5-2
そして10日ほど過ぎた晴天の日の午後、ルディアーノは町へ出た。自分の生まれ育った場所ではあるが、ひとりきりの外出は久しぶりだったので、目に映る景色がとても新鮮だった。ひと通りの多い場所を避けるため、王宮前の広場から王都の東の入り口まで直線にのびる大通りへは行かず、広場を左へ曲がった北の通りへむかった。北通り沿いに建ち並ぶ家はどれも大きく、名家の居住区となっていた。北通りの中頃にある道を左へ進んでいくと騎士区に出る。ルディアーノは幼少期に過ごしたこの通りの先を懐かしく思い、足をとめた。かつて育った風景を見てこようとしたとき、左側からひとの話し声と、門を開ける音が聞こえた。なにげなく音のするほうを見ていると、中からヴァンクール・ドルレアンとあのロスカ人が出てきた。ヴァンクールはしきりに喋りながら門をしめ、こちらに気付くようすはなかったがロスカ人と目が合ってしまった。ルディアーノは驚いてその場を走り去る。かれらを背にして走る少女の心には憎悪の影が滲んでいた。
打ち付ける鼓動が苦しくなり、走り疲れたルディアーノは父親の顔を思い出しながら、ある家の塀にもたれかかった。自分のくすんだ心を気にもかけずお構いなしに笑う晴天すら憎らしくなった。かなしみに耐えきれなくなったルディアーノは己の内にいる恋人の指先に触れ、助けを求めた。かれは微笑み少女を腕に抱き、やさしい言葉でなぐさめた。なにを迷う必要があるのだろう。困難が待ち受けていようとも、自分がもっとも求めているのはかれであり、かれを失うこと以上の絶望は存在しない。自分が手を差し出しさえすれば、かならずその手を取ってくれる。かれははじめからそうだったではないか。散ってしまったかもしれない花は、10日前の花によって勘違いであると証明されたではないか。
ルディアーノは2日後に帰ってくるハーシュメルトの部屋に飾る花を買って帰るため、北通りを引き返そうと決めた。遠くからでも目立つ騎士の青い外套はもう見当たらない。
歩き出そうとするとどこからか、伴奏に合わせて流れる弦の音がルディアーノの耳に届いた。音は、少女がもたれていた塀の家のなかから聞こえた。寂し気ななかにふとあらわれる、光を感じさせる穏やかな曲はルディアーノの心をとらえ、もっと明瞭に聴けるよう、門のところまで移動した。聴いていると心が震え、少女は涙を流した。演奏が終わっても、幻に浸りたかったルディアーノはしばしその場に佇んでいた。
突然扉の開く音がして振り向くと、玄関からセシルが駆け寄ってきた。
「ルディアーノ!」軽快に呼びかけるも、門の外に立つルディアーノに近づいた途端、セシルは深刻な顔になる。「泣いてるの? 悩みがあるなら聞こう」
ルディアーノは照れながら、音楽に感動していたと伝えると、セシルは感極まって家に招き入れた。2階建ての大きな屋敷のなかは生活の匂いが感じられず、家具もあまり置かれていなかった。所々古びてはいたが、それがかえって音の支配する幻想世界を助長した。光さす廊下を通り、部屋にはいると、来客に気付いたオリガが弦の音をとめルディアーノにあいさつした。
深緑の絨毯の上にある蓋つきの四角い打弦楽器がすぐルディアーノの目にはいった。セシルの伯父の遺品だという。窓にはカーテンもなく、本棚には一冊の本も置かれていなかった。ルディアーノは壁にかけられた大きな絵に惹かれた。作者は不明で、伯父の買った絵をそのまま残してあるらしい。絵には山の中腹に建つ城と城下町が描かれており、セシルにたずねたところ、これが以前王族の住んでいた城だと教えてくれた。
絵を見ているとオリガが口をひらいた。「ごめんなさい、ルディアーノ。セシルに無理矢理連れてこられたんでしょう?」
「ちがう、オリガ。ルディアーノはぼくたちの演奏を聴いて感動してくれたんだ。剣闘から流れるものは血であり、芸術は涙を流す。どちらが人類にとって有意義だろう」
演説するようにセシルが言うと、オリガは呆れ顔でルディアーノに笑いかけていた。
「ルディアーノになにか聴かせたい。あかるいのと暗いの、どっちが好み?」
セシルが聞くとルディアーノは先ほどの曲を希望した。
「いいね、あの曲は今度やるクーラントでの演奏会で弾くんだ。ひと前で練習できるのはいいことだ、ねえ、オリガ? さっそく始めよう」セシルは楽器の前に座った。
オリガは楽譜の散乱するテーブルの横にある上品な脚の肘掛け椅子にルディアーノを座らせ、セシルの脇に立った。セシルの固い音色の伴奏が始まり、遅れてオリガが旋律をのせる。ルディアーノの位置からはふたりの奏者の顔がよく見えた。ルディアーノの暮れ落ちる心情をあらわすように、奏者の表情も曲にあわせ悲愴の色を浮かべていた。ふたりは互いの目を見て調子を合わせる。形ないものが賢者の手によって生み出される。ふたりの息づかいや動作にルディアーノは、目には見えない生命力を感じていた。
曲の終盤はルディアーノが特に気に入った部分だった。絶望のなか手を伸ばし、希望の光に触れるか触れないか、といった場面が浮かび、混迷したうねりから抜け出した弦の高音が心を揺さぶる。ルディアーノは目元を拭い、すばらしい時をくれたふたりの音楽家に拍手を送った。
「この曲はセシルが作ったの?」余韻に浸りながらルディアーノは聞く。
「いや、これはオリガの先祖が残したものさ」
セシルが得意げに答えると、オリガはすかさず訂正した。「わたしの先祖かどうかはわからないわ。セシル、いい加減なことを言わないで。この曲はうんと昔にいた吟遊詩人が残した歌なの。たしかにわたしの家も昔は吟遊詩人だったみたいだけど、この作者と血が繋がってるかどうかまではわからないわ」
「とっても素敵。受け継がれた才能なのね」
「才能なんてないわ」オリガは自分を崇めるように見つめるルディアーノに言い、「この歌にはね、ちょっとかなしい意味があるのよ」楽器をテーブルに置いて窓をあけた。
ルディアーノがその意味を聞こうとしたが、セシルが制止した。「それより先にルディアーノの感想を聞きたい。きみはこの曲を聴いてなにを思い浮かべた?」
ルディアーノは少し考えてからこう答えた。「最初は闇が世界を覆っていたの。人びとは希望を求めて英雄を探した。そう考えたらわたしの頭に英雄が現れたの。ソルドよ。わたしはセザンの英雄ソルドの物語に音楽をのせたの。最初の寂し気な部分はこう。家族を奪われた幼い王子が乳母とともに逃げ、絶望に打ちひしがれる場面。中盤のあかるい調子になる部分は、王子がまだ英雄とは知らないソルドの背中に思いを託す場面。そして最後、ここはわたし、とっても大好き。セシルの力強い演奏も、オリガの伸びやかな弦の音も。ソルドの剣で闇を切り開いて、セザンは平和を取り戻すの。この曲、はじめはとてもかなしそうな曲なのに、なぜか最後は温かい気持になれるの。あとはもう何て言ったらいいかわからない。まだ頭の中で音が聞こえているみたい」
セシルはルディアーノの感想に目を輝かせ、時おりうなずきながら熱心に聞いていた。窓辺に立つオリガはセシルのようすを微笑ましく見ていた。
「すばらしい! ねえオリガ、ハーシュとは全然ちがう。こんなにすばらしい感想を聞けるとは思わなかった。ルディアーノ、どうもありがとう。ぼくはとてもうれしい」セシルは立ち上がってルディアーノに握手を求めた。
ルディアーノも席を立って手を差し出すが、心の内を披露しすぎたかと気恥ずかしくなり、「ほんとうはどういう歌だったの?」とオリガにたずねた。
「愛する者に残した歌よ。別れの歌なの」オリガは風に飛ばされそうになった楽譜を気にして窓をしめた。「この歌を詩人が歌ったのは自分の生きる最後の日。戦場で、大勢の敵軍の前で歌ったものなの。愛する者が家族なのか恋人なのか、誰に向けての歌だったのかはわからないけれど、そのひとのために歌ったんですって」
「わたしが思い描いたのとは真逆だわ。希望なんてどこにもない」ルディアーノは落胆して言った。
オリガは同調する。「わたしもはじめはあなたと同じように感じていたの。最後は温かい気持になるでしょう? 詩人はその後戦死してしまうのに、どういう心境で歌ったのかしらってずっと考えてた」
「自分の死を以て戦争が終わり、愛するひとが生き延びる悦びを歌ったんだろう。平和への希望もあるのかもしれない」セシルが言う。
「残されたほうはかなしいままだわ」オリガは大昔の詩人の愛した何者かに同情した。
「それはそうだろう。詩人だって本心はかなしいさ」セシルはオリガの背中をかるく叩くと再び楽器の椅子に腰かけた。「ところでルディアーノ、ハーシュはいまどれくらい芸術に興味を示してる? 最近姿を見ないんだけど」
「いまは剣闘ばかり」テーブルに寄りかかるルディアーノは心細い気持になった。
「そうなの? きみの描いた絵を部屋に飾ってるって嬉しそうに話してたけど」
「興味があるのは芸術じゃなくて、それを好きなルディアーノよ」セシルに続けてオリガが言うとルディアーノはか弱く微笑んだ。
「今度ハーシュと一緒にクーラントに来るといい。演奏会をやるんだ。きみが気に入ればかれもまた興味を持つだろうから」
ルディアーノはセシルの誘いに不安になり、「公の場だったらきっと、婚約者をつれて行くはず」心にしまっておくべき嫉妬心をつい、口にしてしまった。
セシルはふたりのあいだに起きたかすかな亀裂を知る由もないので、深く考えずに、「マリーヌ? それはないだろう。そもそもふたりでいるところを見たことがない」と笑っていた。
セシルの何気ない言葉に安心し、ルディアーノの心はいくらか軽くなった。そして、ハーシュメルトの興味が芸術に向かうための思索を一心不乱にオリガへ語るセシルに、「なぜそんなに芸術を知ってもらおうとするの?」とたずねた。
「ぼくは争いごとが嫌いなんだ」セシルはルディアーノに真剣な顔をむける。「ぼくには夢があってね、あの闘技場を借りて、そこで演奏会やら劇なんかをできたらいいなと思ってるんだ。そのために闘技場の主であるハーシュに興味を持ってもらわないと、許可してくれないだろう? じっさい何度か話はしたんだけど、興味がないと言って実現しなかった。でもルディアーノ、きみと会ってからハーシュは変わった。興味を示しだしたんだ。ぼくの案に耳を貸すようになった。もうすこしなんだよ、おそらくきみが言ってくれればハーシュは許可すると思う。もうこうなったらきみに頼むしかない。ルディアーノ! お願いだ! ハーシュに闘技場での芸術の催しを希望してくれないか!」
セシルは徐々に熱がはいり歩き回って熱弁し、しまいにはルディアーノの足元に跪いた。ルディアーノはびっくりしてオリガを見ると、呆れかえったように笑っていた。特段めずらしい行動ではないようである。
「無茶言わないで。急に言われてもルディアーノが困るじゃない」オリガはセシルの腕を取って立たせようとした。
「でもルディアーノ、すこしだけでも考えてはくれないか」セシルは立ち上がったが、諦めきれないようである。「ハーシュが芸術に関心をもてば、かならず国民もハーシュと同じ方向を見る。みんなかれが好きだからね。ぼくの考えは甘いかな? 戦争なんて反対なんだ、ぼくは。すばらしい絵画を観て、美しい音楽を聴いて、演劇に感動すれば、憎しみがいかにくだらないことか気付くと思うんだ。かれがキングでいるうちは闘技場を借りられればと思うけど、国王になれば――もう次の国王はハーシュに決まったようなものだからね――アストレーヴの周辺にでも建ててもらいたいんだ、美術館とか劇場をね! ああ、こんなことを言ったらばかにされるかもしれないけれど、ぼくは本気なんだ! ハーシュが国王になったらいつまでも頼むつもりさ」
ルディアーノは返答に困る。セシルの理想はルディアーノにとっても惹かれるものではあったが、ハーシュメルトに国王になどなってほしくなかったのだ。
「不謹慎よ、セシル。お父さまのことを考えて」オリガは険しい顔でセシルをたしなめた。
「わかってるさオリガ。別にハーシュの戴冠式を待ち望んでいるわけじゃない。でも父さんは長いこと危篤状態なんだ。覚悟はできているよ。それにハーシュはいい奴さ。過剰なところがあるときもあるけど、それは立場がそうさせているだけさ。国王になればきっと、いい方向にセザンを導いてくれる」
この点に関してオリガの心はセシルとは別の場所にあった。戦争を望まないのであれば、次期国王にふさわしいのはアークなのだ。たしかにハーシュメルトは人当たりのいい人間ではあるが、それはセザン人にたいしてのもの。あのロスカ人たちへの仕打ちを考えれば、かれが国王になればおおきな混乱が生まれるはずだとオリガは確信していた。さきのセシルの発言が本心かどうかオリガにはわからなかったが、ハーシュメルトの近くにいるルディアーノの前でこの話題を議論するつもりはなかった。
「ごめんなさい、ルディアーノ。セシルはすこし独りよがりなところがあるの。頼まれたからって無理に何かしようと思わなくていいのよ。もちろんわたしだって劇場を夢見る気持はあるけれど、ひとに無理強いはしたくないの」
ルディアーノは微笑み頷いた。「長居してしまってごめんなさい、練習中だったのでしょう? 素敵な曲を聴かせてくれてありがとう。また来てもいい?」
「もちろん。ずっとふたりで弾いてるのも飽きちゃうの。来てくれたら嬉しいわ。じつはあなたのことユリエラさんから聞いてるの。こんどぜひ、あなたの絵を見せてね」そう言ってオリガは差し出されたルディアーノの手をとった。
セシルもルディアーノと握手を交わし、「ハーシュの誕生会に、クーラントから楽士を呼ぼうと思ってる。きみもいるだろ? ぜひ楽しんでほしい」と言った。どうしてもハーシュメルトの関心を芸術へむけたい思いがひしひしと伝わってきた。




