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庭へ行こうと自室を出たルディアーノが廊下を歩いていると、ただならぬ気配を放つハーシュメルトの姿が目にはいった。今朝まとめたはずの髪は乱れ、白いズボンには擦ったような汚れが目立つ。すぐに目が合うと手を取られ、そのままかれの部屋へ連れて行かれた。
ルディアーノを部屋へいれるとハーシュメルトは内鍵をかけ、無言のまま円卓の席へ腰をおろした。マリーヌの件があって以来かれはルディアーノを部屋へいれる際、日中に限りではあるが、かならず鍵をかけるようになっていた。これについてグランディオから小言を言われていたが、ハーシュメルトはあらためず、徹底していた。ルディアーノは、かれの行動の真意は問わずとも知っていた。グランディオの忠告はルディアーノにまで及んでいたが、ハーシュメルトには伝えなかった。
いつまで続くかわからないふたりだけの時間に、誰にも邪魔をされず身を寄せていたかったのはハーシュメルトだけではない。かれはキングをやめると言ってはいるが、そう簡単に状況が変わるなど、ルディアーノには思えなかった。かれも決心を口にしているが、本心は不安を感じているはずである。かれが国王に祭り上げられ結婚してしまえば、この安らかなふたりだけの時間はもう二度とかれらに微笑むことなく消滅するのだ。ルディアーノは、施錠によって現実から隔離された空間を錯覚しようとするハーシュメルトへの傾慕を秘匿していた。静寂な支配の中で己の存在そのものを奉呈するかのごとく、流れるままの時間共有に心地の良い悦びを感じていた。
それはさておき、こちらの都合も聞かず突然部屋へ連れ込んだわりに未だ用件も言わず一言も喋らないこの屋敷の主人を、ルディアーノは不思議そうに見つめていた。ひどく機嫌を損ねているようなかれに、なにかあったかと声をかけようとしたが、なにもなければこの状況にはならないのだと考え、ひとまずかれの気持が落ち着くまで待とうと、鏡台の引き出しから櫛を取り出した。鏡台には以前ルディアーノが贈った香水の瓶が置かれていた。中身は半分ほど減っていた。ルディアーノが庭を気にして時おり窓の外を見ながらハーシュメルトの髪を梳いていると、甘い香りが漂った。かれは毎日あの香水をつけていた。
どこかで派手に転倒でもしたのだろうか。前に、アーヴィンから聞いた話だが、かれはとにかく行儀のよい遊びを選ばず、定期的に騒ぎを起こしてはそのたびにテオジールからきつく叱られていたのだという。あるときは他人の庭の池で泳ぎ、別の日には訪ねた友人の家の2階の窓から侵入しようとし、足をすべらせ落下、また別の日には悪戯で建物の上階から道に粉を撒き、通行人を粉まみれにしてしまったのだとアーヴィンが面白おかしく教えてくれた。一方の話をそっくりそのまま鵜呑みにすべきではないが、叱られているくらいだからそれに近いような悪戯はおそらくしているのだろう。アーヴィンはこうも言っていた。「ルディアーノがこの屋敷へ来てからハーシュさまは分別という名のマントを手に入れた」それに対し同じ場にいたテオジールがこうつぶやいた。「体裁の生地に見栄の糸で繕ったもの」そして「裏地は欲望」とグランディオも続けていた。
しかしハーシュメルトによって生じた損害は、かれ自身の稼ぎから弁償されていた。ルディアーノはかれ本人からこの手の金額の話を聞いたことはないが、側近らの話だと倍以上の償いはしているようである。かれ特有の愛嬌に身を助ける効能があるのは言うまでもないが、その償いによって多少の悪戯は大目に見られ、闘技会くらいしか娯楽のないアストレーヴの住民たちの「退屈しのぎの話題に事欠かない状態」を自然とつくり上げているのだと、アーヴィンは感心していた。
髪を梳くルディアーノが、髪留めはどこへやったのだろうと思っていると、ハーシュメルトは左手に持っていた髪留めをそっと円卓へ置いた。ルディアーノはかれの髪を今朝と同じように左へ流し、筒状の髪留めで肩あたりの髪を固定し、残りは胸元へ垂らした。
ルディアーノがかれのそばを離れ、櫛に絡みついた髪を木箱で出来たくず入れに捨てていると、ようやくハーシュメルトは口をひらいた。
「ルディ、ぼくはしばらく家へ帰る」
「家へ?」ルディアーノは身を起こしてかれを見た。
「うん、父さんに話がある」ハーシュメルトは下をむいていた。
「いつ頃ですか、すぐ?」櫛をしまいながら聞く。
ハーシュメルトは返答を渋り、悩んでいるようだった。
「父さんがいるときでなければ。まず、手紙をだして確認してから」
「手紙? ハーシュさまのご実家はアストレーヴにあるのではないのですか?」
過去に父親の墓にいたハーシュメルトを見かけたときから、ルディアーノはかれを王都の人間だと思っていた。しかし側近たちとかれの幼小に関わる話をしていたとき、出自について訂正などされなかったが、いま思えば核心にふれる言い回しは避けられていたかもしれない。わざわざ手紙で在宅確認をしなければならないほど遠い地に住んでいるのだろうか。かれは家族に迷惑がかかるという理由で、自身について多くは明かせないと言っていた。前にウォールレストでかれの父親に会ったが、やはりそこに住んでいるのだろうか。かれはのちに父親の出身はアストレーヴだと言っていたが。
ルディアーノは返事を待った。ハーシュメルトは身動きひとつせず、その視線は何物も捉えていなかった。かれの不安が伝染するように、少女の心が揺らぐ。
緊張を解きほぐすよう深く一呼吸してから、ハーシュメルトは答えた。「ぼくの出身はサンセベリアだよ」
いままで大きな思い違いをしていたと、ルディアーノは気付いた。かれはこの豊かなアストレーヴで生まれ、明るく伸びやかに育ち、幼少のころにグランディオの目にとまり少年となった現在、その力を十分に発揮しているのだとばかり思っていた。どうりであの後いくら探しても、かれを見つけられなかったのだ。
不安が現実へと姿を変えぬようルディアーノは願いながら、かれの足元へひざまずいた。「ハーシュさま、お父さまは旅をしていらっしゃるのでしょう? いまどこに?」
白い花の蕾のように清らかな少女の手を握りしめたハーシュメルトは、痛々しい笑顔を無理矢理つくりながら、「前にウォールレストでそんな話をしたね。父さんは旅人なんかじゃない。あちこち行ってるというのは本当だけれど。ぼくの父さんは貿易商人さ」と言った。
いかなる告白を受けようとも、動揺してはいけない。かつて、自身の秘密を抱擁してくれたかれの秘密の痛みを、今度は自分が共有するのだ。ルディアーノはかれの手を両手で包み込んだ。
これですべて納得できた。少女は度々、リーズから告げられたかれのロスカ人への所行に悩まされていた。そのため、密偵のようなことまではしないが、側近たちにかれの過去、とくに知り合う前のかれの人柄などを探っていた。耳にする話はどれもルディアーノを失望させるものではなかったが、それゆえ疑問がふくらむ一方だった。ルディアーノもかれと多くの時を過ごし、かれの様々な機嫌、思考、態度を目にしてきたが、あの闘技場での一点を除いて、かれの残忍さが潜伏する微量な音すら聞いた覚えはなかった。
グランディオは言っていた。立場上、本意でなくてもしなければならないこともあると。この言葉はルディアーノの慰みとなっていた。なんとしてもかれに好意的な解釈をする必要があった。かれはルディアーノが秘密を打ち明けたただひとりの人間、愛するひと。愛しい者の正体が邪悪であり喜ぶ人間はいない。グランディオの言葉をもとに少女は、これはキングとしての責任なのだ、セザン人の潜在的な意識からくる特有の正義、人びとの期待に応えようとする努力、統率のための揺るぎなき権力の誇示なのだと思うようになった。
だがそれは違った。もっと個人的な、かれの根底にこびりつく復讐心が、かれの心を破壊したのだ。過ちの真の姿はルディアーノと同じ種類の涙を流したはずである。闘技場に立つ少年があの日手にしていたものは、制裁の剣だったのだ。
ルディアーノはハーシュメルトを見上げ、震える声に抵抗しながら最後の質問をする。「あの事件の、サンセベリアの商人一家というのは」
かれは円卓に肘をついた右手を額にあて、思い詰めているようだった。一瞬、かれの左手から力が伝わったため、ルディアーノは強く握り返した。
「そう、ぼくたちのことさ。隠していたわけではないんだけれど、言えなかった。ごめん」
ルディアーノは顔を伏せた。
ロスカ――この魔の言葉は少女を否応なしに悲痛な過去へ連れ去った。幼くして母を亡くし、きょうだいのいないルディアーノは父親だけが唯一の家族だった。死地に赴いた末の戦死ならば、まだ心構えくらいはできていたかもしれない。幼い少女は、いや、おとなたちにさえ海の向こうの他国の情勢を確実に把握することは可能であっただろうか。護衛が必要とされたのは、命の危険にさらされるからではない。どこの国にもいる無法者、盗賊、凶暴な異常者から、依頼者である商人の金品や身、そして高額な商品を守る程度のものである。続く内乱があったにせよ、僻地へ行くわけではない。行き先は帝都である。管理されているはずの大都市で、無慈悲で莫大な破壊活動がおこなわれるなどセザンでは考えられなかった。人びとはロスカの罠だと主張した。否定するならば、それほどの危険を隠していたロスカに非があるという意見は多かった。これにより、アーノルフィニ国王の信頼は地に落ちた。ロスカの情勢把握を怠ったこと、たとえ知らずとも危険なロスカへの渡航を許可したこと、そして報復に尻込みしたこと。
ロスカに旅立つ前の父親を思い出す度に、少女は苦痛に耐えなければならなかった。父はまだ見ぬ大陸に強いあこがれを抱いていた。念願の夢がついに叶う、と満面の笑みで幼いルディアーノを抱きしめ、目を輝かせていた。ロスカの仕打ちをだれが予想しただろう。セザンの友好の手をロスカは無残にも銃で撃ちぬいたのだ。セザンにはもう、差し出せる手は残っていない。




