123話『揺れる距離と、託す背中』
6時。目覚ましの音で起き上がって、まず思う。
――眠い。
出社の日は、在宅の日より早い時間に起きる必要がある。
階段を降りる。
コユキ。ミニディア。スーラ。ユキ丸。
……早見さんまで、もう普通に席にいる。
「おはようございます」
「おはよう」
軽く挨拶を返し、そのままリビングを抜けて、洗面所へ。
歯を磨いて、顔を洗って、ようやく目の焦点が合ってくる。
戻ってくると、コーヒーの匂い。スープの湯気。
早見さんは、背筋を伸ばして座っていた。昨日より“朝の形”が整っている。
髪が、昨日と違う。まとめ方が変わっていて、顔まわりがすっきりしている。
(……整え直したんだな)
気づいた、というより――目が勝手に拾った。
でも口にしない。触れたら距離が一段ズレる気がした。
――と、思った瞬間。
「今、気づいたでしょ」
コユキが刺してくる。
「……気づいてない」
「一瞬止まった、気づいてた」
「気づいてない……たぶん」
鋭い。朝から鋭い。
早見さんが小さく目を瞬かせて、僕とコユキの間を見て――すぐ視線を下げた。
…でも、落ちる前に一瞬だけ、口元がほどける。
“気づかれた”ってだけで、嬉しくなったみたいな反応。
すぐに隠すのが、また分かりやすい。
胸が一拍だけ跳ねる。――違う。反射だ。
僕はその感情を、棚の上に戻した。
(……ややこしいな)
ディアが湯気の向こうから、何も言わずにこちらを見た。
いつもの顔。いつもの温度。
でも、今日はそれが逆に“今の状況”を意識させる。
守るとか救うとか、その延長に変な親密さを置きたくない。
でも、拒絶にもしたくない。
42歳。結婚もして、恋愛も一通り経験してきた。
……なのに、こんな状況は初めてだ。
正解の距離感が、どこにも転がってない。
(さて。どうしたもんかな)
出社の支度を整えて、玄関で靴を履く。
「行ってきます」
「ボクも」
コユキが短く返し、影の中に入る。
早見さんは一拍だけ遅れて――でも今度は逃げずに、僕を見た。
「……いってらっしゃいませ」
言い方が丁寧で、でも“外向けの完璧”より少し生活に寄っている。
その一言のあと、ミニディアと目が合った。
笑ってるわけじゃない。ただ、全部見てる目。
電車の中。満員の空気。人の匂い。
移動時間は、いつもならSNSの数字を確認するか、頭の中で今日の段取りをなぞることが多い。
でも今日は――ブレスレットに意識を落とした。
『ディア』
『なに、秀人』
声はいつも通り落ち着いている。
それが逆に、こっちの言いにくさを浮き彫りにする。
『……ひとつだけ聞く。僕が詩織さんと、普通に――仲良くすること。どう思ってる?』
『どうって。いいことだと思うよ』
『そういうことじゃなくて』
少し間が空いた。
満員電車の揺れの中で、その“間”だけが妙に長い。
『……少し、嫉妬してる』
胸の奥が、きゅっと鳴る。
言葉が真っ直ぐすぎて、誤魔化せない。
『ごめん』
『謝らなくていい。詩織を傷つけたくないし、あなたも傷つけたくないもの』
言い方は柔らかいのに、逃げ道がない真っ直ぐさだ。
『私、完全に感情を扱えるようになったつもりでいたけど……難しいわね』
『……うん』
『詩織との関係は、秀人が思うようにしたらいい。あなたが選びなさい……その選択がどっちに転んでも、私はあなたの隣にいるわ』
『ありがとう。ただ……救ってあげたいって気持ちのまま動いたけど、今は測りかねてる。考えて答えが出ないなら、今は、成り行きに任せようと思う』
『秀人らしいね』
『でも、本当にディアが嫌だったら教えてほしい』
『わかった。それは約束する』
一拍。
ディアが小さく、息を吐いたみたいな気配。
『人の心……って私は人じゃないけど。感情って、厄介ね』
その言葉の端に、ほんの少しだけ“古い影”が混じる。
以前、聞かせてくれた話が頭をよぎった。
欲しいという気持ちのまま動いて、消滅した始祖のヴァンパイアのこと。国のこと。
――今、ディアはそれを思い出しかけている。そんな気がした。
『ディア』
『……大丈夫。ちゃんと、戻ってる』
声音がいつもの温度に戻る。
『お仕事頑張って、秀人』
『ありがとう。行ってくる』
ブレスレットの奥の気配が落ち着いて、満員電車の圧が、ほんの少しだけ軽くなった。
席に着いて、荷物を置く。
今日は外出なし。10時からはWeb会議――それまでは、引き継ぎの“地ならし”を淡々と片づけた。
資料の所在、判断の観点、過去経緯のメモ。抜けても回る形に寄せていく、作業だ。
10時からの受注中のクライアントとの打ち合わせには、サブマネージャーの竹島さんも同席する。
遠方であるためWeb会議での退職挨拶となる。
会議が始まると、僕はわざと一歩引いた。主に話すのは竹島さん。必要なときだけ、僕が補足に入る。――安心材料って、説明より“構図”で伝わる。
進捗は順調。タスクの受け渡しも、竹島さんを軸に、各リーダーへ役割が割れている。
“誰が何を見るか”が見える形になっているだけで、相手の不安は落ちる。
会議の本題が一通り収まって、最後に空気が少しだけ緩んだところで、雑談みたいに聞かれた。
「で、時任さんは次どうされるんです?」
僕は、整えた昨日と同じ返しをそのまま出す。
「しばらくは雇われて時間に縛られる形じゃなく、個人で動ける範囲で活動しようと思ってます」
昨日と同じで相手の反応に“答え”を求めない。
曖昧に答えつつも、目の前の対応だけは雑にしない。――“飛ぶ鳥跡を濁さず”って言葉がある。
ビジネスって、将来どこでどう繋がるか分からない。
悪い縁は切ればいい。でも、いい縁は雑に扱わない。
もしかしたらまた、別の現場で“お久しぶりです”って言う日が来るかもしれないから。
会議が終わって、竹島さんと二人きりになる。
「……時任さん、正直に聞いていいですか」
「はい、どうぞ」
「時任さんの仕事、サブマネージャーという立ち位置で7割くらいは普段から見えています。引き継ぎの“作業”も、段取りも。残りの3割――引き継いでいただきながら理解はできます。ただ、作業ではなく決断が難しいです」
竹島さんは慎重だ。強みでもある。
でも慎重さは、最後の局面で“決めない理由”にもなる。
言い方は丁寧なのに、少し焦りが混じっている。
「想定外が出た時に、どういうリスクを想像して、どこで計画を変えて、どこで“GO”を出してるのか。そこを、ちゃんと知りたいです」
竹島さんは優秀だ。あるべき仕事を、きっちり落とさない。
ただ――進むべき局面で、リスクを取る判断を本能的に避ける癖がある。結果、対応が遅れることがある。
本人も、それを分かってる。だから今、聞きに来ている。
「まず、“失敗の種類”を分けます。戻れる失敗と、戻れない失敗。戻れない方だけ先に潰す」
一拍。
「戻れる失敗は、前に進むためのコストとして許容する。その代わり、早く気づける形にしておく。――で、リスクの取り方も同じです。致命傷にならなくて、リターンの方が大きいなら、迷う時間の方が損になります。打つなら早めに打つ」
竹島さんが、ゆっくり頷いた。
「慎重なのは強みです。あとは“決める”だけ。決めた瞬間に責任が乗るのは、もう分かってますよね。でも、怖がって決めないと、あとで選択肢が減る。決めても責任、決めなくても責任なら――早めに決めて、手を打てる時間を残した方がいいです。実は、私が言わなくても全部わかってるんでしょ。あとは覚悟を、行動に変えるだけです。」
言葉を置くと、竹島さんの肩がほんの少し覚悟を決めたのが分かった。
昼休みは、外に出なかった。
コンビニで弁当を買ってきて、そのままオフィスの自席で食べる。
残り、10営業日。
会社なんて誰か一人抜けたところで回る――それは本当だ。
でも、ここまで一緒に走ってきた部下たちの顔を思い浮かべると、抜けたあとに余計な不安を残したくなかった。
箸を進めていると、部下が少し遠慮がちに声をかけてくる。
「ランチ中すみません……」
「いいよ。どうしたの?」
話を聞いて、必要な言葉だけ渡す。
僕は要点だけ拾って、いま何を優先すべきかと、パターン別に誰に投げれば一番早く解けるかを短く整理して渡した。
それだけで、部下の肩がほんの少し落ちた。
(退職を決めても、今日やるべき仕事は、まだちゃんとここにある)




