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休日の午後、ハーシュメルトは自室の壁に飾られた風景画を見ていた。先日はじめて描きあげたというルディアーノの渾身の一作をとても気に入り、ユリエラの店で購入した額縁に入れ、側近たちに飾らせたものである。
ルディアーノはハーシュメルトが外出している空いた時間にすこしずつ色をかさねていたようで、かれがこの絵に気が付いたのは用事があって彼女の部屋を訪れたときだった。ルディアーノを屋敷に招き入れる際に移動しきれなかった服を取りに行ったところ、画架にかけられた画布を発見したのだ。かれの位置から画布の裏側しか見られなかったので回り込もうとすると、部屋にいたルディアーノに阻止された。かれは一度は引き下がり、目的の服を取ってからふたたびルディアーノに「絵を見せてほしい」と懇願した。ルディアーノは嫌がるそぶりを見せてはいたが、本心は裏腹、断っても甘えるように求めてくるハーシュメルトを只々かわいらしく感じ、ふたりだけに与えられる甘美な触れ合いに惚けていたいだけであったから、気の済んだところで許可をだした。
ハーシュメルトが画布の表側に回り込むと、見慣れぬ樹木や植物が生い茂る海岸が描かれていた。可憐な少女の絵にしては色濃くちから強い印象だった。ハーシュメルトがこの絵の場所を言い当てると少女は大変おどろいたが「毎日一緒にいるのだから、きみのことは大体わかる」と伝えた。この絵はルディアーノの母親の故郷であるエルトリアの風景を想像して描いたものだった。
かれはルディアーノの一部を所有していたい想いから「今度きみ自身を描いた絵がほしい」と頼んだが、少女は自分の顔をあまり知らないと言って渋った。「鏡を見ながら」とかれは提案したが、鏡が嫌いだと言う。理由をたずねると、父親が亡くなって部屋にひとりきりでいるとき、水色に変わる髪を鏡の前で泣きながら途方に暮れていたのだと明かされた。どちらの色も好きだと伝えるとルディアーノの表情が晴れたので、かれは「ぼくを描いて」とお願いしてみる。すると、もうすこし上手になってからと言いつつも約束してくれた。
悩ましいほどくるめくこの恋心は尋常ではなかった。片時も少女の姿が頭から離れることはなく、胸打つ歓喜は激流のごとく、朝の目覚めは新鮮なよろこびに満ちあふれ、夜の眠りは微笑をもたらす。たとえ極寒の地に身を置いたとしても、この情熱は衰えぬのだ。あまりにも狂おしい魅惑的な苛立ちにかれは、ひょっとするとエルトリアの魔術によるものかと聞いたことがあったが、ルディアーノは笑って、いくらなんでもひとの心は操れないと答えていた。
そのようにハーシュメルトが風景画を見つめながら思いに耽っていると扉を叩く音がして、今朝仕立て上げられた、かれの新しい服を数枚抱えたルディアーノが部屋にはいってきた。ルディアーノが花のように彩り豊かな衣装をベッドの上に並べると、かれはそれらをざっと見て、適当にしまうよう伝えた。
ルディアーノが衣装部屋にいるあいだハーシュメルトは落ち着きなく部屋をうろついて、なんの前触れもなくこう言った。「ルディ、きみに言わなければならないことがある」
棚に服をしまっていたルディアーノはひとつ頷いて微笑んだ。
ハーシュメルトは少女を見つめると高揚し、「ぼくはきみを心から愛している」と告げるが、ルディアーノの返事を聞く前にかれはこれまでに経験したことのない不安と緊張に襲われ、ふたたび歩き回りながら、「いつも言ってるね、毎日……きのうも言ったかな?」照れ笑いをうかべた。
「今朝も聞きました」
衣装部屋から出てきたルディアーノは困ったような顔で笑う。
本題にはいるにはまだ心の準備が整っていないハーシュメルトはつられて笑ったあと、別の話題を切り出す。「あの朝、図書館の前できみと偶然会ったあの日、ぼくはほんの一瞬で心奪われたんだ」
「偶然ではないですよ」ルディアーノは鏡台に散らかる宝飾品を片付けている。
「そうなの? でもよく考えればそうだね。ぼくたちは同じ敷地内に住んでいたんだから、いつ出会ってもおかしくないよね」
「ちがうんです。わたし、前からハーシュさまのことを知っていましたから」
「そうか、まあ、すこしは有名だからね」
王都に住んでいれば自分を知らないわけないか、とハーシュメルトは思ったがルディアーノは、「キングになる前から」と付け加えた。
「いつ頃? どこで知ったの?」かれは驚く。
「4年前、お父さんのお墓の前で見かけたことがあるのです」
「ぼくはその時きみに会ったかな?」当時を思い出そうと少年はたずねる。
「いいえ、わたしは木の陰に隠れていましたから」
ハーシュメルトはルディアーノをベッドに座らせ、隣に腰掛けた。「やっぱりそうか。もしその時きみを見かけていたら、かならず声をかけていただろうからね。これほど美しいひとを見過ごすわけがない」
「ずっと知りたかったのです。どうしてお墓まで来てくれたのか、お父さんと知り合いだったのかなって」
かれはすぐには返答せず、しばらく少女の髪を左手でかきあげるように触っていた。「ぼくは自分の生まれ育った国、このセザンが好きなんだ。セザンの騎士は幾度となくロスカからこのセザンを守ってきた。国の宝といわれる王宮騎士が被害をうけたんだ。哀悼の意を表するのはセザン国民として当然のことだよ」
ルディアーノはハーシュメルトの瞳をやさしく見つめた。「ハーシュさま、ひとつだけお聞きしたいことが」
ハーシュメルトは左手をおろし、彼女の言葉を待った。
「でもまずはハーシュさまのお話から。わたしのは今でなければいけないというわけではありませんから」少女は控えめに伝える。
「ぼくの話? すこし待ってね……」ハーシュメルトは目を泳がせながら、「やっぱりきみのを聞いてから……ぼくの話は、いや、気になったままではうまく話せないから、ね?」落ち着かないようすである。
「わかりました」ルディアーノはかれの要望に応える。「あのとき、ハーシュさまは何か話しかけているようでした。何を話していたのかなって。もちろん秘密のことでしたら無理にとは言いません」
ハーシュメルトは考えこむように視線を落とす。そしてしばらく黙っていたがやがて、「ロスカへの」と言いかけ、何度も言うか言わぬかまよったのち、「復讐を誓ったんだ」過去の眠りを呼び起こした。
「わたしのお父さんに?」
ハーシュメルトは頷く。「一度会ったことがあるんだ。その時とても親切にしてもらったから、セレヴィスさんが亡くなったと知って、どうしても赦せなかった」
「それでセザンに来たロスカ人たちを?」ルディアーノはハーシュメルトの背中に手を添える。
「そう。ぼくひとりがロスカへ行ってどうこうできるわけがないし、いい機会だと思ったんだ。この緊迫した状況のなか、連絡もなしにセザンに乗り込んでくるほうが悪いんだって、自分に言い聞かせた。でもいざ闘技場にはいると抑えていた怒りが吹き出して、ロスカ人を目にしたときにはもう迷いが消えていた。ロスカに神がいるように――もしいればの話だけど――セザンにも神さまみたいなのがいたとして、ぼくのおこないはそういったものに赦されているような気になっていた」
「ハーシュさま、わたしのお父さんは最期までロスカを憎むことはありませんでした」
「そうだね、ぼくもいまではもう前ほどの憎しみは消えているんだ。愚かなことをしたとも思っている。期待に応えようと躍起になっていたのかもしれない。でももうやめるよ、復讐なんて考えるのは。そういう生き方をしたくなくなった。だれかを深く愛すれば、なにかを強く憎む気持も薄れていくのだと、いまになってわかったよ。けっしてぼくの罪は消えないけれど、きみさえ赦してくれればそれでいい」
ルディアーノは低い位置でひとつにまとめられたかれの髪を指で梳かしながら聞いていた。「ハーシュさまを咎めるセザン人はすくないと思います。グランディオさんたちだって、とめなかったのでしょう? わたしだってその場にいても、そのときにどう思うかわからないから」
ハーシュメルトは自身の髪を梳くルディアーノの手をとって体をよせた。ルディアーノはそのまましばらく身を任せ、頬に触れるハーシュメルトの髪の匂いを嗅いでいた。少女は石鹸に練りこまれたこの花の香りが大好きだった。
頃合いをみて、ルディアーノはハーシュメルトの胸に手を置き、すこしだけ体を離す。「わたしの話はこれで終わり。次はハーシュさまのお話」
かれはベッドに座っているルディアーノの両手をとって、その足元に跪き、「ルディアーノ」と名を呼んで瞳を一心に見つめた。
「きみの姿は虹の羽衣をまとう月よりも美しい。きみの心は湖のきらめきから生まれた純真よりも美しい。きみのしぐさは星々のため息に揺らめくパルトメルダよりも美しい。きみの声は怒れる嵐の王を鎮める竪琴のしらべよりも美しい。朝きみの声で目覚め、夜きみのキスを夢に眠りたい。いつでもそばにいてほしいんだ。愛しています、ルディ、ぼくと結婚してください」
言い終えてもなおハーシュメルトは少女の表情ひとつ見逃さないよう見つめていた。ルディアーノは驚いているのか、その表情は固まっている。だが次第に少女の顔は曇り、悲しみをこらえるように下唇を噛み、心のなかで苦しみ悩んだ末の結果として流れた涙がハーシュメルトの手に落ちた。
ハーシュメルトは戸惑った。あきらかに喜びの涙ではない。たがいの想いは同じはずであるのに、まさか思い違いをしていたのだろうか、なにか大事なことを見落としていたのか、時期が悪かったのか、言い草が気に入らなかったのか、あれこれと悩むも、この涙の意味がハーシュメルトには見当がつかなかった。
「どうしたの?」
かれはルディアーノの手を握りしめた。少女はとめどなく涙を流し、噛みしめている唇は震えていた。かれはあまりの絶望に言葉を失い、うごくこともできなかった。
やがてルディアーノはこう思いを伝える。「婚約者が、いるのでしょう?」
ああ、そんなことか、とかれは気を取り直し、ルディアーノの横へ座った。「あんなの義務みたいなものさ。おとなたちが勝手に決めたんだ。キングとしての、まあ、仕事のうちだよ」かれは少女の涙を拭う。「だから本妻というわけにはいかないんだけど、そうか、ごめん、これを先に言うべきだった。ルディ、怒ってるの? ほんとうにごめん、婚約者のことはすっかり頭になかったから。普段思い出すこともないし、忘れていた。いつもきみのことだけを考えていたから。でもちゃんと言わなかったのはぼくが悪い。ほんとうにごめんね、ルディ? こっちを、ぼくのほうを見てくれないかな」
ルディアーノはハーシュメルトに背を向けて座り、涙を拭っていた。
「誰に聞いたの?」
ハーシュメルトは弱々しい声でたずねたが、ルディアーノは答えなかった。うしろから手を伸ばすと、少女は瞬時に立ち上がり、扉のほうへ駆け出した。
「待って、待ってルディ」かれは慌てて引きとめ少女を抱きしめる。「きみを泣かせたまま話を終わりにしたくない。ぼくが浅はかだった、ごめんなさい、きみを傷つけてしまったね。どうすれば、どうすれば赦してもらえるかな」
混乱しながらもかれなりに誠意をこめて言葉をかけると、胸に埋もれる少女の声が聞こえた気がしてそっと手をゆるめる。
ルディアーノはまだ涙を流しており、ハーシュメルトの胸に手をかけ顔を上げると、「せめてあなたから聞きたかった」とだけ言って、その場を去った。




