第五章 共犯者
ガタン、ゴトン、と夜の闇を切り裂く電車の振動が、シートを通じて体に伝わってくる。
他県からの帰り道、往路のあの張り詰めた空気とは打って変わって、車内にはただ乗客たちのまばらな話し声と、駅名を告げる無機質なアナウンスだけが流れていた。
結果は、三位だった。
審査員からは「二人きりとは思えない圧倒的な音響構築と、ボーカルのポテンシャルは群を抜いていた」と絶賛されたものの、主催するレーベルが求めていたのは、今すぐにでもツアーに回れる『完全なバンド形態』だったらしい。「残念ながら、一位以外はここで敗退です」というMCの無慈悲な言葉が、まだ耳の奥に残っている。
「いやー!それにしてもさ、三位って凄くない!?初めてのライブだよ?あんな大きなバンドたちに混ざって、たった二人の高校生が表彰台に乗っちゃったんだから!」
隣に座る伏波さんは、膝の上に抱えたアコースティックギターのケースをぽんぽんと叩きながら、いつになく大きな声で笑った。
「あのドラムが凄かったバンドの人なんてさ、終わった後に『あの音響(PA)どうやってるの?』って私に聞きにきたんだよ?柳くん、完全にプロのスタッフだと思われてたの。ウケるよね!」
彼女は身を乗り出し、街灯の光が飛び去っていく車窓をバックに、ハキハキとした口調で喋り続ける。元気いっぱいに振る舞い、俺たちの健闘を称え、今日のステージがいかに楽しかったかを、言葉を尽くして証明しようとしていた。けれど、俺は知っている。
伏波乃愛という少女が、どれほど負けず嫌いで、どれほど本気で、あの真っ白な世界での「完全な逆襲」を望んでいたかを。
「……伏波さん」
俺が静かにその名前を呼ぶと、彼女は「なに?」と、また大袈裟なほどの笑顔をこちらに向けた。その切れ上がった瞳の奥は、無理に作った明るさの裏側で、今にも決壊しそうなほどにひどく揺れていた。
「無理して笑わなくていいよ。……悔しかっただろ」
俺の言葉に、伏波さんは一瞬だけ息を呑んだ。車内を流れる冷房の風が、二人の間に一瞬の静寂を作る。彼女の顔から、張り付いていたはずの元気な笑顔が、剥がれ落ちるようにゆっくりと消えていった。
「……うん。めちゃくちゃ悔しい。悔しくて、死にそう」
ぽつり、とこぼれ落ちたのは、今日一番の、彼女の飾らない本音だった。伏波さんはギターケースをぎゅっと抱きしめ、小さな肩を微かに震わせながら、膝元へと視線を落とした。
「みんなが拍手してくれた時、私、本当に世界を手に入れたような気がしたんだ。柳くんの言葉が、私の音が、たくさんの人に届いて……。だからこそ、一位に届かなかったのが、本当に、悔しい……」
彼女の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、制服のスカートに小さなシミを作っていく。
いつでも前を走り、臆病な俺の手を引いて暗闇を突き進んでくれた無敵の共犯者が、今、俺の隣で小さな子供のように泣いていた。俺は、カバンの中から一枚のハンカチを取り出し、彼女の手元にそっと置いた。
そして、流れていく他県の夜景を眺めながら、ごく自然なトーンで口を開いた。
「俺はさ、全然残念だなんて思ってないよ」
「え……?」
「だって、まだ一曲目と二曲目だろ。俺たちの夏休みはこれで終わりだけど、俺たちの『共犯関係』は、まだ始まったばかりだ」
俺はポケットのスマホを取り出し、あの二十万再生を突破した動画の画面を彼女に見せた。コメント欄には、今この瞬間も、ライブを観た他県の観客たちからの新しい絶賛の声が書き込まれ続けている。
「三位ってことは、俺たちより上に、まだ引きずり下ろすべき奴らが二組もいるってことだ。それって、無茶苦茶ワクワクしない?他のみんなより不利なスタートから、たった二人で全部ひっくり返していくんだよ」
俺はいつもの優等生としての嘘くさい笑みではなく、ただの柳魄栗としての、最高に悪巧み染みた笑みを浮かべてみせた。
「夏休みが明ければ、また退屈な学校が始まる。俺は相変わらず優等生の仮面を被るし、君は隣のクラスの一匹狼だ。でも、放課後になれば、あの南校舎四階の空き教室で、俺たちは次の弾丸をいくらでも作れる。……だろ、パートナー」
俺の言葉を聞きながら、伏波さんはハンカチで何度も涙を拭った。そして、泣き腫らした目のまま、でも今度こそ、いつものあの不敵で、最高に綺麗な笑顔を咲かせた。
「……うん。次は、絶対に一位。世界中の奴らの度肝を抜いて、全員を私たちの共犯者にしてやろうね、柳くん」
電車のブレーキ音が長く響き、アナウンスが俺たちの見慣れた、いつもの駅の名を告げる。立ち上がり、重いギターケースと機材バッグを肩にかけ直す。敗退したはずの俺たちの足取りは、不思議なほど軽かった。
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八月三十一日。夏休みの、本当に最後の一日。
容赦なく世界を焼き尽くそうとしていた真夏の太陽も、この日ばかりは名残惜しそうに、いつもより長い時間をかけて西の空を朱く染め上げていた。夕暮れ時、俺は自室の姿見の前で、滅多に着ることのない濃紺の甚平の襟元を何度も整えていた。鏡に映る自分の顔は、学校で「優等生の柳魄栗」をやっている時の、あの張り付いたような笑顔ではない。かといって、完全に冷めきった無表情でもない。ただただ、これまでに経験したことのない種類のもどかしさと、心臓の奥がじりじりと焦げるような緊張感に支配された、一人の不器用な男の顔がそこにはあった。ポケットの中で、スマホが短く震える。
画面を見ると、メッセージアプリに一通の短い通知。
『神社の下の鳥居の前にいるよ。早くきて、パートナー』
送り主は、もちろん伏波さんだ。他県でのライブ大会から数日。あの帰り道の電車で悔し涙を流した彼女は、翌日には「もう次の曲のサビのメロディが浮かんだ!」と、相変わらずのバイタリティで俺を驚かせた。夏休みが終われば、またあの息苦しい学校生活が始まる。お互いに仮面を被り、隣のクラスの「ただの同級生」として振る舞わなければならない日々が戻ってくる。
その直前の、誰も俺たちを縛らない、夏休みの最後の数時間。
「……よし」
小さな声で自分に気合いを入れ、俺は財布とスマホを甚平のポケットに押し込んで家を出た。
夕闇が本格的に街を包み込み、どこか遠くからドンドンと太鼓の音が響いてくる。地元の氏神様で行われる、夏の終わりの例大祭。
朱色の鳥居の脇、ぽつんと灯った紙提灯の淡い光の中に、彼女は立っていた。いつもの見慣れた黒いセーラー服でもなく、ライブハウスでのロックスタイルでもない。鮮やかな藍色の地に、小さな白い朝顔の模様が散りばめられた浴衣。いつもは奔放に肩へと流されている艶やかな黒髪は、今日ばかりは綺麗にアップにまとめられており、うなじの白さが、提灯のオレンジ色の光の中で息をのむほど美しく際立っていた。
「あ、柳くん。遅い。待ちくたびれて、お団子一人で食べちゃうところだった」
俺の姿を見つけるなり、伏波さんはいつも通りに唇を尖らせてみせた。けれど、その手にはあの大きなギターケースはなく、小さな巾着袋が品よく握られている。
「……悪い。ちょっと着替えるのに手間取ってさ」
俺が歩み寄ると、伏波さんはじっと俺の甚平姿を上から下まで見つめ、それから、ふっと少し照れくさそうに目を細めた。
「ふーん。結構似合ってるじゃん。いつもより、ちょっとだけ格好いいかもね」
「……伏波さんこそ、その、浴衣、すごく似合ってる。綺麗だ」
真っ直ぐに本音を告げると、今度は伏波さんのほうが一瞬だけ言葉を詰まらせた。アップにされた髪の隙間から見える彼女の耳たぶが、提灯の光のせいだけではなく、微かに赤く染まっていくのが分かった。
彼女は慌てて「ほ、ほら、行くよ! もう出店がいっぱい並んでるんだから!」と、俺の袖をぐいと引っ張って、参道の階段を上り始めた。
境内に一歩足を踏み入れると、そこは文字通り、夏の終わりのエネルギーが凝縮されたような熱気に満ち溢れていた。立ち並ぶ出店、電球の黄色い光、ソースや綿あめの甘い匂い。浴衣姿の家族連れや、他校の制服を着た高校生の集団が、賑やかな声を上げて行き交っている。
「すごい人だね。迷子になりそう」
「柳くん、私の袖、ちゃんと掴んでおきなよ。置いていっちゃうからね」
伏波さんはそう言って笑うが、人混みに押されるたびに、彼女の小さな肩が俺の胸元に何度もぶつかった。そのたびに、浴衣越しに伝わってくる彼女の体温と、ほんのりと漂うシャンプーの甘い香りに、俺の心臓はライブの本番以上に激しく脈打っていた。
俺たちは人混みをすり抜けながら、いくつかの出店を巡った。伏波さんのリクエストで、最初に並んだのはりんご飴の店だった。真っ赤な大玉のりんご飴を両手で大事そうに抱え、小さな口でぱくりとかじる彼女の姿は、ステージの上で圧倒的な歌声を轟かせていたあの歌姫とは到底思えないほど、等身大の、あどけない少女そのものだった。
「んー! 甘い! やっぱり夏祭りはこれだよね。柳くんも一口食べる?」
「いや、俺はいいよ。伏波さんが食べてるのを見てるだけで十分」
「冷たいなぁ。あ、じゃあ次はあっち!金魚すくいやろうよ!」
彼女に手を引かれるまま、俺は境内の隅々を歩き回った。金魚すくいの出店では、伏波さんは「私、こういうの絶対得意だから」と自信満々にポイを握ったものの、開始わずか数秒で紙を破いてしまい、「嘘でしょ!?」と漫画のように目を見開いて硬直していた。その姿が可笑しくて、俺が声を上げて笑うと、「笑うなー! じゃあ柳くんやってみなよ!」と膨れるので、俺が代わりにポイを受け取った。
周りの空気を読むために培った無駄な集中力をフルに発揮し、俺が器用に二匹の金魚をすくい上げると、彼女は「すごーい! 柳くん、意外と器用なんだね!」と、あの日ライブハウスで俺の音響操作を褒めてくれた時と同じ、純粋な尊敬の瞳を俺に向けてくれた。
たわいもない、本当に普通の高校生としての時間。この三ヶ月間、俺たちが紡いできた関係は、常に「校則違反」や「世界への逆襲」という、どこか張り詰めたスリルと隣り合わせだった。空き教室の埃っぽい空気、夕方のチャイム、他県のライブハウスの爆音。そのどれもが俺たちの特別な絆を作ってくれたけれど、今、こうして大勢のノイズに紛れながら、ただの男の子と女の子として笑い合っている時間も、胸が締め付けられるほどに愛おしかった。
ひと通り出店を楽しみ、お腹も満たされた頃、神社の境内の奥にある神楽殿から、いよいよお祭りのクライマックスであるお囃子の音が一段と大きく響き始めた。同時に、本殿の裏手にある少し開けた丘へと、人々がぞろぞろと移動し始める。
「もうすぐ、花火が上がる時間だね」
伏波さんが、人混みの向こうの夜空を見上げながら呟いた。
「ここは人が多すぎるからさ。……ねえ、柳くん。ちょっと特等席に行かない?」
彼女はいたずらっぽく微笑むと、俺の返事を待たずに、境内の脇にある細い山道へと足を踏み入れた。そこは街灯もなく、紙提灯の光も届かない、鬱蒼とした木々に囲まれた暗い小道だった。
「ちょっと、伏波さん、危ないよ。足元見えないし」
「大丈夫、私ここ、小さい頃からよく秘密基地にしてた場所だから。ほら、手、貸して」
暗闇の中で、彼女の小さな、でも少し指先が固くなった手のひらが、俺の手をそっと包み込んだ。キュッと握られたその手の温もりがあまりにもストレートに脳に届いて、俺は言葉を失ったまま、彼女に引かれるようにして草木をかき分け、坂道を上っていった。
数分ほど上った先は、神社の裏手に広がる、小さな崖のようになった開けた展望スポットだった。眼下には、お祭りの提灯の光がまるで天の川のようにきらめく神社の境内と、広がっている。遠くの電車の音や、お祭りの喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように心地よく静まり返って聞こえる、まさに二人だけの秘密の特等席だった。
夜風が、甚平の袖やすその隙間を吹き抜けていく。
浴衣の裾を気にしながら、伏波さんは草むらの上の大きな平たい岩に腰掛けた。俺もその隣に、少しの距離を空けて腰を下ろす。
「……すごいな。本当に、誰もいないし、街が一望できる」
「でしょ? 夏休みの最後の日は、いつもここに来るって決めてるんだ。一人で、明日からの学校嫌だなぁって思いながら、ぼんやり花火を見てたの。でも――」
伏波さんは一度言葉を区切り、膝の上で巾着袋をぎゅっと握りしめた。
「今年は、一人じゃないね」
その声は、風の音に混ざって消えてしまいそうなほど静かで、でも、俺の胸の最も深いところにまで真っ直ぐに届いた。
「うん。一人じゃないよ。俺がいる」
俺が答えると、伏波さんはゆっくりと俺の方を振り返った。夜空の星クズと、遠くの街の明かりを映した彼女の瞳が、暗闇の中でじっと俺を見つめている。
「ねえ、柳くん」
「なに?」
「私さ、昨日、夏休みが終わるのが怖くて、全然眠れなかったんだよね。明日からまた、あの学校が始まる。周りの顔色を窺って、先生の言うことを聞いて、無難に過ごさなきゃいけない。私は隣のクラスの一匹狼の伏波さんで、柳くんは誰にでも優しい優等生の柳くんで。……学校に戻ったら、私たちはまた、ただの『他人』に戻っちゃうのかなって、そんなことばかり考えてた」
彼女の言葉は、俺が心のどこかでずっと恐れていたことそのものだった。学校という巨大なシステムの中に入れば、俺たちはそれぞれの「役割」を演じなければならない。あんなに熱かった空き教室での日々も、他県でのライブの記憶も、すべては夏休みが見せた一時の泡沫の夢だったかのように、冷たい現実に押し流されてしまうのではないか。
「戻らないよ」
俺は、自分でも驚くほど強いトーンで、彼女の言葉を否定していた。
「仮面を被るのが、俺の学校での生き方だ。明日からも、俺は教室で優等生を演じると思う。でもさ、それはただのポーズだ。本当の俺は、あの日、南校舎四階の空き教室で、伏波さんに全部暴かれた。俺の本当の言葉を、俺の本当の声を、一番知っているのは君だ。学校の教室でどれだけ離れていようが、周りに人が何百人いようが、俺たちの共犯関係は、絶対に壊れない」
俺は、自分の手のひらをじっと見つめた。
「俺はもう、君のいない世界には戻れないんだよ、伏波さん」
その瞬間、ドンッ、と、お腹に響くような巨大な音が夜空を震わせた。
お祭りのフィナーレを告げる、打ち上げ花火が始まったのだ。暗黒の夜空に、大輪の金色の光が鮮やかに咲き誇り、ゆっくりと枝垂れるようにして消えていく。その凄まじい光と影が、隣に座る彼女の浴衣姿を、そして驚いたように見開かれた瞳を、一瞬ごとに鮮烈に照らし出した。次々に上がる花火の爆音と、夜空を埋め尽くす光の乱舞の中。伏波さんは、じっと俺を見つめ続けていた。
花火の光が彼女の頬を赤く、青く、紫にと色鮮やかに染め上げていく。その瞳の奥から、何かが溢れ出そうとしているのが分かった。大きな、本当に大きな音を立てて、銀色のしだれ柳の花火が夜空いっぱいに広がった。
その光が、二人の世界を昼間のように明るく照らし出した、まさにその瞬間。
「――柳くんじゃない」
花火の爆音に負けないような、でも、どこか震える声で、彼女がカを込めて呟いた。
「え……?」
「柳くんじゃなくて――。……魄栗」
心臓が、ドクリと、これまでで一番大きく跳ね上がった。生まれて初めて、彼女の口から呼ばれた、俺の名前。優等生の名字ではなく、俺という一人の人間を指す、剥き出しの言葉。
伏波さんは巾着袋を地面に落とすと、身を乗り出し、俺の甚平の胸元を、両手でぎゅっと力任せに掴んできた。
彼女の細い指先が、小刻みに震えているのが伝わってくる。
「私は、学校の役割なんてどうでもいい。共犯者なんて言葉で、これ以上、私たちの関係をごまかしたくない!」
花火の光が、彼女の瞳から溢れ出た大粒の涙をきらきらと輝かせる。彼女は泣きそうな、でも、これまでにないほど強くて気高い表情で、俺の目を真っ直ぐに見つめ、叫ぶように言葉を紡いだ。
「私、魄栗のことが好きなの!ただの共犯者じゃなくて、私の隣に、ずっと恋人としていてほしい!私の歌を、私の音楽を、私の人生を、これからもずっと一番近くで支えてよ、魄栗!!」
夜空に、一際大きな、色とりどりの花火が同時に何発も打ち上がり、世界が光で満たされた。
けれど、俺の耳には、俺の頭の中には、彼女のその魂を振り絞るような告白の声だけが、鼓膜が破れんばかりに響き渡っていた。
胸元を掴む彼女の手の震え。
真っ直ぐに向けられた、剥き出しの恋心。
あぁ、そうだ。俺だって、最初から気づいていたはずだった。
あの日、公園で彼女のギターを聴いて胸を撃ち抜かれたその瞬間から。放課後の空き教室で、パンを分け合いたわいもない話で笑い合った時から。他県のステージの裏で、「負ける気がしない」と笑う彼女の横顔に見惚れた時から。 俺の心は、優等生の仮面なんてとっくに突き破って、彼女のことだけを、狂おしいほどに求めていたんだ。
俺は、胸元を掴んでいた彼女の細い両手を、自分の大きな手でそっと包み込んだ。彼女の指先の震えが、俺の手を通じて、俺の心臓へと溶けていく。
「……俺も、俺も好きだよ、乃愛」
今度は、俺が彼女の本当の名前を呼ぶ番だった。その名前を口にした瞬間、俺の胸の中にあった、最後の歪な壁が、跡形もなく完全に崩壊していくのが分かった。もう優等生の柳魄栗なんてどこにもいない。ここにいるのは、伏波乃愛という一人の少女に、底知れない恋をした、ただの男だった。
「共犯者なんて言葉で満足できるわけないだろ。俺だって、ずっと君の特別になりたかった。乃愛の隣にいるのは、他の誰でもない、俺がいい。これからも、君の歌を一番近くで聴かせてよ。俺の人生のすべてをかけて、君の音を支え続けるから」
俺がそう告げると、乃愛の目から、さらに堰を切ったように涙が溢れ出た。
けれど、その顔には、これまでに見たどんなステージでの笑顔よりも、どんなバズった動画の数字を見た時よりも、世界で一番、愛おしくて綺麗な笑顔が咲き誇っていた。
「……うんっ! 約束だからね、魄栗!」
乃愛は俺の手をぎゅっと握り返すと、堪えきれないとばかりに、俺の胸元へとその小さな頭を預けてきた。
アップにされた黒髪から、かすかに漂う朝顔のような夏の匂い。俺の胸に押し当てられた彼女の小さな身体から、トクトクと速いテンポで刻まれる、愛おしい心臓の鼓動が伝わってくる。俺は空いた方の手で、彼女の細い背中を、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
夜空には、お祭りの最後を飾る、純白の特大の錦冠の花火が打ち上がっていた。
シャー、という長い余韻の音を立てながら、無数の光の粒が、まるで満天の星空のようにゆっくりと俺たちの頭上へと降り注いでくる。世界が真っ白な光に包まれ、そして、静かに、ゆっくりと元の闇へと戻っていった。
お囃子の音が、遠くでかすかに響いている。
夏休みが、今、終わろうとしていた。
明日から始まる新学期、俺たちはまた、あの息苦しい学校の檻の中へと戻っていく。俺は相変わらず優等生として振る舞うかもしれない。けれど、もう何も怖くはなかった。
あの狭い南校舎四階の空き教室には、俺たちの本当の居場所がある。そして何より、俺の隣には、世界で一番大好きな、俺の無敵の恋人がいるのだから。
夏の最後の風が、二人の浴衣の裾を優しく揺らしながら、新しい季節の始まりを告げるように、夜の街へと吹き抜けていった。




