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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第七章:守られる檻、ほどける決断

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122話『行ってきます』

朝。

目覚ましが鳴って、反射みたいに手が伸びる。


パジャマのまま、階段を降りた。


リビングは吹き抜けになっている。

この家の階段は、降り切ったらそのままリビングだ。


一階に降りた瞬間、コーヒーの匂いが鼻に来た。

次に、トーストの焼ける匂い。


……で、視界の先。


コユキ。ミニディア。スーラ。ユキ丸。

そして――早見さん。

2日目にして、朝の気配に“彼女がいる”のが当たり前みたいに馴染みかけている。

……いや、馴染むな。状況は全然、当たり前じゃない。


「おはよ」


コユキが短く言う。

ユキ丸は帽子の縁をちょこんと持ち上げる。


その横で、早見さんが僕を見た。


視線が合う――合った、と思った瞬間に、すっと逸れる。

でも、逸らしきれない何かが一拍だけ残って、僕のほうが先に気づいてしまう。


「……おはようございます」


声はきれいに整っている。

“速水えりな”の声の出し方だ。


なのに、続く一言が、ほんの少しだけ遅れた。


「……今日は、お仕事……ですよね」


確認みたいな言い方。

台本じゃなくて、生活の言葉。


「うん。平日だしね」


そう返すと、早見さんは小さく頷いた。

頷き方が妙に丁寧で――丁寧すぎて、逆に照れくさい。


「……無理、しないでください」


言ってから、しまったみたいに唇を結ぶ。

次の瞬間には、いつもの“整った表情”が戻る。


でも、その戻し方が少しだけ雑で、そこが――素っぽい。


「ありがとう」


僕がそう言うと、早見さんは「はい」と短く返した。

その返事が、ほんの少しだけ明るい。


朝食を食べ終え支度をして、鞄を持つ。

今日は5月16日、火曜日。僕はまだ会社員で、退職は5月31日。

だから今日も、仕事は仕事として片付ける。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


コユキが先に言う。


早見さんは、一拍遅れて――でも今度は逃げずに、僕を見た。


「……いってらっしゃいませ」


最後の“ませ”が、ほんの少しだけ柔らかい。


その直後、飛んでるミニディアと目が合う。

表情はいつも通り。なのに、目だけが“見たわよ”と言っているように感じた。


……今の状況を、どう思ってるのか。

聞けてない。


(あとで話そう……)


「行ってきます」


僕はもう一度だけ言って、玄関を出た。


会社。

いつものフロア。いつもの匂い。いつもの雑音。

この空間は、僕が何を抱えていようが、平然と回っている。


引き継ぎの資料を渡して、口頭の確認。

テンプレの挨拶を挟んで、淡々とタスクを潰す。


9時過ぎに外出。まず本町のクライアント。

そこから移動して、11時に肥後橋でもう一件。


「次、どうされるんですか?」


聞かれる質問。

僕は“最近整えた答え”を、そのまま返した。


「しばらくは、雇われて時間に縛られる形じゃなくて。個人で動ける範囲で、活動しようと思ってます」


相手は、もちろんそこから二、三言、雑談を足してくる。

僕は曖昧に笑って、曖昧に頷く。濁しても、手は抜かない――最後まで“やるべきこと”は丁寧に置いていく。


――組織を辞める時ほど、雑にしない。

雑にすると、最後の印象が未来の自分を傷つける。


そういう“社会人の学び”だけは、変わらない。


打ち合わせが終わって外に出る。

ビル風が思ったより強くて、ジャケットがなびく。


僕は、営業の副部長にぽつりと言った。


「……月末まで、アポけっこう詰めましたね」


副部長が苦笑して頷いた。


「月末まで、入れられるだけ入れましたから。最後、きっちり挨拶してもらいましょう」


「お願いします」


――こういう“信用信頼”まで含めて、仕事なんだよなと思う。


午後半休。

昼食は外で取らずに、そのまま直帰した。


玄関を開けると、家の空気が“戻ってきた”って顔をする。


「おかえりなさい」


早見さんが言った。

その声が、少しだけ高揚が混じっている。


「ただいま。……あれ、今日も94階じゃなくてこっちなんですね」


「午前中は94階にいました。……でも、そろそろ時任さんが帰ってくる頃だと思って。報告したいこともあって、先に降りてきました」


(……報告?)


リビングでコユキが僕の影から出てきたタイミングで、早見さんが小さく息を吸った。


「……退職代行から、連絡が来ました」


空気が、一段落ちる。


「事務所側が……即時退職を、認めるって……」


「え」


思ったより早い。

でも、驚きより先に――早見さんの顔に“解放”じゃなく“不安”が走ったのが分かった。


檻は、まだ残ってる。

鍵だけ外れて、扉の向こうが眩しすぎて、足がすくむ――そんな感じ。


その横で、コユキが平然と言った。


「事務所は損を計算したのよ。残ってる有給を使われるなら、即時退職にして出費を減らす方が合理的」


「……いや待て」


僕はコユキを見た。


「お前、今日ずっと影の中で会社にいたよな。なんで知ってんの」


コユキが、しれっと胸を張る。


「情報戦」


「雑すぎるだろ」


「ユキ丸。あと、レグリス。連携はばっちり」


「……え、そこ繋がってんの?」


「繋がる。繋げる」


言い切るコユキに、笑うべきか悩む。

悩んでる間に、コユキはいつもの温度で続けた。


「優しさじゃなくても、結果が詩織、あなたを救うことはある」


早見さんの指先が、テーブルの端を軽く掴んだ。

救われたはずなのに、不安。

“何かを決断しようとしている”って、顔をしている。


昼食は、テーブルに温度があるのに、どこか静かだった。


食後、早見さんが僕の方を見た。

小さく息を吸って、言う。


「時任さん……背中を押してもらえませんか」


“押してほしい”と言いながら、目だけが少し怯えている。

踏み出したいのに、踏み出した瞬間が怖い――そんな顔だ。


僕は一拍置いて、聞き返した。


「……何をするんですか」


早見さんは唇を噛んでから、小さく言った。


「……マネージャーに、電話したいです」


「……分かりました」


押すなら、押す。中途半端に優しくして、止まる方が危ない。


「隣にいます。僕は、早見さんが折れないように電話を見届けます」


「……はい」


古い端末。

そこに残っていた番号を呼び出す。


“担当マネージャー”。


早見さんが、画面を見て喉を鳴らした。

指が少し震える。


「……かけます」


早見さんが、ゆっくり呼吸を整える。

それから、発信。


コール音が一回、二回。


『はい、岩本です』


(出た)


スピーカーモードで声が聞こえてくる。

知らない番号への、仕事の声。

その一言で、早見さんの背筋がすっと伸びた。

空気が変わる。――“速水えりな”のスイッチだ。


「岩本さん……速水えりなです。突然のお電話、すみません」


『……え? 速水?』


驚きが声に混じっている。


「お久しぶりです。突然のお電話で、すみません」


言葉が整っている。声の抑揚が“外向け”だ。

それでも、僕の隣の肩は硬いままだ。


『……今どこにいるんだ。大丈夫なのか?連絡取れなくて……怖かったんだよ。連絡が切れて。』


安堵と心配が一気に出てくる。

そして、次に来るのは――説得だ。立場の説得。


『退職の件は聞いてる。でも、今ならさ……体調が落ちたってことにして、休業で――復帰の線、残せる。スポンサーも現場も、イベントも、今動いてるんだ。違約金だって……』


早見さんは、感謝を崩さない。

でも、軸を抜かない。


「今まで守ってくださって、ありがとうございました」


『守るのは俺の仕事だ。だから戻ってこい。守れるのは――』


「ご迷惑をかけるのは分かっています。でも、もう戻れません」


声は丁寧なまま。

丁寧だからこそ、逃げ道がない強さになる。


『……速水。頼む。今は混乱してるだけだ。とりあえず――』


早見さんが、息を吸う。

そして、はっきり言った。


「これまで守ってくれてありがとうございます。でも、もう従えません」


通話の向こうが、静かになった。


早見さんは続ける。

言葉にして、自分の鍵を“内側”から外す。


「守られていたのは事実です。でも、守られるほど、選べなくなっていました。私は……もう、選びたいです」


沈黙のあと、マネージャーの声が少しだけ低くなった。


『……分かった。……分かったよ。……最後に一つだけ。無事なら、それだけでいい』


早見さんの指が、スマホをぎゅっと握る。


「はい。私は、無事です」


一拍。


「……行ってきます」


『……行ってこい』


通話が切れた。


早見さんはしばらく、息をするのを忘れたみたいに固まって。

それから、ようやく深呼吸した。


決断の怖さは、選んだ後もしばらく消えない。

だからこそ、最後の言葉で自分を固定する。


“さよなら”と違い、“行ってきます”は、別れじゃない。

自分の人生を取りに行く挨拶だ。


そのあと、94階へ。

訓練は短く、でも濃く。


ディアが、僕用と早見さん用にそれぞれ訓練の魔物を出した。

同じ場所で、別々の“課題”。それでも、やることはシンプルだ。


汗をかいて、息を整えて。

早見さんが、さっき自分の声で言い切った言葉を――今度は身体のほうが、ゆっくり受け止めていくのが分かる。


考える前に動く。

そうすると、心が勝手に追いついてくる時がある。


夜。

リビングのテレビに、事務所の発表文が流れた。


『速水えりな、体調不良により引退――』


文面は整いすぎていて、逆に冷たい。

“人”の熱が抜けて、処理だけが残っている。


SNSは、すぐ荒れた。


「帰還者は怖い」

「帰還者が原因だ」

「叩きすぎ」

「彼女を守れ」

「帰還者は希望だ」


擁護も攻撃も、まとめて巨大な波。

本人の輪郭なんて、簡単に飲み込んでいく。


早見さんが画面を見て、固まった。

指先が、わずかに震える。


僕は、線を引くみたいに言った。


「そこ、見続けなくていい。今は、呼吸だけ戻しましょう」


一拍。


「見出しと感情と、勝手な正義が混ざった声は大きいです。でも……あなたが全部受け止める必要はない。今は、“あなたの一日”を優先していい」


早見さんの瞳が揺れる。

それでも、頷こうとする。


(――手の届く範囲は、確かにある)


胸の奥で思っただけで、口には出さない。


コユキが、横で小さく鼻を鳴らした。


「……あんた、そういうとこはほんとしぶとい」


早見さんが、ふっと小さく笑った。

そして、胸の前で両手を握りしめて言う。


「……これからは、早見詩織です」


夜は静かだった。

吹き抜け窓からの月明かりは遠くで揺れていて、家の中には小さな呼吸がある。


檻の鍵が外れたのは、外側からじゃない。

内側からだ。


その余韻だけが、部屋の隅に残っていた。


ここまでお読みいただき、本当に……本当にありがとうございます。


第七章は、裏テーマとして「SNS」「退職」「鬱」を置いて、現代のしんどさも含めて書きました。

重たい話が続いたぶん、途中で少しでも呼吸できるように、笑える場面や“ほっこり”を挟んだつもりです。


現代ファンタジーとして、

“ファンタジー”は、現実から少し離れて空想や幻想を楽しめる場所。

でも“現代”は、目を背けたくなるほどリアルなこともある。

その両方を抱えたまま進むのが、この物語の面白みだと思っています。


そして第七章の流れから、第八章ではテーマの一つに「恋愛」も置いてみました。

……ただ、合理的な作者としては、恋愛小説みたいな恋愛を書くのがわりと苦手で、上手く書けるか正直わかりません。

生暖かく見守っていただけたら嬉しいです。


もしここまでで「面白かった」「続きが読みたい」と少しでも思っていただけたら、この章の区切りのタイミングで評価を入れてもらえると、本当に励みになります。

正直、第八章は書く側としても挑戦が多い章なので、その一押しが次話以降の気力になります。


第八章も、よろしくお願いします。

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