第七章 開戦に向けて
十月の澄んだ秋空は、どこまでも高くて青かった。
学校最大のイベントである『秋華祭』の当日。校内は、朝から人工的な喧騒と、浮足立った生徒たちの熱気で完全に沸騰していた。廊下には手作りの看板やカラフルな装飾が溢れ、中庭からは軽音部の騒がしいドラムの音が地響きのように鳴り響いている。
俺たちのクラスの出し物は、体育館の特設ステージで行われる演劇『常緑の檻』だった。進行表を片手に、俺は体育館の壁際に設置された臨時のミキサーブースに陣取っていた。ヘッドホンを首にかけ、無数のツマミとフェーダーが並ぶ機材盤を睨みつける。学校で行われる普通の文化祭の、普通のクラス演劇。表舞台に立つクラスメイトたちの演技は、お世辞にも「上手い」と言えるものではなかった。セリフの抑揚は棒読み一歩手前だし、緊張のせいでタイミングが狂ったり、セリフを噛んだり、立ち位置を間違えたりといった小さなミスが、開始早々からあちこちで頻発していた。客席の生徒たちからも、どこか冷やかし混じりの、退屈そうなざわめきが漏れ聞こえてくる。
(――だけど、それで終わらせるつもりはない)
俺の指先が、滑らかにフェーダーを押し上げた。役者たちの演技が拙いのなら、その背後に流れる「音」で、世界観のすべてを補完し、強制的に観客を引き込めばいい。主人公が絶望するシーンでは、生ぬるい風の音のSEを絶妙な音量でフェードインさせ、リバーブを深くかけてセリフの残響を体育館全体に響かせる。クライマックスの決意の場面では、事前に何度もタイミングを調整しておいた、胸を締め付けるようなストリングスのBGMを、役者の声のトーンが一番綺麗に抜けるイコライザーで完璧に融合させて爆音で流した。
視覚的な拙さを、聴覚的な圧倒的クオリティで覆い隠す。他県でのライブハウスを経験し、乃愛の無茶な要望に三ヶ月間応え続けてきた俺の音響技術は、普通の高校生の文化祭のレベルを遥かに超越していた。退屈そうにしていた客席の生徒たちが、劇の進行と共に、いつの間にか静まり返り、ステージの上の世界へ完全に釘付けになっていくのが分かった。舞台上のクラスメイトたちも、音の演出に背中を押されるようにして、後半になるにつれて奇跡的に熱のこもった演技を見せ始めた。そして、幕が下りる。
一瞬の静寂の後、体育館を揺るがすような、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。
「柳くん、凄かったよ!BGMのタイミング神がかってた!」
「マジで映画観てるみたいだったわ!ありがとう、柳くん!」
ステージの裏側で、クラスメイトたちが興奮気味に俺の周りに集まってきた。俺はいつもの「完璧な優等生」の笑みを貼り付け、「みんなの演技が後半すごく熱こもってたからだよ、お疲れ様」と、無難で謙虚な言葉を返した。
こうして、俺のクラスの出し物は、大成功という形で幕を閉じた。裏方としての役割を完璧に全遂げ、俺はミキサーの電源を落とした。
「おい柳!劇の片付け終わったんだろ?隣のクラスがやってるメイド喫茶、マジでエグいクオリティの奴がいるって噂だから、今から一緒に行こうぜ!」
ブースの撤去を終えた俺の肩を、クラスの友人たちがガシガシと叩いてきた。断る理由も、断るつもりもなかった。むしろ、心臓がその言葉を聞いた瞬間から、うるさいほどのビートを刻み始めている。
「あぁ、いいよ。行こうか」
俺は平静を装った声を再生しながら、友人たちと共に二組の教室へと向かった。教室の入り口には、手書きの可愛いフォントで『Cafe de Noire』と書かれた看板が掲げられ、入店を待つ他校の生徒や男子生徒で、廊下まで長い行列ができていた。
「うわ、マジで並んでるじゃん。でも、並ぶ価値あるらしいぞ。ほら、中見てみろよ」
友人が指差す先、教室の引き戸のガラス窓から、店内の様子がチラリと見えた。白と黒を基調としたシックな内装。クラシカルなエプロンを身にまとった女子生徒たちが、慣れない手つきでオムライスやチェキを運んでいる。
そして、その中心、注文のトレイを両手で抱えて、テーブルの間を静かに歩く一人の少女の姿が、俺の視線を完全に捕らえて離さなくなった。
――伏波乃愛だ。
美術準備室での衣装合わせの時にも見たはずの、あのクラシカルなメイド服。けれど、文化祭の照明と、大勢の観客の視線に晒されている今の彼女は、あの薄暗い部屋で見た時とは比べ物にならないほどの、圧倒的な「華」を放っていた。
艶やかな黒髪ロングは、毛先だけが綺麗に巻かれてハーフアップにされ、真っ白なヘッドドレスが、彼女の小さな頭の上に完璧なバランスで鎮座している。フリルがふんだんにあしらわれたエプロンの紐が、彼女の細い腰回りをきゅっと引き締め、そこから伸びる絶対領域と黒いニーハイソックスの境界線が、眩しいほどに美しかった。
何より、彼女の容姿は、店内の他のどの女子生徒たちとも「頭ひとつ抜けて」可愛かった。ただ可愛いというだけではない。ステージの上で何万人ものネットの観客を魅了し、本物のライブハウスで大喝采を浴びてきた彼女だけが持つ、独特のオーラ――凛とした一匹狼の気高さと、メイド服という可憐な衣装のギャップが、暴力的なまでの魅力を生み出していた。店内にいる他校の男子高校生も、うちの学校の連中も、誰もが食事の手を止めて、彼女が通路を通り過ぎるたびに見惚れていた。あちこちから「おい、伏波さん、ヤバすぎだろ……」「普段あんなにクールなのに、メイド服とか反則じゃん」という、ため息混じりの囁き声が聞こえてくる。
「――いらっしゃいませ。お帰りなさいませ、ご主人様」
ついに俺たちの順番がまわってきて、席に案内される際、乃愛が俺たちのテーブルの前に立った。彼女は、クラスの他の連中に対しては、どこかツンとした、でも完璧に丁寧な「メイドさん」の営業スマイルを浮かべてみせた。友人たちは「うわ、本物だ……」「メニュー決まんねえ……」と完全にノックアウトされている。乃愛がトレイを胸元に抱え、注文を取るために俺の前に一歩歩み寄った。
その瞬間、彼女の長い睫毛が微かに揺れ、切れ上がった瞳が、真っ直ぐに俺の目を捕らえた。周りの連中には絶対に気づかれないような、ほんの一瞬、わずか一ミリだけの、悪戯っぽく、そしてひどく甘い、恋人だけの視線。
(……約束通り、一番前で見にきてくれたんだね)
彼女の瞳が、無言のままそう語りかけてきているような気がした。俺はポーカーフェイスを維持しながら、「アイスコーヒーを一つ」とだけ注文した。乃愛は「かしこまりました、ご主人様」と、綺麗な所作で一礼し、フリルの裾を軽やかに揺らしながら、再び人混みの中へと消えていった。その背中を見つめながら、他の男たちの視線が彼女に集まるたびに、俺の胸の奥で、独占欲に似た熱い苦しさがじりじりと広がっていくのを感じていた。
狂騒の文化祭がすべて終了し、片付けも終えた後、夜からはクラスの打ち上げが行われた。駅前の居酒屋の座敷を借り切り、ソフトドリンクと山盛りの唐揚げで、クラスメイトたちは劇の大成功を祝い、大騒ぎで盛り上がっていた。俺はここでも「完璧な優等生の柳くん」として、みんなのコップにジュースを注ぎ、楽しげに会話の輪の中心で笑っていた。けれど、俺の心は、ずっと上の空だった。
打ち上げも、きっとどこか別の場所で行われているのだろう。乃愛は今頃、クラスの奴らに囲まれて、今日のメイド姿を茶化されたり、褒められたりしているのだろうか。あのメイド服はもう脱いでしまったはずなのに、脳裏に焼き付いた彼女の姿が、どうしても頭から離れなかった。
時計の針が、夜の21時を回る頃。一次会が解散となり、二次会へ行こうと騒ぐ連中を「ごめん、俺、明日ちょっと朝早いから」といつもの愛想のいい嘘で煙に巻き、俺は一人、夜の街へと抜け出した。賑やかな駅前ロータリーの明かりが遠ざかり、静まり返ったいつもの通学路へと足を踏み入れる。街灯が等間隔でぽつぽつと灯る夜道は、すっかり秋の冷たい空気に満たされていて、甚平を着て歩いたあの夏休みの最終日の夜が、ずいぶん昔のことのように感じられた。
一人で歩く帰路。お祭りの終わりのような、奇妙な寂しさと虚脱感が、足元からじわじわと這い上がってくる。ポケットの中で、スマホが短く震えた。画面を見ると、一件の通知。
『駅の裏の、いつもの自動販売機の前にいるよ。寒くて干からびそう』
その文字を見た瞬間、俺の足は、思考よりも先に全力で走り出していた。アスファルトを蹴るローファーの音が、静かな夜の住宅街に響き渡る。息を切らしながら、冷たい秋の風を切り裂いて、俺は駅の反対側にある、あの夏の終わりに二人でジュースを奢り合った自動販売機の前へと向かった。暗い路地の隅、自動販売機のカラフルな電光の中に、彼女はぽつんと佇んでいた。メイド服は当然もう着ていなくて、いつもの見慣れたセーラー服の上から、少し大きめの黒いカーディガンを羽織っている。
首元を寒そうにすくめながら、両手で温かい缶コーヒーを抱えているその姿は、さっきまで教室で誰もが見惚れていた、あの完璧な歌姫とも、頭ひとつ抜けたメイドさんとも違う、ただの「乃愛」だった。
「……はぁ、はぁ、待たせて、ごめん」
俺が息を切らせて立ち止まると、乃愛はハッと顔を上げ、それから、今日一番の、心からの笑顔を咲かせた。
「遅い、魄栗。打ち上げ、楽しかった?クラスの女子にチヤホヤされて、私のこと忘れてたんじゃない?」
「忘れるわけないだろ。……ずっと、乃愛のメイド姿のことばかり考えてたよ」
俺が歩み寄りながらストレートに本音を伝えると、乃愛は「なっ……!」と言葉を詰まらせ、手元に抱えていた缶コーヒーで自分の顔を半分隠してしまった。カーディガンの袖口から覗く彼女の耳たぶが、みるみるうちに赤くなっていく。
「……本当に、言うようになったじゃん、魄栗。付き合い始めてから、そういう直球ばっかり投げてくるの、反則だと思う」
「誘い出してきたのは乃愛のほうだろ。こんな時間に、寒がってまで待っててさ」
俺は自動販売機の前に立ち、自分の分のブラックコーヒーのボタンを押した。ガコン、と重い音が静かな路地に響き、取り出した冷たい缶を手のひらで転がす。
「だって、一週間、学校の中では全然『魄栗』って呼べなかったんだもん。隣のクラスの伏波さん、をやるの、結構疲れるんだからね」
乃愛は少しだけ唇を尖らせ、一歩、俺との距離を詰めてきた。街灯のオレンジ色の光が、彼女のハーフアップにされた黒髪の輪郭を淡く縁取っている。
「今日の劇、見てたよ。魄栗の音、やっぱり最高だった。舞台の上のあいつらの演技、すっごく下手くそだったのにさ、魄栗が音を鳴らした瞬間、体育館が別の世界に変わったの。私、客席の一番後ろで、やっぱり私のパートナーは世界一の天才だなって、誇らしかったんだから」
「……ありがとう。でも、俺のほうこそ、乃愛のクラスに行ったら、頭ひとつ抜けて可愛いメイドさんがいたから、気が気じゃなかったよ。周りの奴らがみんな乃愛に見惚れててさ、正直、生きた心地がしなかった」
俺が苦笑交じりに言うと、乃愛は缶コーヒーを、自販機の横のゴミ箱の上にコトと置き、俺の制服のワイシャツの胸元を、両手できゅっと掴んできた。夏の終わりの祭りの時と同じ、彼女の少し指先が固くなった手のひらの熱が、服越しに伝わってくる。
「周りの奴らなんて、どうでもいいよ。私が今日、あんな恥ずかしい格好して、世界で一番可愛いメイドさんになったのはさ……全部、魄栗に見せるためなんだから」
乃愛はうつむき加減に、でも、真っ直ぐな強い瞳で俺の目を見上げてきた。
「私の最初の観客で、私の唯一の共犯者で、私の大好きな恋人の魄栗にさ、一番『可愛い』って思われたかったの。……だから、他の奴らが見惚れてようが、私の目は、ずっと魄栗のことしか探してなかったんだよ?」
その言葉が、俺の胸の奥の独占欲を、そして愛おしさを、限界まで跳ね上げた。学校という檻の中で優等生を演じ、周りに合わせて死んだように生きていた日々。それが、目の前のこの少女によって、どれほど救われ、どれほど鮮やかな世界に変えられたことか。俺は、彼女の胸元を掴む両手を、自分の大きな手でそっと包み込んだ。寒さで少し冷たくなっていた彼女の指先が、俺の熱を吸い取るようにして、ゆっくりと温まっていく。
「あぁ。世界で一番、宇宙で一番可愛かったよ、乃愛。……俺だけのものにしておきたいって、本気で思った」
「ふふ、もうとっくに魄栗のものだよ、私は」
乃愛は嬉しそうに目を細め、そのまま、俺の胸元へとその小さな頭を預けてきた。ハーフアップにされた黒髪から、微かに香るいつもの甘いシャンプーの匂い。文化祭のすべての狂騒が終わり、夜の21時を過ぎた静寂の街の中で、俺たちはただお互いの体温と、トクトクと重なる心臓の鼓動だけを確かめ合っていた。
「……ねえ、魄栗。三曲目、完成したんだよね」
俺の胸に顔を埋めたまま、乃愛がくぐもった声で、でもどこか弾んだトーンで呟いた。
「あぁ。歌詞は完璧だ。文化祭が終わった明日から、すぐにレコーディングを始めよう。秋の新人王決定戦、エントリーの期限はもうすぐだからな」
「うん! この文化祭で溜まったエネルギー、全部その三曲目にぶつけて、今度こそ関東のフェスで、完全優勝をもぎ取ってやろうね」
乃愛は俺の胸元で小さく笑い、俺の手をぎゅっと握り直した。
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文化祭の熱狂が嘘のように静まり返った十月の中旬。
南校舎四階の空き教室には、いつものように秋の冷たい夕暮れが差し込み、俺たちのノートと機材を茜色に染め上げていた。
手元にあるスマホの画面には、関東の大型フェス『全国ティーンズ・ロック・フェスティバル――秋の新人王決定戦』の運営事務局から届いた、エントリー通過の公式通知メールが表示されている。俺たちが魂を削って完成させた三曲目のデモ音源は、並み居る強豪アマチュアバンドのなかで、またしても頭ひとつ抜けた評価を獲得し、最終本番ステージへの進出を決定づけていた。
そこまでは、最高だった。完璧なシナリオだった。しかし、メールの下部に記載されていた詳細な「タイムスケジュールおよび参加規定」に目を走らせていた俺の指先が、ある一目でピタリと止まった。
「……なぁ、乃愛」
俺はミキサーのツマミを弄っていた手を止め、向かいの席で新しいコード進行をノートに書き留めていた乃愛を呼んだ。
「ん? なに、魄栗。三曲目のアレンジ、またどこか気になるところあった?」
「いや、曲の話じゃない。……これ、フェスのスケジュールなんだけどさ」
俺はスマホの画面を、机の真ん中を滑らせて乃愛の目の前へと差し出した。乃愛は不思議そうな顔で画面を覗き込み、俺が指差した部分を音読し始めた。
「えっと……『大会は二日間にわたり開催されます。出演アーティストは初日の午前九時に現地会場へ集合し、全体リハーサルおよび機材チェック。二日目の本選終了後、夜二十二時からの閉会式まで全員参加が義務付けられます』――」
そこまで読み上げて、乃愛の声が不自然に途切れた。彼女の綺麗な黒髪が、驚きで小さく揺れる。切れ上がった瞳が画面の文字と俺の顔を何度も往復し、やがて、その白い頬がみるみるうちに赤く染まっていくのが分かった。
「これって……つまり、その……」
「あぁ。俺たちの住む街から関東の会場までは、片道でどうやっても四時間以上かかる。初日の朝九時集合で、二日目の夜二十二時解散。……どう考えても、日帰りは不可能だ。流石にどうしようか」
俺は腕を組み、深くため息をついた。付き合うことになった初めての学校行事である文化祭を乗り越え、俺たちの絆はより深く、特別なものになっていた。けれど、俺たちはまだ、どこにでもいる普通の高校一年生なのだ。高校一年の秋、男女二人きりで他県へほぼ二泊三日の遠征旅行。
――流石に、これはハードルが高すぎる。
何より、うちの学校は芸能活動禁止の校則がある。それだけでも綱渡りなのに、親に「友達と他県へ旅行に行ってくる」と嘘を吐くとしても、男女二人きりだなんて知れたら一発で大問題になる。優等生の柳魄栗としての「安全な檻」の立場が、音楽以外の理由で崩壊しかねない。それに、何より付き合ってまだ間もない俺たちが、同じ宿に泊まるということ自体のプライベートな緊張感が、静かな空き教室の空気を一瞬で甘く、重いものへと変えていた。
「どうしよう、って言われてもさ……。でも、ここまで来て辞めるなんて選択肢、私たちの辞書にはないでしょ?」
乃愛はノートで顔の下半分を隠しながら、くぐもった声で、でも真っ直ぐな瞳で俺を睨みつけてきた。ハーフアップにされた髪の隙間から見える耳たぶが、夕日のせいだけではなく真っ赤になっている。
「もちろん、辞める気なんて一ミリもないよ。今度こそ完全優勝を獲りに行くんだから。ただ、問題はどうやって親の許可を取るか、そして……どんな風に泊まるか、だろ」
俺が少し気恥ずかしさを隠すように声を低くして言うと、乃愛は「それ、は……」とさらにノートに顔を埋めた。他のみんなより不利な可能性が高い二人きりのオーケストラ。音響の技術も、彼女の圧倒的な歌声も、すべては無敵の自信で満ち溢れていた。けれど、この「宿泊問題」という想定外の現実の壁を前にして、俺たちは放課後の空き教室で、あの日のお腹を空かせた時以上に、激しく頭を抱えて話し合いを始めるのだった。
「――親には、別の理由で他県に行くって嘘を吐くしかない」
俺が覚悟を決めてそう切り出すと、乃愛は机の下で組んでいた自分の指先をじっと見つめたまま、小さく「……うん」とだけ頷いた。夏休みの終わりの夜祭り、そして文化祭の騒がしい熱狂を経て、俺たちの距離はこれ以上ないほど近づいていた。
けれど、学校という巨大なシステムの中に一歩戻れば、俺たちはまだ「柳魄栗」と「伏波乃愛」という、ただの高校一年生でしかない。芸能活動を厳しく禁じる校則の網の目を潜り抜け、さらには男女二人きりで二泊三日の遠征に行く。そんな破天荒な暴挙を、まともな大人が許してくれるはずがなかった。
「魄栗のほうは、なんて言って家を出るつもり?」
乃愛がノートの端を指先でいじりながら、上目遣いで尋ねてくる。夕方の空き教室に差し込む秋の光が、彼女の黒髪の輪郭を淡く、オレンジ色に縁取っていた。
「俺のクラス、文化祭の劇で大成功しただろ。だから、その打ち上げの延長線上ってことで、クラスの男子何人かで『他県にある大型のアミューズメント施設に二泊で遊びに行く』ってことにする。いつも優等生をやってるおかげか、こういう時、うちの親はあっさり信じてくれるからさ」
自分で言っていて、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。周りの期待に応え、誰からも嫌われない完璧な「良い子」を演じてきた日々。その歪な仮面を、まさか自分たちの音楽を守るための『嘘の盾』として利用することになるとは思わなかった。
「乃愛のほうは、大丈夫そうか?」
「私は……うん。他校の部活の友達と、二泊で関東の合同合宿に参加してくるって言うつもり。私の親、私がギターやってること自体はそこまで反対してないから、音楽関係の遠征だって言えば、あんまり深くは突っ込んでこないと思う。……ただ、ね」
乃愛は一度言葉を区切り、手元にあったアコースティックギターのネックをぎゅっと抱きしめるようにして、顔を半分ほど隠してしまった。
「……男女二人で泊まるなんて知られたら、本当に二度と家から出してもらえなくなる。だから、この嘘だけは絶対に、墓場まで持っていかないとダメだからね、魄栗」
「分かってる。もしバレたら、俺たちの『共犯関係』どころか、高校生活そのものが終わるからな」
俺は声を潜め、彼女の真っ赤に染まった耳たぶを視界の端に捉えながら、自分の心臓がドクドクと不規則なビートを刻み始めるのを感じていた。親に嘘を吐くスリル。そして何より、付き合ってまだ間もない俺たちが、誰も俺たちを知らない他県の街で、二泊三日の時間を共に過ごすという事実。ホテルの部屋はどうするのか、ツインなのか、それとも別々のシングルなのか。そんな具体的なプライベートの緊張感が、静まり返った空き教室の空気を、一瞬にして甘く、そして重苦しいものへと変えていた。。
夕日の光は、刻一刻と位置を低くしていき、二人の座る机の上に長い影を落としている。乃愛は手元にあったアコースティックギターのネックをぎゅっと抱きしめるようにして、さっきから頑なに視線を落としたままだ。カーディガンの袖口から覗く彼女の指先が、微かに、でも規則正しく震えているのが分かった。学校という檻の中で「一匹狼の伏波さん」を演じ、ステージの上では無敵のカリスマ性を放つ彼女が、今、目の前でただの等身大の、臆病な女の子になっている。
このまま曖昧な空気で濁していても、時間だけが過ぎていく。そう判断した俺は、机の上のノートを少しだけ傍らに退け、意を決して、彼女の真っ直ぐな瞳を覗き込むようにして声をかけた。
「……ねえ、乃愛」
「ん、なに……?」
乃愛はギターの陰から、長い睫毛を揺らしながら上目遣いで俺を見た。その切れ上がった瞳の縁は、夕日のせいだけではなく、微かに赤みを帯びている。
「ホテルのことなんだけどさ。流石に、まだ予約してないんだよ。……部屋、どうする?別々のシングルを二部屋取るか、それとも、同じ部屋の、ツインにするか」
直接、その疑問をぶつけた。口にした瞬間、自分の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。学校の優等生としての丁寧で冷静な声音を維持しようとしたけれど、語尾が微かに掠れてしまったのを自分でも自覚した。付き合って一ヶ月も経たない高校一年生の男女が、他県に泊まる。シングルにするのが「正解」だし、優等生としての俺の理性が、防衛本能としてそっちを選べと脳内で叫んでいた。もし同じ部屋になんてなったら、自分の理性がどこまで保つか、正直全く自信が持てなかったからだ。
俺の問いかけを聞いた瞬間、乃愛はハッと息を呑んだ。彼女の白い頬が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まっていく。ヘッドドレスを外したハーフアップの黒髪の隙間から見える耳たぶまで、完全に熱を帯びているのが、この距離でもはっきりと分かった。
「それ、は……っ」
乃愛はノートをひったくるようにして、再び顔を完全に隠してしまった。教室の中に、窓の外から聞こえるカラスの鳴き声と、遠くの運動部の掛け声だけが響く。気まずくて、でもたまらなく甘い沈黙。俺は自分の手の中の、すっかり冷めきった缶コーヒーを見つめながら、彼女の返答をじっと待った。一分、いや、数分にも感じられる長い時間の後。カサリ、とノートが机の上に置かれる音がした。乃愛はノートをゆっくりと下ろしたけれど、その顔はまだ真っ赤なままで、涙目になりながらも、俺の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。彼女は小さく唇を震わせ、それから、消え入りそうな、でも、これまでにないほど素直な声を絞り出した。
「……ツインがいい」
「え……」
「ツインがいいって言ったの!一回しか言わないから、ちゃんと聞いてよね!」
乃愛は怒ったように声を張り上げたけれど、その瞳からは、恥ずかしさと、それ以上の強い感情が溢れ出ていた。彼女はギターを机に立てかけ、身を乗り出すようにして、俺の制服の袖をぎゅっと力任せに掴んできた。
「だって、さ……。他県だよ?誰も私達を知らない、誰も私の味方がいない、真っ白な場所なんだよ?そこで、初めてあんなに大きな大型フェスのステージに立って、全国から集まったプロみたいなバンドたちと戦うんだよ……?そんなの、怖いに決まってるじゃん」
乃愛の指先が、制服の布地を掴んだまま、激しく震えていた。あぁ、そうだ。彼女はいつだって前を走り、臆病な俺の手を引いて暗闇を突き進んでくれる無敵のギタリストだ。けれど、その中身は、俺と同じ、ただの十六歳の高校生なのだ。親に大きな嘘を吐き、学校の校則を破って、未知のステージへと飛び出していく。その恐怖と孤独は、彼女の小さな身体には、あまりにも重すぎるものだった。
「夜、一人でホテルの狭いシングルルームに閉じこもってたら、私、緊張と不安で、本番の前に心が壊れちゃうよ……。だから、ね。……隣のベッドに、魄栗がいてほしいの。部屋の電気が消えても、暗闇の中で、魄栗の呼吸が聞こえる場所にいてほしい。……寂しいから、同じ部屋がいい。だめ、かな……?」
うつむき加減に、でも、世界で一番愛おしいおねだりをするようにして、彼女は俺の目を見上げてきた。その真っ直ぐで、剥き出しの信頼に満ちた言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥にあった打算や、優等生としてのブレーキなんて、一瞬で綺麗に吹き飛んで消え去ってしまった。自分の心臓の鼓動が、ライブの本番よりも激しく、ドクドクと耳の奥で鳴り響いている。
俺は、彼女の胸元――ではなく、俺の袖を掴んでいる彼女の細い両手を、自分の大きな手でそっと包み込んだ。寒さのせいだけではなく、緊張で冷たくなっていた彼女の指先へ、俺の熱を全部伝えるようにして、ゆっくりと力を込める。
「……分かった。ツインにしよう。同じ部屋を予約する」
俺がそう告げると、乃愛はハッと目を見開き、それから、安心したように何度も小さく頷いた。
「他のバンドがメンバー全員で固まって、大きな楽屋やホテルで盛り上がってようが関係ないよ。俺たちは二人きりだけど、同じ部屋で、同じ夜を越えて、同じステージに向かうんだ。他のみんなより不利な可能性なんて、俺がまた全部ひっくり返してやるよ。夜、乃愛が怖くなったら、俺がずっと隣で手を握っててあげるからさ」
俺がニッと悪巧み染みた、でも心からの笑みを浮かべて言い切ると、乃愛の目から、今度は嬉し涙のようなものが一粒、ぽろりと零れ落ちて、机の上の歌詞ノートの上に小さなシミを作った。彼女は泣き腫らした目のまま、でも今度こそ、いつものあの不敵で、最高に綺麗な笑顔を咲かせた。
「……うんっ!さすが私の最高のパートナー。約束だからね、魄栗。夜、本当に手離したら、怒るから」
「あぁ。絶対に離さないよ、パートナー」
それからの数日間は、文字通り目まぐるしい日々だった。ホテルのツインルームの予約を無事に済ませ(画面の『予約完了』の文字を見た時の二人の赤面ぶりは今思い出しても可笑しかった)、俺たちは放課後のすべての時間を、完成した三曲目のクオリティを限界まで高めるための猛練習に費やした。
「魄栗、ここの大サビに入る前のギターのストローク、もう一拍だけタメを作りたい。その瞬間に、ドラムの音を一瞬だけミュートできる?」
「やってみる。ただ、その直後にボーカルのボリュームを爆発的に上げるから、乃愛の声の伸びに完璧にシンクロさせないと、音が完全に割れるよ」
俺はスタジオや空き教室の隅に陣取り、ノートPCとポータブルミキサーの画面を睨みつけながら、指先が機材の操作方法を完全に覚えるまで、何度も何度もフェーダーを動かし続けた。
他のみんなより不利な二人きりのオーケストラ。けれど、裏方の一人だけでも、それが俺だから大丈夫に決まっている。乃愛がどんなタイミングで息を吸い、どんな感情を込めて言葉を叫ぶのか、そのすべてを世界で一番理解しているのは俺なのだから。




