5-1
名もなき種がそよ風とともにこの足元に落ち、あの朝の悪戯に舞う蝶に目覚めた新芽が希望の雨、清しい日光、優美な月の光によって育ちきった愛の花を、どうしていまさら摘みとれようか。咲き誇る花ばかりを見上げてこの手足に絡みつく葉に気付きもせず、いつのまにか形の定まった彫刻となってからではもう、愛の呪縛から逃れることなどできないのだ。
ルディアーノは早朝、届けられた橙色の花を花瓶ごと抱き寄せ、窓をはげしく打ちつける雨の音を聞きながらあの日の午後を思い出していた。ハーシュメルトの決心を告げられたあの日、かれの部屋を飛び出してから夕食までの時間、どうやっても拭いきれない嫌悪感の息の根をとめようともがいていた。ハーシュメルトの心を疑ったことは一度もないが、たとえ義務だとしても愛するひとが自分の見ず知らずの人間と生活をともにする、その事実は受け入れ難かった。自分がかれを見つめる時間同じだけかれの眼差しがほしかった。かれだけに触れるこの手と同じように、かれの手も自分だけに触れてほしかった。そうしてベッドに泣き崩れながらも、ある望みが頭を離れなかった。運命は変わらずとも、もう一度かれと向き合いそのやさしい胸にとびこみ「ごめんなさい、嫉妬していただけなの」と言えたらどれほど心が楽になったろうか。かなしみに暮れるなか、湧き出る都合の良い期待をとめられぬ自分を滑稽に思いながら待っていたが、扉を叩く音は聞こえてこなかった。疲れ果てながらついた食卓の沈んだ空気はかつて経験したことないほど重苦しく、だれひとり言葉を交わさず、皿に接触する金属の空虚な音が細かい棘となってルディアーノの心を刺した。食事中一度だけハーシュメルトの顔を見たが、泣きはらしたように痛々しいほど目を赤くしていた。その日の夜はかれの部屋へ行かなかった。この屋敷に来てからはじめてのことであったが、かれもルディアーノを呼びにこなかった。翌日の朝、最低限の務めは果たそうとお茶を用意し、ハーシュメルトを起こすため部屋を訪れた。目覚めたかれはルディアーノの顔色を窺うようにみつめたあと、礼を言ってお茶の置かれた窓際の円卓へ移動した。ルディアーノはできるだけ日常の行動を心掛け、ハーシュメルトの着る服を用意してから部屋をでようとしたところ、声をかけられこう詫びられた。「うかれていて、きみの心もまわりもよく見ていなかった」ルディアーノはそれに対して明確な返事は避けたが、かれが茶を飲み終えるまで部屋に留まった。
そして、日が経つにつれ徐々に会話も増え、態度も以前と変わらぬように戻っていったが、たがいに愛の言葉を口にすることはなかった。この頃からハーシュメルトたちが頻繁に屋敷をあける日が続いたため、ルディアーノはひとり庭へ出て絵を描くようになった。そしてあるとき、アークに声をかけられ依頼を受けた。本の挿絵の模写を頼まれたのだ。仕事として依頼したつもりだから報酬も受け取ってほしいとアークは言うが、ルディアーノは躊躇し、ハーシュメルトが帰宅した際相談したところ、かれは「報酬がすくなければ交渉してあげる」と言って絵を描くよう勧められたため、承諾した。
本を外に持ち出すのを嫌うアークの要望で、挿絵を描くときはかれの部屋へ行った。アークが部屋にいないときもあったが、いるときはたいてい静かに翻訳していた。ルディアーノが王宮に仕えている頃、水色に変化した髪をアークに見られたかもしれないと思うようなこともあったが、思い過ごしだったのか、それについてなにも聞かれなかった。おおくの時間をアークの部屋で過ごすにあたって突然の髪色の変化は気掛かりであったが、成長するにつれてその頻度は低くなっているのと、ハーシュメルトに受け入れられている安心感から以前ほど恐怖に支配されてはおらず、もし知られたときは驚かせてしまうかもしれないが潔く認め、ハーシュメルトと親しいアークにならば自己を開けはなしてもいいかと思うまでにはなっていたのだ。
アークの部屋にはよく歳の近いふたりの妹が訪れた。アーノルフィニ家の人間はみなおだやかで角立つところがなく、また、ひとを探るような卑俗な部分もなく爽快な人格の持ち主たちであった。妹たちが飲みかけのカップを持って、部屋の中央にあるテーブルで絵を描くルディアーノのそばに座ろうとし、アークから「それをこぼしたら悲惨」と注意されることが短時間のうちに3度続いたときは、さすがにルディアーノも声をたてて笑った。彼女らの華やかなドレスに引けをとらない賑やかな話し声は、鬱々とした曇り空を払いのけてくれる突風のようで、いまのルディアーノにとって心晴れるものだった。
ある日、弟セシルの奔放な生活を憂慮する会話をしていると噂をすれば影、セシルがアークの部屋を訪れて、せわしいようすで兄の本棚を漁り「このロスカ史書、借りるよ」と言いながら一冊の本を持ち出そうとしたことがあった。アークがあわてて制止すると、セシルは「ミシェルに読み聞かせてやるんだ。もうぼくの部屋で待ってる。まさか、貸してくれなかった、なんて残酷な台詞を言うはめになるとは思ってもみなかった!」と途方に暮れていた。アークはミシェルの名を聞くと、扱いにはくれぐれも注意するよう言い、本の持ち出しを許した。セシルの去り際姉たちは「遊んでばかりいないで」と声をかけたが、弟は「これは遊びじゃない。歴史の勉強さ」と言ってはぐらかし、颯爽と立ち去った。
ミシェルはアークたちのいまは亡き母親の妹の子どもだったが、ある事情で両親と離別し、アーノルフィニ家に養女として迎え入れられたのだという。ミシェルはアークに懐き、客人のいないときは頻繁にアークの部屋へ遊びにきているようだった。
また別の日、ルディアーノがアークの部屋でひとり挿絵を写していると、扉をたたくちいさな音がした。開けてみると幼い子どもが立っていた。当然アークが顔を出すと思っていたのだろう、幼い子どもは見知らぬ人間にひどく動揺したようすであったが、ひとしきりルディアーノと部屋の中を観察すると、絵を描くひとかと話しかけてきた。肯定すると子どもは部屋にはいって中央のテーブルのアークの席へ座り、そして互いに自己紹介をした。ミシェルには常に一緒にいる動物のぬいぐるみがおり、名前をリチャードソンという。ルディアーノはおさないミシェルの世界に合わせ、リチャードソンにも挨拶をした。それからルディアーノは絵を見たがるミシェルに描きかけの船の絵を見せてやると次に、描くところが見たいというので続きを描き始めた。ミシェルはルディアーノの隣の席へ移動し、じっと黙って絵を見ていたようだが、あまりの静けさに顔を覗いてみると目が合ったので、微笑みかけた。すると不意にアークの恋人かと聞かれたので、ルディアーノは「恋人は他のひと」と答えた。
しばらくしてミシェルは再びアークの席へもどり、広げられたままの本を見ていた。アークを呼んでもらおうかとルディアーノは提案したが、ミシェルは断った。そのうち戻るから心配はいらないらしい。やがてミシェルはソファに移動し眠っていた。その後、召使いの女に用事を頼みながら戻ってきたアークが部屋の中を見るなり、廊下へ戻り、用意するお茶の数を一人分追加していた。
召使いがお茶を持ってくると、アークはルディアーノを窓際のソファへ呼んだ。目覚めたミシェルの横にアークが、ルディアーノはその向かいに座った。透き通る樺色のお茶の上には白い花弁が浮かんでいて、ほのかに甘い香りがする。ミシェルはお茶に浮く花弁が邪魔だと言って、アークにスプーンで取りのぞいてもらっていた。ルディアーノはミシェルとアークの間に座っているリチャードソンのお茶がないことに気付き、まだ口をつけていない自分のカップを差し出した。するとミシェルに顔をじっと見られ「ありがとう、でも世の中には不可能なことがあるってことくらい、もうわかってるの」と、差し出したカップを返された。お茶を飲み終えるとミシェルは席を立った。午後からセシルに空き家で楽器を弾いてもらうようだ。
リチャードソンを抱えたミシェルが出かけると、アークは「ミシェルとは顔見知りだったのか」とルディアーノに尋ねた。初対面だと知るとアークは驚いていた。ミシェルはアーノルフィニ家に来た当初、誰とも話さず笑いもせず、泣きも怒りもしなかったのだという。召使いの者たちもそんなミシェルの世話を煩い、面倒に感じるほど手を焼いていたようだ。アークたちの父親は率先してミシェルに人一倍の愛情を注ぐよう、子どもたちに協力を求めた。アークは熟慮し、最大限の愛情を伝えるよう心掛けた。ある日、ミシェルの持つ動物のぬいぐるみの名前をたずねたとき、はじめてまともに話をしてくれたのだという。あの善良なオリガでさえミシェルと打ち解けるのに苦労した、とアークは言っていた。ルディアーノにはミシェルの真意はわからなかったが、リチャードソンへの対応がただしかったのかもしれない、とアークに伝えた。ミシェルはかなり幼く見えたがアークに聞くと、もう10歳になったのだと言っていた。
あの日からの出来事を思い出しながらルディアーノは、未だ降りやまぬ雨を見ていた。またしばらく屋敷を空け、ウォールレストへ出かけると言っていたハーシュメルトが用意した橙色の花を使用人から受け取ったあと、ルディアーノは一冊の本を取り出した。もらった花の花言葉を調べようと本をひらき、目的の頁を見つけると、そこには「不変の愛」と書かれていた。




