7-5
ヴァンクールたちとわかれたリーズはその後、王宮庭園で2冊の本を持ったハーシュメルトと出会っていた。
「おはようリーズ。散歩でもしてきたの?」朝遅くベッドから出た、甘美を秘めた気だるい微笑を見せる少年は、図書館から借りた本を手に屋敷に戻る途中だった。
「あんたいつも昼まで寝てるの?」リーズはまだ目覚めきれていない少年の横につく。
「まだ昼前だろ。いつもはもっと早いよ。きのうは疲れたから今日は特別。最近寒くなってきたよね。ぼく寒いの苦手なんだ。この時期は昼まで寝ていたいなあ。よく朝から散歩なんかできるね、リーズ、平気なの?」
屋敷に着いたハーシュメルトは扉を開け、リーズをなかにいれた。
「全然平気。動いてるほうが好き」
「そうなんだ、すばらしい」ハーシュメルトはそう言って、大玄関の大きな窓から空を覗く。「午後からどこか出かけようか。学区のほうはまだ行ってなかったね、案内するよ。でも雨が降りそうだね」
「ハーシュ、わたし聞きたいことあったんだ」
「じゃあぼくの部屋へ行こう。といってもきみがキングになれば、きみの部屋になるわけだけど」ハーシュメルトは大玄関の階段から2階へあがった。
ハーシュメルトの部屋にはいるとリーズはあまりの広さに絶句した。
「なに、このベッド。5人は寝られる」リーズは真っ先に目に付いた豪華なベッドの弾力を確かめていた。
「5人は無理だろ」ハーシュメルトは笑いながら円卓に本を置いた。
ベッドから離れたリーズがノーラルでは見たことのない鏡台を眺めたり、燃え盛る暖炉の炎を見つめたり、部屋の奥の衣裳部屋にある数々の高価な服を見てはしゃいでいるあいだ、ハーシュメルトは毛皮の上着を暖炉近くのソファにかけてそこへ座り、せわしなく動く来客を観察していた。
急に、壁にかけてある闘技会用の剣の前でリーズは足をとめた。ハーシュメルトは背もたれに肘をついて静かになったリーズを見ていたが、しばらくして暖炉の炎へ目を移した。
「キング、やめたがってる」
ハーシュメルトは突然の音に驚いて振り向いたが、リーズの視線は剣にむけられていた。
「うん、よくわかったね」ハーシュメルトは姿勢を戻した。
「わかるよ、あからさまだもん。敵となるはずのわたしを優遇したり、いろいろ教えてくれたり。引継ぎ作業みたいだもん」
暖炉の炎がやさしくはじける。
「聞きたかったことってそれ?」ハーシュメルトは笑みをうかべた。
「ちがう、でもそれも気になる。こんないいところに住めて、きれいな服も着られて、空腹にもならない。いつでも清潔にしていられる。こんなのノーラルじゃ考えられないよ、騎士でもない限り。なんでやめたがるの? 何でも手にはいるのに」
いつのまにかリーズはベッドに移動していた。
ハーシュメルトはクッションを抱え、ソファのひじ掛けを枕にして横になった。リーズはベッドの弾力を味わうべく座って跳ねながら、返事を待っていた。
「そうだね、大体のものは手にはいるけど、いまのままでは一番欲しいものだけが手にはいらない」
「そういうことか」リーズはうしろに倒れ、ベッドに寝そべった。「それがルディアーノってことか」
そう言うとすぐにソファのほうから頷く声がした。
「情けないだろ、こんな立場なのに考えてるのは好きな子のことだけさ。でも仕方ないだろ、ほかのことがもう何も手を付けられないんだから。どのみちぼくは騎士になるつもりもなかったし、数年でキングもやめるつもりだったんだ。もう十分楽しんだ。これからは、ぼくはぼく自身のために生きたいんだよ」
ハーシュメルトはクッションに顔をうずめた。自分に言い訳しているようにも聞こえた。
「情けないなんてわたし一言も言ってない。好きにすればいいじゃん。あんたがどうだろうとわたしのやることは変わらないから。ねえ、これ持ってみてもいい?」リーズはとび起きてまっすぐ進み、壁掛けの剣を指した。
「いいよ」
ハーシュメルトは顔をあげずに返事をした。そのままうとうとしていたが、雨は降りだしたであろうか、かれは身を起こして窓辺に立った。リーズはまだ手に持った剣を眺めていた。
「リーズ、結局ぼくになにを聞きたかったの?」灰色の空を背にハーシュメルトが聞く。
「ルディアーノのこと。でもだいたいわかったからもういい。剣、抜いてみてもいい?」
「いいよ、その剣気になるの? ルディのこと?」
「この赤いの、宝石?」
リーズは鍔に埋め込まれた赤い石を指した。「そう、ルディアーノのこと。あんた婚約者がいるみたいだけど、わたしてっきりそういうのがルディアーノだと思ってたから、おどろいたというか、あっちもこっちもいい身分だなというか。勝手にルディアーノがかわいそうだなって思っちゃっただけ。でもちがうみたいね、自由がないってところ?」
「まあね」
そう呟いてふたたび窓の外を見ると、庭でセシルと話すルディアーノがいた。セシルが楽器を弾くような身振りをしていることから、おそらく昨日の楽士たちの演奏について話しているのだろう。ルディアーノも時おり体を揺らし、歌っているようだった。
静かになった部屋に目を向けると、リーズはあの赤い宝石が気になるのか、いつまでも指先で触れていた。
「リーズ、なにか気になるの?」
リーズははっとしてハーシュメルトを見る。「これ、なんだろうと思って」
「ただの石だよ、飾りだろ? ねえ、今朝だれかに会った?」ハーシュメルトはふと、以前ヴァンクールがこの剣について知りたがっていたのを思い出した。
「ううん、誰にも」
ハーシュメルトとヴァンクールたちの敵対関係は想像できる。むやみに会ったなどと答えないほうが無難であるし、あれこれ聞かれるのも面倒である。それに、朝ヴァンクールたちと会ったことと、いまこの剣を見ていることは無関係だった。気のせいかもしれないが、この剣からなんとなく声が聞こえたような気がし、王都には田舎者には縁のない特殊な仕掛けがあるのかと気になっただけだった。
雨音が聞こえハーシュメルトが庭を見ると、ふたりの姿はもうなかった。
リーズは剣を鞘におさめ、元の位置に戻した。「なんか、生きてるみたい」
その言葉にハーシュメルトはぞっとした。「ただの剣だろ。どうしてそんなふうに思う?」
「わからない、何言ってるんだろう、わたし。なんとなくそう思っただけ」
リーズがそう答えたのは、剣から声がしたなど自分でも馬鹿げていると思い直したからだった。ここへ来るときも、庭園にはひとがちらほらいたのだ。外から聞こえた声だったのだろう。そう解決すると、リーズはこれ以上言及しなかった。
一方、ハーシュメルトは壁に掛けられた物言わぬ剣を注視していた。近頃この剣を手にするたびかれは気分が悪くなった。それは罪なき者を手に掛けてしまった自責の念のほかに、もっと恐ろしい力によって惑わしを受けているような錯覚に陥らないため、自身が無意識のうちに警鐘を鳴らしているのだと、かれは思っていた。
この剣について、いまあれこれと考えたくはない。ハーシュメルトも口を閉ざした。あの剣を意識することによって、心が支配されそうになる恐怖を避けたかったからだ。
「リーズ、雨が降ってきた。悪いけど、ぼくは今日一日屋敷で過ごすよ。昼食を済ませたら、皆でカードゲームでもしよう。雨の日はたまにそうやって過ごすんだ。ルールは教えてあげるよ」ハーシュメルトは丈のない室内靴に履きかえた。
「わたし、明日帰るよ」リーズは雨を見るため窓を開けた。
「もうすこしいればいいのに。リーズ、窓を開けないでくれ、寒い」
「暑いんだけど」渋々窓をしめる。「兄さんがひとりで心配だもん。それに、わたしだけこんな贅沢できない」
「わかった。残念だけど、明日ノーラルまで送るよ」ハーシュメルトは室内用の裾の長い上着を羽織る。
「ありがとうハーシュ。どんな理由であれ招待してくれて。楽しかったよ」
「すこしはセザンを好きになってくれた?」
「どうかな」一時かんがえてから、「悪人ばかりでないことはわかった」とリーズは言った。
ハーシュメルトは円卓に置いていた本を棚にしまいながら、寂し気に笑う。「ぼくは悪人かな?」
「すくなくとも王都では善人。でもあなたのしたことは赦されないことだと思う」
かれはリーズの意見に頷くだけだった。
リーズは続ける。「こればかりは反省すればいいってものでもない。でもセザンでは赦されるんだから、わたしがどうこう言うつもりはないよ、いまはね」自身がキングとなった暁にはかならずセザン人の性根を叩きのめしてやる、とリーズはかたく心に誓っていた。「わたしはハーシュのすべてが嫌いなわけじゃない。最初に会ったとき、なんていい奴なんだろうと思ってた。違反してたわたしを見逃してくれたうえに、出場も許してくれたんだから。けど、それもわたしがセザン人だからだよね。あんたはセザン人にはやさしいんだ。でもどうしても不思議で仕方ない。人種が違うだけで、どうしてそこまで冷たくできるの? ひとを憎むのだって力がいるのに。前に、大昔の戦争の恨みみたいなことを言ってたけど、ほんとうにそれだけが理由? わたしがセザンを嫌いになったみたいに、べつの理由があるの?」
ハーシュメルトはしまっていた本の背表紙を見つめたままだった。「なにもないよ。みなぼくを善く思いすぎてるだけさ。ぼくは善人なんかじゃない、ただそれだけだよ。リーズ、そろそろ昼食になるから部屋を出よう」そうしてリーズの肩に手を置き、「とにかくぼくは待ってるからね。いまさらやめるだなんて言わないでくれよ」冗談まじりに言った。
「そんなこと言わないけど、ハーシュ、わざと負けたりしないでよ? わたしそういうの嫌いだから」
「わかってるけど、ぼくが全力で戦ってもきみには勝てないよ。ぼくはきみみたいに仮徽章をいくつも持っているわけではないしね」
ふたりは食卓へ向かい、午後は屋敷で過ごした。この日は夜まで雨が降り、アストレーヴの喧騒を鎮めていた。




