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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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123話『揺れる距離と、託す背中』

6時。目覚ましの音で起き上がって、まず思う。


――眠い。


出社の日は、在宅の日より早い時間に起きる必要がある。


階段を降りる。


コユキ。ミニディア。スーラ。ユキ丸。

……早見さんまで、もう普通に席にいる。


「おはようございます」


「おはよう」


軽く挨拶を返し、そのままリビングを抜けて、洗面所へ。

歯を磨いて、顔を洗って、ようやく目の焦点が合ってくる。


戻ってくると、コーヒーの匂い。スープの湯気。

早見さんは、背筋を伸ばして座っていた。昨日より“朝の形”が整っている。

髪が、昨日と違う。まとめ方が変わっていて、顔まわりがすっきりしている。


(……整え直したんだな)


気づいた、というより――目が勝手に拾った。

でも口にしない。触れたら距離が一段ズレる気がした。


――と、思った瞬間。


「今、気づいたでしょ」


コユキが刺してくる。


「……気づいてない」


「一瞬止まった、気づいてた」


「気づいてない……たぶん」


鋭い。朝から鋭い。

早見さんが小さく目を瞬かせて、僕とコユキの間を見て――すぐ視線を下げた。

…でも、落ちる前に一瞬だけ、口元がほどける。


“気づかれた”ってだけで、嬉しくなったみたいな反応。

すぐに隠すのが、また分かりやすい。


胸が一拍だけ跳ねる。――違う。反射だ。

僕はその感情を、棚の上に戻した。


(……ややこしいな)


ディアが湯気の向こうから、何も言わずにこちらを見た。

いつもの顔。いつもの温度。

でも、今日はそれが逆に“今の状況”を意識させる。


守るとか救うとか、その延長に変な親密さを置きたくない。

でも、拒絶にもしたくない。


42歳。結婚もして、恋愛も一通り経験してきた。

……なのに、こんな状況は初めてだ。

正解の距離感が、どこにも転がってない。


(さて。どうしたもんかな)


出社の支度を整えて、玄関で靴を履く。


「行ってきます」


「ボクも」


コユキが短く返し、影の中に入る。

早見さんは一拍だけ遅れて――でも今度は逃げずに、僕を見た。


「……いってらっしゃいませ」


言い方が丁寧で、でも“外向けの完璧”より少し生活に寄っている。

その一言のあと、ミニディアと目が合った。

笑ってるわけじゃない。ただ、全部見てる目。


電車の中。満員の空気。人の匂い。

移動時間は、いつもならSNSの数字を確認するか、頭の中で今日の段取りをなぞることが多い。


でも今日は――ブレスレットに意識を落とした。


『ディア』


『なに、秀人』


声はいつも通り落ち着いている。

それが逆に、こっちの言いにくさを浮き彫りにする。


『……ひとつだけ聞く。僕が詩織さんと、普通に――仲良くすること。どう思ってる?』


『どうって。いいことだと思うよ』


『そういうことじゃなくて』


少し間が空いた。

満員電車の揺れの中で、その“間”だけが妙に長い。


『……少し、嫉妬してる』


胸の奥が、きゅっと鳴る。

言葉が真っ直ぐすぎて、誤魔化せない。


『ごめん』


『謝らなくていい。詩織を傷つけたくないし、あなたも傷つけたくないもの』


言い方は柔らかいのに、逃げ道がない真っ直ぐさだ。


『私、完全に感情を扱えるようになったつもりでいたけど……難しいわね』


『……うん』


『詩織との関係は、秀人が思うようにしたらいい。あなたが選びなさい……その選択がどっちに転んでも、私はあなたの隣にいるわ』


『ありがとう。ただ……救ってあげたいって気持ちのまま動いたけど、今は測りかねてる。考えて答えが出ないなら、今は、成り行きに任せようと思う』


『秀人らしいね』


『でも、本当にディアが嫌だったら教えてほしい』


『わかった。それは約束する』


一拍。

ディアが小さく、息を吐いたみたいな気配。


『人の心……って私は人じゃないけど。感情って、厄介ね』


その言葉の端に、ほんの少しだけ“古い影”が混じる。

以前、聞かせてくれた話が頭をよぎった。

欲しいという気持ちのまま動いて、消滅した始祖のヴァンパイアのこと。国のこと。


――今、ディアはそれを思い出しかけている。そんな気がした。


『ディア』


『……大丈夫。ちゃんと、戻ってる』


声音がいつもの温度に戻る。


『お仕事頑張って、秀人』


『ありがとう。行ってくる』


ブレスレットの奥の気配が落ち着いて、満員電車の圧が、ほんの少しだけ軽くなった。


席に着いて、荷物を置く。

今日は外出なし。10時からはWeb会議――それまでは、引き継ぎの“地ならし”を淡々と片づけた。

資料の所在、判断の観点、過去経緯のメモ。抜けても回る形に寄せていく、作業だ。


10時からの受注中のクライアントとの打ち合わせには、サブマネージャーの竹島さんも同席する。

遠方であるためWeb会議での退職挨拶となる。

会議が始まると、僕はわざと一歩引いた。主に話すのは竹島さん。必要なときだけ、僕が補足に入る。――安心材料って、説明より“構図”で伝わる。


進捗は順調。タスクの受け渡しも、竹島さんを軸に、各リーダーへ役割が割れている。

“誰が何を見るか”が見える形になっているだけで、相手の不安は落ちる。


会議の本題が一通り収まって、最後に空気が少しだけ緩んだところで、雑談みたいに聞かれた。


「で、時任さんは次どうされるんです?」


僕は、整えた昨日と同じ返しをそのまま出す。


「しばらくは雇われて時間に縛られる形じゃなく、個人で動ける範囲で活動しようと思ってます」


昨日と同じで相手の反応に“答え”を求めない。

曖昧に答えつつも、目の前の対応だけは雑にしない。――“飛ぶ鳥跡を濁さず”って言葉がある。


ビジネスって、将来どこでどう繋がるか分からない。

悪い縁は切ればいい。でも、いい縁は雑に扱わない。

もしかしたらまた、別の現場で“お久しぶりです”って言う日が来るかもしれないから。


会議が終わって、竹島さんと二人きりになる。


「……時任さん、正直に聞いていいですか」


「はい、どうぞ」


「時任さんの仕事、サブマネージャーという立ち位置で7割くらいは普段から見えています。引き継ぎの“作業”も、段取りも。残りの3割――引き継いでいただきながら理解はできます。ただ、作業ではなく決断が難しいです」


竹島さんは慎重だ。強みでもある。

でも慎重さは、最後の局面で“決めない理由”にもなる。


言い方は丁寧なのに、少し焦りが混じっている。


「想定外が出た時に、どういうリスクを想像して、どこで計画を変えて、どこで“GO”を出してるのか。そこを、ちゃんと知りたいです」


竹島さんは優秀だ。あるべき仕事を、きっちり落とさない。

ただ――進むべき局面で、リスクを取る判断を本能的に避ける癖がある。結果、対応が遅れることがある。

本人も、それを分かってる。だから今、聞きに来ている。


「まず、“失敗の種類”を分けます。戻れる失敗と、戻れない失敗。戻れない方だけ先に潰す」


一拍。


「戻れる失敗は、前に進むためのコストとして許容する。その代わり、早く気づける形にしておく。――で、リスクの取り方も同じです。致命傷にならなくて、リターンの方が大きいなら、迷う時間の方が損になります。打つなら早めに打つ」


竹島さんが、ゆっくり頷いた。


「慎重なのは強みです。あとは“決める”だけ。決めた瞬間に責任が乗るのは、もう分かってますよね。でも、怖がって決めないと、あとで選択肢が減る。決めても責任、決めなくても責任なら――早めに決めて、手を打てる時間を残した方がいいです。実は、私が言わなくても全部わかってるんでしょ。あとは覚悟を、行動に変えるだけです。」


言葉を置くと、竹島さんの肩がほんの少し覚悟を決めたのが分かった。


昼休みは、外に出なかった。

コンビニで弁当を買ってきて、そのままオフィスの自席で食べる。


残り、10営業日。

会社なんて誰か一人抜けたところで回る――それは本当だ。

でも、ここまで一緒に走ってきた部下たちの顔を思い浮かべると、抜けたあとに余計な不安を残したくなかった。


箸を進めていると、部下が少し遠慮がちに声をかけてくる。


「ランチ中すみません……」


「いいよ。どうしたの?」


話を聞いて、必要な言葉だけ渡す。


僕は要点だけ拾って、いま何を優先すべきかと、パターン別に誰に投げれば一番早く解けるかを短く整理して渡した。

それだけで、部下の肩がほんの少し落ちた。


(退職を決めても、今日やるべき仕事は、まだちゃんとここにある)


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