5-3b
ルディアーノは退室した。
体こそこの場に留まっていたが、ハーシュメルトの心はルディアーノを追いかけていた。彼女の心の痛みは手に取るようにわかったが、同じくらいかれも傷ついていた。立場を気にして愛する者を守れない己の非力さを、これほど痛感したことはない。そして身を守るためについた彼女の嘘が、互いを繋ぐ鉄の鎖を断ち切る斧となって振り落とされたのだ。かれは、その砕けた鎖がもう二度と修復できないのではないかという恐怖に陥っていた。
心を失い立ち尽くすハーシュメルトに、マリーヌは腕を組み声をかけた。「いつまで立たせておくつもり? わたしは歓迎されてないのかしら」
我にかえったハーシュメルトは無心でマリーヌをソファに座らせ、間を置いて自身も座った。「わざわざぼくをたずねて来るなんてめずらしいね」
「そうかしら? きょうはママに言われたから来たの。たまにはふたりで会うようにって。でも普段会食で顔を合わせてるんだから、それで十分だと思うんだけど」
「好きでもない男と婚約させられて、きみもかわいそうだな。後悔してないの?」
「あら、あなたのことは好きよ」マリーヌはにこりともせずそう言い、部屋の奥にかけてある絵を指した。「あなた、絵画に興味があるの?」
ハーシュメルトが、「まあね」と答えるとマリーヌは怪訝な顔になる。
「セシルにでも感化されたのかしら。悪い趣味ではないと思うけど、のめり込んで剣を捨てないでね」
肯定するようにハーシュメルトが頷いていると、使用人が盆にのせた茶を運んできた。ずいぶん早いなと思ったが、マリーヌが屋敷を訪れたときから支度はしていたのだろう。使用人が部屋を出るとハーシュメルトはカップに茶を注ぎ、盆に置いてある小型の器にいれられた細かい花びらを摘みで取り、「きみはいれる? ぼくはあまり好きじゃないんだけど」と聞いた。
「たくさんいれて。香りが増すのよ」
かれはマリーヌの希望通りの量をいれた。
「マリーヌ、これを飲んだら帰るんだ。結婚前の娘が男の部屋に長居してはよくない」かれはもっともらしいことを言って早くこの無駄な時間を終わらせ、取り掛かるべき本題へ意識を集中させたかったのだ。
マリーヌは飲んでいたカップを置く。「なにがいけないのかわからないわ。じきに結婚するのに」
「まだしてない」
マリーヌは急にハーシュメルトへ寄り添い、腕を体にまわした。かれは持っていた茶をこぼさぬよう咄嗟にカップをテーブルへ置いたあと、足を組んだ。
「いま頃にはもうしているはずよ。延期するよう申し出たのはあなたなんですってね。どうして?」
用件はこれか、母親に相手の真意を探ってくるよう言われたのか、とハーシュメルトは思いながら、自分の胸にぴったりとつくマリーヌの顔をやきもきして見ていた。
「あのロスカ人と決闘するまで環境を変えたくない」
「そんなに神経質になることはないわ。だって勝敗があなたの未来を変えるわけではないんだから」
喋るせいでわずかに動くマリーヌに耐えきれなくなったハーシュメルトは、指で彼女の顎を軽く浮かせて、「あざやかな赤だね、マリーヌ」と言った。白い上着を色で汚されたくなかったのだ。
「わたしの話、聞いてる?」マリーヌは眉をひそめる。
「聞いてるよ、急ぐ必要もないだろ。未来が変わらないんだったら」ハーシュメルトは赤く塗りたくられたマリーヌの唇から目を離した。
「ハーシュ、ちゃんと聞いて。わたしはあなたのこと好きよ。まだ14歳のときにいきなり婚約なんて決まって最初はびっくりしたけど、あなたはやさしいし、みんなにも好かれてる。わたしはあなたをちゃんと愛せる。でもあなたはわたしを愛せる?」
ハーシュメルトは手に取ったカップに残る茶の揺らぎを見ながら聞いていた。「さあ、ぼくには愛とか恋とかよくわからないな。もうすこし大人になったら自然とわかるようになるんだろうけど、いまはよくわからない」
かれの口調はやわらかく、最後は笑みを浮かべたが、マリーヌのカップについた赤い紅のあとはかれを不快にさせていた。
その後マリーヌを家まで送り、屋敷に戻ったハーシュメルトはルディアーノの部屋へ直行した。返答がなかったため断りを告げながら扉を開けたが、ルディアーノはいなかった。かれは落ち込みため息をつくも、ふと目にはいった花にすこしだけ救われた。入り口近くの棚の上にある花瓶には、かれが贈った「不変の愛」を伝えた花が煌々と咲き誇っていたのだ。あの後彼女が自室に戻ったかどうか定かではないが、もし戻ったうえでこの花を残しているのであれば、たとえわずかであっても赦されているような気がしたからである。
その日の夕食時もルディアーノは姿を見せなかった。グランディオに聞くと、体調が悪く、いまは自室で寝ているのだという。なにも聞かれたくなかったかれは平静を装って普段通り夕食を済ませたあと、ルディアーノに会いに行った。
いくら扉を叩いても返事がないのでしずかに扉をあけ、「ルディ、いるの?」と言ってランプを掲げた。棚に飾ってある花は昼のままだった。暗闇で視界が悪く、ルディアーノを確認できなかったため、ハーシュメルトは奥へ移動した。ベッドのふくらみを見つけたかれはそのそばへ腰をおろし、近くの小卓へランプを置いた。顔まで布団をかぶるその膨らみに手を乗せてルディアーノの名を呼ぶが、返答はない。もう一度名を呼んで布団をめくろうとしたが、内側から強い力で阻止された。ハーシュメルトはすこしだけ覗くルディアーノの頭を撫で、彼女を布団ごと抱きこむように体を寄せた。
ルディアーノのすすり泣く声が聞こえる。鎖が断ち切られたまま新しい日を迎えたくなかったハーシュメルトは胸の内を伝える。「ルディ、ぼくの気持はきみと出会った日からすこしも変わっていない。でも今のままではきみを幸せにできない。昼間、もう決めたことがあると話したよね? ぼくはキングをやめる。キングをやめれば婚約の話はなかったことになる。もちろん国王になんてならない。アークがなればいいんだ。だいたい、跡継ぎなんて息子に継がせるのが主流なんだから。ただ、あのふたりの問題があるからいますぐというわけにもいかないんだけど。きっと、雪の降る季節が過ぎたあとには片付くとおもう。正直に言うとぼくはあのふたり、ロスカ人とリーズには勝てないと思っている。自分で言うのは情けないけど、これは本心さ。でもそれだっていいんだ。ロスカ人が勝てばあいつの思うようにサンセベリアへ行かせて、リーズが勝てばそのまま彼女がキングになる。それでいいじゃないか。キングとしての生活も楽しかったけれど、もうたくさんだ。ぼくはきみとふたりでもっと堅実な生活がしたい。ただ、きみがキングとしてのぼくを好きなだけだったら、ぼくの願いは叶わないんだけれど。ねえルディ? そんなことはないと言って」
ハーシュメルトはルディアーノを覆う布団に顔をうずめ、反応を窺っていた。すすり泣く声は止んでいた。かれはおもむろに身を起こし、しばらくルディアーノの背中を布団越しにさすっていた。
「でもぼくはもう決めた。まだ誰にも言っていないけれど、言ったら何を言われるかわからないから、ふたりとの試合が済むまではいつも通り過ごすよ。それにまたしばらくノーラルへ行くことになる。あそこの領主を捕らえるんだ。危険だからきみはここにいて。リーズがセザン人を嫌う理由がわかったよ。彼女の父親は3年前に王宮騎士に殺されている。指示したのは領主だ。その後母親は自殺した。ぼくの知らないところでグランディオがひとを使って調べていたんだ。ぼくはもうグランディオたちがなにを考えているのかわからない。捕らえるのは領主と5人の王宮騎士だ。勝手にこんなことをして、アーノルフィニ家と亀裂がはいらなきゃいいんだけど、ぼくが何を言っても聞いてくれないんだ。ねえルディ、前にぼくの誕生日になにが欲しいか聞いてくれたことがあったね? もうすぐだから、いま答える。ぼくはきみの心が欲しい、ほかにはなにもいらないよ」
言い終えるとかれはルディアーノの頭に唇をのせた。そしてルディアーノが顔を見せるまで待っていたが、動く気配すらなかったため諦めてランプを手に取った。ゆっくりと立ち上がり、就寝を告げてみても、また、部屋を出る際「おやすみ」と言ってみても、最後に名を呼んでみても、やはり返事はなかった。




