126話『スーラ装甲と寒冷』
朝。
6時の目覚ましで起き上がった。
今日も――眠い。
出社の日は、身体が素直じゃない。
理解してるのに、布団だけが毎回“出さない”と言ってくる。
そのくせ、会社に着いてしまえば普通に回るんだから、人間の慣れって雑だと思う。
二階の寝室を出て階段を降りる。
キッチンに見えるのは、ディアだ。今日は本体サイズ。
エプロンとかじゃなく、普通に“この家の朝”を回してる顔。
で――視界の端に、早見さんがいる。
まだ完全に馴染んだとは言えない。
でも、もうここまで来たら“いつもの光景”に、彼女も入れて扱ったほうが早い気がする。
そう思って、僕は席に向かった。
「……おはようございます」
早見さんは言葉をきれいに出す。
でも、目が一度だけ僕のほうを見て――すぐ外れる。
目が逃げたのに、さっきより少しだけ温度がある。
ディアは、そんな空気ごとスープ皿を置いた。
「食べなさい。朝はね、温いものから入れるのがいいのよ」
口調はいつも通り。
でも本体サイズで今日のディアは、部屋の温度まで塗り替える。
早見さんの視線が、そこに触れて――ほんの一瞬、表情が揺れた。
すぐに元の“整った顔”に戻る。
(……切り替えが、早い。)
コユキが、わざとらしく鼻を鳴らす。
「……今、空気が甘い」
「うるさいわね」
ディアが即座に返す。
その“うるさい”が、怒ってるより照れ寄りで――余計に甘い。
昨夜の温度が、まだ湯気の向こうに残ってる。
僕はスプーンを口に運びながら、心の中で小さくため息を吐いた。
……早見さんから、好意っぽいものは感じる。
ただ、純粋な好意なのか、憧れなのか。それとも依存に傾きかけているのか。
助かった気持ちが別の形に見えてるだけなのか、測りかねてる。
しかも、僕にはディアがいる。恋人だ。
なのに、目の前には複雑な立場の早見さんがいる。
……42歳。結婚も恋愛も、それなりにやってきた。
それでも、こういう状況の正解は、どこにも置いてなかった。
年を取れば大抵のことは処理できるようになると思っていたけど、感情の距離感だけは、案外そうでもないらしい。
(さて。どうしたもんかな)
とりあえず――朝は朝。
僕はパンを飲み込んで、会社行くスイッチを入れた。
出社。
何事もなく、席に荷物を置いて、PCを立ち上げ、朝イチから引き継ぎの細かい仕込みを潰していく。
9時半。営業から声がかかって、10時半には京都の客先へ同行。
挨拶は丁寧に、段取りは短く、体制は“安心できる形”で置いていく。
打ち合わせが終わったあと、喫茶店で営業と明日以降の段取りを擦り合わせる。
お昼時間がみえたタイミングで営業が言った。
「近くに美味しいラーメン屋ありますよ。昼、行きます?」
断る理由もない。京都の空気を吸いながらラーメン。
こういう“普通”が助かる。
麺をすすってると、影の奥からコユキが念話で割り込んできた。
『それ、美味しそう』
『見るなよ……いや、見てないのか』
(影からの視界ってどうなってる……)
『見てるよ。匂いでも分かる』
僕は小さくため息をついて、箸を止めずに返す。
『……分かった。今度、美味しい冷凍ラーメン、取り寄せる』
『約束』
そこへ、ディア。
『具材だけ別で買って。私が整える』
『整えるって、何をどう整えるんだよ』
『ラーメンは具で整えるの。もっと美味しくする』
……外で食べるやつじゃなくて、ディアが“整えた”ラーメン。
ちょっと楽しみになる。
ただ、それは今日じゃない。
今日遅くなることは、早見さんにも伝えてある。
京都からの帰り。
普通なら梅田で乗り換えて帰宅――なんだけど、僕は新大阪で降りた。
理由は単純だ。
更新する。新大阪ゲート。52階。
レベルは63。
正直、今日は帰ってもよかった。
……でも、早く上へ行きたい。
ディアやレグリスがいる階層まで、距離を縮めたい。
(早く、追いつきたい――って言うと、途方もなく遠く感じるけど)
新大阪ゲートをくぐった瞬間、空気が刺さった。
冷たい、じゃない。
頬と喉の表面を、細い刃でまとめてなぞられるみたいな冷え方だ。
息を吸っただけで肺の奥が縮む。これを“寒い”で片づけるのは、ちょっと乱暴すぎる。
息が白くなるのは当然として、まつ毛の先が重い。肌が痛い。
世界全体が、体温を奪うことに本気だ。
影がぴくり、と動いて、コユキが一瞬だけ外に出た――けど。
「寒い。無理。影に戻る」
言い切って、すぐ消える。潔い。
そして続ける。
『耐性持ちのモンスター見つけるまで影。見つけたら模写捕食で取る』
『合理の塊かよ』
『合理大事』
返しが即答すぎる。
次の瞬間、服の内側が動いた。
スーラが“ぴょん”と顔を出して、すぐに全身を包むみたいに広がる。
形は、つなぎのスノーウェアみたいになった。
縫い目っぽいラインまで作ってくるのが妙に器用で、笑うべきか真顔になるべきか迷う。
五式吸収。熱を吸って、逃がさない。
さっきまでの寒さは“刺さる”だったのに、それがようやく“冷たい”まで落ちてくる。
たったそれだけで、世界の難易度が一段下がった。
(……すごい。)
思わず息を吐いた。
それだけで、さっきまでの雪原が別の階層みたいに見える。
「スーラ、天才……」
スノーウェアが、ぷるん、と小さく震えた。
照れてるのか、褒められ待ちだったのか。どっちでもいいけど、かわいい。
「助かる。ほんとに助かる」
もう一回言うと、スーラは嬉しそうに、胸のあたりでふにゃっと柔らかく形を変えた。
……抱きつくな。今は雪山だ。危ない。
ただ、スーラのお陰で助かったのは本当だ。
ブレスレットからミニディアが出てきた。
寒いはずなのに、彼女だけは平然としてる。
この階の情報は、残しておいた方がいい。
「ディア。この階の攻略、スマホで撮ってくれない?」
首を傾げる。
「公開するの?」
「……録るだけ。公開は後で考える」
準備なしでこの階に来たら、普通に死ぬ。
ただ――今、世界最強クラスのチームですら、30階に届くかどうかのはず。
52階の映像を出すってことは、“世界にバレる”ってことだ。
だから、記録だけ。
「了解」
ディアがスマホを構えて飛ぶ。
僕は黒猫の仮面を付けて、スーラにも偽色変態で黒を被せた。
白い雪原に、黒猫の仮面と黒ずくめの姿。
絵は立つ。……でも、油断すると今の僕でも死ぬ階層でもある。
雪山の敵は、モンスターじゃない。
寒さ、視界、足場――全部が敵だ。
戦う場所を選ぶ。風向き、地形、岩陰。
迷ったら撤退ラインを先に決める。
消耗戦はしない。見失う前に区切る。
コユキだって今は影の中だ。
吹雪の中、視界の端で“雪の盛り上がり”が動いた。
嫌な予感。ほんの小さな違和感――前兆直感が、ここで効く。
首の後ろが、ひやりと粟立つ。
僕は半歩だけ引いて、受けの形を作る。
出てきたのは、氷気を纏った小型獣――兎のようだ。
かわいげなんて欠片もない速度で、まっすぐ喉元を狙ってくる。
『氷牙兎よ』
コユキが念話を飛ばす。
視界の端、雪の盛り上がりが“一拍遅れて”跳ねた。
白い毛並み――いや、氷の粒をまとった牙が、直線で喉元を狙ってくる。
スーラ装甲で受け止める。
黒いウェアに触れた瞬間、兎の前脚にまとわりついていた氷が、溶けた。
スーラに、触れた物質だけが形を失っていく。
(スーラ――溶かしてる)
兎の踏み込みが乱れる。
爪先が噛まず、雪面でわずかに泳いだ。
その隙に、黒い棒――黒想鋳具で引き出す。
「――落ちろ」
さらに、空間斬糸。
線が走って、足場の“繋がり”だけが切れた。獣がバランスを失って雪に沈む。
仕留めようとした瞬間、影の奥からコユキの声。
『それ、耐性持ち。噛ませて』
「わかっ……」
『噛ませて』
影の縁から、口元だけを出して噛みつく。寒さが本気なのが分かる。
そして、捕食。
――体の奥で、冷えの角が少し丸くなる。
『寒冷耐性(弱)。……弱い。これじゃ外で動けない。影で十分』
『ゼロよりマシだろ』
『ゼロよりマシ。でも、次探す』
……仕事の会話か。




