8-1b
アランの仲間が一斉に笑い転げると、さすがのレイミーも涙がにじみ、声を詰まらせた。ハーシュメルトはレイミーの表情を見るまでもなく、顔に近づけた手を戻さない少年の服を掴んで階段の下へ引きずりおろし、投げ飛ばした。
「手を出したな、そっちがその気なら」即座にアランがハーシュメルトに掴みかかる。
「黙れ!」ハーシュメルトはアランを突き飛ばし、道に倒れている少年の胸ぐらを掴む。「なぜ弟のことまで言う! この場にいない者を笑うな! そもそも弟は関係ないだろう! レイミーに謝れ、そういうひとの傷つけ方は赦さない!」
すると、また別の少年が、「ひとの傷つけ方だと? 人殺しが言う言葉か!」となじった。
ハーシュメルトは一瞬はっとしたが、引き下がる気はなかった。かれはゆっくりと身を起こし、乱れた服を直し、高慢にも見える態度で、「セザンの法では赦される」と主張した。
少年たちは一変したハーシュメルトの顔つきにおののき、息を呑んだ。罪の意識という弱点をつき動揺を狙った攻撃のつもりだったが、かれの悪びれもしない態度に、闘技場の外で暮らす少年たちには到底知り得ない不気味な習慣のようなものを感じとったからだ。相手がロスカ人とはいえ生身の人間を殺すなど、そう易々と行えるものでもない。それを目の前にいる、自分たちと同年代の少年は人びとの前で優雅に、すこしのためらいもなくやってのけた。間違いなくキングは自分たちとは一線を画しており、それを踏み越えられる勇気ある者は、この場にいなかった。
だがアランは違った。無感覚なのかキングに勝つ見込みがあるのか、かれは重く異様な沈黙を破った。
「たしかにそうだ。あれは闘技場でのこと」アランは倒れた仲間を起こした。「それについて非難するつもりはない。死んだのはロスカ人だ。おれはおまえが嫌いだが、その点だけは評価する。だがロスカ人とはいえあんな狂気めいたことができる人間はそう多くない」ハーシュメルトの前に立ったアランは最後にこう付けくわえた。「さすが、人殺しの息子といったところか」
ハーシュメルトは不可解な相手の言葉に顔をしかめた。
「なんてことを言うの、アラン! それ以上一言でも喋ったら承知しないわよ!」レイミーはハーシュメルトをかばうようにアランの前に立ちはだかった。
「おまえも聞いていただろう、レイミー! こいつの母親はロスカ人だと!」
ハーシュメルトは頭に血がのぼり、暴言を吐いたアランの服を掴んで壁際に追い込んだ。「でたらめを言うな! ぼくの母さんはセザン人だ!」
「なにも知らないのか。父親は隠していたんだな! なら人殺しのことも知らないんだろう。父親はおまえの母親を殺したのさ、ロスカ人だからという理由で! おまえの父親はどこにいる? アストレーヴにはいないだろう? 追放されたのさ、罰として!」アランはほくそ笑んでいた。
「ばかげたことを言うな! ぼくの母さんは父さんに殺されてなどいない、ふざけるな!」ハーシュメルトはアランを思いきり地面へ叩きつけるように投げ飛ばす。「ただの悪戯では済まされないぞ、撤回しろ!」そして起き上がろうとしたアランに馬乗りになった。
いまにも殴りかかりそうなハーシュメルトを、ほかの少年たちはあわてて止めにいった。しかし、腕を取られながらもふたりの口論はおさまらない。
「撤回などするものか! 第一、おれの発言ではない、耳にした話を伝えているだけだ!」
「だれがそんな話を作り上げた、言え!」
「偉そうに指図するな!」
その言い草が癪に障ったハーシュメルトは、自分の体を押さえつけている少年たちの手を振りほどき、アランの髪を引っ掴んだ。
「待ってくれ、ハーシュメルト!」少年たちが一斉に叫ぶ。「アランもいい加減にしてくれ! キング相手に騒ぎを起こしてただで済むはずがない!」
少年たちのほうが周りをよく見ていた。ひとのすくない裏通りということもあって現時点では、勃発した喧嘩に道を埋めるほどの見物人がいるわけではないが、建物の窓から騒ぎを覗いたり、振り返りながら通りへ出る人間がちらほらいたのだ。結末の予想は容易である。
かれらは、もみ合うふたりを必死に止めようとした。少年たちの心にはもはや不安しかなかった。いまのハーシュメルトの知名度と期待ぶりは絶大なものだった。かれについての噂は善悪問わずアストレーヴを魅了していた。噂の真偽の判断は、かれとさほど親しくない者にとって非常に困難であった。かれの優美な顔にかすり傷ひとつでもつけようものなら、その者はただちに処刑され、その家族も王都から追放されるというような噂なら、王都にいればだれしも一度は耳にするだろう。また、かれの持ち物や衣装に故意に泥をつけ汚れさせた場合、その者の騎士または貴族の称号は永久に剥奪され、膨大な罰金を科せられ、家族ごと破滅させられるというものまであった。ハーシュメルト本人はそのようなばかげた噂をいちいち気にしていなかったが、キングの仲間ではないかれらに真偽を確かめる術はない。
少年たちのうちひとりが、恐怖に耐えきれずに口をひらいた。「この前、公開処刑があっただろう? あの犯人が処刑される寸前まで、きみの家族のことをずっと叫んでいたんだ。その場にいた皆聞いている、きみの仲間だって聞いたはずだ、ぼくたちが作り上げた噂ではないよ!」
少年たちに押さえられるハーシュメルトの動きがとまった。「いつのことだ」
「雨の日だ。いつだったか、雨の日に弟の家族を殺したという、事件があっただろう? あれだ」
ちょうどリーズをノーラルへ送り届ける日に公開処刑があったのを覚えている。見物人で馬車が出せなくなるからと、朝はやくグランディオに支度を急かされた日だ。その前日の事件だったか、報告されたような気もする。20日以上も前の事件だ。当時をよく思い出そうと地面に尻をつけたまま考えていると、いつのまにかいなくなっていたレイミーが、ウェルダーとアデルを連れてこの場に戻ってきた。
ハーシュメルトの身を案じ、かれらに助けを求めに行ったのだ。
「大丈夫か、ハーシュ」アデルが声をかけた。
「いい加減なこと言いやがって」ウェルダーが、汚れた服をはたいているアランをぶん殴った。
レイミーは足元に落ちている、こまかい模様が彫られた筒状の髪留めを拾って、ハーシュメルトに手渡した。暴れている際に外れてしまったのだろう。ハーシュメルトは渡された髪留めを左手に持ったまま、アデルの呼びかけにも反応せず黙り込んでいた。
背後であらたな騒ぎが起こる気配を感じたアデルが、すでに取っ組み合っているウェルダーとアランを止めに行った。
そのうちに、少年たちがある人影に気付いてアランに知らせると、かれらは一目散に逃げだした。
「なぜわたしを見て逃げるのでしょう」
ハーシュメルトを探していたグランディオが現れ、思いつめた表情で座る少年の両脇にうしろから手を入れて立ち上がらせたあと、汚れた服をはたいていた。「かれらは? 何があったんです?」この中では最も口を開きそうなレイミーに、グランディオはたずねる。
「わたしがアランたちと喧嘩してるのを、ハーシュが助けてくれたんです。わたしがいけないんです。グランディオさん、ハーシュを叱らないで」レイミーは無言で佇む友人のそばへ寄り、庇うように言った。
「そうですか、わかりました。レイミーさん、わたしはハーシュさまを叱ったことなど一度もありませんよ」グランディオは丁寧に言い、「ハーシュさま、屋敷へお戻りください。テオジールさんが怒っていますから」少年の背中に手を当てた。
屋敷に戻るまでのあいだハーシュメルトは一言も口をきかず、グランディオもまた、足早に歩く少年に話しかけなかった。その姿を見かけた人びとがハーシュメルトへ声をかけようとしたが、すぐうしろで監視するように歩くグランディオ・ルードベックにその気を奪われていた。少年のむくれた顔と側近のすました顔に、険悪な雰囲気を読み取ったからである。人びとの多くは両者間にある張り詰めた空気の原因は知らずとも、少年のほうに同情をよせた。キングであるのはかれだとしても主導権を握るのはルードベックだと知る者は、あの少年がなんらかの理由でいまから叱責されるのではないかと憐れんだのだ。
そんな人びとの情けの目に応える余裕もなく、ハーシュメルトは薄日がさすアストレーヴの大通りを、冷たい風に髪が乱れるのもそのままに、ひたすら突き進んで行った。
屋敷に帰ったハーシュメルトが、背後で扉を閉めるグランディオに、「なぜ黙っていた!」といきなり責め立てた。
「何をです? それより、図書館へ行くとうそをついて町へ行くのはやめてください。あなたの姿が消えたのかと心配しますから」
「いいじゃないか、すこしくらい! 大体ちいさな子どもじゃないんだ、町へまで付いてこなくていいよ!」ハーシュメルトは、はぐらかされた苛立ちと日ごろの不満から憤慨して言った。
「ちいさくなくても子どもでしょう。あなたのお父さまから大切な一人息子をあずかっているのです。鬱陶しくたって付いて行きますよ。何かあってからでは遅い」
「保護者気取りはやめてくれ!」ハーシュメルトは手を払い、過剰な世話を退けるようなしぐさをした。
「気取ってはいません、そのつもりです」
「そのわりに肝心なことは教えてくれないんだな」少年は睨みつける。
「なんのことです?」
「最近ぼくの家族について、ずいぶんな噂が出回っているみたいじゃないか。きみも知っているはずだ、なぜぼくに言わなかった」
「いまに始まったことではないでしょう。ただの噂話をいちいち報告してどうするのです、きりがないですよ」落ち着いた普段の口調でグランディオは言う。
「今回はただの噂じゃない。ぼくの家族への侮辱だろう!」そこでハーシュメルトは以前ルディアーノから聞いたヴァンクールの話に気をとられ、言葉をきった。
ちょうどそのとき玄関の扉が開き、中にはいってきたテオジールが、「行き違いか」と、押し黙っている少年を見て言った。
黙ってむくれているハーシュメルトの頬に、テオジールはこぶしで触れる。「図書館にいたというわりには顔が冷たいな」
ハーシュメルトがその手を払いのけるとテオジールは、「なにを怒っている。外にまで聞こえるぞ」とたしなめた。
「ハーシュさまは機嫌が悪いようですよ。ちょっとした噂を聞き流せないほど神経過敏になっています。寒さのせいでしょう」グランディオが伝える。
「もう部屋へ戻りなさい。それと、外へ出るときは声をかけるように。噂ごときに冷静さを失うなど情けない」テオジールは少年の背中をおした。
「待ってよ」ハーシュメルトは立ち去ろうとするおとなたちに言った。「テオジール、きみも知っていたのか? ぼくの両親への中傷のはなしだ! 知っていたんだろう? 知っていてなぜ教えてくれなかった」
「くだらん噂だろう。いちいち真に受けるな」
「噂じゃない、侮辱だ! 母さんが父さんに殺されただなんて、一番言われたくない! きみたちだって知っているくせに! アストレーヴでの噂なんていずれぼくの耳にはいってしまうのに、なぜ言っておいてくれなかったんだ。黙っておかねばならない理由でもあるのか! なにかぼくの知らないことでもあるのか? グランディオ、さっきぼくを一人息子だと言ったな、本当にぼくは一人息子か? 前に不可解なことをヴァンクールに聞かれた。聞いたのはルディだけど、ぼくに教えてくれた。ぼくには妹がいるみたいじゃないか。かつていたことも、死別したわけでもない、ぼくはずっと一人子なのにさ! なぜそんなことを聞かれる? きみたちはなにか知っているんだろう? ずっとアストレーヴにいたんだから。教えてくれ、父さんは誰かを殺したのか? なにかあるんだろう? でなければ、こんな謂れのない話に2度も出くわすはずがない!」
「我々はなにも知りませんよ。アストレーヴにいるからといって、住人すべての事情まで把握していません」グランディオは怒りで興奮する少年の肩に手を置いた。
「いいさ、なら父さんに聞いてくる。どのみちヴァンクールの話をされたときに、聞いてみようと思ってはいたんだ」ハーシュメルトはグランディオの手を払い、階段を駆けのぼった。




