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リーズをノーラルへ送り届けてからいくらか経過したある休日の昼、ハーシュメルトはベリンダの店の前に3つほど置かれた木製の丸椅子に、壁を背もたれにして放心状態で座っていた。半地下にあるベリンダの店はまだ開いておらず、道を歩くひとの視線より低い位置にいるハーシュメルトはいまのところ誰にも気付かれることなく、静かに運命に身を任せていた。
やがて店の上階に住んでいるベリンダが建物の外付けの階段を降りていると、孤独な少年の姿が目に映った。ベリンダの心にわずかな幸福が訪れ、引き寄せられるかのように少年の隣の椅子に腰かけた。
「ひとりでいるなんてめずらしいわね。だれかと待ち合わせ?」ベリンダは少年の顔を覗く。
「ああ、ベリンダさん。待ち合わせというか、ひとを待っていたんです。それはベリンダさん、あなたのことなんですけれど」少年の鼻は寒さで赤くなっていた。
「わたしに用があるの? うれしいわ」
「はい、用と言いますか、お願いがあるんです」ハーシュメルトは姿勢を正した。
「いいわよ、わたしにできることなら。なんでも言ってちょうだい」と言って、隣に座る子どもの可愛らしい頬を軽くつついた。
「ああ! でもやっぱり!」少年は両手で顔を覆った。「こんなことを言ったらぼく、怒られるかもしれない」
急に恥じらいを見せた少年のしぐさに心をくすぐられた女店主は笑いだす。「どうしたの? 言い出しにくいことかしら? もしかしてお酒でも飲みたいの? 最近、アデルばかりずるいってみんな言うようになったわね。あの子はもう18だもの。王子さまはまだだめよ、あと1年待ってちょうだい」
ハーシュメルトは顔から手をはずし、体ごとベリンダのほうをむく。「違うんです、そのことではありません!」かなり近い距離にいるため、膝が相手の脚に触れた。
「いったいどうしたって言うの? なんでも言ってくれてかまわないのよ。あなたの力になれることがうれしいんだから。わたしは助けられてばかり、いえ、なんでもないわ。とにかく、言ってくれないことには始まらないわ」
ベリンダは左手をハーシュメルトの頬に添えた。ながいこと待っていたのだろうか、その頬は氷のように冷たくなっていた。
「じゃあ言います」ハーシュメルトは頬に添えられた温かいベリンダの手をとり、両手で握りしめた。「ベリンダさん、ぼくはもう耐えられない。身も心も冷えきってるんです。ぼくの手は冷たいでしょう? さむくて仕方ないんです。ベリンダさん、このコート暖かそうですね。すこしでいいんです、ほんのすこしで。どうかこの憐れなぼくを温めてくれませんか」悲痛な表情をつくりながら、少年はベリンダの前開きの毛皮のコートの中に侵入させた手を、背中にまわした。
ベリンダは相手の意を汲んで、自分の胸にうずまる少年をやさしく抱きしめた。15歳でキングとなってから約2年、自由もなくグランディオのような冷淡な――すくなくともベリンダの目には冷淡に映る――男にこき使われ、見世物となって人びとの娯楽のために働く生活に心身ともに疲弊し、きっとだれかに甘えたくなったのだろう。
これくらいたやすいことである。死んだ母親が残した借金に苦しんでいたベリンダは、ある頃からグランディオの援助を受けていた。あの男は、渡す金は自分の稼ぎからだと言っているが、少年が各地の闘技場で稼いだ金に違いない。ハーシュメルトが試合に出なくても、ただ観戦目的で王座に座ってさえいれば、かれの姿を見るためだけに客が押し寄せる。観戦料のいくらかは国に納めているらしいが、それでも多くの金がキングの手元に残るという話をあの男はしていた。金がハーシュメルトのものだと思う理由はほかにもあった。あの男が金を持ってくるようになったのは、この子どもがキングとなってからのことだった。そのうえ、金を渡すかわりにアストレーヴに沸く様々な情報を要求したのだ。あの男は他人に無償で慈悲をかけるような男ではない。平気で嘘をつき、必要であればどんなものでも利用するのだ――というのがベリンダの意見だった。
ベリンダは少年の心が満たされるまで身を寄せていようと思った。が、それにしてもいつまでうずめているつもりか? ベリンダは驚かせようと胸を思い切り少年の顔に押し当ててみた。しかしかれは反応せず、微動だにしなかった。何ごとか。表情を見ようとベリンダはすこしだけのけぞってみたが、少年の顔にかかる髪のせいで、読み取れなかった。
さてどうしたものかと考えていると、通りのほうから少年たちの騒ぐ声がした。
「ふざけるな! ハーシュを引きはがせ!」
少年のひとりが叫ぶと、かれらはハーシュメルトをベリンダの体からはがした。
「待って、もうちょっと!」と言ったが、ハーシュメルトは少年たちに拘束され、通りまで連行された。
最初に指示をだしたウェルダー、そしてアデルがベリンダに詰め寄る。
「ベリンダさん、ハーシュだけずるい、おれだって寒いです!」とウェルダー。
「ぼくだって!」続けてアデル。
ベリンダは階段の上にいる拘束された少年と、目の前のふたりの少年を呆れたように交互に見て悟り、かれらの悪戯に付き合った。
「あなたたちはだめよ。あの子は特別だもの」
ベリンダはハーシュメルトに聞こえるように言い、目が合うとかれははにかむように笑った。
「特別扱いなんてずるい!」ウェルダーが言う。
「ハーシュは特別扱いを嫌う人間ですよ!」そしてアデル。
ふたりの文句が続いたためベリンダは、「キングの特権よ。同じことをしてほしかったら、あなたたちもキングになってみなさい。ほら、わたしは買い出しに行くから、遊んでらっしゃい」と適当にあしらった。
かれらはその後、ベリンダの店と同じ通りにある飲食店の店外のテーブル席で、軽い食事をしながら話し合っていた。
「それで? ハーシュ」
ウェルダーが確かめると、向かいの席で茶を啜っていたハーシュメルトが得意げに頷いた。
「どうする?」アデルが眉間にしわを寄せ、ウェルダーに聞く。
「どうするもなにも、キングになるしかねえだろ!」ウェルダーはテーブルを叩いた。
かれらは普段通りの休日を楽しく過ごしていた。
「で、どうだった?」
真剣な眼差しのアデルにハーシュメルトは、「全部本物だった。いつ怒られるかと冷や冷やしたよ。気付かれなかったのかな? とにかくレイミーとは違って、詰めているようなことはない、全部本物」と答えた。
すると突然かれらの表情が固まり、異変に気付いて振り向くと、そこには目に涙をうかべたレイミーがハーシュメルトを睨みつけていた。
「やあ、レイミー!」ハーシュメルトは咄嗟に立ち上がり、「こんなところで会うなんて奇遇だね。まあ座りなよ」と言って自分が座っていた椅子を引いた。
「あんたたちはいつもばかなことばかりして!」レイミーが叫ぶ。
「レイミー、なんだってそんな怒るんだ。胸のことは自分で言ってたじゃないか。べつに笑い話にしていたわけじゃないぞ」ウェルダーが身を乗り出して言う。
「知らない、知らない! わたしがどんな気でいるかも知らないで、ハーシュはなんでそんなに呑気でいられるの!」
レイミーは泣き出して、走り去ってしまった。
「どうしたって言うんだ。普段こんなことで泣いたりしないくせに。レイミー最近なにかあったの?」ハーシュメルトは友人たちにたずねた。
「わからない。きみに言われて傷ついたんじゃないか? ハーシュ、きみに怒っているようだったし」
「ぼく?」ハーシュメルトはアデルに聞き返す。「アデルの前で言ったことがまずかったのかな」
「とにかくハーシュ、きみが行くんだ。おそらくそういうことだと思うんだけど」アデルが言う。
「そういうこと? 意味がわからない」とハーシュメルト。
「レイミーはハーシュが呑気だと怒っていた。きみが話を聞いたほうがいいんじゃないか? とにかく、だれかは行かないと」とウェルダーが言う。
「わかったよ、行ってくるよ。怒られるのかな」ハーシュメルトは憂鬱につぶやいた。
「とりあえず任せたよ、ハーシュ。収拾がつかなければぼくが行こう」
そう言うアデルの言葉を聞いて、ハーシュメルトはレイミーを追った。
レイミーがどこかの路地へはいって行ったのは見ていた。どの辺りであっただろうか、ハーシュメルトはひとつひとつ横道をのぞき、小走りで探していた。アストレーヴの路地裏をひとりで探すのは大変だと思いながら通りを進んでいると、近くの路地の奥から少年たちとレイミーの言い争う声が聞こえた。激情にかられたレイミーの叫び声に、ただごとではないと危険を感じたハーシュメルトは、声のするほうへ急いだ。路地から狭い小路を左に曲がり、商店街の裏通りへはいると、その先にある建物の外付けの階段にたむろしている5、6人の少年たちを相手にレイミーはひとりで奮闘していた。勇ましいことにレイミーは、男の子の胸ぐらを掴んで激しく怒り、数回殴りかかっていたが、差し当たり少年たちに人並みの分別があるのか、わめき返す者はいても手を出す者がいなかったのは幸いだった。
「なにがあったんだ、レイミー」ハーシュメルトはレイミーの肩を掴んで少年たちから離した。「きみたちはずいぶん粗暴だな。女の子ひとり相手に騒ぐなんてみっともないぞ」
少年たちの顔を一通り確かめると、そこには予想通り、以前広場で決闘したアランがいた。当初からこのアランとウェルダーは折り合いが悪く、ウェルダーの仲間になった時点でハーシュメルトはアランから敵と見做されていた。
「おれたちはここで話をしていただけなのに、レイミーの奴がいきなり突っかかってきたんだ。犬よりうるさい奴だ。おまえらいつも一緒にいるんだから、ちゃんと躾けておけよ」
アランが言うと、少年たちはばかにするように笑った。
「粗野な言い方しかできないのか? なにもないのにレイミーがいきなり怒るわけないだろ。レイミー、なにを言われた?」
ハーシュメルトが聞くとレイミーの顔は赤くなり、口をつぐみ、体は怒りで震えていた。
「言ってやれよ、レイミー。おれたちがなにを話していたか、教えてやれ」アランは意地悪く笑って言った。
「もういい! 行こう、ハーシュ! こんな奴らと話してると頭がおかしくなりそう!」
レイミーがハーシュメルトの腕をひく。が、アランはすかさず追撃した。
「逃げるのか、ドルレアン家に生まれておきながらだらしがないな! こんな調子では、せっかくの名家もだらしない子どもたちのせいで衰えるのが目に見える!」
ハーシュメルトが言い返そうとした瞬間に、レイミーが、「なんですって!」とアランに飛び掛かろうとしたため、一先ず怪我をさせないようかれはレイミーを止めた。
「事実じゃないか」階段に座っていたアランは立ち上がり、数段下へおりてきた。「おまえの家も、父親までは立派だった。だが、兄ときたらロスカと手を組む反逆者、おまえは口ばかりで何の役にも立たない女」
アランに続けてべつの少年も加勢した。「弟はこれだしな!」と言ってひらいた両手を本に見立て、それを極度に自身の顔に近づけた。視力の弱いレイミーの弟が本を読むときに顔を近づける癖をからかうものである。「あれじゃ、騎士への道は閉ざされたようなものだ!」




