第十二章 嘘つきの仮面
五月の終わり。梅雨の走りとも言える、重く湿った生温かい風が、高校の古びた木造の窓ガラスをがたがたと低く叩いていた。アスファルトからは雨の匂いが混じった独特の土埃が立ち上り、世界全体がじっとりと濡れた灰色に染まっていくような、そんな鬱屈とした季節の変わり目だった。
乃愛は、相変わらずこれ以上ないくらいにテンションを上げて、俺の前でだけは大裟に笑ってみせていた。「今日も私のギターは絶好調だし! ほら、次の新曲のフレーズ、めちゃくちゃカッコいいの思いついちゃったから、楽しみにしてなよ!」そう言って、わざとらしく俺の肩を小突いて胸を張る彼女の声。
誰も気づいていない。俺の前で見せるその弾けるような笑顔が、どれほど必死に作り上げられた「明るい嘘の仮面」であるか。
けれど、作詞を重ね、天才的な音響操作を自負している俺の耳は誤魔化せなかった。ミキサーを通さずとも、肉声の時点で彼女の笑い声の輪郭がもう限界まで薄くひび割れ、かすれてしまっていることに気づいていた。息を吸うたびに、彼女の喉の奥から微かに漏れる喘鳴。教科書をめくる指先が、季節外れの凍土のように冷え切っていること。あいつが命を削りながら必死に張り付けている笑顔の仮面が、今にも粉々に砕け散りそうなほど限界を迎えていることを、俺は隣の席で、静かに、そして痛烈に感じ取っていた。
それでも、俺は騙された振りをし続けるしかなかった。あいつが「俺のために」そうやって笑っていると分かっていたからだ。だけど、その残酷な猶予は、ある放課後にあまりにも突然、最悪の形で終わりを告げた。
校則の網の目を潜り抜けて辿り着いた、いつもの教室。コンクリートの壁に囲まれた、俺たちだけの聖域。俺が書き下ろした新曲の、一番激しく感情が爆発するサビに入った瞬間だった。いつもならスタジオの空気を一瞬で支配し、鼓膜を震わせるはずの鋭いカッティングが、突如として途切れた。シールドの奥から、ブツリ、という不快な金属質のノイズだけが虚しく響く。
「……あはは、ごめん、ちょっとミスっ――」
乃愛はいつものように笑おうとした。体内の異変を悟らせまいと、慌てて冗談めかした笑顔を作ろうとした。
けれど、その言葉すら最後まで紡ぐことはできなかった。彼女の身体は、まるで全ての糸を一瞬で切られたマリオネットのように、その場にぐらりと崩れ落ちたのだ。
「乃愛――っ!?」
ガシャーン、と激しい金属音を立てて、ギターが床に転がり、冷たい火花を散らす。俺はミキサーの前に置いていた椅子を激しく蹴立てて、彼女の元へと全力で駆け寄った。
床に倒れ込んだ彼女の身体を抱き起こした瞬間、俺の腕に伝わってきたのは、背筋が凍るような感覚だった。軽い。あまりにも軽すぎる。春服の薄いブレザーの上からでも、彼女の骨の形がそのまま手のひらに伝わってくるほどに、その身体は肉を失い、痩せ細っていた。意識を失った彼女の額にはびっしりと脂汗が浮かび、唇は完全に生気を失ってどす黒い紫色に変色している。
「おい、乃愛! しっかりしろ、乃愛! 目を開けろ!」
いくら名前を呼んでも、彼女のきつく閉じた瞼が開くことはなかった。呼吸は浅く、胸の上下は今にも止まってしまいそうなほどにか弱かった。俺の手のひらの中で、彼女の命の灯火が、今まさに消えかかろうとしていた。
次に彼女の姿を見たのは、かつて彼女自身が「二度と戻りたくない」と激しく忌み嫌っていた、あの真っ白な病院のベッドの上だった。静まり返った病室に、規則的で無機質な電子音を立てて命の波形を刻む心電図のモニター。傷ひとつない純白の壁と、消毒液の無機質な匂い。そして、彼女の細い静脈に容赦なく突き刺された点滴の管。それが、高二の春を生きる俺たちの、あまりにも残酷で、言い逃れのできない新しい現実だった。
「……くり、」
面会時間の夕暮れ。病室の重い鉄のドアを開けると、微かに開いた彼女の瞳が、力なく俺を捉えた。鼻に酸素吸入のチューブを通された彼女には、もう『私の天才的なギターを聴いて!』と大声を出す空元気すら、これっぽっちも残っていなかった。朝のベッドの上で無惨に抜け落ちていく髪を隠すためだろう、頭には淡い色のバンダナが痛々しく巻かれている。その境界線から覗く肌は、かつてステージの上で輝いていた頃の面影を完全に失っていた。
俺は何も言わず、ベッドの脇に置かれた無機質なパイプ椅子に腰掛け、彼女の透き通るほど白い手をそっと握った。かつてギターの弦を力強く押さえ、硬いタコができていたはずの指先は、今や触れるだけで粉々に砕け散ってしまいそうなほど脆いガラス細工のようになっていた。その細い指の隙間から、俺が贈ったあのギターケースが、病室の片隅にぽつんと置かれているのが見えた。あいつは、病院のベッドの上ですら、俺たちの音楽を手放さずに、自分のそばに置き続けていたのだ。その事実が、俺の胸に鋭いナイフを突き刺す。
「ごめん、ね……」
乃愛の目から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出し、白いシーツと枕をじわじわと濡らし、深く染み込んでいった。
「隠してて、ごめん……。驚かせたく、なかったの。だって、またあの昔の病気が再発したなんて言ったら、魄栗、絶対に心配するから……。せっかく、同じクラスになれて、あの新しいギターも、やっと貰えたのに……っ。また私、全部台無しにしちゃった……っ」
彼女の声は、ひび割れた肺の奥から、自身の命を削りながら無理やり絞り出すようで、聴いているこちらの胸が真っ二つに張り裂けそうだった。俺のために、俺たちの音楽のために、彼女はどれほどの激痛と、孤独な恐怖を一人で耐え、あの教室で、明るい笑顔を作り続けていたのだろう。そう思うと、自分の無力さに吐き気がした。
「私さ……悔しいよ。魄栗が世界で一番カッコいい歌詞を書いてくれて、天才的な音響で俺を支えてくれるのに。もう、あのステージに立って、魄栗と一緒に世界のくだらないルールと戦うことなんて、できない……。あいつらをぶちのめして、優勝することだって、できない……っ。優勝、できないまま終わるなんて、そんなの、嫌だ……っ」
指先ひとつ動かすのすら不自由なはずのその腕で、乃愛は俺の手を必死に、引きちぎらんばかりの力で握り返そうとしてきた。細く、冷え切った指先が、細かく、激しく震えている。
「死にたくない……っ、魄栗、私、死にたくないよ……! まだ何も返せてない! まだ、一緒に、もっともっとたくさんの音楽を作りたい……っ! ここで終わりたくないよ……っ!」
一匹狼としてのプライドも、俺の前で必死に作っていた明るい仮面も、すべてが涙と一緒にドロドロに崩壊していく。その涙は、彼女がこれまで一人の夜に、どれほど怯えていたかを物語っていた。ベッドの上で、感情を爆発させ、子供のように声を上げて泣きじゃくる乃愛の姿は、あまりにも痛々しく、そして残酷なほどに、生への強い執念に満ちていた。死の恐怖に怯え、震えながら、それでも俺との音楽を諦めたくないと泣く彼女の姿が、俺の心の奥底にある何かを決定的に、修復不可能な形で変えた。
涙で滲む視界の先、彼女が必死に隠そうとしていた病院で貰ったバンダナから、数本の黒い髪がシーツに滑り落ちていくのが見えた。彼女の命が今、この一瞬一瞬にも削られている。その冷徹な現実を前に、俺の心は激しい怒りと、それ以上の狂おしいほどの愛で満たされていった。俺は溢れそうになる涙を、奥歯がボロボロに噛み砕けるほどの力で必死に堪え、壊さないように、腕のなかに引き寄せた。
「死なせるわけないだろ……。勝手に俺たちの音楽を終わらせるな、乃愛」
俺の紡ぐ言葉が、彼女のバンダナに、細い肩に染み込んでいく。彼女の細い背中を優しく、何度もさする。
「絶対に諦めるな。俺たちは、ここからが本当の本番だ。お前の命も、音楽も、俺が絶対に繋ぎ止めてみせる。例え神様が用意したルールがどれほど絶望的でも、俺たちの曲の力で全部ぶち壊してやる」
俺の言葉を聞きながら、乃愛は俺の胸に顔を埋めたまま、声にならない声を上げて泣き続けた。その温かい涙が俺の制服に染み込んでいく感覚を、俺は一生忘れないだろうと確信していた。
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真っ白な天井だけが、今の私の世界のすべてだった。
視界をどこに動かしても、目に飛び込んでくるのは規則正しく並んだ正方形のパネルと、その隙間を埋める灰色の目地だけ。たまに風が強く吹いた日に、窓の外の街路樹の影がかすかに揺れて天井に這う。それが、私が外部の世界の「時間」を感じられる唯一の拠り所だった。
あの日、放課後の教室で、新曲の最も激しい、私たちの感情のすべてを叩きつけるようなサビに差し掛かった瞬間、私の視界は信じられないほどの速さで暗転した。ギターが、床に転がって鋭いノイズを立てたことすら、私は覚えていない。耳の奥でブツリと弾けた不快な金属音を最後に、私の意識は深い沼の底へと引きずり込まれた。
次に目を覚ましたとき、私はかつて幼い頃に長い時間を過ごし、二度と戻りたくないとあれほど強く天に願っていた、あの病院のベッドの上に横たわっていた。鼻に通された酸素吸入のチューブが、息をするたびに小さく、シュ、シュ、と乾いた音を立てる。その無機質な響きが、私の身体がもう自分の意志だけでは正常に酸素を取り込むことすらできない状態にあることを、残酷なまでに証明していた。
「再発です」
医師から告げられたそのあまりにも短い言葉は、私たちが高校二年生の春に同じクラスになり、せっかく始まった第二の共犯関係を、根底から引き裂き、踏みつぶすには十分すぎるほどの絶望を持っていた。
「死にたくない……っ、魄栗、私、死にたくないよ……!」
入院した直後、お見舞いに来てくれた彼に、私は張り付けていた明るい嘘の仮面をすべて剥ぎ取られ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。あんなに惨めで、格好悪い姿は誰にも見せたくなかったのに。何より、教室では冷徹な優等生を演じ、裏では俺の歌詞と音響を最高のエディットで支えてくれる相棒の前では、世界で一番強くて、誰も寄せ付けない最高の一匹狼でいたかった。
けれど、私の心の中にあった生への執念と、彼ともっと音楽を作りたい、世界のくだらないルールをぶちのめして大会で優勝したいという狂おしいほどの願いは、私のプライドを簡単に踏みつぶして溢れ出てしまったのだ。彼はそんな私の脆い身体を、壊れ物を扱うように優しく、だけど絶対に離さないという強い力で抱きしめてくれた。
だけど、現実はどこまでも冷酷で、容赦がなかった。五月の終わりから六月、そして七月へと、窓の外の世界が瑞々しい青葉から濃い緑へと移り変わっていく中で、私の身体は、ブレーキの壊れた車が坂道を転がり落ちるように、だんだんと、確実に「弱り」の深淵へと突き進んでいった。
強力な薬剤による治療が始まると、私の身体は目に見えてその生気を失っていった。
最初に私を襲ったのは、世界からすべての「味」と「匂い」が消え去ったことだった。病院が用意する、栄養のバランスだけを考えられた味の薄い食事が運ばれてくるたび、そのプラスチックの蓋を開けた瞬間の湯気の匂いを嗅ぐだけで、胃の底から激しい拒絶反応が突き上げてくる。何を口に含んでも、まるで細かく砕いた砂の塊を噛んでいるようで、喉の奥が狭くなってどうしても飲み込むことができない。
それでも、生きなければ魄栗の元へ戻れないと自分に言い聞かせ、涙を流しながら無理に胃に流し込もうとするけれど、次の瞬間には激しい吐き気に襲われ、胃液ごと何もかもを白い洗面器へと吐き出してしまう。そんなことを繰り返すうちに、食事の時間が近づくだけで、私の身体は恐怖で小刻みに震えるようになった。
みるみるうちに、私の肉体は質量を失っていった。毎朝、看護師に車椅子へ移乗させてもらい、引きずられるようにして測る体重計の数値が、私の命が少しずつ消滅していることを示すカウントダウンのように思えてならなかった。鏡を見るのが、日に日に怖くなる。
パジャマの袖から覗く手首は、少し力を入れて握ればいとも簡単にパキリと折れてしまいそうなほどに細くなり、骨の形がそのまま皮を突き破らんばかりに鋭く浮き彫りになっていた。かつて、同じクラスの女子に「ダイエット?」と聞かれて「別に」と冷たくあしらっていたあの頃の自分を思い出すと、あまりの皮肉さに乾いた笑いすら出なかった。鎖骨は深く窪んでどす黒い影を作り、あんなに新しいギターのストラップをしっかりと支えていた私の両肩は、今や見る影もなく薄く、小さく、肉を削ぎ落とされてしまっていた。
そして何より、私を最も深い絶望の底へと突き落としたのは、髪の毛の脱落だった。朝、目が覚めて枕元を見るのが一番の恐怖だった。真っ白なシーツの上に、黒い細い糸のような私の髪が、何十本も、何百本も、まるで死んだ虫の足のように散らばっているのだ。信じたくなくて、手ですくい上げようとすると、何の抵抗もなく、指の隙間をすり抜けてハラハラとシーツへと落ちていく。ただ頭に触れるだけで、ごっそりと毛束が指に絡みついてくる。ブラシを通すことなんて、もう恐怖でできなくなった。週に数回、看護師に手伝ってもらって入るお風呂で頭を洗うたびに、排水溝が私の命の欠片で黒く埋まっていく。かつてステージの上で、世界のすべてを拒絶するように、激しいリフに合わせて振り乱していた私の黒髪が、一日ごとに、確実に失われていく。
その冷徹な事実は、私の心をドロドロに腐らせていくのに十分だった。私は自分の頭を見るのが耐えられなくなり、魄栗が「学校の帰りに見つけてさ」と言って買ってきてくれた淡い青色のバンダナを頭に深く巻き、それを片時も外さなくなった。こんな哀れな姿、本当は誰にも、何より魄栗に見られたくなかった。私の美しいところだけを、あの薄暗いスタジオで、ライトを浴びてギラギラと輝いていた「伏波乃愛」だけを、彼の記憶に残しておいてほしかった。ボロボロに崩れていく今の私は、彼の隣にいる資格すらないような気がして、心がちぎれそうになる。
けれど、魄栗は毎日、放課後になると必ず私の病室を訪れた。面会時間が始まる午後四時過ぎ。静まり返った病院の廊下に、きっちりと整えられた足音が響く。その足音のテンポだけで、私は彼が来たことを瞬時に理解できた。トントン、と静かにドアがノックされ、彼が姿を現す。
「乃愛。今日の体調はどう?」
彼はいつものように、制服の第一ボタンまできっちりと留めた、完璧な「優等生」の姿で部屋に入ってくる。その手には、私が少しでも退屈しないようにと選んでくれた最新の音楽雑誌や、学校の授業のプリント、そして彼がノートを綺麗に写したルーズリーフが握られていた。
クラスの奴らが今どんな下らない噂話をしているか、担任の教師が授業中にどんなマヌケな言い間違いをしたか、生徒会で新しく決まった退屈な規則がいかに学生の自由を奪っているか。彼は誰もが信頼を寄せる「学級委員長」のような澄んだ声で、淡々と、だけどどこか優しく私に語りかけてくれた。だけど、二人きりになり、看護師の足音やワゴンを推す音が廊下の向こうへと完全に遠ざかると、彼は静かにその張り詰めた「嘘の仮面」を剥ぎ取る。パイプ椅子の位置をベッドのすぐ脇まで引き寄せ、俺の視線と同じ高さになるように少し前かがみになって、私の細くなった手をそっと、自分の両手で包み込むように握るのだ。
「……手が、冷たいな。今日もちゃんと布団を掛けていたか?」
そう呟く彼の瞳には、学校で見せる冷徹な優等生の面影はどこにもなかった。ただ、世界で一番私を求めてくれて、私の身体の状態にシンクロして、誰よりも心を痛めている、本性の「魄栗」がそこにいた。彼の大きな手のひらは驚くほど温かくて、その体温が、私のガラス細工のようになってしまった指先にじんわりと染み込んでくるたび、私は自分がまだこの世界に存在していることを、そして彼に狂おしいほど愛されていることを自覚させられた。と同時に、その温かさが、今の自分のあまりの冷たさと脆さを浮き彫りにするようで、胸の奥がひりひりと焼けつくように痛んだ。
「毎日来なくていいって、言ったのに……。学校の仕事とか、大会の書類提出とか、いろいろ忙しいでしょ。私なら大丈夫だからさ」
私は頭に巻いたバンダナの結び目を隠すように、布団を少しだけ鼻のあたりまで引き上げながら、かすれる声で言った。肺の機能が著しく低下しているせいで、ただこれだけの一言を喋るだけでも、胸の奥が焼けつくように熱くなり、ハァハァと激しい息切れが襲ってくる。酸素吸入の機械が、私の呼吸を助けるためにゴーッと音を立てて空気を送り込んでくる。
「俺が来たいから来てるんだ。文句を言われる筋合いはないよ」
彼はふっと、いつものように少し皮肉めいた、だけどどうしようもなく優しい笑みをこぼした。そして、ベッドの脇の壁に立てかけられた、あの深海色のギターケースに視線をやった。俺が病院に持ち込んでくれた、二人の秘密の共犯関係の象徴。今の私には、そのケースのチャックを開けることすら、ネックを持ち上げる筋力すら残されていないというのに、彼は毎日、私が眠っている間や起きている時に、そのギターを取り出してクロスで丁寧に拭き、チューニングを狂わないように確かめてくれていた。
「乃愛、お前が指を動かせないなら、俺がお前の指になる。お前が息を吸えないなら、俺がお前の代わりに空気を吸って、新しい歌詞を吐き出す。だから、自分から置いていくなんてくだらないこと、二度と口にするなよ」
彼の言葉は、あまりにも重く、そして狂おしいほどの愛に満ちていた。けれど、その愛の深さに比例するように、私の身体は確実に、砂時計の砂が刻一刻と落ちていくように、終わりへと向かって崩壊していっているのを、私は誰よりも自分自身の内側で感じ取っていた。手の感覚が、日に日に麻痺していく。昨日までは動かせた指先が、今日はまるで他人の肉体を埋め込まれたように、ピクリとも動かない瞬間があるのだ。
七月後半、窓の外の世界は本格的な夏を迎えていた。病室の二重ガラスの向こうには、目が眩むほどに抜けるような青空と、巨大な入道雲がそびえ立っていた。夕方になると、どこからか微かに遠くの蝉の鳴き声が聞こえてくる。その鳴き声が、かつて二人で校則を破りながら、空き教室で汗を流して過ごした、あの眩しくて仕方のなかった夏休みを思い出させて、私の胸を激しく、ちぎれんばかりに締め付けた。あの頃の私は、まだ走ることができた。大声で笑うことができた。何より、彼の書いた完璧な歌詞に合わせて、世界を呪うような最高の音をかき鳴らすことができたのに。
「どうして、私なんだろう……」
一人きりの夜、消灯時間を過ぎて真っ暗になった病室で、私は何度目かも分からない涙を流した。この頃になると、私はもう、ベッドの上で自力で上体を起こすことさえ完全にできなくなっていた。少しでも頭を枕から持ち上げようとするだけで、視界がぐにゃぐにゃに歪んで激しい眩暈に襲われ、頭痛と共に目の前が真っ暗になってしまうのだ。寝返りを打つことすら、今の私にとっては呼吸が止まりそうになるほどの重労働だった。薬の強烈な副作用と、容赦なく増殖する病魔は、私の筋肉を、体力を、生きるためのエネルギーのすべてを、根こそぎ、冷酷に奪い去っていった。
私の手のひらからは、かつてギターの弦を力強く押さえつけていたあの「証」――硬いタコが、跡形もなく消え去っていた。白く、細く、皮膚の下の青い血管が気味悪いほどに透き通るその手を見るたびに、もう二度とあの深海色のネックを握ることはできないのではないかという恐怖が、波のように押し寄せてくる。そんな私の抜け殻のような手を、魄栗は毎日、一日も欠かすことなく、変わらずに握り続けてくれた。
「ねえ、魄栗」
ある日の夕暮れ。窓から差し込む激しいオレンジ色の西日が、病室の白い壁や床を、あの高二の春に同じクラスになった日の、放課後の教室と全く同じ色に染め上げていた。私は鼻のチューブから送られてくる冷たい酸素を必死に肺に送り込みながら、今にも消え入りそうな、掠れた声で彼に呼びかけた。
「どーした、乃愛」
彼は私の手を握ったまま、静かに、だけど真っ直ぐに私の瞳を見つめていた。彼の制服のシャツの袖口からは、あの夏の事故のときに、私を車から庇ったせいで負った消えない傷跡が、かすかに覗いている。それを見るたび、私は自分のせいで彼を傷つけてしまったという消えない罪悪感と、それを遥かに上回るほどの狂おしい愛しさに、胸が潰れそうになる。私のために傷ついてくれた彼を、私はまた、こんな形で裏切ろうとしている。
「私……もうすぐ、本当に音が鳴らせなくなっちゃうかも。頭の中ではね、今でもずっと、魄栗の書いてくれた新しい歌詞に合わせて、世界をぶちのめすような最高のメロディが、ずっと、ずっと鳴り響いてるの。でもね……それが、指に伝わらないの。冷たくて、重くて、自分の腕じゃないみたいに、何も感じなくなっていっちゃうの……」
私の目から、熱い一筋の涙がこぼれ落ちて、乾燥しきった頬を伝い、白いシーツに小さな、深い闇のようなシミを作った。悔しかった。どうして私なんだろう。どうして、せっかく彼と同じクラスになれて、お互いの仮面の下の素顔を共有できて、これから二人で世界のすべてのルールをぶち壊すような最高の音楽を作ろうって誓ったばかりなのに、こんな下らない病気にすべてを邪魔されなきゃいけないんだろう。優勝できないまま、何も成し遂げられないままここで死ぬなんて、そんなの絶対に嫌なのに。
「……バカ。伏波乃愛が、そんな弱音吐くなよ」
ベッドのシーツに突伏するようにして、私の動かない手に自分の額を強く押し当てた魄栗の声が、微かに、だけど明確に震えていた。彼の完璧にコントロールされていた優等生の仮面が、私の涙によって、内側から粉々に砕け散っていくのが分かった。彼の広い肩が、激しく上下している。
「置いていくなよ……頼むから、俺を一人にしないでくれ、乃愛……っ」
それは、彼がこれまでの人生で一度も他人に向けたことのない、本当の、剥き出しの「悲鳴」だった。
「優等生でいるのも、生徒会でうまく立ち回るのも、周囲にいい顔をするのも、全部、お前と二人で誰にも邪魔されずに音楽をやるための、ただの隠れみのだったんだ! お前がいなくなったら、俺がこの下らない世界で仮面をかぶり続ける意味なんて、どこにもない! 俺の音楽は、お前がそこにいて、お前が鳴らして、初めて完成するんだよ……!」
彼の涙が、私の感覚を失いかけた手の甲に、ぽたぽた、と絶え間なく落ちていく。その涙は、驚くほどに熱かった。死に立ち向かう私の冷え切った身体には、その熱さだけが、私の心臓を無理やり動かす唯一のエネルギーだった。
「死なないよ……」
私は必死に、本当に、自分の命の残高をすべて前借りするような気持ちで、残されたすべての力を振り絞って、動かないはずの右指に命令を下した。
数ミリ。ほんのわずかだけ動いた私の指先で、彼の濡れた黒髪に、そっと触れる。
「バカ。私が、そんな簡単にくたばるわけないでしょ。私は死なないよ、魄栗。あんたが私の音を、私の存在を、この胸の痛みを、ここで覚えていてくれる限り。……このギターが、まだここにある限り」
私は視線だけで、部屋の隅に置かれた、あの深海色のギターケースを指し示した。
「私たちが作った曲……まだ、完成してないもんね。校則も、病気も、神様が作った世界のすべてのルールも、全部ぶち壊して、鼓膜を引きちぎるような、曲をまた二人で作るの。……だから、待ってて」
私の声は、もう完全に消え入りそうなほど小さく、掠れていた。
視界が、夕暮れの激しいオレンジ色から、だんだんと深い、深い紺色へと変わっていく。意識が遠のく長い眠りの淵で、私は魄栗が私の手をさらに強く、骨がきしむほどに、今度は絶対に世界の果てまで離さないという強い意志を持って握りしめるのを感じていた。
「ああ、待っている。何年でも、何十年でも、お前が戻ってくるのを待っているよ。だから……絶対に、俺の元へ戻ってこい、乃愛」
彼のその声を最後に、私は深い、長い眠りの中へと落ちていった。
私たちの共犯関係は、こんな薄暗い病室では終わらない。病魔がどれほど私の肉体を蝕み、質量を奪い去ろうとも、私たちの根底にある、音は、決して消え去ることはないのだから。冬のような冷たい冷房が効いた病室の中で、心電図の規則的な音が、二人の消えない誓いを刻むように、静かに、だけど力強く響き渡っていた。




