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第九章 魄栗と乃愛

大会二日目、イベントホール全体を包んでいたあの張り詰めた緊張感が、一気に解き放たれる瞬間がやってきた。天井に設置された何十台もの大型照明が、白く眩しい光をステージの上に降り注いでいる。その光の海の中、全国の地方予選を勝ち抜いてきた同世代の強豪バンドたちと横一列に並んで、俺と乃愛は肩を並べて最優秀賞の発表を待っていた。地を這うような重々しいドラムロールのBGMがスピーカーから爆音で響き渡る。会場内にいる何千人もの観客、そしてステージ上の演者たちの全員が息を呑み、静まり返るなか、ステージ中央に立つMCの男がゆっくりとマイクを握り直し、その声を響かせた。


「お待たせいたしました! 審査員たちの意見が真っ二つに割れ、昨夜の深夜から今朝の直前にかけて、異例の緊急審議を重ねに重ねた、今回の『全国ティーンズ・ロック・フェスティバル――秋の新人王決定戦』。……ついに、栄えある最優秀賞の発表です!」 


心臓が、喉の奥から飛び出しそうなほどの激しいビートを刻んでいた。俺たちの作ったあの三曲目は、間違いなく完璧だった。これまでの三ヶ月、南校舎四階の空き教室で魂を削るようにして向き合ってきた言葉と音。前より圧倒的に成長した俺のリアルタイムでの音響操作と、乃愛の聴く者すべての心を強引に引きずり込むような最高の歌声。他のみんなより不利な可能性が高い二人きりのオーケストラだったけれど、そんなハンデなんてすべてステージの上で粉々に叩き割ってやった。会場全体が俺たちの音に圧倒され、大喝采に包まれたあの瞬間の余韻が、まだ手のひらに残っている。勝てる、という絶対的な確信しかなかった。世界を、この手で完全にひっくり返してやったのだと、そう信じて疑わなかった。


「今回の栄冠を手にする、最優秀賞は――エントリーナンバー五番、シンフォニア・クロウ!」


その瞬間、俺のすぐ隣で、乃愛の身体がピクッと微かに跳ね上がった。呼ばれたのは、俺たちの名前ではなかった。朝のリハーサルの時に、あの圧倒的に洗練されたプロ並みの太い音を鳴らしていた、あのツインギターの強豪バンドの名前だった。会場が割れんばかりの大歓声と拍手に包まれ、ステージ中央で彼らが歓喜の声を上げて抱き合う姿が、眩しい照明の中に浮かび上がる。その光景を、俺は目の前が急激に色褪せていくような、冷たい感覚のなかで見つめていた。MCの声が、遠くのノイズのように鼓膜を揺らす。


「おめでとうございます! シンフォニア・クロウが、今回の王座に輝きました! ……そして、審査員長から異例のコメントが出ております。最後の最後まで最優秀賞の座を争い、わずか数点という超僅差での優秀賞――第二位、柳魄栗・伏波乃愛ユニット!」 


二位。審査が難航するほどの凄すぎるデッドヒートの末、俺たちの秋の新人戦は、一位に届かないという、最も中途半端で悔しい形で幕を閉じた。


「……っ」 


乃愛は手元の炭酸レモンのアルミ缶をぎゅっと力を込めて握りしめたまま、ステージの床の一点をじっと見つめていた。その指先は、誰の目から見ても明らかなほど、カタカタと微かに震えていた。けれど、彼女は涙を流さなかった。 

朝の十時から始まった二日目のタイムスケジュール。結果発表の直後から始まった、夜の二十二時を回るまでの気の遠くなるほど長い閉会式のあいだ、彼女は他のバンドが大きな盾を表彰されるのを、その切れ上がった瞳で真っ直ぐに見つめ続けていた。周囲のスタッフや、審査員たちから「惜しかったね」「本当に二人きりであの音はエグかったよ」と声をかけられるたびに、彼女は「ありがとうございました」ときちんと頭を下げ、毅然とした一匹狼の歌姫としてのプライドを保ち続けていた。周りに心配をかけないように、自分の弱さを見せないように、完璧にクオリティの高い、強気な「伏波さん」を最後まで演じきっていたのだ。 

表彰状と二位の優秀賞の盾を受け取り、ステージを降りる際にも、乃愛は俺を振り返って「柳くん、ほら、荷物まとめるよ」と、いつもの学校での呼び方で、冷徹なほどに落ち着いた声をかけてきた。その凛とした立ち振る舞いがあまりにも完璧すぎて、裏方である俺のほうが、彼女のその強さに救われてしまうほどだった。 

けれど、そんな風に無理やり張り詰めさせていた一本の糸が、完全に切れてしまったのは――二泊三日の拠点である、あのビジネスホテルのツインルームに戻ってきた、まさにその瞬間だった。 

カチリ、とカードキーをかざしてドアを開け、部屋の明かりをつける。外界のノイズが完全に消え去り、誰も俺たちを知らない、誰も俺たちに役割を求めない、二人きりの空間になった瞬間。乃愛は背負っていた重いギターケースやカバン、そして上着を床に乱雑に放り出すと、自分のベッドの上に崩れ落ちるようにして、バタンと突っ伏した。


「……っ、う、あぁ……っ……!」 


低く、喉の奥をむしり取るような、悲痛な悲鳴が静かな部屋の中に響き渡った。乃愛は白いシーツに顔を完全に埋めたまま、声を上げて大泣きし始めた。昼間のステージの上でも、終わった後の楽屋裏でも、長い閉会式のあいだも、あれだけ必死に奥歯を噛み締めて堪え続けていた悔し涙が、堰を切ったように一気に溢れ出し、彼女の小さな身体を激しく、激しく揺さぶる。


「悔しい……、めちゃくちゃ悔しいよ、魄栗……っ! あんなに、あんなに頑張って、私たちの全部を懸けた最高の三曲目ができたのに……! なんで、なんで一位に届かないのさ……っ!」 


俺は何も言わず、床の荷物を壁際に寄せ、彼女のベッドの端にそっと腰を下ろした。かけるべき言葉なんて、どこを探しても見つからなかった。優等生として生きてきた俺の頭脳は、こういう時に相手を慰めるための無難で綺麗な言葉をいくらでも並べ立てることができる。でも、今の彼女にそんな嘘くさいポーズは何の意味もない。俺だって、胸が引き裂かれるほどに死ぬほど悔しかったし、何より、彼女のあの最高の歌声を、ステージの一番高い場所で輝かせてあげられなかった裏方としての無力さと情けなさが、胸の奥をキリキリと容赦なく締め付けていたからだ。 

ただ、泣き叫び、震え続ける彼女の細い背中を、そっと手のひらで撫で続けることしかできなかった。俺たちの血の滲むような三ヶ月を、あの夏の終わりの夜祭りも、文化祭の裏での密会も、すべての瞬間を一番近くで共有してきた一人の「共犯者」として、俺は彼女の涙をただそのまま受け止めるしかなかった。


「私は……、画面の向こうの数字だけじゃなくて、本物の、リアルなステージで、魄栗の書いてくれた言葉を一番高い場所で叫びたかったんだよ……! 私にはあのアコギしかなくて、魄栗にはミキサーしかなかったけど、絶対にあのバンドたちを全員引きずり下ろして、世界に本当の逆襲ができるって信じてたのに……っ!」 


乃愛はシーツを涙と鼻水でぐしょぐしょに濡らしながら、俺の制服の袖をぎゅっと、引きちぎらんばかりの力任せで掴んできた。付き合って一ヶ月。あの夏休みの最後の夜に、本当の名前で呼び合って恋人になった。昨日の夜は、この同じツインルームの暗闇の中で、ベッドの隙間から手を繋いで、お互いの体温を確かめ合って夜を越えた。無敵だと思っていた俺たちの二日目は、一位以外はすべて敗退という、あまりにも残酷で冷徹な現実の壁の前に、ただただ悔し涙だけで塗りつぶされていく。 

乃愛の涙は、一向に止まる気配がなかった。夏休みの終わりに他県のライブハウスで三位になった時の涙とは、あきらかにその重みも、深さも違っていた。あの時はまだ「始まったばかりの、奇妙な共犯関係」と言い訳ができた。でも今回は違う。二学期が始まって、お互いに恋人同士になって、文化祭の忙しい準備期間の合間を縫って、それこそ毎日睡眠時間を極限まで削りながら、二人で文字通り限界のその先まで音と言葉を磨き上げてきたのだ

これ以上のものは絶対に作れないという、絶対的な自負があった。だからこそ、最優秀賞に一歩届かなかった「二位」という中途半端な数字が、彼女の音楽家としてのプライドを、一人の少女としてのプライドを、容赦なくズタズタに引き裂いていた。


「魄栗の音、完璧だったよ……。私が途中で緊張して、少しだけブレスを詰まらせちゃった時も、魄栗は瞬時にミキサーのイコライザーを動かして、私の声の一番綺麗な周波数を補正してくれたでしょ。私、歌いながら、あぁ、私は世界で一番幸せな歌姫だなって、本当に思ったんだよ。なのに……私の歌が、私の力が足りなかったから、魄栗を一番の音響にさせてあげられなかった……っ!」


「そんなことない。乃愛の歌は完璧だった。会場にいた全員が、君の声に圧倒されてただろ」 


俺は彼女の掴む手に、自分の手を重ねてさらに強くカを込めた。彼女が自分を責めるたびに、俺の胸の奥の痛みが激しさを増していく。足りなかったのは、俺の音響のスケール感だ。もっと会場全体の空気の振動を計算できていれば、ホールの特性に合わせてローの太さを完璧にコントロールできていれば、最初の一音だけで審査員の頭を完全にバグらせて、満場一致の一位を獲ることができたはずなんだ。 

乃愛は何も悪くない。彼女の歌声は、間違いなくあのステージにいた誰よりも、世界で一番美しく、強烈だった。


「乃愛は何も悪くない。……だから、もう自分を責めるなよ」 


俺がどれだけ言葉を尽くしても、彼女の胸の奥の悔しさは消え去らない。ただただ、十月の終わりの冷たい秋風が、ビジネスホテルの窓ガラスをガタガタと小さく揺らす音だけが、夜の静寂の中に虚しく響いていた。 

どれだけの時間が経っただろう。夜の23時を回り、日付が変わる頃になっても、乃愛はシーツに顔を埋めたまま、小さな身体を震わせ続けていた。けれど、ひとしきり泣きじゃくり、胸の奥にあるドロドロとした感情をすべて激しく吐き出した彼女は、俺の袖を掴んだまま、次第にその呼吸のテンポを遅くしていった。 

脳内を駆け巡った凄まじい量のアドレナリンと、そこからの結果発表による極限の精神的疲労。そして何より、一日中必死に張り詰めさせていた感情が、この部屋で一気に決壊して大泣きしたことによる体力の消耗。そのすべてが、十六歳の彼女の身体の限界を一瞬で超えさせていた。 

彼女は赤く腫らした目のまま、シーツに突っ伏した状態で、俺の制服の袖を掴んだ指先からじわじわとカを抜いていき、そのまま、泥のように深い眠りへと落ちていってしまった。俺は、彼女の小さな身体が夜の寒さで風邪をひいてしまわないよう、床に放り出されていた上着をカバンに仕舞い、優しくベッドの毛布を彼女の首元まで掛け直した。ハーフアップがすっかり解けた、艶やかな黒髪が、真っ白な枕元に名残惜しそうに広がっている。寝息を立てる彼女の顔は、さっきまでの鬼気迫るような悔しげな表情から完全に解放されて、どこか幼い、守ってあげたくなるようなあどけなさに戻っていた。 

その涙の跡が残る横顔を見つめながら、俺は胸の奥の痛みをそっと噛み締めた。


「……お疲れ様、乃愛。次は、次は絶対に、君を世界一のステージの一番高い場所に立たせてやるからな」 


俺は静かに彼女の手を毛布の中へと戻し、自分のベッドへと腰掛けた。手元にあるスマホの画面をそっと開くと、二位の優秀賞という文字のすぐ下、SNS上には、今日の俺たちの演奏を客席で目撃した人間たちからの、驚異的な絶賛と衝撃のコメントが止まらない勢いで書き込まれ続けている。『二人きりであの音響はあり得ない』『あの黒髪のギタリストの歌声、鳥肌が立った』という文字が、濁流のように画面を埋めていく。けれど、そんな画面の向こうの数字や言葉は、今ここで眠る彼女が流した、あの本物の悔し涙の価値に比べれば、あまりにも虚しくて、冷たいものに思えた。俺たちが欲しいのは、幽霊みたいな画面の向こうの拍手じゃない。今度こそ、完全な、文句のつけられない本物の一位だ。 

窓の外からは、他県の静かな夜の静寂が、部屋を優しく包み込んでいた。惜しくも二位という結果に終わったけれど、俺たちの「本当の逆襲」の弾丸は、まだ尽きていない。この胸をキリキリと締め付けるような悔しさを、生涯忘れない最大の財産として胸に抱いたまま、俺たちの激しくて、どこまでも切ない遠征の二日目が、静かに幕を閉じ、心地よい深い眠りへと溶けていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


十月の最終日。二泊三日にわたる他県遠征の、本当に最後の一日となる三日目の朝がやってきた。 

ビジネスホテルの分厚い遮光カーテンのわずかな隙間から、昨日までの会場を包み込んでいたあの狂おしいほどの熱狂とプレッシャーを優しく冷ますような、少し冷たい秋の朝光が室内に細く白い筋となって差し込んでいた。その光の粒子が、埃の舞う静かな部屋の空気を静かに照らし出している。壁に掛けられた無機質なデジタル時計の針が午前七時を回った頃、俺は静かに目を覚ました。 

二日目の夜、剥き出しの悔しさのすべてをぶつけるようにしてシーツに顔を埋めて大泣きし、俺の制服の袖を千切れんばかりの力で掴んだまま泥のように眠りについた乃愛。隣のベッドから聞こえてくる彼女の呼吸のテンポは、昨夜の激しい乱れが嘘のようにすっかり穏やかなものに変わっていた。けれど、枕元に広がる艶やかな黒髪の隙間から見えるその横顔は、まだどこか痛々しく強張ったままで、長い睫毛の端には乾いた涙の跡が白く微かに光っていた。俺は彼女を起こさないよう、衣擦れの音すら立てずに静かにベッドを抜け出した。バスルームへ向かい、蛇口から出る冷たい水で何度も顔を洗う。鏡に映る自分の顔には、学校で「誰にでも親切な優等生」をやっている時のあの嘘くさい笑みはなかった。ただ、一人の大切な少女の涙を前にして、自分の無力さに歯噛みした、泥臭い人間の顔がそこにはあった。一学期の頃の、周りに合わせて死んだように生きていた俺なら、こんな風に誰かのために心を痛めることすらなかっただろう。 

部屋に戻り、自分のベッドの端に腰掛けて、静かにその時を待った。足元に置かれたカバンの奥には、二位の優秀賞の盾がひっそりと収まっている。これを手にするために、俺たちは親に二泊三日の最大級の嘘を吐き、学校の芸能活動禁止という厳しい校則を破って、誰も俺たちを知らない遠くの街までやってきた。一位に届かなかったという冷徹な事実の重みが、静まり返ったビジネスホテルの空気の中で、じわじわと胸の奥を締め付けてくる。時間は残酷なほどにゆっくりと進み、部屋の静寂が耳の奥で嫌に響いていた。 

それから静かに時間が流れ、二時間が経った午前九時。シーツがカサリと音を立てて、乃愛の身体が小さく身じろぎした。


「……んっ……」 


長い睫毛が微かに震え、ゆっくりと、その切れ上がった瞳が開かれる。乃愛はまだ夢と現実の境界線にいるような、うつろな目で白い天井をじっと見つめていた。しかし、数秒が経過し、自分が他県のビジネスホテルのツインルームにいること、そして、昨日の一位を逃したという過酷な現実が脳裏にフラッシュバックしたのだろう。彼女の瞳の奥に、じわじわと昨夜の悲しみの残響が戻ってくるのが分かった。乃愛は小さく、白く綺麗な歯で唇を噛み締めると、ベットに倒れ、掛け布団を首元までずるずると引き上げて、自分の顔を半分ほど隠してしまった。まだ、その胸の奥にある悔しさと悲しさは、完全に消え去ってはいないようだった。一匹狼の歌姫としてのプライドが、朝の光の中で傷口を広げている。俺は自分のベッドから静かに立ち上がり、彼女のベッドの傍らへとゆっくり歩み寄った。 

そして、二つのベッドのわずかな隙間から、布団の外へと差し出されていた、彼女の少し指先が固くなった細い手を、そっと、でも包み込むような温かさで優しく握り締めた。手のひらを通じて、彼女の指先がまだ微かに強張っているのが伝わってくる。


「――乃愛、おはよう」 


俺が自然な、優しさだけを込めたトーンで語りかけると、乃愛は布団の隙間から、赤く腫らした目のまま俺をじっと見上げてきた。握り締めた彼女の手のひらは微かに冷たくて、俺が指先にカを込めると、彼女もまた、縋るように俺の手を弱々しく、でも確かに握り返してきた。


「……おはよう、魄栗。私、まだ、なんか悪い夢を見てるみたい。……やっぱり、思い出すと、すごく悔しいや」


掠れた声でポツリと呟く乃愛。その学校の教室では絶対に見せない、恋人の前でしか溢さない剥き出しの弱音に、俺の胸の奥がキュッと愛おしさで締め付けられた。


「あぁ、悔しいな。俺だって死ぬほど悔しいよ。……でもさ、せっかく親に嘘まで吐いて、二泊三日の片道切符でこんな遠くの街まで来たんだ。このまま暗い顔で特急列車に乗って帰るなんて、それこそあいつらに完全に負けたみたいで癪だろ?」 


俺はいつもの優等生としての愛想笑いではなく、ただの柳魄栗としての、最高に悪巧み染みた不敵な笑みを浮かべてみせた。


「電車の時間までは、まだたっぷりある。だからさ、帰るまでの時間、この街を思いっきり観光して楽しもうよ。美味しいもの食べて、知らない場所を歩いて、昨日までの鬱憤を全部この街に置いていこう。」 


俺の言葉を聞きながら、乃愛はしばらくじっと俺の目を見つめていた。やがて、彼女は深く息を吸い込むと、顔を隠していた布団をゆっくりと下ろし、繋いだ俺の手の温もりを確かめるようにして、今日最初の、少しだけ照れくさそうな、でも最高に綺麗な笑顔を咲かせた。


「……うん。そうだね。魄栗の言う通り、このままマゾマゾ帰るなんて、私らしくないもん。よし、街中の美味しいもの、全部魄栗に奢らせてやるんだから!」


「あぁ、望むところだ。いくらでも付き合うよ」


ホテルのチェックアウトを済ませ、重い音響機材とアコースティックギターのケースを駅の大型コインロッカーへと預けた俺たちは、身軽な姿で十月の終わりの見知らぬ街へと繰り出した。外の空気はひんやりと冷たかったが、どこまでも高く青い秋空が広がっていて、歩いているだけで昨日までのホールの閉塞感が洗い流されていくようだった。乃愛は少し大きめの黒いカーディガンの袖をきゅっと握りながら、俺の少し後ろを歩いていた。まだ完全に元気百倍というわけではないけれど、駅前の賑やかな商店街に並ぶ、見たこともない地元の食べ物や、カラフルな看板を見つめる彼女の瞳には、確実にいつもの好奇心の光が戻りつつあった。


「ねえ、魄栗、あれ何? すごくいい匂いがする!」 


乃愛が小さな指で差したのは、老舗の和菓子屋の店先から白い湯気をモクモクと立ち上げている、出来立ての『栗饅頭』の蒸し器だった。


「小腹も空いたし、食べようか。ほら、二つください」 


俺が小銭を支払い、受け取ったばかりの紙に包まれたアツアツの饅頭を乃愛に手渡す。乃愛は「わぁ、あったかい……」と嬉しそうに両手でそれを包み込み、小さな口でぱくりとかじりついた。


「んー! 美味しい! 中のあんこがすっごく濃厚。生き返るなぁ……」 


頬をリスのように膨らませて幸せそうに目を細める彼女の姿は、ステージの上で圧倒的な歌声を響かせていたあの歌姫とも、文化祭で頭ひとつ抜けて可愛かったあのメイドさんとも違う、俺だけの、ただの愛おしい「乃愛」だった。その姿を見ているだけで、俺の胸の奥の悔しさも、少しずつ温かいものへと変わっていくような気がした。


「魄栗って、学校ではいつも完璧で冷たいロボットみたいだけど、こういう時は本当に気が利くよね」


「……だから、そのロボットっていうのやめろって。俺はただ、乃愛に元気になってほしいだけだよ」


「ふふ、知ってる。ありがとう、魄栗」 


乃愛は歩きながら、誰も俺たちを知らない雑踏のなかで、そっと俺の制服の上着の袖をきゅっと掴んできた。周りを行き交う人々は、俺たちのことなど誰も気留めない。学校という檻から完全に解放されたこの真っ白な世界で、俺たちはただの男の子と女の子として、確かに同じ歩幅で歩いていた。商店街をさらに奥へと進むと、レトロな雰囲気の喫茶店や、古びた洋画のポスターが貼られた路地裏が広がっていた。乃愛は気になる店を見つけるたびに足を止め、「ねえ、あの看板のデザイン、次の曲のジャケットの参考になりそうじゃない?」とか、「この街のノイズって、私たちの地元よりも少しだけトーンが低い気がする」と、独自の視点で街の景色を音楽に変換していく。

その姿を見て、俺は彼女が本当に根っからの表現者なのだと改めて実感していた。


「あ、見て、魄栗。あそこのお店、すごく可愛い」 


彼女が足を止めたのは、手作りのガラス細工や、小さなアクセサリーを並べた雑貨屋だった。店内に入ると、色とりどりのガラス細工が光を反射してきらきらと輝いていた。乃愛はその中から、深い藍色のガラスでできた、小さな星の形をしたストラップを手に取った。


「これ、あの夏休みの最後の夜の花火の色に、ちょっと似てる」 


彼女は愛おしそうにそれを見つめ、それから少し照れくさそうに俺を見た。


「魄栗、これ、お揃いで買ってもいい?」


「あぁ、もちろん。俺が買うよ」 


二つの小さな星のストラップを購入し、お互いのカバンに付け合う。誰も俺たちを縛らない他県の街での、ささやかで、でも確かな恋人としての証。それだけで、俺たちの距離は、言葉以上に近づいたような気がした。お昼時を過ぎた頃、俺たちは地元の観光名所であるという、小高い丘の上にある古い洋館の庭園へと足を運んだ。

赤や黄色に鮮やかに色付いたモミジやイチョウの葉が、絨毯のように足元を埋め尽くしている。風が吹くたびに、カサカサと心地よい音が響き、どこか遠くで鳴る教会の鐘の音が、秋の澄んだ空気に溶けていく。庭園の奥にあるベンチに二人で並んで腰掛け、遠くに広がる他県の街並みを眺めた。


「……綺麗だね、魄栗」 


乃愛はカーディガンの裾を整えながら、ぽつりと呟いた。


「あぁ、本当に。来てよかったな」


「うん。私さ、昨日の夜は、もう世界が終わっちゃったみたいに絶望してたんだ。二位なんて、一位以外はみんな負けじゃんって、自分の歌が足りなかったんだって、すごく悔しくて。でも……こうして魄栗と並んで冷たい秋風に吹かれてたら、なんだか不思議と、また歌いたくなってきた」 


乃愛は自分の細い指先をじっと見つめ、それから、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。その瞳の奥には、昨夜の涙を乗り越えた、さらに強くて深い、本物の音楽家としての覚悟が宿っていた。


「今回の二位は、私たちがもっと凄くなるための、ただの通過点。この街に悔しさは全部置いていく。でも、あの大喝采の記憶と、魄栗と手を繋いで越えたツインの夜の温もりは、全部私の新しい歌のエネルギーにするから。……ねえ、魄栗。次は、冬の大会だね」


「あぁ。冬の大会だ。次は絶対に、誰も文句のつけられない完全優勝をもぎ取って、君を世界一のステージの一番高い場所に立たせてあげるよ。俺の人生のすべてをかけて、乃愛の音を支え続けるからさ」 


俺が本気でそう告げると、乃愛は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、今日一番の、曇りなき無敵の笑顔を咲かせた。


「うん! 期待してるよ、最高のパートナー!」 


庭園のベンチで、俺たちはこれからの音楽のこと、次の冬の大会に向けてどんなフレーズが必要か、そして学校に戻ってからの作戦について、時間を忘れて話し合った。クラスの出し物で忙しかった一週間を取り戻すように、お互いの言葉を重ね合わせる。彼女の口から次々と飛び出す新しいアイデアは、どれも熱を帯びていて、聴いているだけで俺の胸の奥の熱い塊が激しく脈打ち始めるのが分かった。

夕方が近づき、楽しい観光の時間も終わりに近づいていた。コインロッカーから重い機材とギターケースを取り出し、俺たちは地元の駅のホームへと戻ってきた。16時発の、帰りの特急列車が重々しい金属音を立てて滑り込んでくる。二泊三日の嘘を抱えたまま、俺たちの特別なモラトリアムが、もうすぐ終わろうとしていた。車内に乗り込み、往路と同じボックス席に向かい合わせで腰を下ろす。 

プシュー、と重い鉄の扉が閉まり、列車がゆっくりと動き出した。窓の外を流れていく他県の街並みが、次第に遠ざかり、小さくなっていく。乃愛は窓の外を見つめながら、膝の上のギターケースを優しく撫でていた。その表情には、もう朝のような悲しみの色はなかった。ただ、次なる逆襲を見据えた、静かな闘志が宿っている。


「夏休みから始まって、文化祭があって、この秋のフェス。……本当に、濃い数ヶ月だったなぁ」


「そうだな。俺なんて、ただ周りに合わせて仮面を被って死んだように生きてただけなのに、乃愛に出会ってから、毎日がスリリングで、心臓がいくつあっても足りないよ」


「あはは! 優等生の魄栗を狂わせるのが、私の最高の快感なんだから。新学期が始まっても、学校ではただの他人だけど、放課後になれば私たちは最強の共犯者だからね」 


乃愛はニッと悪戯っぽく笑い、そっと俺の手元へ自分の手を伸ばし、俺の指先をしっかりと握り締めた。繋いだ手のひらから伝わってくる確かな熱。 

列車はガタンゴトンと規則正しい音を立てながら、俺たちの住む、あの息苦しい檻のような日常へと向かって、夕闇の中を突き進んでいく。惜しくも二位という結果に終わったけれど、俺たちの胸には、生涯忘れない最大の財産と、お互いへの確固たる愛が刻まれていた。 

灰色だった俺の日常を鮮やかに塗り替えてくれた少女の横顔を、街灯の光が途切れる車窓越しに見つめながら、俺は次の冬のステージへの決意を、静かに胸の奥で固めていた。

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