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「本来」沈黙に耐えきれなくなったハーシュメルトはおとなたちに念を押そうとした。「キングだって忠誠を誓うのは国王さまなんだ。闘技場内のことに関してだったら好きにやらせてもらう。そういう権限が与えられているんだからね。でも町で起こった犯罪に――もちろん助力するよう命じられれば別だけど――手出しすることは越権行為だ。きみたちが勝手なことをするのはぼくは許さない」そう言いながらかれはおとなたちの座るテーブルのそばへ移動した。
「ハーシュメルトさま?」テオジールが怪訝な顔で見上げる。「アーノルフィニの息子たちとずいぶん親しくしておられるようですが、うかがっておられないのですか?」
一拍おいて、「なにを?」とハーシュメルトは聞いた。
テオジールは失望するかのように深いためいきをついてから、「ご存命とお思いか」と重々しく口をひらいた。
思いもよらなかった。言葉の意味は理解できるのだが感情が追いつかない。かれは以前これと似た感覚に陥った経験があった。それはキングになったばかりの頃、闘技場内で揉み合った王宮騎士を監禁するため、王宮の地下牢に赴いたときのことである。あかるく清潔なセザンの地上から、徐々に光の消える薄汚い石床を進み、耳をつんざく叫び声よりもハーシュメルトの心を縛り付けたものは足元に無残にちらばる血や歯や肉片らしきものだった。ひとが通るだけのはずの通路にまでこんなものが飛び散る――飛び散ったのか片付ける際に落としたのか、ほかの理由があるのか定かではないが――それはなぜなのか、考えまいと努めても残虐の影は笑いながら健全な思考に無断ではいりこむ。床に転がる爪のはがれた指を気に留めることなく慣れたように歩き進むおとなたちのあとに付いて行くのが精いっぱいだった。ロスカの諺を借りるとすれば「悪魔はひとの世にこそ存在する」それはハーシュメルトにもわかっていた。ただこれは、その諺が存在するロスカにのみ有り得るもので、この清らかなセザンには無関係のものと思っていた。ふいに姿を現した真実の片鱗が疑心の迷宮へと誘う。その場を離れるとともに、ハーシュメルトはセザンの地下世界の風景を忘れようと試みた。あかるい大気に触れ、同世代の友人たちと遊んでいると、思いのほかすんなりと気持の切り替えができた。日の光とは、邪を追い払う強いちからがあるのだと考えたほどだった。時が経つにつれ、はじめて感じたほどの衝撃は薄れていった。ただ、それは忘れ去ったわけではなく、事実は事実として認める心の余裕ができたからに他ならない。
テオジールの発言にハーシュメルトはセザンのどこかにひと知れず存在するかもしれない悪魔の足音を思い出した。過去に見た悪魔のつま先は幻影であればと願ったが、地下牢に漂う血の匂いは紛れもなく現実のものであった。それはたしかだった。
「知らないよ。アークからもセシルからも、そんな話は聞いていないもの」はげしい鼓動が声の通過の邪魔をする。
「聞いていないではなく、探っていないのかという話をしている」
テオジールに対し少年は返事ができず、「亡くなってるの?」と、弱々しくグランディオにたずねる。
「たしかなことはわかりませんが、おそらくは。気になって以前伺ってみましたが陛下の側近の騎士に阻まれ、部屋へ通してもらえないのですよ。わたしが嫌われているだけでしょうか。アーノルフィニ国王のもと、キングとして謙虚に働いていたつもりなんですけどね」グランディオの口調は普段と変わらず落ち着いていた。
グランディオが冷静でいればいるほど隔たりを感じずにはいられないのだが、この件で頼れるおとながかれらしかいないハーシュメルトは、なるべくこの隔たりを意識しないようにした。
「隠す意味がわからないよ。葬儀もできないじゃないか」少年はおとなたちの近くに腰かけた。
「あまりそう暗い顔をしないでください。これは憶測ですから」テーブルに置かれたままの盤と駒のケースを片付けるためグランディオは席を立った。
少年は移動するグランディオを不安げな目で追ったあと、テオジールへすがるように話しかけた。「隠す意味はなんなの?」
「国王寄りの者が長男のアークに王位を継がせたい、策を練る時間稼ぎ、といったところか」テオジールは答えた。
「国王寄り……? 派閥なんてあるの?」
ハーシュメルトがおとなたちに聞くと、席へ戻ったグランディオが説明する。「以前はもっと緩やかでしたが、4年前にはっきりわかれました。わたしは軍をだすよう要請しましたが国王はけっして応じなかった。わたしは同志を集めロスカへ向かおうとしましたが、国王派の騎士に阻止されました。騎士同士の争いは本意ではありませんでしたから、わたしはやむを得ず引き下がりました。ほんの一撃でもロスカに与えられればそれでよかったのですがね、報復の意思表示すら叶わなかった。これでは泣き寝入りと一緒でしょう? 国民はさぞ我々を腑抜けだと思ったでしょうね。それからです、亀裂がはいったのは。ハーシュさま? そんなに落ち込まないでください。知らなくて当然です、あなたがキングになる前の話なのですから。それと、だいぶ話がそれましたがノーラルの件、心にとどめておいてくださいね。騎士に私利私欲で動かれては規律が乱れますから。あなたが国王となる前に土台を整えておきたいのです」
「わかったよ。でもあんまり勝手に動かないでほしい。なにをするのかぼくも把握しておきたい」一気に気が重くなったハーシュメルトは話を切りあげようとし、ひとりになりたいと言ってグランディオの部屋をでた。自室に戻る途中ルディアーノの部屋の前で足を止め、彼女はまだ部屋で泣いているのだろうかと考えたが、ハーシュメルトはそのまま過ぎ去った。
自室にもどったハーシュメルトはしばらく佇んでいた。考えるべきことが豪雨となって己の体を叩きつける。アーノルフィニ国王長男アークとはこの屋敷に住むようになってから度々かれの部屋を訪れるほど親しかった。
かれの机にはいつでも本と紙が置かれていた。生涯、他国の本の翻訳のみに情熱を捧げると決意しているかれは、王宮庭園より外へ出ることはなく、どこか俗世とは無縁といった雰囲気をもっており、じっさい無関心であった。その真新しい掴みどころのない人格に心地よさを感じていたハーシュメルトは、あるとき自身の秘密を打ち明けたことがあった。アークは本に目をやり、訳した文を紙に記しながら真顔で相槌を打っているので、ろくに話を聞いていない、とハーシュメルトは気が抜けたが、かれが最後に「やけを起こしてぼくの本を暖炉へ投げ入れないでくれよ」と笑うのを見て、理解していたのかとひどく感心した。
アークは自分の生活とは無縁の闘技場での話や、ハーシュメルトの暮らしぶりについて好んで聞くようになった。ハーシュメルトも快く話し、自身の生活でささいな問題があるときには相談したりと、6歳上のアークを兄のように慕っていた。前に、深く考えずに跡継ぎについてハーシュメルトから口にしたことがあった。かれはたしか「国民の望むようにすればいいだろう。揉めるのは嫌だ」と答えていた。自身が国王候補になるとは微塵も思わず漠然とアークが継ぐものだろうと思っていた、ハーシュメルトがセザンの希望と呼ばれる前の話である。
家族の話をアークはよくしたが、父親が亡くなったとは言っていない。テオジールの言うような事情があり隠しているのかもしれないが、ハーシュメルトにはそれが心苦しかった。自分が相手を欺いたことはなかったが、もしかしたらアークはちがうのかもしれない。争いの原因となり得るキングをはじめから警戒し、王位に無関心のふりをしていたのかもしれない。
次男のセシルはどうであろう。同い年のかれはまったく剣闘に興味を示さず、伯父が住んでいたという空き家に残された打弦楽器を暇さえあれば弾いているような人間で、とにかく世間の目に無頓着、遊び呆ける怠け者とからかわれても気にもとめず、自由気ままに生きていた。いつだったか、偶然その空き家の前を通りかかったとき、中からセシルが飛び出てハーシュメルトの腕を取り「興味がない」と言っているのに「作曲したから聴いてくれ」とこちらの事情お構いなしに拘束されたことがあった。ハーシュメルトはその場にいたセシルの恋人オリガに「奏者への賛美の仕方」を教わり、演奏を終えたセシルに世辞を投げかけた。気を良くしたセシルはハーシュメルトを気に入り、気さくに話すようになっていった。空き家に誘われるとき3度に2度は断っていたが、ルディアーノの一件以来ハーシュメルトはみずから空き家を訪ねるようになった。
セシルが空き家にいるときは大抵オリガもそこにいて、よく3人で話もした。オリガはクーラント出身の先祖に吟遊詩人の血をもつ家の娘で、見た目は地味だが芸術好きのセシルとは話が合い意気投合し、セシルのほうが彼女をとても気に入っているようだった。アストレーヴの人びとは、王子が平民の娘をえらぶのを不快に思い、広場で本人たちを目の前に非難の声を浴びせるという思いやりのない仕打ちをしたことがあったが、かれはそのとき実に堂々とした態度で「あなたがたは称号と結婚なさるのかもしれないが、ぼくはひとと結婚するのである」と一掃し、周囲を黙らせた。オリガは終始態度を変えずセシルの横に立っていて、その凛とした姿にハーシュメルトは好感を抱き、全国民が非難しようとも、自分はふたりを祝福すると伝えると、かれらは心からよろこんでくれた。
セシルは実直な男である。つい最近まで父親の容態を心配していたではないか。もし亡くなってしまったのだとしたら、話にでてもおかしくないはずである。だがかれもまたアーノルフィニ王家の人間なのだ。こちらにそのつもりがなくても敵対する可能性のあるキングをやはり、警戒しているのであろうか。
嫌な予感がふとハーシュメルトの脳裏をよぎった。国王寄りの人間が、他家に王位が渡らぬよう時間稼ぎのためその死を隠しているのだとしたら、その死をはやめたキング寄りの人間がいるのではないか。ハーシュメルトがさきほどグランディオの部屋で漠然と浮かび上がった悪魔の正体はこれだった。拷問や暗殺がかつてのセザンにも存在していたことは知っている。だが現代のセザンには無縁のもののはずだった。自分が歩んできたセザンの豊かな道には、悪魔の尻尾はどこにも落ちていなかったのだから。
ハーシュメルトは気が滅入り、心を浄化させるものを求め、ルディアーノの描いた絵の前へ歩み寄ったとき、隣に掛けてある剣闘用の剣が視界にはいった。かれは思わず身震いした。剣の鍔に埋められた赤い宝石が自分を蔑んで見ているようだった。存在しないと思っていた闇の世界を覗いたからといって、なにを恐れているのか。すでに自分は悪魔と抱擁し、殺人という重罪を犯し、闇の王に君臨したではないか。
ハーシュメルトは流れ出る汗を拭い、口元で震える手を強く握りしめ、当時の光景を思い出そうとした。たしかに自分はあのとき己の意思であの場にいた。ロスカ人の顔も、セザン人の歓声も、心にはびこる憎悪も覚えている。だが自分の肌に飛び散った血の匂い、感触、温度はどれも、覚えていなかった。




