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第十一章 最悪の再発

白く、平坦で、どこまでも無機質な世界だった。 

事故の後、全治数ヶ月という重傷を負って入院した俺を待っていたのは、楽しみにしていた『冬の大会』を完全に断念せざるを得ないという、冷徹なまでの現実の壁だった。これまでの数ヶ月、あのエアコンの利かない南校舎四階の空き教室で、指先を凍えさせながら乃愛と二人で魂を削るようにして磨き上げてきた四曲目。

それが、日の目を見ることもなくこの病室の天井の中に吸い込まれて消えていく。そのあまりの悔しさに、夜、一人でベッドの中にいると、足の骨折の痛みとは違う、焼け付くような鈍い痛みが胸の奥を激しく締め付けていた。

優等生の仮面を被ることすらできないほど、俺は絶望の底に沈んでいた。


「――お待たせ、魄栗。今日のいちごオレ、ちゃんと買ってきたよ」 


けれど、そんな俺の暗闇を、毎日強引に引き裂いてくれたのは、やはり彼女だった。冬休みに入ってからというもの、乃愛は毎日、面会時間が始まるのとほぼ同時に、冷たい冬風に頬を真っ赤に染めながら俺の病室へとやってきた。セーラー服の上から羽織ったあの大きめの黒いカーディガンには、いつも外の凍えるような空気の匂いが残っていて、彼女が部屋に入るだけで、白く止まっていた病室の時間が、一気に色鮮やかに動き出すような気がした。


「ほら、お見舞いの栗饅頭。商店街のおじさんがさ、『お前さんのパートナーに早く元気になれって伝えとけ』って、一つおまけしてくれたんだからね」 


乃愛はカバンからお詫びの、いや、お見舞いの品々を机の上に手際よく並べると、俺のベッドの横にある丸椅子に腰掛けた。事故のとき、彼女が命の次に大切にしていたあのアコースティックギターは真っ二つに大破してしまった。そのはずなのに、俺の前では彼女は決してそんな絶望の顔を見せなかった。心配させまいと、無理やり元気いっぱいに振る舞い、学校での他愛もない噂話や、新しく思いついたメロディのハミングを、言葉を尽くして俺に聞かせてくれた。 

けれど、俺には分かっていた。時折、ふと会話が途切れた瞬間に、彼女が自分の細い指先をじっと見つめ、何かを堪えるようにして小さく唇を噛み締めているのを。俺を庇ったせいで、俺がこんな大ケガを負ってしまったという猛烈な罪悪感が、彼女の小さな胸をずっとキリキリと引き裂き続けているのだということを。


「……乃愛。無理して笑わなくていいよ。ギターのこと、悔しかっただろ」 


ある日の夕暮れ、俺が静かにその名前を呼ぶと、乃愛はハッと息を呑んだ。病室の窓の外から、冬の冷たい夕日が斜めに差し込み、彼女の黒髪をオレンジ色に縁取っている。乃愛は手に持っていたいちごオレの紙パックをぎゅっと握りしめ、しばらくじっとうつむいていたが、やがて、その切れ上がった瞳から大粒の涙をぽろぽろと零し始めた。


「……悔しいよ。悔しくて、死にそうだよ、魄栗。……私のせいで、魄栗の大事な身体を傷つけて、冬の大会も全部台無しにしちゃって。私、本当に最低の共犯者だ……」 


乃愛はベッドのシーツに顔を押し当てるようにして、声を押し殺して大泣きし始めた。俺は動かない身体を無理やり動かし、彼女の震える小さな頭を、そっと手のひらで撫で続けた。


「何言ってるんだよ。俺が乃愛を庇ったのは、俺がそうしたかったからだ。乃愛が無事で、こうして毎日俺の隣にいてくれる。それだけで、俺にとっては完全優勝なんかよりも、何百倍も価値があるんだよ」 


俺が本気でそう告げると、乃愛は涙を拭おうともせず、顔を上げて俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。


「この冬の空白の季節を全部エネルギーに変えて、春になったら……高校二年生になったらさ、春の大会で、今度こそ満場一致の完全優勝を獲りに行こう。他のみんなより不利なスタートなんて、俺たちがまた、全部ひっくり返してやればいいんだから」 


俺の言葉に、乃愛は赤く腫らした目のまま、でも今度こそ、いつものあの不敵で、最高に綺麗な笑顔を咲かせた。


「……うん。約束だよ、魄栗。春になったら、絶対に世界中の奴らの度肝を抜いて、全員を私たちの共犯者にしてやろうね」 


それからの入院生活は、俺たちにとって、不思議なほどに甘くて愛おしい『第二の作戦会議』の時間となった。 

乃愛はバイトをして新しいギターを買うための資金を集める傍ら、病室のベッドの横で、俺のノートに新しい四曲目の歌詞のアイデアをいくつも書き込んでいった。お互いに手を繋ぎ、指先から伝わってくる確かな熱を確かめ合いながら、俺たちは暗い冬の夜を、一歩ずつ一緒に越えていった。病院でのあの数ヶ月の思い出は、俺たちの絆を、誰にも引き裂けないほど強固なものへと育て上げていた。


ーーーーーーーーーーーーーーー


そして、季節は巡り春がやってきた。 

四月。桜のピンク色の花びらが春の嵐に舞い踊るなか、俺は無事に病院を退院し、松葉杖も取れて、すっかり元通りに歩けるようになった身体で、高校二年生の始業式の朝を迎えていた。校門へと続くあの長くて緩やかな坂道を上る。二学期の頃の、息の詰まるような重苦しさは不思議ともうなかった。ワイシャツの襟を整え、完璧な優等生としての笑顔の仮面を顔に貼り付けながらも、俺の胸の奥は、これからの新学期への期待で激しく脈打っていた。


昇降口に入ると、新二年生の最大のイベントである『クラス替え発表の掲示板』の前に、もの凄い数の生徒たちが押し合いへし合いしながら群がっていた。あちこちから「やったー! 同じクラスじゃん!」「最悪、あいつと離れちゃった……」という賑やかな悲鳴が響き渡っている。俺は人混みの後ろから、優等生としての穏やかな笑みを浮かべながら、黒板に貼り出された、名簿の文字をじっと指先で追っていった。 

柳魄栗。俺の名前を見つけ、そこからさらに視線を数行上にずらした、まさにその瞬間のことだった。 

――伏波乃愛。その四文字の漢字が視界に飛び込んできた瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。心臓が、ドクンと嫌な音を立てて激しく跳ね上がる。何度も何度もその文字を見直したが、見間違いではなかった。一学期も二学期も、ずっと「隣のクラス」という絶妙な境界線の向こう側にいたあの少女が、高校二年生になった今日、俺と同じ空間のなかに存在している。


「おい、柳くん! 同じクラスじゃん! 今年度もよろしくな!」


「あぁ、うん! よろしく。また一緒に頑張ろうね」 


クラスメイトに声をかけられ、俺は一瞬で『完璧な優等生』の声を再生して愛想よく返事をした。けれど、頭の中は完全に真っ白だった。教室に入り、指定された席に座る。少し離れた窓際の席に、あの艶やかな黒髪ロングをハーフアップにした乃愛が、すでにつんとした「一匹狼の伏波さん」の顔をして座っていた。周囲の女子生徒たちが彼女の圧倒的な容姿に気後れして遠巻きに見ているなか、彼女は窓の外の桜をじっと眺めている。 

俺たちは一言も言葉を交わさなかった。視線すら合わせなかった。けれど、学校の教室の中で、同じ空気のなかで彼女と同じ時間を過ごしているというその事実に、俺の制服のシャツの奥の心臓は、終業式が終わるまでずっと、狂ったようなビートを刻み続けていた。


キーンコーンカーンコーン。

二年生の最初の始業式、そしてホームルームの終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた瞬間、生徒たちが一斉に席を立ち、賑やかな声を上げながら教室を抜け出していった。俺は学級委員の書類を片付けるフリをしながら、クラスメイトたちが完全にいなくなるのをじっと待った。乃愛のほうも、カバンに教科書を詰める手をわざとらしく遅らせているのが分かった。 

教室の中に、俺と彼女の二人きりしかいなくなった、まさにその瞬間。窓際でつんとしていたはずの乃愛が、弾かれたように席を立ち、俺のいる教壇の前へと猛烈なスピードで駆け寄ってきた。


「ちょっと、魄栗!!!! 嘘でしょ!? 同じクラスなんだけど!!!」 


乃愛は俺の目の前に立ち、カバンを机に叩きつけると、興奮で頬を真っ赤に染めながら、俺の制服のシャツの胸元を、両手できゅっと力任せに掴んで激しく揺さぶった。いつもの学校でのクールな「伏波さん」は一瞬で崩壊し、病室で見せてくれたあの愛おしい彼女が、剥き出しの感情を爆発させていた。


「驚いたよ、俺だって。クラス替えの表を見た瞬間、心臓が止まるかと思った」


「心臓止まるのは私のほうだよ! だって、同じクラスだよ!? これから毎日、朝のホームルームから、授業中も、休み時間も、ずーーーっと魄栗が同じ部屋にいるんだよ!? 私、絶対に優等生の仮面被ってる魄栗のこと見て、授業中に吹き出しちゃう自信あるんだけど!」 


乃愛は真っ赤になりながらも、嬉しさを堪えきれないとばかりにケラケラと笑った。ハーフアップにされた彼女の黒髪が、興奮に合わせて揺れ、あの雑貨屋で買ったお揃いの藍色のガラスの星が、カバンの隙間で嬉しそうにきらきらと輝いていた。


「吹き出すのはやめてくれよ。俺の優等生としての立場が完全になくなるから。……でもさ、最高じゃん」 


俺は、胸元を掴んでいた彼女の細い指先を、自分の大きな手でそっと、でも包み込むように温かく握り締めた。病院のベッドの上で何度も確かめ合った、あの愛おしい手のひらの熱が、春の優しい光の中で再び重なり合う。


「今までは『隣のクラスの伏波さん』だったけど、これからは同じクラスだ。学校の中で、誰よりも近くで乃愛のことを見守れる。放課後まで待たなくても、いつでも君の姿が視界に入るんだからさ」 


俺が真っ直ぐに本音を告げると、乃愛は一瞬だけ驚いたように丸い目を見開き、それから、布団の中に顔を埋めていたあの冬の日とは比べ物にならないほどの、今日一番の、曇りなき無敵の笑顔を咲かせた。


「……うん! もう『隣のクラス』なんて境界線は、どこにもないもんね。よし、学校の中でも、放課後のあの空き教室でも、とことん私に付き合ってもらうからね、魄栗!」


「あぁ。望むところだ。……さあ、行こうか、パートナー。春の大会に向けた、俺たちの本当の逆襲の始まりだ」


俺たちは手を離し、誰もいない二年生の教室を後にした。


同じクラスになったという、天からの悪戯のような奇跡の余韻を胸に秘めたまま、教室の中では、俺たちは徹底して「ただのクラスメイト」を演じ続けた。俺はいつも通り、教壇の前でノートを配り、先生の手伝いをし、クラスの誰もが頼りにする完璧な優等生として振る舞う。乃愛は窓際の席で、相変わらずちょっとつんとした一匹狼の伏波さんとして、ノートの隅に音符を書き殴っている。お互いに視線すら合わせない。けれど、同じ空間に彼女がいるというだけで、俺の仮面の裏側の心臓は、いつだって心地よい熱を帯びていた。 

そして放課後になれば、俺たちは誰もいない南校舎四階の空き教室へ、吸い込まれるようにして集まった。


「――はい、これ。少し遅くなったけど、誕生日おめでとう、乃愛」 


いつもの席につくなり、俺は背中に隠していた、まだ真新しい木目の美しいアコースティックギターのケースを机の上に置いた。乃愛はハッと大きく目を見開き、信じられないというようにそのケースと俺の顔を何度も往復させた。


「え……嘘、これって……」


「これまでの大会で貰った賞金、俺の分も全部使って買ったんだ。あの日、俺を庇って真っ二つになっちゃったからさ。冬の空白を越えて、また俺たちの音楽を始めるための、俺からのプレゼントだよ」 


乃愛はそっとケースを開け、新しいギターのネックを愛おしそうに撫でた。彼女の切れ上がった瞳の縁に、じんわりと温かい涙が浮かんでいく。


「ずるいよ、魄栗……。こんなの、世界で一番嬉しいに決まってるじゃん。ありがとう、本当にありがとう。この新しい相棒と一緒に、今度こそ世界を驚かせに行こう!」 


ハーフアップにされた彼女の黒髪が、春の夕暮れの光を浴びてキラキラと輝いていた。冬のあいだ、病院のベッドの上と横で、何度も何度も言葉を交わし、ノートが真っ黒になるまで練り上げた、あの四曲目の弾丸。俺が手渡した新しい武器を抱え、乃愛は今日一番の無敵の笑顔を咲かせた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


新学期が始まってほんの数週間が経った四月の終わり頃から、俺の胸の奥には、冷たいインクが染み込んでいくような奇妙な違和感が居座り続けていた。


「伏波さん、次の日直の仕事、これ確認しておいて」 


学級委員としての仕事を装い、彼女の机にプリントを置く。彼女は前髪の隙間から僕を冷たく一瞥し、「分かった」と短く答えた。いつも通りの、一匹狼の態度。クラスの奴らは誰も疑わない。けれど、俺だけは気づいていた。プリントを受け取った彼女の指先が、微かに、本当に微かに震えていたことに。 

最初は、ただの気のせいだと思おうとした。でも、隣の席だからこそ、隠しきれない小さな「綻び」が俺の目に飛び込んでくる。授業中、教科書をめくる彼女の手が、驚くほど白い。血の気が完全に引いたような、生気のない白さ。かつて俺たちの音楽を力強く支えていたギターのタコが残る指先は、いつの間にかカサカサと乾燥し、爪の付け根は淡い、不自然なピンク色に変色していた。 


五月に入り、五月の爽やかな風が教室の窓から吹き込んでくるようになっても、彼女の周りの空気だけが澱んでいるように感じられた。一番おかしいと思ったのは、昼休みのことだ。 

彼女はいつも、机の上に小さなお弁当箱を広げている。けれど、俺が他のクラスメイトと話しながら盗み見る限り、彼女の箸はほとんど動いていなかった。ただおかずを小さく弄り、時間が過ぎるのを待っている。


「伏波さん、最近全然食べてないじゃない。ダイエット?」 


前の席の女子が気まぐれに声をかけたとき、彼女は「別に。朝、食べすぎただけ」と冷淡に言い放った。その声のトーンは完璧だった。でも、俺の耳には、その声の輪郭が以前よりほんの少しだけ掠れ、薄くなっているように聞こえた。気のせいじゃない。乃愛は、確実に痩せていっている。 


放課後、いつもの空き教室、ドアを閉めた瞬間、乃愛は「じゃーん!今日も私の最強のギター、特等席で聴かせてあげるからね!」と、以前よりもさらにテンションを高くして、大袈裟に笑うようになった。 

いつだって前向きで、俺を引っ張ろうとしてくれる彼女の笑顔。だけど、その笑顔の裏に、何か必死に自分を奮い立たせるような、痛々しい空元気を感じてしまうのは、俺の気のせいだろうか。


「乃愛、新曲のイントロ、もう少しテンポ上げてみようか」 


ミキサーの前に座る俺が言うと、彼女は「オッケー! 魄栗の注文なら、いくらでも応えちゃうよ!」と、親指を立ててみせる。俺が調整した音響のなかで、彼女が鳴らす音は、確かに激しく、俺たちの世界を体現していた。

だけど、ミキサーのフェーダーを握る俺の手には、微かな綻びがリアルタイムで伝わってくる。ピッキングのエッジが、ほんの少しだけ甘い。コードを押さえる力が、曲の終盤になるにつれて目に見えて弱くなっている。ミキサーの波形が、彼女の体力が限界を迎えていることを残酷に示していた。 

一曲を弾き終えた瞬間、彼女は「あはは!今のちょっとミスっちゃった!ちょっと休憩ね!」と大声で笑いながら、エフェクターの調整をするフリをして床にしゃがみ込んだ。その細い背中が、激しく上下しているのを俺は見逃さなかった。まるで酸素を必死に求めて、ひび割れた肺を無理やり動かしているかのように。


「乃愛、大丈夫か?」 


「元気、元気! ちょっとこのエフェクターのつまみが固くてさー!」


と、すぐに立ち上がって振り返った。その額にはびっしりと冷や汗が浮かび、唇は紫色に変色しかけていたのに、彼女の瞳だけは、いつもの何倍もギラギラと輝いて、俺を安心させようと笑っていた。 

――違う。乃愛は、元気なんかじゃない。 

俺の脳裏に、かつて彼女が口にしていた過去の言葉がよぎる。「私さ、昔、長いこと病気で入院してたんだよね。もうすっかり治ったけど!」もし昔乃愛を苦しめていた病気が、今、この春に再発しているのだとしたら。 

そう思った瞬間、俺の全身から血の気が引いていくような感覚がした。隠している。俺に、絶対に知られないように、いつも以上に明るい「嘘の仮面」を必死に張り付けているんだ。 

俺のために、壊れかけている身体を必死で隠し、笑顔の嘘をつき続けている。隣の席から聞こえる、小さく、不自然に明るい笑い声。その合間に、誰もいない教室や廊下で聞こえる、肺を削るような乾いた咳。

あいつが命を削りながら俺に「明るい嘘」をつき続けるなら、俺はいつまで、この残酷な嘘に騙された振りをしていればいいのだろう。

窓の外から吹き込む五月の風は青臭く、だけど俺たちの机の間に流れる空気だけは、静かに、終わりの始まりを告げるように冷たく凍りついていた。

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