の中でいくらでも続く。
でも今は、忘れることにする。
この時間だけは、ディアだけ。
そう決めて、目を閉じた。




