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KING  作者: 安三里禄史
十章
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10-4a

 数日後、ハーシュメルトはアークの部屋でかれを待っていた。

 アークと知り合ったのは王都に来てすぐ、屋敷の向かいにある王立図書館に魅了され、リクトワールの本を熱心に読んでいるときに、声をかけられたのがきっかけだった。その後ふたりは親しくなり、知識の深いアークを慕って、ハーシュメルトはかれの部屋へよく訪れた。壁一面に配置された、天井まである本棚の上部には、光と植物をモチーフとした装飾が施されており、王立図書館の一画を思わせるような荘厳な世界をつくりだしていた。部屋の中央には緩やかな曲線を象る脚をした、かれがものを書くための重厚なテーブルがあり、その上にはいつもなにかしらの本と、書くための道具が整然と置かれていた。

 ハーシュメルトはいまも置かれている翻訳途中の開かれた本の前に座り、頁を無心で眺めていた。本には香辛料の説明として、植物の絵、主な原産地やその地図、採れる時期、味や効能について、ロスカ語で書かれていた。

 背に受ける広い窓からの日差しと、部屋の暖かさに心地よくなったハーシュメルトは、眠気を覚ますために立ち上がり、様々な国の本が隙間なく詰められ、高さや種類ごとに整理された本棚の前へ移動した。父親の書斎によく似た雰囲気をもつこの部屋は、王都へ来た当時15歳になったばかりの少年の郷愁を呼び起こし、特別の拠り所となっていた。

 アークは穏やかな性格の持ち主で、慣れない闘技場の世界から身を守るための重要な人物となっていた。アークの一種独特で、俗世から隔離されたような性質も影響し、ハーシュメルトはこの部屋を神聖な場所と捉え、ある種の告解の場とし、悔恨の記憶を開け放すようなこともした。アークが感情的になることはなく、他人に怒りを見せず、また大袈裟な同情を演じることもなかった。当時アークは成人目前の歳であったが、その大人びた精神の余裕が、新境地に立つ不安定な心情の少年に安らぎを与え、それはやがて信頼となり、いつしか敬する対象となった。

 心にくすぶる迷いを、なぜアークだけに告白する気になるのか、少年は理由を探すようになった。アークの人格がそうさせるといえばそれまでなのだが、安穏な空間をつくりだすこの部屋自体に秘密があるとし、突き止めようと何度も訪れ、アークがこの場にいてもいなくてもかまわず部屋に籠り、考えていた。アークはそんなかれを好きにさせ、部屋にふたりでいるときも、探求するかれの邪魔はせず放っておき、机に向かい自分の仕事に専念していた。

 ハーシュメルトは部屋全体を眺め、ほかになくここにだけあるものがないか、熱心に探した。机やソファといった、どの部屋にもある家具を除けば、まず目につくものは存在感のある壁一面の本棚だった。かれは本棚に向き合い、隠された秘密をさがそうと、端から端までひとつずつ本の背表紙に目を通した。ここにある本は、アークが幼少のころ父親に買ってもらった、もしくは譲り受けたもの、そしてかれ自身が成長し商人から買い付けたもので埋め尽くされており、各国の歴史、文芸作品、風俗書、神書や法書、地理、古典詩など、様々な種類が並んでいた。だが、このような本は図書館や父親の書斎でも見かけることはあり、アークの部屋の本が一部めずらしいものにせよ、これが精神を魅了させる要因ではないように思われた。アークの部屋にはふたつの絵が飾られており、当時のハーシュメルトには馴染みのないものだったが、題材自体は見慣れたクーラントの庭園と、この王宮が描かれ、とくに惹きつけられるものではなかった。

 日光。大きな窓から差し込む光こそが、この神秘的な空間で何かしらの変化を遂げ、心の働きに影響を及ぼしているのか。だとしたらやはり、なにかしらの変化を遂げるものの正体を突き止めないことには、答えに辿りついたとはいえない。ハーシュメルトはアークに、自分が抱えている問題の答えを聞くようなこともした。だがアークは「そのためによくここへ来ていたのか。そんなものは知らない。きみがこれだと思うものが見つかったら、ぜひ教えてくれ」と面白がって笑うばかりだった。

 そのうち、アークの部屋で探求に没頭するのにも飽き、アクリの話――王や英雄について、秩序だった戦の方法、ロスカでは許されない自刃の美徳など――の話をしているとき、なにげなくアークが「これはアクリの商人から買った」という、窓際のソファの近くにある小卓に置かれた香炉を指した。まるみをおびたその容器には、香木なるものが入っているらしく、軽やかな甘みのあるさわやかな香気を発していた。はじめて目にする道具にハーシュメルトは「香りを楽しむためのものか」と問うと、アークは「それもあるが、様々な効能、たとえば心を落ち着かせたり、精神を浄化させたり、けがれを取り除いたりと、アクリだけでなくロスカでも薬の代わりとして広く使われているものだ」と答えた。素材はアクリの商人からも買うが、セザンにある香りの強い花や草で代用できるとも言っていた。蓋を取ってみると、中には灰に埋まった炭の近くに、これが香木だろうか、いびつな形の木が置かれていた。なぜいままで気付かなかったのだろう? 毎日焚いていたかと聞くと、気が向いたときだけだと答えていた。ハーシュメルトはしばらく香炉から香るにおいに神経を集中させた。このような道具はかつて目にしたことも耳にしたこともない。おそらくこれが原因なのではないか? 薬として使用されているくらいなのだから、きっとこの匂いを浴びることによって精神が揺り動かされ、心にある思いが言葉となって引き出されてしまうのではないか。匂いにより悪気が取り除かれ、浄化された部屋の安らぎに守られ、自らをも浄化できると錯覚するからではなかろうか。こういう結論に達したが、いざアークに話すとなると、どうも馬鹿げているようで、結局本心は伝えずに「きみがやさしいからだ」と適当に締めくくった。

 それもそのはず、アークに己のすべてを打ち明けてきたわけではなかった。闘技場でのロスカの件を黙っていたのは、それが深刻な罪だとはっきり認識していたからだ。軽蔑を恐れたのかもしれない。以前、自分の誕生日のころだったか「セシルから聞いた話は本当か?」と問われた日があった。そのときにはじめておおまかに話した。香を意識してからは、アークの部屋へ行くとかならずなにかしらの香が焚かれており、鎮静するのか、ハーシュメルトは懺悔するようになった。

 アークを待つかれの部屋で、ハーシュメルトはいまも香りをはなつ香炉の前に立ち、蓋の穴からのぼる繊細な煙に手をかざした。当時は疑念を抱いた「香による心の変動」が、いまとなってはあり得ると思わずにはいられなかった。ルディアーノに会い、幻の実在を知り、目に見えぬ力を目の当たりにし、そういった類のものを信じるようになったからだ。香に魔力がこめられ、その不思議な力によって魅了され、神への懺悔のような狂気じみたおこないをしてしまうのだ。アークにとっては迷惑な話だろう。友好的な間柄とはいえ、出会ってまもない人間に大なり小なり一方的に罪の告白をされるのだ。アークは聞いているのかいないのか不明な態度で対応していたが、巧みにハーシュメルトの感情を引き出し、けっしてかれは断定せず「自ずと出た言葉が答えだ」と、いつも言っていた。それが真理かと思った時期もあったが、単に他人の悩みの解決策を明言するのが煩わしいだけではないかと、あとになって気付いた。そのときハーシュメルトは軽い非難をこめて本音を問うたが「心中にのみ存在する煤の払い方は本人以外知り得ない」と机に置かれた本の頁を目で追いながら、アークは答えていた。

 少年は再びアークの席に戻り、かつてあこがれたロスカの神秘なる者の正体について、虚ろに考えていた。エルトリアが存在するならば、ロスカに神がいる可能性はある。この狭いセザンにいては計り知れない迷宮がきっとどこかにあるはずだ。これについて、アークが戻ってきたら尋ねてみようかと思い至ったとき、ようやく扉がひらいた。



「随分待たせてしまったね、すまない。これをきみにと思って探していた」アークは足早に部屋にはいるなり、持っていた本を机に置いた。「ロスカの童話集だ。きみが暖炉へ投げ入れてしまったものとは別のものかもしれないが、同じような話は載っているだろう。もっと早く渡したかったのだが、なかなか見つからなくてね。きみにあげるよ」

 ハーシュメルトは本の頁をめくり、ざっと目をとおした。「読んだことのない本だ。もらっていいの? 本を持ち出されることすらきみは嫌がるのに」

「かまわないよ。ぼくはいずれぼくの手元に返ってくるものを一時的に渡したくないだけで、譲る行為が嫌いなわけではないから。これは訳し終わった本だし、きみがよろこんでくれるなら、ぼくもうれしい」

「ありがとう。もう二度とロスカの本は手に入らないと思っていたから、うれしいよ。いまここでぼくが感激のあまり涙を流したりなんかしたら、きみは笑うだろうね?」

 ハーシュメルトが話しているあいだにアークは移動し、煙の消えた香炉の蓋を開けて、中を覗いていた。「かまわないよ? だれにも言わないから」

「その魔力の素材はなに?」香炉の中身を新しいものに入れ替えているアークを見ながら、ハーシュメルトが唐突に聞いた。

「魔力?」

「そう、ひとの心を操る魔力。きみはそれを使ってぼくを懐柔しようと思ってる、なんてことはない?」

「正気? でも興味はあるよ。そんな力があればの話だけど」アークは微笑し、作業を再開した。

「だって、薬としても使われてるんだろ? 心に作用しないなんて言いきれる?」

 アークは灰の上の、火をつけた新しい香炭のまわりに、セザンで採取した花の花弁を散らしながら、「たしかに、アクリではよく戦の前に高揚作用のある香りを広げたり、癒しのために安眠効果のあるものを用いたりするみたいだけどね、気休めじゃないかな。すくなくとも、ぼくはきみの言う魔力を信じて使ってるわけじゃない。ただ香りが好きなだけだよ」と言った。

「ねえ」ハーシュメルトは、香炉の蓋を閉じて向かいの席に座ろうとするアークに声をかけた。「あのロスカ人、いまここにいるんだって? なんで?」

「外出中に門の錠をかけられ、締め出されたらしい。ちょうどぼくがドルレアン邸の前をとおりかかったとき、門の外にいるかれらに会ってね、断りきれなかった。ヴァンクールの気迫に負けた」アークは笑っていた。「それよりハーシュ、席を交換してくれないか? どうも落ち着かない」

「だめだ。きみがここへ座ると本に集中してしまうからね。いい加減に話を聞いてもらいたくない。ぼくは相談があってここに来た」少年はアークの席に深く座り直した。

「相談? やけに深刻な顔をしているね。ぼくはできればきみの日常のたわいない話を聞きたいけれど。いいよ、きみが困ってるなら聞こうじゃないか」

 アークはハーシュメルトの後ろの窓から見える、積もる重さに耐えきれず雪を下へ吐き出す木の葉の一連の動きを眺めていた。少年が喋りだすまで、次に落下する雪の塊を予想し目を凝らしていたが、ふいに窓に映った小鳥の影に気が散って、視線を向かいの少年に戻すと、かれは先ほどあげた童話集を抱えるように腕を乗せ、アークを凝視していた。

「マリーヌと結婚したくない。どうすればいい?」

 いつかはこうなるだろうという場面の実現にアークは思わず笑いかけたが、相手の顔が深刻なままだったため、堪えた。「きみとは結婚をしたくなくなった、と本人に言えばいいんじゃないかな?」

「本人に言ったって仕方ないよ。親同士で決めたことなのに」ハーシュメルトは机に突っ伏した。

「だったら、ウォールフォード邸で会食するときにでも言えばいいじゃないか、皆の前で。きみの誕生会のときなんか絶好の機会だったじゃないか、なぜ言わなかった。ぼくは少しだけ期待していたんだけどね」笑いながら言う。

「真剣に聞いてほしい。ぼくは本気なんだから」少年は伏せたまま責める。

「真剣だよ。セシルはそう言った」

 ハーシュメルトが顔をあげると、アークはからかうように笑いかけていた。むっとして文句を言おうとしたが、先にアークが口をひらいた。

「セシルが12かそれくらいの頃だったけど、やっぱり親同士でかれらの婚約を決めてしまったことがあってね。ある会食中に、セシルははじめから機嫌が悪かったけれど、突然席を立ってこう言った。ぼくはマリーヌとは結婚しない。そんなものは自分で決める、とね。面白かったよ。みんな真っ青な顔をしてかたまってしまった。マリーヌも気の強い子だから、セシルにそう言われたあと、わたしもごめんです、と言って部屋を出てしまった。まあ、そんなこともあったよ。ハーシュ、きみは皆から嫌われまいとしてひとの意見に流されすぎるんじゃないかな。それを非難するつもりはないけれど、きみがこうしたいと思うものはやはり、きみがそう主張しなければいけない。いまからでも遅くはないよ」


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