第八章 秋の新人王決定戦
十月の終わり、午前二時。
世界が完全に寝静まり、無機質な街灯だけが冷たいアスファルトを青白く照らす深夜の駅前ロータリー。昼間の喧騒が嘘のように消え去り、耳を澄ませば、遠くの幹線道路を走る長距離トラックのロードノイズだけが、かすかに地鳴りのように響いていた。
改札口の脇、二人で並んで冷たいジュースを奢り合った自動販売機の前。その淡い光の中に、俺たちは立っていた。親にはそれぞれ「クラスの男子と他県へ二泊三日の旅行に行ってくる」「他校との合同音楽合宿に二泊三日で参加してくる」という、人生で最大級の嘘の盾を突きつけて、真夜中に家を抜け出してきたのだ。
カバンの中には二泊三日分の着替えが詰まった大きな荷物と、俺たちの魂そのものであるノートPCやポータブルミキサーなどの音響機材一式、そして乃愛の愛機であるアコースティックギターのケース。
「……おはよう、魄栗。本当に、本当に来ちゃったんだね」
少し大きめの黒いカーディガンを羽織った乃愛が、寒そうに首をすくめながら、でも、その切れ上がった瞳には一点の曇りもない強い光を宿して俺を見上げた。ハーフアップにされた黒髪が、朝の冷たい秋風に小さく揺れている。いつもなら学校の隣のクラスで「一匹狼の伏波さん」を演じている彼女の指先が、ギターケースのストラップを握りしめたまま、かすかに震えているのを俺は見逃さなかった。
「あぁ。ここからは、もう言い訳の効かない、本当の片道切符だ」
午前二時半発の、始発よりもさらに早い深夜の臨時特急列車。誰もいない薄暗いプラットホームに、重々しい金属音を立てて滑り込んできた列車の扉がプシューと開く。俺たちは吸い込まれるようにして車内へと足を踏み入れ、ボックス席に向かい合わせで腰を下ろした。再び重い扉が閉まり、列車がゆっくりと動き出す。窓の外には、街灯の光が飛び去っていく真っ暗な景色だけが広がっていた。俺たちの見慣れた灰色の通学路も、息苦しい学校の校舎も、すべてが夜の闇の向こうへと置き去りにされていく。誰も俺たちを知らない、誰も俺たちに期待なんかしていない、真っ白な世界。そこへ向かって、列車はガタンゴトンと規則正しい音を立てながら、速度を上げて突き進んでいく。車内は俺たち以外に乗客の姿はほとんどなく、無機質な冷房の風の音だけが響いていた。その静寂が、かえって俺たちの心臓の鼓動をうるさいほどに大きく膨らませていく。
乃愛は窓の外をじっと見つめたまま、膝の上のギターケースをまるで命綱のようにぎゅっと抱きしめていた。その横顔は、いつもの生意気な不敵さは影を潜め、極限の緊張のせいでどこか青白く強張っている。親に最大級の嘘を吐き、学校の校則を破って未知の大型ステージへと飛び出していく恐怖と孤独は、十六歳の彼女の小さな身体にはあまりにも重すぎるものだった。俺は彼女の手元へそっと自分の手を伸ばし、その冷たくなっていた指先を優しく握り締めた。
「大丈夫だよ、乃愛。俺がずっと隣にいるから」
俺の言葉に、乃愛はハッと我に返ったように俺を見ると、繋いだ手のひらから伝わる熱を確かめるようにして、小さく「うん……」とだけ呟き、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
数時間の移動を経て、列車はようやく目的地の関東の地方都市へと到着した。
改札を抜けると、見たこともない巨大な駅前ロータリーと、地方特有の、肌を刺すような冷たい秋風が俺たちを迎えた。まずは重い機材と荷物を置くため、俺たちは事前に予約しておいた、駅近くのビジネスホテルへと向かった。自動ドアをくぐり、暖房の効いたホテルのロビーへと入る。大理石の床にローファーの音がコツ、コツと響く。フロントの向こうでは、制服を着たスタッフが丁寧な一礼で俺たちを出迎えた。フロントの前に立ち、俺が「予約していた柳です」と告げてチェックインの書類を書き始める。横に立つ乃愛は、ギターケースのストラップをきゅっと握り締めたまま、さっきから頑なに床の一点を見つめて硬直していた。
「 柳魄栗様、二名様ですね。二泊三日、ツインルームでのご用意となっております。こちらがカードキーです」
スタッフから手渡された、一枚のプラスチックの鍵。同じ部屋、同じ空気、二つのベッド。その事実が、フロントのチェックインという手続きを経て、あまりにもリアルな形となって俺たちの全身に押し寄せてきた。
「あ、ありが、とうございます……っ」
乃愛は蚊の鳴くような声でそう呟くと、逃げるようにしてエレベーターホールへと早足で歩き出した。ハーフアップの隙間から見える彼女の耳たぶが、ロビーの照明のせいだけではなく、完全に真っ赤に染まっているのを、俺はすぐ後ろからそっと見つめていた。
エレベーターを降りて部屋のドアを開けると、そこには一つの空間に、少しだけ距離を空けて綺麗に配置された二つのシングルベッドが並んでいた。同じ部屋、同じ空気、二つのベッド。一つの部屋に乃愛と二人きりで閉じ込められているという事実が、ツインルームという形になってあまりにもリアルに押し寄せてくる。荷物を下ろした俺たちは、お互いに目を合わせることすらできず、部屋の狭い通路ですれ違うだけで心臓が跳ね上がるほどの猛烈な緊張感に包まれていた。けれど、ベッドの上に重い荷物を置き、最小限の機材とギターだけをまとめ直すと、俺たちの意識は再び、数時間後に迫った本当の戦場へと切り替わっていった。
午前六時。まだ夜が明けきらない、薄暗くてひんやりとした空気のなかを、俺たちは『全国ティーンズ・ロック・フェスティバル――秋の新人王決定戦』の会場である巨大なイベントホールへと向かった。楽屋裏の重い防音扉を押し開けて足を踏み入れた瞬間、そこは夏のあのライブハウスとは比較にならないほどの、圧倒的な熱気とプレッシャーに満ち溢れていた。
朝九時からの全体リハーサルおよび機材チェック。ステージの袖に陣取った俺たちの目の前で、先行して音出しを行う全国の強豪バンドたちの演奏が始まった。ズドォォォン!!! お腹の底を直接殴るような、地鳴りのような重低音が、まだ観客のいない空っぽの巨大なフロアを激しく揺さぶる。
ステージの上で躍動しているのは、地方予選を勝ち抜いてきた同世代のモンスターたちだ。プロのレベルからすでに声をかけられているという噂のバンドや、何年もライブハウスを回り続けてきた奴らの鳴らす音は、あまりにも洗練されていて、あまりにも上手かった。
ツインギターの歪んだコードが完璧なハモりを見せ、手数の多すぎるドラムと重厚なベースが、空間の空気を完全に支配している。一曲のなかに詰め込まれた圧倒的な構成力、視線を一瞬とも逸らさせない圧倒的なフロントマンのカリスマ性。優等生を演じて生きてきた俺の小賢しい理屈なんて一瞬で吹き飛ぶほどの、本物の輝きがそこにはあった。何より、周りのバンドはドラムやベース、専属のマネージャーや機材スタッフを何人も従えているような本格的なグループばかりだ。
対する俺たちは、ステージに立つギタリスト兼ボーカルの乃愛と、裏方ですべての音をコントロールする音響(PA)担当の俺。たったの二人きり。ふと隣を見ると、乃愛は大きなギターケースを背負ったまま、壁に背を預けてじっと前を見つめて微動だにしていなかった。他のバンドの、あの夏よりもさらに凄まじい「上手さ」と圧倒的な音の壁に感動し、完全に圧倒されてしまったのだろう。一匹狼の無敵の歌姫だったはずの彼女の身体が、ガタガタと全身を激しく震わせているのを、俺はすぐ隣で目撃した。彼女の顔からは完全に血の気が引き、呼吸が浅くなっている。
「……魄栗、私、あんな風に歌えるかな。あんな凄い音の壁の中で、私一人の声、ちゃんと届くのかな……」
消え入りそうな声で弱音を吐く乃愛。その細い肩を、俺は両手でがっしりと掴んで、正面から彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。俺の手のひらを通じて、彼女の限界に近い恐怖の震えが伝わってくる。
「届くに決まってるだろ。何言ってるんだよ、乃愛。あの夏から、文化祭を越えて、俺たちがどれだけ魂を削ってあの三曲目を作ってきたか、一番近くで見てきたのは俺だ。リラックスしてこーぜ」
俺は優しく、でも確固たる決意を込めて、彼女の瞳の奥へ言葉を叩き込むように声を響かせた。
「他のバンドが何人いようが関係ない。ステージに立つのが君一人でも、前より圧倒的に成長した俺の音響操作と、乃愛の最高の歌があれば、絶対にあの人たちを圧倒できる。他の有象無象のスタッフが何十人いるより、俺が後ろにいて、君が前で歌う。それが俺たちの、最強の、無敵のオーケストラだろ。……自分を信じろ、パートナー」
俺の言葉に、乃愛はハッと大きく目を見開いた。彼女の瞳の奥に溜まっていた涙が、ステージの照明の光を反射してきらりと輝く。彼女は深く、深く息を吸い込むと、掴んでいた俺の手に自分の手を重ね、それから、いつものあのギラギラとした無敵の光を瞳に宿して、力強く頷いた。
「……うん。そうだよね。私には魄栗がいる。それだけで、世界中を敵に回したって、負ける気がしないよ」
そしてあっという間にリハーサルは終わり本番、俺たちは24番目結構後だから少し安堵していたが、思ったより早く出番が来た。俺たちの名前が会場にアナウンスされた瞬間、イベントホールの空気は一瞬だけ、奇妙な静寂に包まれた。前のバンドたちが大音量の爆音で盛り上げた後だ。アコースティックギターを一本だけ抱えてステージのセンターへ進む女子高生の姿に、観客たちはどこか肩透かしを喰らったような、静かなざわめきを漏らしていた。
(――大丈夫だ、乃愛ここからだ)
俺は会場の真ん中に設置された、巨大なプロ仕様のPAブースへと滑り込んだ。持ち込んだノートPCとシステムを接続し、無数のツマミとフェーダーが並ぶ機材盤に両手をかける。周りの空気を読んで生きてきた俺の仮面は、もうここにはない。今、この瞬間だけは、伏波乃愛の音を完璧に支配する絶対的なエンジニアとしての俺が存在していた。乃愛が静かに息を吸い、ギターの第一音を力強く爪弾いた。
その瞬間、俺は彼女の生音に、あらかじめ用意していた重厚なベーストラックと、同期ドラムの音源を、一分の狂いもなく完璧なタイミングで融合させてフロアへ解き放った。
ドンッ!!!
地響きのような重低音がイベントホールを震わせた瞬間、フロアの観客たちが一斉にハッと目を見張った。アコギ一本の弾き語りだと思っていた空間が、一瞬にして、巨大なスタジアムロックのような圧倒的な音響空間へと変貌したのだ。
そして、文化祭の直前に完成した、あの三曲目の弾丸が炸裂した。ハイドレンジアのような圧倒的な声量と、天を突き抜けるようなハイトーンに乗って、俺が仮面の下から引きずり出してきたドロドロとした本音、息苦しさ、世界への違和感が、フロアにいる全員の鼓膜へ容赦なく突き刺さっていく。俺はPAブースで、彼女の歌声の微かな揺れ、感情の起伏に完全に合わせて、リアルタイムでエフェクトの深さをコントロールし続けた。サビに入る瞬間にディレイを深くかけ、彼女の声がまるで何万人もの絶叫となって響き渡るような劇的な空間を作り出す。他のバンドのようにステージ上のメンバーはいなくても、前より圧倒的に成長した俺がここで、彼女の背後にある全ての音を完璧にビルドアップさせていた。
最後のコードがジャラン、と鳴り響き、俺がフェーダーをゆっくりと下げていく。一瞬の静寂の後、床が抜けるほどの地鳴りのような大歓声と、嵐のような拍手が会場全体から巻き起こった。ステージの上の乃愛は最高に格好よかった。
最高の時間はすぐに終わってしまった。そしていつの間にか、全アーティストの演奏が終わっていた。
しかし結果発表で、前代未聞の事態が起きた。
「えー、審査委員長の指示により、大変異例のアナウンスをさせていただきます!今回の『秋の新人王決定戦』ですが……参加アーティストのレベルが、特に上位二組のクオリティが良すぎて、現時点で審査員の意見が完全に真っ二つに割れております!一位をどちらにするか今夜中に緊急審議を行うため、最優秀賞の結果発表は明日公開することになりました!」
司会の男がマイク越しに困惑した声を響かせると、会場内は騒然となった。審査が難航するほどの、凄すぎるデッドヒート。結果はお預けとなり、俺たちは張り詰めた緊張感と、明日への巨大な期待を抱えたまま、ホテルの部屋へと戻るしかなかった。
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カードキーでツインルームのドアを開け、明かりをつける。
壁に設置された小さな液晶時計に目をやると、時刻はすでに夜の二十二時を大きく回っていた。部屋に入った瞬間、乃愛は張り詰めていた糸が完全に切れてしまったように、カバンや上着を床に放り出し、自分のベッドの上にバタンと倒れ込んでしまった。
「はぁー……もうダメ、緊張と期待で、本当に心臓が破裂しそう……」
乃愛はベッドの上で、膝を抱えるようにして小さく丸くなっていた。夏の大会での悔しい三位。そこから文化祭を挟んで、死ぬ気で磨き上げてきた三曲目の弾丸。ステージの上では無敵の自信に満ち溢れていたはずの彼女の身体が、明日の一位発表への不安と、緊急審議になるほどの凄まじいデッドヒートの興奮の余韻で、いまだにガタガタと微かに震え続けている。俺はその姿を見て、たまらなく愛おしくなり、そして彼女の背負っている重圧を少しでも和らげてあげたくて、静かに歩み寄った。彼女のベッドの端に腰を下ろし、丸まっているその小さな身体を、後ろからそっと包み込むようにして優しくハグした。
「――っ、魄栗……?」
乃愛が驚いたように身体を強張らせ、ハーフアップを解いた黒髪の隙間から、真っ赤になった横顔を覗かせてきた。
「大丈夫だよ、乃愛。あんなに凄い演奏ができたんだ。会場にいた全員が、俺たちの音に圧倒されてただろ。審査員の意見が割れてるってことは、それだけ俺たちの音楽が、あいつらの既成概念を派手にぶち壊したって証拠だよ。一位は、絶対に俺たちだ」
俺は彼女の耳元で、優しく、でも確固たる確信を込めて語りかけた。抱きしめた彼女の身体は驚くほど細くて、華奢で、いつも俺の手を引いてくれる強気なギタリストとは到底思えないほど、ただの女の子だった。乃愛はしばらくじっと俺の腕の中で固まっていたけれど、やがて、俺の衣服に伝わってくる体温に安心したように、小さく、深く息を吐き出した。
「……うん。そうだよね。私、魄栗が後ろにいてくれたから、今までで一番、最高の歌が歌えたんだもん。怖がることなんて、何もないよね」
乃愛はゆっくりと身体を反転させると、俺の胸元にその小さな頭を預け、制服のシャツの裾をきゅっと両手で握りしめてきた。誰も俺たちを知らない、他県のビジネスホテルのツインルーム。外の冷たい秋風を遮った静寂の空間の中で、俺たちはただお互いの体温を分け合うようにして、静かに抱き合い続けた。不純な意味なんて何一つない、お互いの存在が、お互いの心の避難所であると証明するための、純粋で、ひどく温かいハグだった。
「ねえ、魄栗。……このまま、眠るまで隣にいて?」
「あぁ。隣にいるよ。約束通り、夜が明けるまで絶対に手は離さないからさ」
俺は彼女を自分のベッドまで優しく送り、隣のベッドから伸ばされた彼女の細い指先を、しっかりと自分の手で握り締めた。繋いだ手のひらから、次第に穏やかな、規則正しい寝息のテンポが伝わってくる。窓の外からは、夜の静かな静寂が、部屋を優しく包み込んでいた。仮面を被った優等生と、黒髪のギタリストの、最高にピュアで、息が詰まるほどに愛おしい遠征の一日目が、静かに幕を閉じ、心地よい眠りへと溶けていった。




