122話『行ってきます』
朝。
目覚ましが鳴って、反射みたいに手が伸びる。
パジャマのまま、階段を降りた。
リビングは吹き抜けになっている。
この家の階段は、降り切ったらそのままリビングだ。
一階に降りた瞬間、コーヒーの匂いが鼻に来た。
次に、トーストの焼ける匂い。
……で、視界の先。
コユキ。ミニディア。スーラ。ユキ丸。
そして――早見さん。
2日目にして、朝の気配に“彼女がいる”のが当たり前みたいに馴染みかけている。
……いや、馴染むな。状況は全然、当たり前じゃない。
「おはよ」
コユキが短く言う。
ユキ丸は帽子の縁をちょこんと持ち上げる。
その横で、早見さんが僕を見た。
視線が合う――合った、と思った瞬間に、すっと逸れる。
でも、逸らしきれない何かが一拍だけ残って、僕のほうが先に気づいてしまう。
「……おはようございます」
声はきれいに整っている。
“速水えりな”の声の出し方だ。
なのに、続く一言が、ほんの少しだけ遅れた。
「……今日は、お仕事……ですよね」
確認みたいな言い方。
台本じゃなくて、生活の言葉。
「うん。平日だしね」
そう返すと、早見さんは小さく頷いた。
頷き方が妙に丁寧で――丁寧すぎて、逆に照れくさい。
「……無理、しないでください」
言ってから、しまったみたいに唇を結ぶ。
次の瞬間には、いつもの“整った表情”が戻る。
でも、その戻し方が少しだけ雑で、そこが――素っぽい。
「ありがとう」
僕がそう言うと、早見さんは「はい」と短く返した。
その返事が、ほんの少しだけ明るい。
朝食を食べ終え支度をして、鞄を持つ。
今日は5月16日、火曜日。僕はまだ会社員で、退職は5月31日。
だから今日も、仕事は仕事として片付ける。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
コユキが先に言う。
早見さんは、一拍遅れて――でも今度は逃げずに、僕を見た。
「……いってらっしゃいませ」
最後の“ませ”が、ほんの少しだけ柔らかい。
その直後、飛んでるミニディアと目が合う。
表情はいつも通り。なのに、目だけが“見たわよ”と言っているように感じた。
……今の状況を、どう思ってるのか。
聞けてない。
(あとで話そう……)
「行ってきます」
僕はもう一度だけ言って、玄関を出た。
会社。
いつものフロア。いつもの匂い。いつもの雑音。
この空間は、僕が何を抱えていようが、平然と回っている。
引き継ぎの資料を渡して、口頭の確認。
テンプレの挨拶を挟んで、淡々とタスクを潰す。
9時過ぎに外出。まず本町のクライアント。
そこから移動して、11時に肥後橋でもう一件。
「次、どうされるんですか?」
聞かれる質問。
僕は“最近整えた答え”を、そのまま返した。
「しばらくは、雇われて時間に縛られる形じゃなくて。個人で動ける範囲で、活動しようと思ってます」
相手は、もちろんそこから二、三言、雑談を足してくる。
僕は曖昧に笑って、曖昧に頷く。濁しても、手は抜かない――最後まで“やるべきこと”は丁寧に置いていく。
――組織を辞める時ほど、雑にしない。
雑にすると、最後の印象が未来の自分を傷つける。
そういう“社会人の学び”だけは、変わらない。
打ち合わせが終わって外に出る。
ビル風が思ったより強くて、ジャケットがなびく。
僕は、営業の副部長にぽつりと言った。
「……月末まで、アポけっこう詰めましたね」
副部長が苦笑して頷いた。
「月末まで、入れられるだけ入れましたから。最後、きっちり挨拶してもらいましょう」
「お願いします」
――こういう“信用信頼”まで含めて、仕事なんだよなと思う。
午後半休。
昼食は外で取らずに、そのまま直帰した。
玄関を開けると、家の空気が“戻ってきた”って顔をする。
「おかえりなさい」
早見さんが言った。
その声が、少しだけ高揚が混じっている。
「ただいま。……あれ、今日も94階じゃなくてこっちなんですね」
「午前中は94階にいました。……でも、そろそろ時任さんが帰ってくる頃だと思って。報告したいこともあって、先に降りてきました」
(……報告?)
リビングでコユキが僕の影から出てきたタイミングで、早見さんが小さく息を吸った。
「……退職代行から、連絡が来ました」
空気が、一段落ちる。
「事務所側が……即時退職を、認めるって……」
「え」
思ったより早い。
でも、驚きより先に――早見さんの顔に“解放”じゃなく“不安”が走ったのが分かった。
檻は、まだ残ってる。
鍵だけ外れて、扉の向こうが眩しすぎて、足がすくむ――そんな感じ。
その横で、コユキが平然と言った。
「事務所は損を計算したのよ。残ってる有給を使われるなら、即時退職にして出費を減らす方が合理的」
「……いや待て」
僕はコユキを見た。
「お前、今日ずっと影の中で会社にいたよな。なんで知ってんの」
コユキが、しれっと胸を張る。
「情報戦」
「雑すぎるだろ」
「ユキ丸。あと、レグリス。連携はばっちり」
「……え、そこ繋がってんの?」
「繋がる。繋げる」
言い切るコユキに、笑うべきか悩む。
悩んでる間に、コユキはいつもの温度で続けた。
「優しさじゃなくても、結果が詩織、あなたを救うことはある」
早見さんの指先が、テーブルの端を軽く掴んだ。
救われたはずなのに、不安。
“何かを決断しようとしている”って、顔をしている。
昼食は、テーブルに温度があるのに、どこか静かだった。
食後、早見さんが僕の方を見た。
小さく息を吸って、言う。
「時任さん……背中を押してもらえませんか」
“押してほしい”と言いながら、目だけが少し怯えている。
踏み出したいのに、踏み出した瞬間が怖い――そんな顔だ。
僕は一拍置いて、聞き返した。
「……何をするんですか」
早見さんは唇を噛んでから、小さく言った。
「……マネージャーに、電話したいです」
「……分かりました」
押すなら、押す。中途半端に優しくして、止まる方が危ない。
「隣にいます。僕は、早見さんが折れないように電話を見届けます」
「……はい」
古い端末。
そこに残っていた番号を呼び出す。
“担当マネージャー”。
早見さんが、画面を見て喉を鳴らした。
指が少し震える。
「……かけます」
早見さんが、ゆっくり呼吸を整える。
それから、発信。
コール音が一回、二回。
『はい、岩本です』
(出た)
スピーカーモードで声が聞こえてくる。
知らない番号への、仕事の声。
その一言で、早見さんの背筋がすっと伸びた。
空気が変わる。――“速水えりな”のスイッチだ。
「岩本さん……速水えりなです。突然のお電話、すみません」
『……え? 速水?』
驚きが声に混じっている。
「お久しぶりです。突然のお電話で、すみません」
言葉が整っている。声の抑揚が“外向け”だ。
それでも、僕の隣の肩は硬いままだ。
『……今どこにいるんだ。大丈夫なのか?連絡取れなくて……怖かったんだよ。連絡が切れて。』
安堵と心配が一気に出てくる。
そして、次に来るのは――説得だ。立場の説得。
『退職の件は聞いてる。でも、今ならさ……体調が落ちたってことにして、休業で――復帰の線、残せる。スポンサーも現場も、イベントも、今動いてるんだ。違約金だって……』
早見さんは、感謝を崩さない。
でも、軸を抜かない。
「今まで守ってくださって、ありがとうございました」
『守るのは俺の仕事だ。だから戻ってこい。守れるのは――』
「ご迷惑をかけるのは分かっています。でも、もう戻れません」
声は丁寧なまま。
丁寧だからこそ、逃げ道がない強さになる。
『……速水。頼む。今は混乱してるだけだ。とりあえず――』
早見さんが、息を吸う。
そして、はっきり言った。
「これまで守ってくれてありがとうございます。でも、もう従えません」
通話の向こうが、静かになった。
早見さんは続ける。
言葉にして、自分の鍵を“内側”から外す。
「守られていたのは事実です。でも、守られるほど、選べなくなっていました。私は……もう、選びたいです」
沈黙のあと、マネージャーの声が少しだけ低くなった。
『……分かった。……分かったよ。……最後に一つだけ。無事なら、それだけでいい』
早見さんの指が、スマホをぎゅっと握る。
「はい。私は、無事です」
一拍。
「……行ってきます」
『……行ってこい』
通話が切れた。
早見さんはしばらく、息をするのを忘れたみたいに固まって。
それから、ようやく深呼吸した。
決断の怖さは、選んだ後もしばらく消えない。
だからこそ、最後の言葉で自分を固定する。
“さよなら”と違い、“行ってきます”は、別れじゃない。
自分の人生を取りに行く挨拶だ。
そのあと、94階へ。
訓練は短く、でも濃く。
ディアが、僕用と早見さん用にそれぞれ訓練の魔物を出した。
同じ場所で、別々の“課題”。それでも、やることはシンプルだ。
汗をかいて、息を整えて。
早見さんが、さっき自分の声で言い切った言葉を――今度は身体のほうが、ゆっくり受け止めていくのが分かる。
考える前に動く。
そうすると、心が勝手に追いついてくる時がある。
夜。
リビングのテレビに、事務所の発表文が流れた。
『速水えりな、体調不良により引退――』
文面は整いすぎていて、逆に冷たい。
“人”の熱が抜けて、処理だけが残っている。
SNSは、すぐ荒れた。
「帰還者は怖い」
「帰還者が原因だ」
「叩きすぎ」
「彼女を守れ」
「帰還者は希望だ」
擁護も攻撃も、まとめて巨大な波。
本人の輪郭なんて、簡単に飲み込んでいく。
早見さんが画面を見て、固まった。
指先が、わずかに震える。
僕は、線を引くみたいに言った。
「そこ、見続けなくていい。今は、呼吸だけ戻しましょう」
一拍。
「見出しと感情と、勝手な正義が混ざった声は大きいです。でも……あなたが全部受け止める必要はない。今は、“あなたの一日”を優先していい」
早見さんの瞳が揺れる。
それでも、頷こうとする。
(――手の届く範囲は、確かにある)
胸の奥で思っただけで、口には出さない。
コユキが、横で小さく鼻を鳴らした。
「……あんた、そういうとこはほんとしぶとい」
早見さんが、ふっと小さく笑った。
そして、胸の前で両手を握りしめて言う。
「……これからは、早見詩織です」
夜は静かだった。
吹き抜け窓からの月明かりは遠くで揺れていて、家の中には小さな呼吸がある。
檻の鍵が外れたのは、外側からじゃない。
内側からだ。
その余韻だけが、部屋の隅に残っていた。
ここまでお読みいただき、本当に……本当にありがとうございます。
第七章は、裏テーマとして「SNS」「退職」「鬱」を置いて、現代のしんどさも含めて書きました。
重たい話が続いたぶん、途中で少しでも呼吸できるように、笑える場面や“ほっこり”を挟んだつもりです。
現代ファンタジーとして、
“ファンタジー”は、現実から少し離れて空想や幻想を楽しめる場所。
でも“現代”は、目を背けたくなるほどリアルなこともある。
その両方を抱えたまま進むのが、この物語の面白みだと思っています。
そして第七章の流れから、第八章ではテーマの一つに「恋愛」も置いてみました。
……ただ、合理的な作者としては、恋愛小説みたいな恋愛を書くのがわりと苦手で、上手く書けるか正直わかりません。
生暖かく見守っていただけたら嬉しいです。
もしここまでで「面白かった」「続きが読みたい」と少しでも思っていただけたら、この章の区切りのタイミングで評価を入れてもらえると、本当に励みになります。
正直、第八章は書く側としても挑戦が多い章なので、その一押しが次話以降の気力になります。
第八章も、よろしくお願いします。




