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第十章 挫折と再起

ガタン、ゴトン、と夜の闇を切り裂く特急列車の規則正しい振動が、シートを通じて体に伝わってくる。

他県で開催された『全国ティーンズ・ロック・フェスティバル――秋の新人王決定戦』。その激しい二日間の戦いを終え、俺たちの作ったあの三曲目で世界へ逆襲を仕掛けた、二泊三日の旅が今、終わろうとしていた。車窓の外を流れていく景色は、見知らない他県の眩しい街並みから、次第に見慣れた灰色の通学路や、息苦しい学校の校舎がある、いつもの街の夜景へと戻ってくる。

カバンの奥深くにしまい込まれた、二位の優秀賞の盾。一位を逃したあの夜のホテルのツインルームでの乃愛の激しい悔し涙と、三日目の朝にベッドの隙間から繋ぎ合った手のひらの熱。そして、誰も俺たちを知らない街で二人で笑いながら分け合った栗饅頭の甘さと、お揃いでカバンに付けた藍色のガラスの星。そのすべてが、夢の破片のように胸の奥でチリチリと音を立ててくすぶっていた。 

地元の駅の改札口を抜けた瞬間、俺たちの身体を包み込んだのは、見慣れた灰色の退屈な街並みと、他県のものよりもどこか肌に馴染む、けれどひどく冷たい秋の夜風だった。周囲を包むのは、二学期が始まってから何度も二人で歩いた、街灯がぽつぽつと等間隔で灯るだけの静かな、いつもの夜道だ。


「……帰ってきちゃったね、魄栗」 


改札を出て少し歩いた暗がりのなかで、乃愛が背中の大きなギターケースを少しだけ背負い直しながら、寂しげに、でもどこか誇らしげに呟いた。少し大きめの黒いカーディガンの袖をきゅっと握りしめる彼女の横顔を、駅前の街灯の白い光が淡く照らしている。


「あぁ。明日からはまた、隣のクラスの伏波さんと、誰もが頼りにする優等生の柳くんだ」 


俺はいつものポーカーフェイスの裏側で、自分自身の口から出たその言葉に、わずかな苦みを感じていた。秋華祭の代休を兼ねた、大型のご連休は、今この瞬間を境に完全に終了したのだ。明日からの日常が、檻のような学校生活が、再び俺たちの目の前に容赦なく口を開けて待っている。


「学校の教室でどれだけ離れていようが、周りに人が何百人いようが、俺たちの関係は何も変わらない。俺たちの手には、会場を圧倒したあの音楽がある。だから、明日からも大丈夫だよ、乃愛」 


俺が彼女の手を、誰にも見つからない一瞬の隙を突いてぎゅっと握り締めると、乃愛はハッと目を見開き、それから、いつものあの不敵で、最高に綺麗な笑顔を咲かせた。


「うん! 新学期の教室ではただの他人を演じてあげるけど、放課後のチャイムが鳴ったら、私は世界で一番わがままな魄栗の歌姫だからね。次の冬の大会は、絶対に完全優勝をもぎ取って、世界中の奴らの度肝を抜いてやろうね、パートナー」


その言葉を最後に、俺たちはそれぞれの帰路へと別れた。繋いだ手の熱が離れたあとの夜風は、いつもより少しだけ冷たく感じられた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


翌朝、校門をくぐる俺の顔には、寸分の狂いもない、完璧な優等生としての笑顔の仮面が再び貼り付けられていた。白く清潔なワイシャツ、整ったネクタイ、誰に対しても親切で穏やかな物腰。教室に入った瞬間から、俺の「柳魄栗」としてのシステムが自動的に起動する。周りの空気を読み、求められる通りの言葉を返し、誰からも嫌われない安全なポジションを維持する。いつも通りの、灰色で退屈なはずの日常。 

けれど、胸の奥の感覚は、一学期の頃とは決定的に違っていた。仮面を被っている自分を「しんどい」と思う気持ちの裏側に、確固たる避難所があるという事実が、俺の心を信じられないほど軽くしていた。教室の窓から見える中庭を眺めながら、俺の頭の中は、放課後にあの場所で待っている彼女のことでいっぱいだった。 


連休が明けて一息つく間もなく、俺たち高校一年生を待ち受けていたのは、『定期考査』という現実の壁だった。学校中がどんよりとした重苦しい勉強モードに包まれ、クラスメイトたちが「マジで最悪だわ」「今回赤点取ったら冬休みの補習確定だぁ」と頭を抱えて絶望するなか、俺はいつものように自分の勉強を進めていた。そして放課後になれば、廊下を行き交う生徒や先生たちの喧騒を巧妙に避けながら、俺たちは再び南校舎四階の、あの埃っぽい空き教室へと集まっていた。


「……ねえ、魄栗。この古典の文法、本当に宇宙語にしか聞こえないんだけど。なんで昔の人はこんな面倒くさい言葉使ってたの?」 


夕日が斜めに差し込む窓辺、乃愛は机の上に教科書を広げ、シャーペンの頭を自分の頭に突き刺すようにして本気で頭を抱えていた。ハーフアップにされた彼女の黒髪が、夕日のオレンジ色の光を浴びて綺麗なグラデーションを描いている。


「文句言わないの。作詞をするためにも、古語の語彙力とか論理的思考は必要なんだから。ほら、ここの『けり』は過去じゃなくて詠嘆。感動を表してるんだよ」


「詠嘆……。感動のコード進行みたいなもの? じゃあ、この古典の文章って実質、昔のラブレターの歌詞ってことじゃん。そう考えると、ちょっとだけインスピレーションが湧いてきたかも」 


乃愛はそう言ってケラケラと楽しそうに笑うと、教科書の余白にぽろん、と音符のメモを書き殴り始めた。


「ほら、音符書いてないでこっちの問題解いて。この数式の展開、昨日も間違えてただろ」


「えー、数学はもっとダメ。脳の音楽を司る部分が拒絶反応起こしてる。魄栗、優しく教えてくれないと泣いちゃうよ?」


「嘘つけ。他県のホテルの夜、あんなに強気だったのは誰だよ」


「なっ……! その話は、今ここで持ち出すの禁止!」 


乃愛は一瞬にして顔を真っ赤に染め、教科書で自分の顔を半分隠してしまった。カーディガンの袖口から覗く彼女の耳たぶまで完全に熱を帯びているのが、この距離でもはっきりと分かって、俺の胸の奥も甘い痒みで満たされていく。定期考査の一週間は、文字通りあっという間に過ぎ去っていった。

試験本番、俺の指先はスラスラと動いた。数式も、英文の読解も、驚くほど頭に流れ込んでくる。毎日の勉強会の成果もあり、俺のほうは正直、目に見えて手応えがあり、学年上位の成績を難なく維持することができた。完璧な優等生としての面目を躍如し、担任の先生からも「さすが柳くんだな、二学期の後半もこの調子でクラスを引っ張っていってくれ」と厚い信頼を寄せられた。 

……もっとも、俺が必死に数式や古典文法を解説している横で、「このリズムの並び、次の冬の大会のイントロに使える!」とか言ってノートに音符を書き殴っていた乃愛のほうが、一体どれだけテストをできたのかは、全く持って未知数だったけれど。

そして、テスト返却の日の放課後。いつものように南校舎四階の空き教室の引き戸をガラガラと開けると、そこにはすでにカバンを床に置き、解答用紙を両手に持った乃愛が待っていた。


「赤点はなかったよ、一応ね! ギリギリだけどセーフ!」 


乃愛は俺の姿を見るなり、解答用紙を誇らしげに太陽の光にかざして掲げてみせた。どれどれ、と俺が彼女の点数覗き込むと、そこには平均点スレスレの、けれど確かに赤点ラインを数点だけ上回った、奇跡のような数字が並んでいた。赤点回避だけでそこまで勝ち誇ったように胸を張れる彼女が可笑しく、愛おしくて、俺は学校での仮面を完全に脱ぎ捨てた、心からの笑声を上げてしまった。


「笑うなー! いいじゃん、赤点回避したんだから! 補習で放課後の時間が潰されたら、それこそ四曲目の制作ができなくなるところだったんだよ? 実質大勝利でしょ!」


「はいはい、大勝利だな。よく頑張りました」 


俺が彼女の頭を少し手乱すようにして優しく撫でると、乃愛は嬉しそうに目を細めた。


「よし、これでテストっていう最大の邪魔者も消えたことだし!」 


乃愛はパンのゴミを素早くまとめると、床に置いてあったギターケースのジッパーを勢いよく引いた。シャカシャカという金属音が響き、夕日を浴びて鈍く光る、木目の美しいアコースティックギターが姿を現す。彼女がそれを慣れた手つきで抱え直すと、一気に空き教室の空気が俺たちの世界へと切り替わった。


「いよいよ本格的に冬の大会に向けた『四曲目』の制作開始だね、魄栗!」 


乃愛はカバンから、使い古されて端が擦り切れたあの歌詞ノートを机の上に叩きつけた。秋のフェスでの、僅差の二位という悔し涙。その痛みを生涯忘れない最大の財産として、俺たちの次の曲作りが、十一月の冷たい風が吹き込む空き教室の中で、再び本格的に動き出そうとしていた。


カレンダーのページが乱暴にめくられるたびに、十月のあの鮮やかな茜色に染まっていた遠征先の夕暮れは、ただの遠い記憶の彼方へと追いやられ、十一月の終わりから十二月へと、完全な冬の気配が学校全体を容赦なく支配していった。 

朝の登校時間、校門へと続くあの長くて緩やかな坂道を上る俺たちの吐く息は、いつの間にか驚くほど白く、濃く色付くようになっていた。すれ違うクラスメイトたちの制服の上には分厚い指定のコートや、それぞれの個性を主張する色とりどりのマフラーが目立つようになり、毎朝、教室の窓ガラスは暖房の熱と外の冷気のせいで真っ白に結露していた。そのガラスを指先でなぞると、冷たい水滴が指先を濡らし、冬の到来をただの動かしようのない現実として突きつけてくる。

十二月に入ると、放課後の時間は一気に短くなる。16時を過ぎる頃には、窓の外の景色は鮮やかな茜色を通り越して、夜の始まりを告げる深い藍色へと、あっという間に移り変わっていくようになっていた。それでも、俺たちのルーティンは何も変わらなかった。どれだけ外の気温が下がろうとも、エアコンの利かない南校舎四階の、あの生徒から忘れ去られたような空き教室に集まり、凍える指先をお互いのいちごオレや温かい缶コーヒーで温め合いながら、俺たちは次の冬のステージに向けた音を紡ぎ続けた。


「ねえ、魄栗。ここのサビのフレーズ、もっと冬の凍りつくような冷たさと、その奥にある消えない熱さを表現したいんだよね。言葉の数をもう少し鋭くできない?」 


乃愛はセーターの袖口から細い指先を覗かせ、アコースティックギターのネックをしっかりと握り締めながら、俺のノートを覗き込んできた。ハーフアップにされた彼女の黒髪が、夕闇のなかで静かに波打っている。


「分かった。じゃあ、ここの一節を削って、ダイレクトに心臓を刺すような言葉に書き換える。その代わり、乃愛のボーカルがサビに入る瞬間のディレイは、夏の時よりもさらに深く、ホールの空間全体を氷結させるようなスケール感でコントロールするから」


「うん。さすが私の最高のパートナー。話が早くて助かる!」 


俺がノートに新しい言葉を書き殴り、乃愛がそこに激しくもエモーショナルなコードを乗せていく。彼女を世界一のステージの一番高い場所へ立たせる。それが、俺の今の、人生のすべてを懸けた誓いだった。 


冬休みを目前に控えた、ある日の放課後だった。その日は、二学期の終業式を数日後に控えた、特に冷え込みの激しい冬の夕暮れだった。校内は冬休みを迎える解放感とだらけた空気で満ち溢れており、多くの生徒たちはホームルームが終わると同時に、足早に部活や下校の途についていた。誰もいない特別棟の静寂のなか、俺たちは最後の確認を繰り返していた。ノートには四曲目の構成がびっしりと書き込まれ、その余白にはお互いが交わした意見の破片が無数に散らばっている。 


キーンコーンカーンコーン、という無機質な電子音が、静まり返った古い校舎に響き渡った。 

最終下校時刻を告げる、校内の警告チャイムだ。


「あ、嘘、もう最終下校の時間!? 今日は話し込みすぎちゃったね」 


乃愛が大慌てでスマホの画面を確認した。時計の針は、完全下校時刻のジャストを指していた。いつものように時間を忘れて、四曲目のアレンジについて熱く語り合っていたせいで、完全に周りの音が聞こえなくなっていたのだ。


「やばい、急がないとまた先生たちの見回りに捕まる。速攻で荷物まとめて!」


「ギター、ケースに閉めて! 俺、そっちのノートとかカバンに入れるから!」 


俺たちは大慌てで荷物をカバンに詰め込み、誰もいない薄暗い南校舎の廊下へと飛び出した。足音をできるだけ忍ばせながら、しかし全力に近いスピードで、冷たい静寂が漂う階段を駆け下りる。一階の職員室の明かりが遠くに見えた時は生きた心地がしなかったが、なんとか誰にも遭遇することなく、夜の帳がすっかり下りた校庭へと滑り出すことができた。校門を抜けて学校の敷地外に出ると、どちらからともなく自然と足取りが緩やかになった。

冬の夜風が、全速力で走って火照った身体にひどく冷たく、心地よかった。街灯がぽつぽつと等間隔で灯り始めた、いつもの静かな通学路を、俺たちは肩を並べて歩き出した。


「ふぅー! 焦ったけど、今日もなんとか逃げ切りセーフだね、魄栗!」 


乃愛は大きなギターケースを背中に背負い直しながら、楽しそうにケラケラと笑った。その瞳は、夜の暗闇の中でも街灯のオレンジ色の光を反射して、きらきらと美しく輝いている。


「本当に心臓に悪いよ、乃愛といると。二学期の最後までこれかよ」


「退屈な優等生にはこれくらい刺激的な毎日がお似合いなんだってば。ほら、生きてるって感じするでしょ?」 


並んで歩く夜道。昼間のあの騒がしい喧騒が嘘のように静まり返った住宅街を歩いていると、ふと、乃愛が道沿いにあるあの思い出の自動販売機の前に足を止めた。ディスプレイに並ぶ、温かい缶と冷たい缶のカラフルな電光が、彼女のセーラー服の上から羽織った厚手のカーディガン姿を淡く照らしている。


「ねえ、魄栗。ちょっと喉乾かない? あそこの自販機で、またあの炭酸レモン買おうよ。走ったら、なんだか冬なのに冷たいのが飲みたくなっちゃった」


分かりやすすぎるそのおねだりに、俺は少しおかしくなって、ズボンのポケットから小銭入れを取り出した。あの日、放課後の空き教室でお腹を空かせた時も、他県のホテルの夜も、俺たちはいつもこのジュースを分け合ってきた。


「はいはい、分かったよ。一本選んでよ、奢るからさ」


「やった! 魄栗最高!」


乃愛は嬉しそうにパッと顔を輝かせると、自動販売機の前へと嬉しそうに一歩足を踏み出し、ボタンを押そうとした。彼女の指先が、自動販売機の青く光る冷たいボタンへ、まっすぐに伸ばされる。

――まさに、その瞬間のことだった。静まり返った夜の道路の向こう側から、尋常ではない金属の摩擦音と、凄まじい速度で突っ込んでくる車のエンジン音が、耳を突き刺すような不快なノイズとなって響き渡った。

ガガガガガッ!!!

見慣れた交差点、俺たちのいる歩道側の信号は、完全に赤。しかし、交差点のカーブを曲がってきた一台の大型トラックは、減速する気配すら一切なく、赤信号を完全に無視して猛烈なスピードで蛇行しながら突っ込んできた。居眠りか、あるいは飲酒運転か。制御を完全に失った鉄の塊が、ヘッドライトの暴力的な白い光で、俺たちの視界を一瞬にして真っ白に染め上げる。トラックのフロントグリルが、自動販売機の前に立つ乃愛のすぐ目の前まで、容赦ない死の質量を持って迫っていた。


「――乃愛、危ないっ!!!!」


思考よりも先に、俺の身体が動いていた。優等生としての計算も、打算も、未来への不安も、その瞬間すべてが消え去った。頭の中にあったのは、ただ一つ。この世界で一番大切な、俺の光である彼女を、絶対に失いたくないという、それだけの本能だった。俺はすべての力を指先に込め、自動販売機の前にいた乃愛の細い身体を、歩道の内側の草むらへと全力で突き飛ばした。

ドンッ!!!!!

肉体と、何トンもの冷たい金属が激しく衝突する、鈍くて凄まじい音が夜の街に響き渡った。一瞬の奇妙な浮遊感。世界が上下反転し、街灯の光が歪んで視界をぐるぐると回る。次の瞬間、アスファルトの冷たい床に、俺の身体が凄まじい衝撃と共に叩きつけられた。全身の骨がバラバラにきしむような感覚と、遅れてやってくる、身体中を焼き尽くすような猛烈な、凄まじい激痛。


「……あ、が……っ……っ」


肺の中の空気がすべて強制的に絞り出され、呼吸の仕方が一瞬で分からなくなる。視界が急速に狭くなり、目の前が赤黒いモザイクのようにかすんでいく。遠くの方で、ガシャーン!と、何かが激しく粉々に割れる音が響いた。突き飛ばされた乃愛が地面に倒れ込んだ衝撃で、彼女が命の次に大切にしていた、あの木目の美しいアコースティックギターのケースが、地面に叩きつけられて真っ二つに大破した音だった。俺たちのこれまでを支えてくれたあの音が、無残に引き裂かれる音がした。


「魄栗!? 嘘、嘘でしょ……!? 魄栗、目を開けてよ!!! 嫌だ、嫌だよ魄栗!!!!」


悲鳴のような、魂を切り裂くような叫び声が、かすんでいく耳の奥に届いた。視界の端で、ハーフアップの黒髪を振り乱した乃愛が、ボロボロに泣きじゃくりながら、血の海に倒れる俺の身体のそばへ駆け寄り、その細い指先で俺の制服のシャツをきゅっと握りしめて激しく揺さぶっているのが見えた。彼女の温かい涙が、冷たくなっていく俺の頬へとぽろぽろと落ちてくる。何か言葉を返したかった。

「大丈夫だ」と言って、彼女の震える手をもう一度だけ握り締めたかった。けれど、指先一ミリすら、もう自分の意志では動かすことができなかった。身体の感覚が急速に消え去り、意識が、底のない冷たくて深い暗闇へと、強引に沈み込んでいく。遠くのほうから、ウーウーと冬の夜の静寂を無惨に切り裂く、救急車のサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。

日常へ戻り、次の冬のステージへ向かって走り出すはずだった俺たちの境界線は、この最悪な事故によって、あまりにも残酷な形で粉々に叩き割られた。灰色だった俺の日常を、鮮やかに塗り替えてくれた最愛の少女の声を、最後に耳の奥の奥で聴きながら、俺の意識は完全な闇へと没していった。 


深い。どこまでも深い闇の底を、俺は宛てもなく漂っていた。 

痛みすら感じない、温度のない世界。

耳の奥でずっと鳴り響いていたはずのトラックの轟音も、乃愛の悲痛な叫び声も、すべてが遠い泡のように消えていく。自分という存在の境界線が曖昧になり、このまま静かに無へと溶けていくのだと、そう思った。 

――けれど、その暗闇を強引に引き裂いたのは、やはり彼女の声だった。


「……くり……おねがい……目を、開けて……」 


微かな振動。皮膚を伝う、冷たい感覚。その声に引かれるようにして、俺は意識の底からゆっくりと浮上していった。身体中のすべての神経が、一斉に猛烈な激痛を訴え始める。喉の奥が焼け付くように熱く、指先を動かそうとするだけで、身体が内側から引き裂かれるような錯覚に襲われた。

瞼が、鉛のように重い。俺はすべてのカを振り絞り、ゆっくりと、恐る恐るその目を開けた。真っ白な天井。鼻を突く、特有の消毒液の匂い。規則正しく電子音を刻む、ベッド脇の医療機器のモニター。視界が少しずつ焦点を結んでいくなかで、俺のすぐ隣に、くしゃくしゃに泣き腫らした顔で俺の手を握りしめている乃愛の姿が映し出された。


「……あ、あ……」 


声にならなかった。掠れた吐息が漏れるだけで、喉が激しく痛む。けれど、俺の微かな動きに気づいた乃愛は、ハッと目を見開くと、その瞳から大粒の涙を堰を切ったように溢れさせた。


「魄栗……っ! よかった、本当によかった……っ!」 


彼女は俺の手を自分の両手でぎゅっと包み込み、そのままベッドの縁に額を押し当てて、子供のように声を上げて泣き崩れた。ハーフアップを解いた彼女の黒髪が、白くて冷たいシーツの上に乱雑に広がっている。その震える小さな身体を見て、俺は自分がまだ生きていて、彼女を守りきれたのだということを、激しい痛みのなかで確かに実感していた。


「……の、あ……」


「喋っちゃダメ。まだ、意識が戻ったばっかりなんだから……。痛いよね、ごめんね、私のせいで、私のせいで魄栗がこんな……っ」 


乃愛は涙を拭おうともせず、必死に言葉を紡いだ。彼女のその剥き出しの罪悪感と悲しみに満ちた瞳を見つめながら、俺はなんとか安心させたくて、繋がれた指先に、ほんの少しだけ、カを込めた。


「……お、れは……平気だ。乃愛が、無事なら……それでいい」 


掠れた声でようやくそれだけを伝えると、乃愛は嬉しそうに、でもどこか苦しそうに眉をひそめて、何度も何度も頷いた。医師の診断によれば、俺は全身の複数箇所の骨折と激しい打撲を負っており、意識が戻ったのは奇跡に近いということだった。全治数ヶ月。当然、冬休みの間は完全に病院のベッドの上で過ごすことになり、楽しみにしていた、あの四曲目を引っ提げて挑むはずだった『冬の大会』への出場は、物理的に不可能なものとなってしまった。 

これまでの三ヶ月、あの狭い空き教室で魂を削りながら磨き上げてきた音が、冬のステージで開花することなく、この白い病室の中で凍結してしまう。その残酷な現実に、胸の奥がキリキリと激しく痛んだ。けれど、それ以上に俺たちに突きつけられていたのは、もっと現実的で、容赦のない壁だった。


「……親や、学校には……どうやって説明したんだ?」 


俺の問いに、乃愛は少しだけ顔を曇らせ、繋いだ手をさらにきゅっと握りしめてきた。


「……大変だったよ。夜の21時過ぎに、なんで隣のクラスの二人が一緒にいたのかって、警察からも、親からも、学校からも、すっごく問い詰められて。魄栗が運ばれたあと、私、頭が真っ白になりながら、必死に嘘を考えたの」


乃愛は少しだけ声を潜め、病室のドアの方をチラリと気にした。


「『文化祭の劇のBGMのことで、柳くんに機材の相談に乗ってもらってた』ってことにした。放課後、学校の近くのファミレスでずっと話し込んでて、気がついたら遅くなっちゃって、慌てて帰る途中に事故に遭ったんだって。……学校の先生たちも、優等生の柳くんが相手だから、それ以上は深く突っ込んでこなかった。遠征の嘘も、なんとかバレずに済んだけど……」


彼女の言葉を聞いて、俺は少しだけ安堵の息を漏らした。完璧な優等生として築き上げてきた「柳くん」としての仮面が、ここでも俺たちの盾になってくれたのだ。けれど、嘘が通ったからといって、失われたものが戻ってくるわけではない。


「私のギター……、あの事故のとき、真っ二つになっちゃった」 


乃愛はうつむき、ぽつりと呟いた。中学時代から彼女の心を支え、唯一の武器だった、あの木目の美しいアコースティックギター。それが、修復不可能なほど大破してしまったのだという。

武器を失い、ステージに立つこともできず、恋人は病室のベッドの上で動けない。

冬の到来と共に、俺たちの「逆襲」のストーリーは、完全にその足を止められてしまったようだった。


「冬の大会、出られなくなっちゃって、ごめんね……。私が、もっと周りに気をつけていれば……」 


再び涙を浮かべる乃愛の、少し固くなった細い指先を、俺は自分の手でしっかりと握り返した。


「謝るなよ、乃愛。……ギターなんて、また新しいのを……買えばいい。冬の大会には出られないけど……俺たちの共犯関係は、まだ……終わってないだろ」 


俺は、怪我の痛みに耐えながら、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、最高に悪巧み染みた不敵な笑みを浮かべてみせた。


「冬の間に、俺のこのケガを完全に治す。乃愛も、新しい音を見つけるんだ。この冬の空白の季節を、全部エネルギーに変えて、春になったら……高校二年生になったらさ、春の大会で、今度こそ満場一致の完全優勝を獲りに行こう。他のみんなより不利なスタートなんて、俺たちがまた、全部ひっくり返してやればいいんだから」 


俺の言葉を聞きながら、乃愛はハンカチで何度も涙を拭った。そして、泣き腫らした目のまま、でも今度こそ、いつものあの不敵で、最高に綺麗な笑顔を咲かせた。


「……うん。約束だよ、魄栗。春になったら、絶対に世界中の奴らの度肝を抜いて、全員を私たちの共犯者にしてやろうね」 


病室の窓の外、いつの間にか、冬の冷たい夜空から小さな雪の破片がひらひらと舞い降りていた。すべての音が凍りつく空白の季節。けれど、俺たちの胸の奥に灯ったあの熱い塊は、決して消え去ることはなかった。

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