10-4b
少年は肘をついて不貞腐れながら聞いていたが、思うところがあるのか黙ってしまったので、アークは放っておき、窓の外の白い景色を眺めていた。
「キングをやめたいんだよ」
「国王に選ばれれば、やめられるだろう」アークはいまにも落ちそうな雪の塊を見ている。
「そうじゃない。国王になんてなりたくない」思いつめた表情のハーシュメルトはいまにも泣きそうになっていた。
「本気?」
「うん。でもアーク、きみは跡を継ぎたくないと言っていた。もしぼくが王位を辞退すれば、いったい誰が国王になる? 無理矢理きみに渡るのか? きみに迷惑をかけることになりはしない? アーク、なぜこんなことになった? ぼくは数年、ひとつの経験のために、ただの好奇心のためにアストレーヴに来ただけなのに、国王だなんて!」
「きみが誰もなしえなかったロスカへの報復を体現し、人気者になったからだよ、ハーシュ」アークは木の葉から塊が落ちたのをきっかけに立ち上がり、窓際へ移動した。「きみの前途はあかるいじゃないか。なぜ急にやめたくなった? そのままおとなしくまわりの言うことを聞いて、その通り動いていれば、道を踏み外すこともないだろう」
「その道を進みたくなくなった。サンセベリアへ帰りたい」
「天使と一緒に?」
「天使?」
疲れきった顔のハーシュメルトが振り向くと、アークは窓の外を指していた。そばへ寄り、外を覗き込むと、雪に埋もれた庭園の花の前でかがむルディアーノの姿が見えた。
「可憐だねえ」アークは空いた自分の席に座り、ハーシュメルトの様子を観察しはじめた。
「ルディアーノは美しいまま。でもぼくの魂は血でよごれている。どうすれば浄化できるの?」ハーシュメルトは窓にむかってつぶやいた。
「太陽教に入信して、神にでもすがるのだ」
アークが少年の反応を窺っていると、間髪を容れず睨まれた。声を立てて笑わぬよう気を紛らわせるため、アークは机の上の童話集を適当にひらき、そこに目を落とした。
「ふざけないでほしいな」少年はむくれている。
「意外だった」
「なにが」
「女の子のほうがきみに夢中になることはあっても、きみのほうが誰かに夢中になるとは思わなかった。きみの性格から、執念深さというものがいっさい感じられないからね。目的もなく、言われるがままキングになって、飽きれば帰りたい。そのときの気分で生きているような感じがしたから。手にはいらないのであれば潔くあきらめて、手放したものを見向きもせず、次の日には忘れ、運命に手引きされるがまま呑気に生きるような人間だと思ってた」
「手にはいらないわけじゃない。あの子はぼくのことが好きだ」ハーシュメルトは本を眺めるアークに言葉をぶつけた。
「すべてを捨てて、故郷に帰るのか」
「捨てるわけじゃない。もともとぼくが築き上げたものじゃあるまいし、ただ元に戻るだけだ。それに、ぼくはなにもいらない。ルディアーノのいない人生なんて、なんの意味もない。ぼくはあの子のために生きたい。アストレーヴの生活はたのしいけれど、ルディアーノにはそれ以上の価値がある。あの子はぼくのすべてだ。あの子がいなければ、ぼくはぼくとして成り立たない。ひとがその人生にひとつだけ与えられる宝玉があるとすれば、ルディアーノがぼくにとってのそれだ。あの子と語らう時間を何ものにも邪魔されたくないのだ。きみは理解できないと言いたそうだが、それでも構わない。ぼくの心に自然と沸き起こる情熱はぼくだけのものだ、知ってもらおうとはすこしも思わない」ハーシュメルトは興奮気味に捲したてた。
滅多に見られないハーシュメルトの頑なな態度にアークは感心した。「きみをそんなに魅了するルディアーノの魅力を知りたい、ぜひ聞かせてくれ」
「ルディアーノはうつくしい」ハーシュメルトはそれだけ伝えた。
「それはたしかだ。でもそれだけではあるまい。うつくしさとはそれだけでひとを心酔させるほどの魅力があるのはぼくも認める。けれどきみはさっき、ルディアーノには王都での生活以上の価値があると言った。その価値という部分にほんとうの魅力、きみの興味をそそるものがあるのではないかと思うのだが」
「ルディアーノについて話したくない。ぼくだけの宝玉をだれにも見せたくないからね」庭にいるルディアーノを見ていると心が落ち着いた。そして次第に強く降る雪に手をのばす、少女の優美な動作に心をうばわれたハーシュメルトは思わず、幼いころの記憶の棚から言葉を取り出し、「言うなれば、海の上の幻」と庭園の恋人にむかってつぶやいた。
「姿なき実像?」アークが反応する。
「虚像に浮かぶ虚構」
「非現実は現実?」
「真実を覆う架空」
「空想の果ての幻覚?」
「虚夢は虚無かもしれない」
「空に染まる虚空だね?」
「まやかしは空虚」
「足跡は海に残る。英知の歌声を聞く者は?」
「ぼくだけの秘密さ」
「隠された夢か」
「夢はぼくにしか見られない」
「まるでエルトリアみたいだな」
過去に何度も夢中になって読んだ、エルトリアの物語に書かれている、幻の世界を形容する言葉。当然アークは知っているだろう。だが、この表現を用いたからといって、ルディアーノの出生を明かすことにはならない。ただの言葉のやりとりでしかないのだから。
「架空の世界だろ?」
屋敷に戻る恋人を目で追うハーシュメルトが浮ついた気持で返すと、アークは、「実在するよ。ロスカ神話に、エルトリアの記述がある」と言って、本棚へ移動した。
アークは取り出した本を机の上でひらいた。右の頁にはロスカ語の文章、左には絵図が描かれていた。
「読めるだろう? 読んでごらん」
本を差し出されたが、ハーシュメルトは咄嗟にロスカ語から目を背けた。
「闇に葬り去ったロスカ語を読むのは、ロスカを受けいれたようで抵抗があるか? さっきの童話集は読んでいたのに。まあいい、ロスカが統一される前の、昔の話だよ」アークはそう言って、読み始めた。「ロスカの大地に三つの王国があった。太陽の王国、月の王国、星の王国。太陽、月、星をそれぞれの神とするその国々は三神王国と呼ばれていた。三神王国は絶えず争いを続けていた。己が神こそ唯一という強い気持から。いつまでも続く争いのなか、突如、天から神が降りてきた。神はエルトリアから来たと告げると、選ばれたロスカの子に剣を与えた。剣を手にしたロスカの子は、神に見限られた二つの王国を滅ぼし、太陽の王となった」
ハーシュメルトは腕を組み、二つの窓のあいだの壁に寄りかかって、じっと聞いていた。「それだけ? じゃあ、ロスカの言う神が、エルトリア人ということ?」
「じつを言うと、わからない。神話なんて、ただの物語かもしれないし。けれどぼくは信じたい。それに、あると思っているほうがたのしいではないか。まぼろしと言われ、だれも発見できない大陸が実在するかもしれないなんて、浪漫があるよ。ねえ、きみはそう思わない?」
「ぼくも昔は信じてた」
「それとハーシュ、これを確認しておきたかった。この太陽の王というのが、いまのロスカ皇帝の祖先にあたるエリオス王のことだ」
「エリオス?」
「太陽の王国の時代から続く、王族の名だ」
あきらかに緊張し、言葉をうしなう少年にアークは問う。「知ってて手を下したか?」
ハーシュメルトは強張る顔を横に振る。「あとから名を聞いた。聞いてもぼくは知らなかった」
「そうか。まあ、それを知ったところで今更どうにもならないだろう。知ったからといって、態度を変えろというのもおかしな話だ。だが、かれはそれなりのひとだよ」アークはそう言って本を閉じようとした。
ハーシュメルトは前に進み、閉じかけた頁に手を置いた。ロスカの話を終わらせたくなかったのと、アークに適切な行動を示してもらいたいという、すがる気持からだった。
安易な考えに気恥ずかしくなったハーシュメルトが俯いたとき、左の頁にある絵図が目にはいった。うねる髪の人間が宙に浮いて身を屈め、たくさんの動物の牙を連ねた装飾品を腰からぶらさげ両手を差し出すロスカの少年に、剣を授ける場面が描かれていた。
どうやって話を切り出そうか思いあぐねていると、アークが絵図を指し、話かけてきた。「この手渡した剣がロスカの国宝と呼ばれている太陽神のことではないかと、ぼくは思うのだけれど」
なんの話かとハーシュメルトは一瞬混乱したが、以前グランディオたちからロスカの国宝について聞いた覚えはあった。そのときは興味をそそられ、あれこれと思い巡らしたが、結局なんの手がかりも掴めず、あらたな好奇心の種となりそうな情報も得られず、自然と情熱が消失してしまったものだ。
対照的にアークは気になるようで、ひとりで話を進めた。「これを見たとき、かれに尋ねてみようと思ったのだ。皇族であれば、国宝の姿くらい伝えられているだろうからね。ハーシュ、これがいまはセザンにあると言われているのは知ってる? これが太陽神とわかれば、発見への手がかりになるだろう。見てごらん、次の頁にその剣の外形が細かく描かれている」
他人にとって世紀の大発見であろうと、自分の心は踊らないだろう。アークの指摘通り、自分には物事への執着心がすくないのだ。飽きてしまった宝探しを、再び熱中して追求などしない。
そう思いながらめくった頁に描かれた、四方から見た剣の図を視界にいれると、ハーシュメルトは目を疑い、身を乗り出した。脳裏に粘着した靄がへばりつくような感覚に陥ったかれは、ひろげたままの本をさらおうとし、「アーク、この本を貸してくれない?」と切願した。
奇怪な願いに絶句するアークは少年の手から本をはずそうと、しずかに手をのばす。「きゅうにどうした? 断られるのを承知のうえでの頼みか? だめだよハーシュ、本は貸せない。理由は言ってあるはずだ、きみも理解しているだろう? なのになぜいきなり無茶を言う?」
「わかったうえでの頼みだよ、どうしてもお願い。絶対に汚したり、もちろん失くしたりなんてしない、雪がかからないよう袋に入れて持ち運ぶから」
「きみを信用していないわけじゃない。けれどだめだ、いくらきみの頼みでもこれだけは無理だ。せめて理由を言ってくれ、なぜ急に無茶な頼みをする? ここから持ち出さなければならない理由があるのか?」
ひどく怯えるように首を横に振り、少年はどうしても気になるのか、話の途中でも頁から目を離せなかった。「いまは言えない。なにも聞かないで、アーク。いずれ話すから。自分で解決しようと思っても、きっときみには相談してしまうと思うから。ほんとうにお願い、今日中に返すから」
「だめだ」
アークは本を閉じようとするが、ハーシュメルトに手をおさえられた。少年の目は頁にとらわれており、あまりにも切迫していたのでアークは手をさげた。
「心当たりがあるような態度だね?」
「ちがう!」少年は咄嗟に返す。「アーク、どうすれば貸してくれる? 無理を承知での頼みだ、代わりにぼくはきみのために働く。力になれることがあれば、なんでも協力する」
「じゃあルディアーノの秘密を明かせと言ったら、きみは明かすか?」
「ルディに秘密なんてない。ただぼくが秘密にしたがっているだけのことだ。理由はありきたりのものだ、大切なひとだからだよ。誰だって思うだろ? その恋人がほんとうに大切なら、ひとに情報を与えたくない、ほかのひとの思考のなかに存在させたくない。ルディアーノについて話したくないのはそれだけのことだ。秘密をつくって特別なものとしているだけだ」
「それなら」アークはハーシュメルトの手が本から離れたのを機に手をのばし、閉じた本を大切に抱えた。「ぼくの気持もわかるだろう。きみにとってルディアーノが大切なように、ぼくにとって大切なのは本だ。ルディアーノの一部を他人に渡したくないのと同じで、ぼくも本を手放したくない、例え一瞬でもね。ぼくの場合、ぼくの知らないところでよごされたり頁を折られたくないというのもあるけれど。この部屋でなら、いくらでも見てかまわない、きみならね、きみが粗雑な人間でないことはわかっているから。けれど、外に持ち出すのはどうしても嫌だ。理由を言えと言われても、嫌だからとしか言いようがない。ぼくがひとより少しばかり神経質だからという以外のなにものでもない。きみに意地悪をしたいわけではないが、嫌なものは嫌なのだ。ぼくの目に届かぬ場所にある本の心配に、悩む苦痛を味わいたくない、気が気でないのだ。それにハーシュ、これはドルレアン卿のものだ。又貸しなんてなおさらできない。どうしてもと言うなら、ぼくがドルレアン卿に返したあと、借りればいい」
そこまで言われては引き下がるほかなかった。ハーシュメルトはもう一度だけと頼み、絵図の頁をひろげてもらった。焦る気持を引きずって、勘違いであればと願いつつ自室へ戻ったが、紛れもない事実にハーシュメルトは寒気立つ。本に描かれていた剣は、目の前の壁に飾ってある剣と、まったく同じ形をしていたのだ。




