7-2
南通りから横道をいくつか抜けた飲食店街のある通りの一角に、グランディオの従姉ベリンダが経営する酒場がある。この場所はハーシュメルトの友人たちのたまり場のひとつとなっていた。
半地下へ行く階段をおりて店の扉を開けると、短い通路がある。この通路の左側に上階へ行く階段があり、ハーシュメルトたちはベリンダの店に来るたびにこの階段の先に興味を示すのだが、そこは未成年は立ち入り禁止らしく、そのうえいくらかの支払いも必要な場所だという。子どもを追いはらうための適当な嘘だと思ったハーシュメルトは気まぐれに勝る本気で「ぼくが人数分支払いますから、行かせてください」とベリンダに直談判してみたことがあったが、そのときうしろで聞いていたテオジールにきつく叱られた。それ以来、階段の先の話は控えるようになったが、子どもたちは店にはいるたび、どうしても癖で左上方へ首をかたむけてしまうのだ。今日も同様ハーシュメルトは、ちらっと好奇心の先へあどけないしぐさをしていた。
その好奇心の階段を通り過ぎると、広い空間の正面にカウンター席が、左奥にはテーブル席がある。壁の上部に明り取りの窓があり自然光がはいるが、室内はすこし暗かった。
3人の若者が大きなテーブル席にいる友人たちと合流すると、グランディオがベリンダを呼び、「すこし外します」とグレンに告げた。
カウンターから出てきたベリンダは、子どもたちにとっての好奇心の階段をグランディオに続いてのぼる際、「ここにずっと立ってるの? なにか飲む?」とグレンに話しかけた。
「勤務中なので」
グレンが愛想よく断ると、「厳しいわね」ベリンダは微笑した。そして上階へ行き、いくつかの個室の並ぶ廊下を進みながらグランディオの背中に言葉をなげる。「いつも監視してるみたい。かわいそう」
「監視ではありません。護衛ですよ」グランディオは答えた。
かれらは一番奥の個室へはいり、静かに扉をしめた。部屋は狭く、シーツのない簡素なベッドがひとつ、奥に背の低い収納棚、その上には灰皿が置いてある。明り取りには小さな窓があるだけで、階下の酒場より薄暗かった。
「なんです、その髪の色は」グランディオは金髪だったはずのベリンダの黒い巻き髪を不快な目で見た。
「染めたの」ベリンダは階下から持ってきていた火のついた角灯を棚に置き、ベッドに座って足を組んだ。
「まるでロスカ人だな」
「なにそれ、べつにいいでしょ。アクリ人だってこういう色よ」不機嫌そうにベリンダはつぶやいた。「わたしは他人種に偏見なんてないの。特別好きでも嫌いでもない」
「気に入らないな」
「あなたが気に入らないのはわたしの髪の色じゃなくて、ウォールレストの教会でしょ? 自分が国王になれないからってあんな子どもを祭り上げて、思うようにしたいだけじゃない。戦争なんてやめてよ、何もかもなくなる」
グランディオは腰袋から貨幣を出し、ベリンダの脇へ置いてから、部屋にひとつだけある木製の丸椅子に座った。
「悪人ね。どうせこれも王子さまのお金でしょ」ベリンダは斜め向かいにいる相手を軽蔑するように言った。
「わたしのですよ。聞かせてください。ヴァンクール・ドルレアンはなにを嗅ぎまわっています?」
ベリンダはためらいながらも、足首まである裾の長い黒い上着から出した小袋へ貨幣をいれた。
「王子さまのことよ。でも騎士たちから孤立してるんですもの、協力者がいなくて苦戦してるみたいね。だからアストレーヴの住民にも聞き込みをしているわ。もちろん、かれの隣にはあのロスカ人がいるんだから、誰も話そうとしないみたいだけど。かれ、常に同行してるみたいね、まるでロスカ人の護衛だわ」
「ヴァンクールが太陽神派になったという噂は?」
「疑ってるひともいるけど、入信はしていないってレイミーは言ってるわ。かれがあそこまでロスカ人の肩入れをする理由はわからない。ただの馬鹿なのかもしれないっていう意見が大半よ、いまのところはね」ベリンダは棚から木箱を出し、中にはいっている巻き煙草を角灯の火に近づけた。
「それでかれはハーシュ君の何を知りたがっています?」
ベリンダは自身の貨幣入りの袋のなかを覗くと、無言で相手の前に手を差し出した。
「ずいぶん渡しましたが、足りません?」グランディオは煙草の煙を手で払っている。
「情報収集も楽じゃないのよ? それにわたしの弟の分。長いこと貸してあげたわよね? 店を手伝わせてるのに、人手が足りなくて大変だったの。わたしの弟の話目当てで来てくれるお客もいるんだし、あの子がいないと売り上げがさがるの。とにかくあの子は見てきたことをちゃんと覚えてるし、それを伝えるのも上手。ひとから話を聞きだすのもね。だから、王子さまの情報をクーラントで広めればいい宣伝になるんじゃないかって、あれ考えたのわたしなのよ? うまくいったでしょ? 王子さまのクーラントでの人気ぶりは、わたしも貢献してるの。情報って言ったって、評判を下げるような記事は書かせないわ。外見上のことだけで十分ですもの。髪型だったり、着てるもの、化粧の色、使ってる香水。それだけでクーラントのご婦人たちは大喜びですって! 同じ髪型にしてみたり、王子さまが使ってる香水やら石鹸やら同じものを使いたがったり。あの子、緑色が好きでしょう? いまクーラントで緑色が流行してるのも、王子さまの影響よ。緑色のスカーフにハンカチ、服も靴も、家の扉まで塗り替えたってひともいるみたい。あの子の髪型、ちょっと変わってて、両脇だけ短くそろえてるでしょ? あれってアクリのお姫さまを真似してるんですってね。カンザシ? なんていう髪留めを使ったり。他国の格好を取り入れるのって、あの子がはじめてじゃないかしら。いままでにいた? あの子は見た目もいいから何を着ても似合う。女の子みたいなしなやかな風貌だけど、それでいて闘技場の王なのよ! あの子は何もかもが新しい。それに頭もいいわ。外国語も話せるんですってね。きっとご両親が教養のあるかたたちなのね」
「ずいぶんくわしいね、ファンかな?」相手のちょっとした沈黙を見つけてグランディオは言った。
「ええそうよ。だってかわいいんですもの。最初あの子が王都に来たとき、あんな歳でキングになっただなんて、きっと生意気で小憎らしい子になると思ってたの。でもまったく違った。あの子、わたしに懐いてるの。見つけると遠くから手をふってくれたり、わざわざ駆け寄ってきてくれるの。誰に対してもそうよ? この前あるひとの家の前で王子さまを見たの。下にいるお友だちも一緒にいたけど、家の主人が壊れた扉の修理をしているのを手伝っていたわ。ほかにも、困ってるひとの重い荷物を運んであげたり、具合の悪いひとを担いでるのも見かけたことがある。あなたはそういうことを絶対にしない。とにかくわたしはあの子が好きよ。すこし前のロスカ人の公開処刑だって、本当はあなたが仕向けたんでしょ? あの子は純粋だから、もっともらしいことを言ったあなたを信じたのよ。そうに決まってる」言い終えるとベリンダは灰皿に煙草をのせた。
「そのわたしの評価は王都民共通のものですか?」グランディオは淡々と尋ねる。
「わたし個人のものよ」ベリンダは顔をそむけて、組んでいる足をぶらつかせた。
「教えてはくれませんか、ファンなら尚更。わたしはあなたの言う王子を守ることが仕事です。ヴァンクールを放っておけば、ハーシュ君が知らなくてもいいことを知ってしまう可能性もある。それによって傷つくのはかれでしょう。ヴァンクールはかれの何を知りたがっているんです?」そう言ってグランディオはいくらかの貨幣をベリンダの小袋に追加した。
「王子さまのお金よね?」ベリンダは冷ややかな目で従弟を見た。
「わたしのですよ」
「平気な顔で嘘をつく。そこが嫌われる原因なのよ」
ベリンダはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いたあと口を開いた。「家族構成よ。ねえ、あの子、妹がいるの?」
グランディオは表情を変えず、相手を見据えた。「さあ、知りませんね。一人子だったような気がしますが。ほかには?」
「父親の行方。出身はアストレーヴなのに、今はいないんでしょ、どこにいるの? まさか地下牢にいるなんてことはないでしょう?」ベリンダは恐る恐る聞いた。
「セザンのどこかにはいますよ。以前ウォールレストで見かけましたね。そのときハーシュ君も会っていますよ。なぜ地下牢だなんて言葉が出てくるんです、ベリンダ、だれから何を聞いた?」
「だれからってわけでもないんだけど、そういううわさを耳にしたから。あの子の父親……父親は、いいえ、なんでもない。ただの噂を鵜呑みにしてはいけないわ。あんなに人気者なんですもの、どこかにかならず妬む人間はいるのよ。評判を落とすためにありもしないことを流すんだわ。でもこれだけは確かめたい。グランディオ、あの子の母親のことよ、知ってるんでしょう? あの子の母親」ベリンダは貨幣袋の紐を落ち着きなく何度も縛りなおしていた。
「母親? 知りませんよ、お会いしたことがありません」
「そう、じゃあ知らないのね。でもそれがいいわ。知ったってどうせあなたの気分を害するだけだから」
「なんです? 気分を害するとは。会ったことはなくてもまったく知らないということでもありません。悪評のある人間ではないはずですが」
ベリンダはすぐには口を開けなかった。真実が世間に明るみになったとたん、多大な敵意がハーシュメルトに向けられるだろうと哀れんだからだ。しかし、このままうやむやに時を過ごすのは、耐えられなかった。
「あの子の母親、ロスカ人だって言うひとがいるみたいなんだけど」弱々しくベリンダはたずねた。
グランディオは一瞬耳を疑う。「まさか。かれの母親はセザン人ですよ。かれは母親似だそうですから。どこにもロスカの血ははいっていません、見た目でわかるでしょう。もちろん父親もセザン人です。かなり悪意のある噂ですね、出どころはどこです? わかったら教えてください」
グランディオはそう言うものの、ベリンダは不安だった。何度たずねたところでグランディオから同じ答えが返ってくる。それが真実なのか、それともキングを守るための嘘なのかベリンダには判断がつかなかったが、唯一の救いはハーシュメルトの容姿にあった。黄金色の髪と瞳、たしかにこれはセザン人の特徴をあらわす色だった。この色でさえあれば、たとえ事実がどうであろうと、かれがれっきとしたセザン人であることは疑いようのない真実となる。
ベリンダのあつめた情報はここまでだった。グランディオは切り上げ、子どもたちのいる階下へ戻った。子どもたちはあたらしく加わった仲間と力比べをして無邪気に盛り上がっていた。
陽の光が落ちる前、おとなたちはかれらを家に帰らせるため店の外へと促した。順に扉を抜けるときも、なにがかれらをそんなにも愉快な気分にさせるのか、かれらの時代にだけ存在する儚いよろこびを共有する情熱が、ベリンダの心を締め付けた。
「ベリンダさん、いつもありがとう、また来るね」
そう言って無垢な笑顔を見せるハーシュメルトを呼び戻し、本来ならかれのものであるはず――とベリンダが思っている袋の中身を返し「悪いおとなの道具になるんじゃないよ」と忠告し、正しい道へ導かなければ、という良心がベリンダのなかで揺れ動いたのは今回がはじめてではなかったが、この日もそう思い悩むだけで袋の中身を返すまでには至らなかった。
グランディオを責めておきながら、自分もハーシュメルトの人気の恩恵にあずかる悪人のひとりなのだ。そして都合よく、この罪悪感もやがて消えてしまう。感傷にひたるほど初々しくもない朽ちた心を酒に混ぜ、光の消えるころに訪れる客と、昨日と同じ顔で昨日と同じ会話をする。そうしてベリンダはいつものように夜に生き、すべてを忘れるように朝に眠る。町の目覚める声を思い出せないほど、ベリンダはもう何年もこうして生きていた。




