第六章 秋華祭
九月一日、始業式の朝。校門をくぐる俺の顔には、再び寸分の狂いもない、完璧な優等生としての笑みが貼り付けられていた。白く清潔なワイシャツ、寸分の緩みもないネクタイ、誰に対しても親切で穏やかな物腰。
夏休みの間に、あの南校舎四階の空き教室で分厚い仮面を脱ぎ捨て、他県のライブハウスで世界に逆襲の音を叩きつけ、そして夏休みの最後の夜に、大好きな人と本当の名前で呼び合って恋人になった男――そんな形跡は、今の俺のどこを探しても見当たらないはずだった。
「あ、柳くん、おはよう!夏休み、課題ちゃんと終わった?見せてよー」
「おはよう。うん、一応全部終わらせてあるよ。ほら、これだろ?」
「うわ、マジで!? さすが柳くん、神すぎる!」
教室に入った瞬間から、俺の「柳魄栗」としての役割が自動的に起動する。周りの空気を読み、求められる通りの言葉を返し、誰からも嫌われない安全なポジションを維持する。いつも通りの、灰色で退屈なはずの日常。けれど、胸の奥の感覚は、一学期の頃とは決定的に違っていた。仮面を被っている自分を「しんどい」と思う気持ちの裏側に、確固たる避難所があるという事実が、俺の心を信じられないほど軽くしていた。
始業式が終わり、一息つく間もなく始まったのは、我が校名物の『復習テスト』だった。
夏休みの怠けた頭を叩き直すための実力テスト。周囲の連中が「最悪だわー」「何もやってないよぉ」と頭を抱えて絶望する中、俺は配られた問題用紙を眺めて、心の中で小さく息を吐いた。
(……あ、これ、あの時やった問題だ)
夏休み中、あのエアコンの利かない空き教室や駅前のカフェで、作詞の合間に「息抜き」と称して乃愛と一緒に教科書を広げていた。「作詞するにも、語彙力とか論理的思考が必要なんだから!」と、俺が半ば強引に乃愛に勉強を教えていた時間が、今になって完璧なブーメランとして返ってきたのだ。
スラスラとシャーペンが動く。数式も、英文の読解も、驚くほど頭に流れ込んでくる。勉強会をちょくちょくやっていたおかげで、俺のほうは正直、目に見えて手応えがあった。
……もっとも、俺が必死に数式を解説している横で、「うーん、この数式の並び、なんか新しいコード進行のインスピレーション湧いてきた!」とか言ってノートに音符を書き殴っていた乃愛のほうが、一体どれだけテストをできたのかは、全く持って未知数だったけれど。
休み時間、廊下ですれ違った際、俺たちの視線は一瞬だけ交差した。彼女はいつもの、隣のクラスの「ちょっとツンとした綺麗な一匹狼の伏波さん」の顔をしていた。周りには彼女の容姿に気後れして遠巻きに見ている生徒たちがいる。俺たちは言葉を交わすことなく、ただのクラスが違う同級生として、何事もなかったかのようにすれ違う。
けれど、すれ違いざまに彼女がほんの少しだけ、いたずらっぽく片目をウィンクしてみせたのを、俺は見逃さなかった。心臓が、トクンと小さく跳ねる。学校では、ただの他人。でも、俺たちは付き合うことになった、世界で一番特別な関係。そのスリリングな二面性が、たまらなく愛おしかった。
そんな息の詰まるような、でもどこか甘い緊張感を持った日常が始まり、一週間が経った頃。
九月の第二週を迎えた学校は、復習テストのどんよりとした空気から一転して、どこか浮足立った、騒がしい熱気に包まれ始めていた。
キーンコーンカーンコーン。
ホームルームの時間を告げるチャイムが鳴り響くと、担任の先生が黒板の前に立ち、大きな文字でこう書き殴った。
『十月開催:秋華祭(文化祭)について』
「はい、静かに。二学期が始まって最初の大きな行事だな。それぞれのクラスで、出し物の企画を今週中に決めて提出するように。予算と校則の範囲内なら、基本的にはお前たちの自主性に任せる。さあ、学級委員、進行よろしく」
先生がそう言って教壇を譲ると、クラスの中が一気にざわつき始めた。
文化祭。高校生活における、最大級の一大イベントだ。
「ねえねえ、何やる!?やっぱり定番のお化け屋敷?それともタピオカとかの模擬店?」
「うちのクラス、女子多いから映えるカフェとか良くない?」
あちこちから、賑やかな意見が飛び交う。俺は学級委員のサポートをしながら、クラス全体の意見を無難にまとめるための「聞き役」に徹していた。誰の意見も否定せず、みんなが納得する着地点を探る。
いつもの、優等生としての立ち回りだ。クラスの連中が「文化祭、マジで楽しみだわー」と盛り上がっているのを笑顔で眺めながら、俺の頭の中にあったのは、全く別のことだった。
(文化祭、か……)
あのネットで二十万再生を突破した、俺たちの最初の曲。そして、他県のライブハウスで掴み取った、本物の拍手の記憶。この学校は芸能活動も、校内での無許可のバンド演奏も、厳しく禁止されている。もし文化祭のステージで歌うなんて言えば、一発で校則違反として弾かれるだろう。
けれど、あの他県での悔しい三位という結果を経て、俺たちの「逆襲」はまだ終わっていない。隣のクラスからは、かすかに乃愛のいるクラスの騒がしい声が壁越しに聞こえてくる。彼女のクラスでは、今頃どんな話が始まっているのだろうか。彼女のあの真っ直ぐな瞳は、この文化祭という学校最大のイベントを前にして、一体どんな「悪巧み」を企んでいるのだろう。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。周囲の目を盗んで画面をチラリと確認すると、案の定、送り主は『乃愛』だった。
『文化祭の話始まった。放課後、いつもの4階。絶対にきて』
その短いメッセージを見た瞬間、俺の胸の奥で、夏の終わりに一度静まり返ったはずの、あのヒリついた熱い塊が、再び激しく脈打ち始めるのが分かった。
ホームルームが終わり、クラスメイトたちが文化祭の役割分担で盛り上がる喧騒を背に、俺は足早に教室を抜け出した。二学期が始まってからの一週間、ずっと周囲の目を気にして一定の距離を保ち続けていた。その反動だろうか、胸の高鳴りがいつも以上に激しい。
南校舎四階。かつての寂びた廊下を進み、一番奥の引き戸をガラガラと開ける。西日が斜めに差し込む埃っぽい教室には、すでにカバンを床に置き、アコースティックギターを膝に抱えた乃愛が待っていた。
「遅い、魄栗。一週間ぶりの『ここ』だよ? もっと走ってきなよ」
乃愛はいつもの生意気そうな笑みを浮かべたけれど、俺の名前を呼ぶ声は、夏の終わりの夜祭りの時と同じ、甘く響くトーンだった。学校の教室では見せない、特別な表情。
「悪い。学級委員の後片付けを手伝わされてさ。それより、復習テストはどうだったんだよ?俺のほうは勉強会の成果が出て、結構できたけど」
俺が向かいの席の椅子を反対向きにして座ると、乃愛は一瞬だけ気まずそうに視線を泳がせ、それから「……赤点はなかったよ、一応」と、小さな声で呟いた。
「一応ってなんだよ」
「いいじゃん、赤点回避したんだから!数式の並びから新しいメロディが三つも生まれたんだから、実質大勝利だよ」
開き直って胸を張る姿が、いかにも彼女らしくて可笑しい。付き合うことになっても、俺たちのこの距離感は変わらない。けれど、お互いを見つめる視線の奥には、確実に夏休み前にはなかった深い信頼と、熱い独占欲が潜んでいた。
「で、本題だけど。文化祭、それぞれのクラスで何することになった?」
乃愛がギターのネックをトントンと叩きながら聞いてくる。
「俺のクラスは『劇』をやることになった。と言っても、俺は表に出る柄じゃないし、周りの調整役に回るのが一番波風立たないからさ。裏方の音響と照明の統括」
「ふーん、やっぱり裏方なんだ。でも、魄栗の音響はプロ級だから、劇のクオリティ無駄に跳ね上がりそうだね」
乃愛はクスクスと笑った後、ふと自分の浴衣姿を思い出したのか、少しだけ頬を赤く染めて視線を逸らした。
「……私のクラスはね、『メイドカフェ』をやることになっちゃった」
「メイドカフェ?」
「そう。なんか女子の多数決で一瞬で決まって。しかも、私も強制的に店員としてフリフリの衣装を着て給仕させられるらしい。最悪……」
乃愛は本気で嫌そうに頭を抱えている。けれど、俺の脳裏には、あの黒髪ロングをツインテールか何かにして、慣れないメイド服に身を包んだ乃愛の姿が、鮮烈なイメージとなって浮かび上がってしまった。一匹狼でクールな伏波乃愛が、メイド服。
……正直、言葉を失うほどに見たいと思ってしまった。
「……そっか。メイド服、似合うと思うけど」
俺がポツリと本音を漏らすと、乃愛はハッと顔を上げて、俺をキッと睨みつけた。
「ちょっと、魄栗、今絶対に変な想像したでしょ!?」
「してないよ。ただ、隣のクラスだから、当日こっそり見に行こうかなって思っただけ」
「絶対ダメ!他校の人とかにジロジロ見られるだけでも嫌なのに、魄栗にそんな格好見られたら、恥ずかしすぎて死ぬ!」
乃愛は真っ赤になってノートで顔を隠してしまった。夏祭りの告白であれだけ大胆に俺の胸元を掴んできた少女が、学校行事のメイド服でここまで取り乱しているのが、たまらなく愛おしい。
しかし、乃愛はすぐにノートを机に叩きつけると、その瞳にいつもの、世界をひっくり返そうとするギラギラとした「悪巧み」の光を宿らせた。
「でもさ、それだけで終わるわけないじゃん、私たち。劇の裏方と、メイドカフェの店員。そんな大人しい役割だけで、この文化祭をやり過ごすつもり?」
彼女はギターの弦をポロンと一つ鳴らした。その透き通った音が、夕暮れの空き教室に響き渡る。
「他県でのライブは三位だった。でも、私たちの逆襲はこれから。この学校最大のイベント、秋華祭で……誰もやったことのない、とんでもないゲリラライブ、仕掛けてやろうよ。ねえ、共犯者さん?」
乃愛は身を乗り出し、俺の目を真っ直ぐに見つめてニッと不敵に笑った。
「さすがに学校でゲリラライブはダメ。一発で停学か退学になって、それこそ二度と音楽ができなくなるよ」
俺は身を乗り出してきた乃愛の額を、人差し指で軽く小突いた。いつもの優等生としての丁寧な諭し方ではなく、ただの柳魄栗としての、呆れと心配の混ざったトーンで。
「なーんだ。魄栗、付き合い始めてからちょっと日和っちゃった?夏休みのあの無敵の共犯者はどこ行っちゃったのさ」
乃愛は不満そうに唇を尖らせ、膝の上のアコースティックギターをわざとらしくポロンと鳴らした。
「日和ったわけじゃないよ。無茶と無謀は違うって話。……その代わりにさ、これ」
今の季節はいつも持ち歩いている学生カバンの奥から、四つ折りにされた一枚のプリントを取り出して、机の上に滑らせた。乃愛は怪訝そうな顔でそれを広げ、そこに書かれた文字を目にした瞬間、その切れ上がった瞳を限界まで丸く見開いた。
『全国ティーンズ・ロック・フェスティバル――秋の新人王決定戦』
開催地は、夏のあのライブハウスよりもさらに遠い、関東の大型ライブイベントだった。夏の大会で三位に入賞したアーティストには、この秋の大会へのエントリー優先権が与えられる。俺が個人的に調べて、こっそり印刷しておいたものだった。
「これって……!」
「夏の三位で終わるつもりはないんだろ。学校の文化祭で内輪向けにゲリラライブをやって満足するより、もっと広い場所で、今度こそ一位をもぎ取りに行こう。他のみんなより不利な条件なんて、俺がまた全部ひっくり返して見せるから」
俺がニッと悪巧み染みた笑みを浮かべると、乃愛は一瞬だけ息を呑み、それから、弾けたような満面の笑顔を咲かせた。
「さすが私のパートナー!言うことが違ってきたじゃん。よし、決まり!目標は秋の新人戦、今度こそ完全優勝ね!」
乃愛は嬉しそうにそのチラシをカバンに仕舞い込んだ。文化祭でのゲリラライブという無謀な計画は回避された。
それから何日か経った、九月中旬の放課後のことだった。文化祭の準備期間が本格的に始まり、放課後の校内はどこもかしこも騒がしい熱気に包まれていた。俺のクラスでも劇の大道具作りや買い出しが始まり、学級委員のサポートや裏方の統括として、俺はあちこちの調整に奔走していた。
「柳くん、この劇のBGMのタイミングなんだけど、ちょっと確認してもいい?」
「うん、もちろん。ここのセリフが終わった瞬間にフェードインだよね。任せて」
クラスメイトたちに笑顔で指示を出し、完璧な優等生として立ち回る。けれど、頭の片隅では常に、隣のクラスでメイドカフェの準備に追われているはずの乃愛のことを考えていた。最近はどのクラスも放課後遅くまで残って作業しているため、南校舎四階の空き教室に二人で忍び込む時間がなかなか作れずにいたのだ。恋人になったというのに、学校内ではすれ違うことすらままならない。そのもどかしさが、胸の奥をチリチリと焦がしていた。
「あ、ごめん、柳くん。劇の衣装で使う小道具、美術室の隣の準備室に置き忘れてきちゃって……。今から取ってきてもらってもいい?」
「いいよ、行ってくる。みんなはそのまま作業を続けてて」
俺は快く引き受け、騒がしい教室を後にした。夕方の静かな特別棟の廊下を歩き、美術準備室の前にたどり着く。普段は使われていない、薄暗くて埃っぽい部屋だ。引き戸をガラガラと開け、目的の小道具が詰まった段ボールを見つけて抱え上げた、その時だった。背後で、ガラガラ、と再び引き戸が閉まる音がした。
「――やっと捕まえた、魄栗」
聞き間違えるはずのない、鈴の鳴るような声。驚いて振り返ると、そこには美術準備室の重い扉を閉め、背中で鍵をかけた乃愛が立っていた。
「伏波、さん……!? なんでここに」
慌てて学校用の「優等生の仮面」の声を再生しようとしたが、彼女の顔を見た瞬間、それは一瞬で崩壊した。彼女が着ていたのは、いつもの制服ではなかった。白と黒のコントラストが鮮やかな、フリルがふんだんにあしらわれたクラシカルなメイド服。いつもは凛と結ばれている黒髪ロングが、今日はハーフアップにされ、小さな白いヘッドドレスがちょこんと乗っている。
「……衣装合わせ、私のクラスでやっててさ。魄栗がこっちの校舎に歩いていくのが窓から見えたから、抜け出してきちゃった」
乃愛はそう言って、少しだけ恥ずかしそうに浴衣の時みたいに視線を泳がせた。フリルの裾を両手で少しつまみ、うつむき加減に俺を見上げてくる。
「どう、かな。……やっぱり、変?」
変なわけがない。薄暗い準備室の中に差し込む夕日の光を浴びて、メイド服に身を包んだ乃愛は、息をのむほどに可憐で、そして暴力的なまでに破壊力があった。いつもの一匹狼のクールな印象とのギャップに、俺の心臓は一瞬で限界数値を叩き出し、ドクドクと鼓動が耳の奥でうるさいほどに響き始めた。段ボールを抱える指先に、思わずカが入る。
「……めちゃくちゃ、似合ってる。本番、やっぱり他の奴らに見せたくないな」
俺が掠れた声で本音を溢すと、乃愛はハッと顔を上げ、その白い頬を林檎のように真っ赤に染めた。
「な、何言ってるのさ……!自分で言わせといて、直球で返すの禁止!」
「誘ってきたのは乃愛だろ」
俺は抱えていた段ボールを近くの机にドンと置き、一歩、彼女の方へと足を踏み出した。学校の敷地内、それもいつ誰が通りかかるか分からない準備室。そんなスリル満点の状況だというのに、一週間まともに話せなかった寂しさと、目の前の愛おしすぎる彼女の姿が、俺の理性を綺麗に吹き飛ばしていた。
乃愛は背中を扉に預けたまま、近づいてくる俺をじっと見つめていた。その瞳は、夏祭りの夜と同じように、熱く、そして深く揺れている。
「……一週間、全然話せなかった」
乃愛が小さく呟き、俺の制服の袖をぎゅっと掴んできた。メイド服の白いフリルの袖から伸びる彼女の手のひらは、微かに震えていて、温かい。
「俺も。毎日、乃愛のことばかり考えてた」
俺は掴まれた手をそっと握り返し、そのまま彼女の小さな身体を、薄暗い準備室の壁際で優しく抱きしめた。フリルの柔らかな質感と、彼女の小さな鼓動が、俺の胸に直接伝わってくる。廊下からは遠くのクラスメイトたちの笑い声が聞こえるけれど、今、この閉ざされた空間だけは、完全に二人だけのものだった。
「本番、絶対に見にきてね、魄栗。私、魄栗のためだけに、世界で一番可愛いメイドさんになってあげるから」
俺の胸に顔を埋めたまま、乃愛がくぐもった声でささやいた。
「あぁ、絶対に一番前で見に行くよ。……でも、次の曲の作詞の宿題も、忘れるなよ、パートナー」
「もう、こんな時まで音楽の話?……でも、そんな魄栗だから、大好きなんだよね」
乃愛は俺の胸元で小さく笑い、制服のシャツをきゅっと握り直した。文化祭という退屈な学校行事の裏側で、俺たちの特別な絆は、誰にも見つからない暗がりの中で、より深く、より熱く、確実にその根を張っていた。
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二学期が始まってからの慌ただしい日々は、俺たちの予想を遥かに超えるスピードで過ぎ去っていった。九月も下旬を迎え、校内を包む空気はすっかり文化祭一色に染まっている。放課後になれば、廊下のあちこちで劇のセリフを合わせる声が響き、中庭からはダンス有志のラジカセの音が聞こえてくる。
そんな喧騒から逃れるようにして、俺たちは今日、本当に久しぶりに南校舎四階の空き教室へと集まっていた。
お互いのクラスの準備――俺の劇の裏方統統括、そして乃愛のメイドカフェの衣装合わせやシフト調整が佳境に入っていたせいで、こうして二人きりで机を並べるのは、あの美術準備室でのスリリングな密会以来のことだった。
ガラガラ、と引き戸を閉め、いつもの席に座る。窓の外には、一学期の頃よりもずいぶんと位置の低くなった、寂しげな秋の夕日が教室を茜色に染め上げていた。
「はぁー……生き返る。やっぱり、ここが一番落ち着くね、魄栗」
乃愛はカバンを机に放り出すと、愛機のアコースティックギターをケースから取り出し、愛おしそうにそのボディを撫でた。メイド服を着て恥ずかしそうにしていたあの日の少女はどこへやら、ギターを抱えた瞬間に、彼女の瞳には一匹狼のミュージシャンとしての鋭い光が戻ってくる。
「本当にな。毎日クラスの調整役ばっかりやってるから、ここに帰ってくると脳の変な筋肉がほぐれる気がするよ」
俺は苦笑しながら、カバンから一冊のノートを取り出した。この一週間、クラスメイトたちに笑顔で指示を出す優等生の仮面の裏側で、俺が睡眠時間を削りながら、文字通り魂を削るようにして向き合ってきたノートだ。ノートを机の真ん中、乃愛の目の前へと滑らせる。そこには、びっしりと黒いインクで書き込まれた、新しい言葉の列があった。
「――乃愛。三曲目、完成したよ」
俺が静かに告げると、乃愛はハッと息を呑み、弾かれたようにノートを手に取った。文化祭まで残り一週間。関東の大型フェス『全国ティーンズ・ロック・フェスティバル』へのエントリー期限を考慮すると、このタイミングでの完成は、まさに文字通りのデッドラインだった。乃愛は何も言わず、ただ真剣な眼差しで、俺の書いた歌詞を一行ずつ追っていく。
一曲目の「衝動の叫び」、二曲目の「剥がしきれない孤独」。
それに続くこの三曲目に、俺が込めたのは――「仮面を被ったまま、それでも手を伸ばす境界線の歌」だった。学校という檻の中で優等生を演じながらも、放課後の暗がりで彼女の手を握り、世界への逆襲を企てる。恋人同士になった今の俺たちだからこそ紡げる、最も新しく、最も泥臭い本音の言葉たち。教室の中に、乃愛がノートのページをめくる微かな音だけが響く。夕日の光が、彼女の真剣な横顔を美しく、そしてどこか神聖なもののように照らし出していた。
やがて、最後のフレーズを読み終えた乃愛が、ゆっくりとノートを机に置いた。その切れ上がった瞳の縁が、微かに潤んでいるように見えたのは、夕日の悪戯ではないはずだった。彼女は深く息を吸い込み、それから、俺の目を真っ直ぐに見つめて、最高の笑みを浮かべた。
「……ずるいよ、魄栗。こんなの、聴く前から頭の中で最高のメロディが鳴り止まないじゃん」
「乃愛の曲のイメージに合わせて、何度も言葉の数を調整したからね。……どう、いけそう?」
「いけそう、じゃないよ。完璧。今すぐ、この言葉に私の音を全部乗せてあげる」
乃愛はギターのネックを握り直し、ジャラン、と力強くコードを鳴らした。
その瞬間、一週間分の離れていた距離が一気にゼロになる。秋の冷たい風が吹き込む空き教室の中で、俺たちの三曲目の弾丸が、いよいよ確かな形を持って産声を上げようとしていた。
「文化祭が終わったら、すぐにこの曲を録音して、関東のフェスに応募しよう。今度こそ、誰も文句のつけられない完全優勝を獲りに行くんだ」
「うん! 私たちの本気を、世界に見せつけてやろうね、魄栗!」
残り一週間。表舞台では退屈な高校生を演じながら、俺たちは裏側で、最高にスリリングな次のステージへのカウントダウンを刻み始めていた。




