10-3
微量の雪が軽やかに舞う日、花束を持ったハーシュメルトは急ぎ足でドルレアン邸へむかった。
扉を開けたレイミーの、ハーシュメルトを見た最初の声。「あんた、今日がなんの日だかわかってる?」
ひとの容態を本気で心配するかのような、真剣な口調のレイミーを気にもせず、ハーシュメルトは、「わかってるよ」と言って玄関内に体をいれた。
「わかってるなら道をまちがえたのね。マリーヌの家は南通りよ。ここは北通り。さ、いってらっしゃい」レイミーはハーシュメルトを押し出した。
「待ってレイミー。そこへはもう行って来た。これをきみに持って来たんだ」ハーシュメルトは抱えていた花束をレイミーに渡す。
花束を受け取ったレイミーは、「どうもありがとう、じゃあまたね、ハーシュ。晴れて風がない日にでもまた遊びましょ」と言って扉を閉めかけた。
「待ってくれ」ハーシュメルトは閉まりかけの扉に手をかけ、「寒いから中へいれて」体を滑り込ませた。
レイミーは相手を不審な目で見つめる。「もう一度聞くわ、ハーシュ。今日がなんの日だかわかってる?」
「わかってるよ。おんなの子に花を贈る日だろ? だからこうしてレイミー、きみに持ってきたんだ」ハーシュメルトは満面の笑み。
「ええ、どうもありがとう。とってもうれしい、きれいな花ね、あなたからもらえるなんて光栄だわ、ほんとうに素敵、あなたってすばらしいわ」レイミーは一通り謝辞を述べ、「まだわたしに用がある?」と聞く。
「しばらくここにいていい? それともほかに予定がある?」
「簡単に断言はできないわ」
「じゃあもし、誰かがきみを誘いに花を持ってきたら、ぼくは速やかに帰るよ。邪魔をしては悪いからね。でもそれまでぼくを匿ってくれない? きょう頼れるのはきみだけなんだよ、レイミー頼む」
結局レイミーは渋りつつも招き入れたが、「誰かが来たらすぐに帰ってね。約束があるわけじゃないけど、誰かが来たらすぐに帰ってね」と繰り返していた。
居間にはいると食卓で茶を飲むヴァンクールがいたが、ハーシュメルトはその向かいに座るレイミーの母にだけあいさつし、そのほかは素通りしようと試みた。
ヴァンクールに声をかけられた気もするが、レイミーが遮る。「なにも見えないし、なにも聞こえないわ。もしなにか気配を感じるんだとしたら、それはただの亡霊よ。行きましょ、ハーシュ」
ハーシュメルトは腕を引っ張られ、階段をのぼる。よほどきらわれているヴァンクールをすこしだけ不憫に思ったかれは、こちらに対して物言う亡霊にかるく手をふって、レイミーについて行った。
レイミーは部屋の外を覗いていたが、どうやら亡霊は追ってきていないようなので、安心して扉をしめた。レイミーの部屋は2階の角にある6角形の部屋で、窓辺の机やガラス戸付きの本棚は黄色い塗装で彩られ、かわいらしい印象を与えた。とくに透かし模様の布地でできたベッドのカーテンは、彼女のお気に入りらしい。
「離婚したの?」ハーシュメルトは階下にいる亡霊の心配をした。
「まだよ。ひとまず落ち着いたの」
「落ち着いた? カミラさん受け入れたの?」
「ちがうわ。あのロスカ人はいまアークのところにいるの。つまり王宮で生活してるの。ハーシュ、適当に座って」レイミーは花瓶を取り出し、水差しにはいっていた水を注ぎ入れ、花束を挿した。「何日か前のことよ。アークが家に来たの。その帰りに門の外で締め出されている兄さんたちを見かけて保護したんですって。なに考えてるのかしら。きっとアークはやさしいから、兄さんが無理を言ったのを断りきれずに押し付けられたのね、きっとそうよ」
「アークがここに? 外に出るなんてめずらしいね」ハーシュメルトはこまかい花模様のソファに座る。
「パパに本を借りにきたみたい、あら」
扉を叩く音がしてレイミーが開けると、母親が盆にのせた茶と焼き菓子を持って入ってきた。母親はソファの前のテーブルに盆を置くと、せわしなくカップに茶を注いでいた。
「ハーシュメルトさん、娘を気遣ってくださって、ほんとうに光栄です。こんな日に娘はひとりなんです。友だちは多いんでしょうけれど、そればかり。こんなにわがままで騒々しくては将来が心配です。ハーシュメルトさん、もしものときはうちの娘を、ええ、何人目でも構いませんから、面倒を見てやってください。どうか、お願いします」
母親が喋るあいだ、レイミーは痛烈な視線で黙する抗議をしていた。「ママ、あとはわたしがやるからもう出て行って。わたしの心配より長男の心配をしてちょうだい。なんで毎日毎日ここへ来るのよ。兄さんの家は隣でしょ! ママ、ちゃんと言っておいてよ」そして母親を追いやって、扉をしめた。「ハーシュ、気を遣ってくれてありがとう。でもそれを飲んだらマリーヌのところへ行ってらっしゃい」
「もう行ったって」ハーシュメルトは焼き菓子をひとつ口にいれた。「花だけ渡して帰ろうとしたら、不審がってあとでぼくの屋敷へ来るみたいなこと言うから、いま帰りたくないんだよ。みんなも今日は予定があるし」
「匿うって、マリーヌからってこと? それになに? わたしだけが暇みたいな言い方。まあいいわ」そう言ってレイミーもソファに座り、茶を啜った。「この前言いかけた話、思い出したの」
「なんだっけ」
「アランの警告状の話。グランディオさんがそれを出すってことは、もうハーシュが国王になるって、密かに決まってるのかと思って。あれってほんとうはハーシュが出したの?」
「ぼくは知らないよ」
「そう? 最近みんなこの話ばっかりよ。もうアークのお父さまは亡くなっちゃってて、ハーシュが代行してるんじゃないかって。アークに聞こうと思ったけど、そんな話やっぱり本人には聞きにくいし、でもそうだとしてもハーシュだって誰にも言えないわよね。でもいつかはみんなに言ってくれるんでしょう?」
ハーシュメルトはゆっくり茶を飲みながら耳を傾け、「そのときがくればね」とひとごとのように答えた。
それからハーシュメルトはレイミーがテーブルに並べた様々な香水の瓶に埋めてある宝石について話したり、香りを楽しんでいた。レイミーもたくさん香水を持っていたが、誕生日にルディアーノから貰った香水と同じものは見当たらなかった。
「そういやレイミー、弟は? 家にいるなら呼んできなよ」
「いまいないの。兄さんがいるからパパと図書館に行ってる。あの子、あんたの信者なの、前にも言ったっけ? 目が悪くて変な癖があるからよくからかわれてたんだけど、わたしがハーシュと友だちだって知った途端、まわりの対応が変わったんですって。すごくよろこんでた。このまえハーシュが家に来てから毎日あんたの話ばっかりよ。ずっと応援するんですって、大変ね、有名人は」
レイミーが話をしていると、いきおいのある足音が聞こえ、扉を数回殴るような音がしたあと、「レイミー、入るぞ!」という声とともに現れたのはヴァンクールだった。
「いいって言う前に開けないでよ! 非常識よ!」レイミーはちかくにあったクッションを兄に投げつけた。
ヴァンクールは受け止めたクッションを脇にある椅子に置き、ソファに座るハーシュメルトの前に跪いた。「ハーシュメルトさま、どうしても伺いたいことがございます。お時間をいただけないでしょうか」
かしこまるヴァンクールを不気味に思いながらもハーシュメルトは、「ぼくはレイミーに用があって来たんだ。きみとは話したくない」と答えた。
ヴァンクールは顔を上げ、敢然として言いはなつ。「なぜ避けようとなさるのです。それは隠し事があるからですか!」
「なにが言いたい。きみの話はいつも唐突でよくわからない」ハーシュメルトはレイミーの手前、怒りを抑えて冷静に返した。
「レイミー、席をはずしてくれ」ヴァンクールは冷ややかに言う。
「ここはわたしの部屋です」レイミーは兄を睨みつける。
「大事な話だ、はずしてくれ」兄は部屋の外を指す。
「行かなくていいよ、ここはきみの部屋だ」ハーシュメルトは、渋々立ち上がろうとするレイミーを制止した。「話があるならぼくの屋敷へ来ればいいだろ。大体、休みの日に闘技会の話はしたくない。邪魔をしないでほしい」
「今後はそう致します。ですが、まずあなただけに伺いたい。事を荒立てたくないのです。レイミー、いいから出ていけ、部屋を貸せ」
ヴァンクールは妹の両肩を掴み、力ずくで部屋から追い出そうとした。その拍子に机の上の香水の瓶がいくつか倒れた。
「どうして! 自分の部屋だったところにでも行けば? 放してよ! 痛い! ママ、ママ!」
声を張り上げ階下の母親に助けを求めるレイミーを救うため、ハーシュメルトはヴァンクールに飛びついた。「ずいぶん乱暴じゃないか! なんだよ、話って。手短に言ってくれ」
ヴァンクールは廊下で母親に抱きついているおしゃべりな妹を気にして扉を閉めようとしたが、ひとつの行動を挟むことによってハーシュメルトの気が逸れるのを懸念したため、やむなくそのままにしておいた。
「ハーシュメルトさまの剣を拝見したいのです」
「屋敷にあるよ、見に来ればいいだろ」相手の意図が不明瞭なまま、ハーシュメルトは不機嫌に答えた。
「いえ、わたしではなく、エリオスに確認させたいのです」
「なんで?」訝しげに相手を見る。「それは嫌だ。そんなことに時間を割きたくない。なにを疑っている? 剣に細工なんかしてないぞ。そんなに見たいのなら試合の前、見に来ればいいだろ? もう15個揃ったんだから、闘技会が再開すれば試合をするんだ。そのときにしてくれ」
「細工? なんのことです?」
ちょうどそのとき階下から音がして、母親が見に行くと、ハーシュメルトの護衛のため外にいたテオジールが、屋内から聞こえたレイミーの緊迫した声を危ぶみ、様子を見にきたようだった。母親が事情を告げると、ヴァンクールはテオジールに呼び出され、説明を求められていた。
ハーシュメルトは、気が沈んでしまったレイミーをいたわる。「いつもあんなに乱暴なの?」
「手をあげたりはしないけど、声が大きいから怖いの。大嫌いよ、あんな奴」レイミーは堪えていた涙を拭い、部屋へ戻った。「ごめんね、ハーシュ。せっかく遊びに来てくれたのに」
「お父さんが帰ってくるまでいようか? テオジールもまだ下で話してるみたいだし。それにしてもなんで、きみさっき毎日って言ってたけど、そんなにここへ兄さんは来るの? 一応は解決したんだろ?」
「なんか探ってるみたいなのよね。パパに本を借りたがってた。この前アークが借りに来た本だと思うんだけど」レイミーは床にまで落ちてしまった香水の瓶を拾い集め、棚に戻しはじめた。
ハーシュメルトも手伝う。「アークが? 何の本?」
「神話の本って言ってた。けど兄さん、アークに貸してること知らないの。パパも鬱陶しがってろくに話をしないから。わたしも教えてやらない。だから毎日来ちゃうんだけど」
それからほどなくして父親たちが帰宅し、ハーシュメルトがドルレアン邸をあとにするころにはもう、ヴァンクールの姿はなかった。一気に疲れが押し寄せた少年は足早に屋敷へ戻り、その後は部屋でおとなしく過ごしていた。
就寝前、ハーシュメルトはあらかじめ用意していた花束を持って、ルディアーノの部屋を訪れた。花束を渡すとルディアーノは無垢な微笑みを見せ、花束を抱きしめ、やわらかい花弁に頬をよせた。
ハーシュメルトはルディアーノをベッドに座らせ、至極な宝石よりも麗しい少女の緑眼を、ながいあいだ見つめていた。真水のごとく透き通り、けがれのない少女の心をあらわすようなその潤った瞳は、少年を神聖な境地へいざなった。ハーシュメルトは少女を捕らえたまま物語る。
「若い詩人のパリウトは行方知れずになった恋人を探しに行ったんだ。幾日も幾日も探したけれど、見つけられなかった。ある日、天使の指先に導かれ、たどり着いた湖で、恋人メレイダの亡骸を見つけてしまう。詩人が哀愁を歌うとメレイダは天上へのぼり、星となった。別れを惜しみ、星にねがうと、パリウトも天上へのぼった。寄り添うふたつの星はパリウトとメレイダの星。ふたりは永遠に愛を語らい、星の吐息で色付けされた花は、のちにパルトメルダと呼ばれるようになった」
ルディアーノは黄と淡紅で彩られた花に目を落とし、ハーシュメルトに微笑みかけた。
「ロスカ神話さ。むかし、父さんから聞いたんだ。この花はもともとロスカに咲く花で、ずっと昔にセザンに持ち込まれたものなんだよ」
ルディアーノは、ハーシュメルトの髪をすくった自身の手のひらに唇を押しあてた。
「ルディ、ぼくは」少女の指を拾う。「償いをしたいと思っている。いくらセザンの法では赦されるとはいえ、罪は罪だ。このままでいいはずがない。償いの方法はまだ決めていないけれど、ぼくはどうすべきか毎日考えている。だから、ぼくがこの先どうなるかわからないのに、無責任にそばにいてくれとは言えない。すべて解決し、いざサンセベリアへ帰るとなるその日に、もう一度きみの気持を聞く」
ルディアーノはみずみずしい花弁に軽く触れ、ハーシュメルトの決意に耳を傾けていた。
「パルトメルダの、花言葉を知りたい」
少女の濁りのない声にいつも心洗われ、己が浄化される思いに至る。花弁に触れる少女の、暗闇から浮き上がるほどの白い指を見つめながら、ハーシュメルトは想いを告げる。
「夢。夢のなかでは永遠に、という意味が込められている。夢はけっして掴むことができないものだ。眺めることしかできない、憧れの彼方にある幻想。だれにも触れられたくない、ぼくだけの秘密。きみはぼくの夢だ。せめて、雪の降る季節のいまだけは、夢のようなひとときを恋人として過ごしたい。もちろん、きみがぼくを好きでいてくれればの話だけど」
顔をあげると少女も微笑み返した。
「きみが愛おしい。わずかな微笑みでさえも、一瞬のまばたきでさえも。きみが手に触れるすべてが特別なものとなる」ハーシュメルトは身を屈め、少女の抱える花束の花びらにやさしく口づけをした。
身を起こしたときにずれたハーシュメルトの肩掛けを直したあとで、「ハーシュさまの、絵を描きたい」と少女は囁いた。
黒檀の横笛を思わせる、甘く澄んだ少女の声音が心をかすめ、ハーシュメルトは目を潤ませる。「ぼくを描いてくれるの? それなら、闘技場のぼくの控え室ではどうかな? 最後のキングとしての思い出に、それとわかるような絵を描いてほしい」
ルディアーノが頷くと、かれは活気を取り戻し、満ち足りる朝を待ち焦がれながら就寝のあいさつをして、少女の部屋を出た。
ルディアーノはパルトメルダの花束を枕元に置き、もし一晩でしおれてしまっても、母から譲り受けた特別な力で精気を与えれば問題ないとし、ハーシュメルトの想いに寄り添うように、そのまま眠りについた。




