最終章 最期の共犯契約
大ホールを埋め尽くす数千人の観客の熱気と、激しく交錯する何十本もの青と黒のレーザーライト。その中心にあるステージの真ん中に、俺は一人で立っていた。
制服の第一ボタンまで頑ななまでにきっちりと留めたその姿は、相変わらず誰もが信頼を寄せる「完璧な優等生」そのものだった。教師からも大人からも、クラスメイトからも、品行方正な生徒会長候補として期待され、枠からはみ出さないように生きることを求められてきた男の姿。けれど、その胸の奥で暴れる心臓の鼓動は、かつてないほどに激しく、狂おしい反逆のビートを刻んでいた。
俺の傍らには、乃愛にあげたギターが握られている。本当なら、今頃このステージの上で、乃愛がこのギターで掻き鳴らしているはずだった。俺はミキサーの前で、彼女の音を世界一美しく歪ませる天才的な音響操作役に徹しているはずだった。
けれど今、俺の目の前にあるのは、音響ブースではなく、無数の視線が突き刺さるセンターマイクだ。
「次が、泣いても笑っても最後の演奏となります。エントリーナンバー31――」
影アナウンスが響く。俺はゆっくりと息を吐き出し、乃愛のギターを深く構えた。ずっしりとした重みが鎖骨に食い込む。この重さを、あいつはあの病み上がりの、細く引きちぎれそうな身体で、俺の前で『絶好調だし!』と言い張りながら背負っていたのだ。そう思うと、胸の奥から熱い塊がせり上がってくる。俺は客席の誰を見るでもなく、ただ真っ直ぐに前を見つめた。この無数の視線の先ではなく、もっとずっと遠くの、あの真っ白な部屋にいる一人の少女へ、俺のすべてを届けるために。
「……いくよ、乃愛」
俺は小さく呟き、光の渦の中へと一歩を踏み出した。
同じ時刻。
無機質な消毒液の匂いが満ちる白い病室の中で、乃愛はベッドの背もたれを限界まで起こし、液晶画面をじっと見つめていた。鼻に通された酸素吸入のチューブが、彼女が呼吸をするたびに小さく、シュ、シュ、と音を立てる。頭に巻かれた淡い青色のバンダナの下からは、もうかつてのような綺麗な黒髪はほとんど失われていた。パジャマの袖から覗く手首はガラス細工のように細く、自力で起き上がることすら叶わない。けれど、彼女の膝の上には、病院から特別に許可を得て持ち込まれた、魄栗の特注ノートパソコンが置かれていた。画面に表示されているのは、ステージの生配信映像だった。乃愛は液晶画面から一瞬たりとも目を離すことができなかった。
画面の向こう、ステージの真ん中に、スポットライトを浴びた魄栗が立っていた。いつもの完璧な優等生の仮面を被ったまま、けれどその手には、あのギターが握られている。魄栗がギターのネックを握り、静かに目を閉じた。
世界が静まり返った。
次の瞬間、彼の指が激しく弦を弾き、重厚な音がホールの空気を爆発させた。その音は、配信のスピーカーを通じて、無機質な病室の空気を激しく震わせる。
「っ……!」
乃愛は息を呑んだ。完璧だった。彼が奏でる一音一音が、かつて二人が地下スタジオで重ね合わせた熱量をそのまま宿して、彼女の鼓膜を、そして弱り切った身体の芯を直接揺さぶってくる。そして、前奏が終わりを迎える。
ステージの上で、魄栗がゆっくりとマイクに顔を近づけた。周囲に合わせ、大人の期待に応え、完璧な仮面を被り続けてきた男が、生まれて初めて、世界に向かって自分の本当の「声」を解き放つ瞬間だった。
「“ずっと、周りの色に染まることだけが、正解だと思ってた”」
魄栗の口から溢れ出たのは、地を這うような、けれど信じられないほどに真っ直ぐで力強い歌声だった。それは、合唱コンクールで歌うような綺麗な声ではなかった。どこか不器用で、ざらついていて、叫びの混じった、彼の「本性」そのものの声。
病室の乃愛は、その声が響いた瞬間、胸の奥がドクンと大きく跳ね上がるのを感じた。彼が今回のために書き下ろした新曲。その歌詞の内容を、乃愛は今の今まで一切知らされていなかったのだ。
『お前が事前に俺の歌を聴いたら、本番の驚きが減るだろ。本番の一発勝負、俺の声を聴いててくれ』
そう言って、彼は頑なに歌詞カードを見せようとしなかった。スピーカーから流れてくる言葉の一言一言が、乃愛の胸の奥底に、浊流のように流れ込んでくる。
「“誰も傷つけないように、誰にも嫌われないように、完璧な仮面を張り付けて、嘘の笑顔でやり過ごしてきた。自分の本当の色なんて、とうの昔に忘れて、真っ白な世界の一部に同化して、呼吸をしているだけの操り人形。それが、僕のすべてだった”」
魄栗はステージの上で、観客席の誰を見るでもなく、ただ真っ直ぐに前を見つめて歌っていた。その歌詞の内容は、まさに「優等生」という檻の中で息を詰まらせて生きてきた、彼自身の痛切な告白だった。周囲の期待に応え続けた、孤独と諦念。
周囲に合わせて、自分の意見を持たず、ただ「正しいとされる形」だけで心を埋めていた男の、誰も知らなかった心の叫び。けれど、曲のテンポが急激に上がり、ギターの音が一段と激しさを増した。サビへと向かう疾走感の中で、彼の歌声に、狂おしいほどの熱が宿り始める。
「“だけど、あの日の放課後、世界のすべてを拒絶するように、一人で牙を剥いていた一匹狼に出会った。周囲に合わせることなく、自分の不協和音をただ純粋に鳴らし続ける、不器用で、誰よりも真っ直ぐな、傷だらけの君に出会ったんだ”」
「……っ、あ」
乃愛の目から、不意に一滴の涙がこぼれ落ちた。液晶画面の彼の姿が、涙の膜で歪んで見える。それは、私のことだ。昔の病気が再発する恐怖に怯えながら、誰とも群れず、他人に深く踏み込まれるのを恐れて、ただ静かに世界を睨みつけていた、一匹狼の私。その頑なな心を、音楽という名の共犯関係でこじ開けてくれたのが、他ならぬ魄栗だった。
ステージの上の魄栗は、ギターを掻き鳴らしながら、まるで病室にいる乃愛の瞳を真っ直ぐに見つめ返すかのように、叫ぶように歌い続けた。
「“君の鳴らす不協和音が、僕の偽物の仮面を粉々に砕いた。君が僕の隣にいてくれたから、僕は初めて、自分の名前を叫ぶことができた。周りに合わせて死んでいた僕の境遇を、救ってくれたのは、他の誰でもない、君なんだよ。君のその不器用な存在そのものが、僕の暗闇に、数え切れないほどの光をくれたんだ”」
サビのメロディが、ホールの天井を突き破らんばかりに響き渡る。
乃愛は、病室のベッドの上で、一人で声を上げて泣いていた。
涙が止まらなかった。溢れ出てくる感情が胸の奥を激しく突き上げて、鼻のチューブから送られてくる酸素だけでは足りないくらいに、胸が苦しかった。けれど、その苦しさは病魔によるものではなかった。彼から贈られた、あまりにも巨大で、あまりにも純粋な愛の重さに、心が震えていたからだ。画面の向こうの彼に、私の声が届くわけがない。
「魄栗……何、歌ってんのよ……バカ……」
どんなにベッドの上で泣き叫んでも、その声は無機質な病室の壁に跳ね返るだけ。数十キロ離れたステージで、大歓声に包まれている彼には、一瞬たりとも届きはしない。そんなことは分かっている。分かっているのに、涙がボロボロと溢れて、液晶画面を濡らしていく。
私はずっと、自分の壊れかけた身体のせいで、彼の未来を邪魔してしまっていると自分を責め続けていた。高二の春にせっかく同じクラスになれたのに、昔の病気が再発して入院し、彼と一緒にステージに立つことすらできなくなった。『優勝できないまま終わるなんて嫌だ』と泣いた私の言葉は、彼にとってどれほどの重荷になっていただろうと、ずっと罪悪感を抱えていたのだ。
だけど、違った。彼は、救われていたのだと言った。
完璧な優等生として偽物の自分を生きるしかなかった彼を、その息苦しい檻から連れ出してくれたのは、一匹狼の私だったのだと。私の存在そのものが、彼の世界にたくさんの光をくれたのだと、彼は数千人の観客の前で、そして配信の画面を通じて、俺に向けて堂々と歌い上げている。
「”君が今、どれほど暗い部屋で、一人で夜の恐怖と戦っていても、僕がここで、君の光になり続ける。君がくれたたくさんの光を、君の元へ返すから。だから、死ぬな。諦めるな。僕たちの続きは、まだ始まったばかりだ――っ“」
間奏に入ると同時に、魄栗はギターソロを弾き始めた。そのフレーズは、かつて乃愛が空き教室で、指先に血を滲ませながら何度も何度も練習していた、彼女の「得意なリフ」そのものだった。彼は、乃愛のプレイスタイルを、彼女の魂を、その指先に完全に宿してギターを鳴らしていた。一人舞台なのに、そこには確かに、二人の音が重なり合っていた。
「あはは……本当に、バカなんだから……」
乃愛は涙をボロボロとこぼしながら、しゃくり上げる声混じりで笑った。画面に映る魄栗の額からは、激しい汗が流れ落ち、制服のシャツはぐっしょりと濡れていた。彼の指先が弦を捉えるたび、世界で一番切なくて、世界で一番激しい青と黒のシンフォニーが響き渡る。
声は届かなくても、彼の鳴らす音が、歌が、私の心をこれ以上ないくらいに強く抱きしめてくれていた。
最後のサビ。
魄栗はマイクを両手で強く握り締め、声を極限まで枯らしながら歌った。
「”僕たちは、一人じゃ生きられない欠陥品だ。仮面を被らなきゃ、世界と戦えない臆病者だ。だけど、二人揃えば、どんな世界のルールだってぶち壊せる。聞こえるか、僕の共犯者。僕たちの、最高の、不協和音を――っ!!“」
最後の一音が、ホールの空間に長く、激しく残響を残して消えていった。一瞬の静寂のあと、大ホールが、割れんばかりの地鳴りのような拍手と歓声によって、激しく揺れ動いた。画面の向こうで、魄栗は肩を激しく上下させながら、ゆっくりとマイクから離れた。そして、いつもの完璧な優等生の礼ではなく、ただ真っ直ぐに、カメラの向こうの私へ向けて、不敵な、世界で一番格好いい笑みを浮かべてみせたのだ。
ライブ配信の画面が、エンドロールへと切り替わる。乃愛はノートパソコンの画面をそっと閉じ、胸の前に強く抱きしめた。機械の熱が、彼女の冷え切った身体にじんわりと伝わってくる。声は届かなかった。けれど、間違いなく二人はあの瞬間、同じ音楽の中で響き合っていた。それが、確かな証拠だった。
鼻のチューブから送られてくる酸素を深く吸い込みながら、乃愛は涙で濡れた顔を上げて、病室の窓の外を見つめた。夕暮れの空は、あの日、放課後の教室で新しいギターを貰った時と全く同じ、燃えるようなオレンジ色に染まっていた。
身体はまだ重い。病気だって、まだ治ったわけじゃない。けれど、私の心の奥底には、もう一ミリの絶望も残っていなかった。
「死なないよ……」
乃愛はシーツを強く握り締め、自分自身に、そして大好きな共犯者に誓うように、静かに呟いた。
「魄栗が、あんな格好いい歌を歌ってくれたんだもん。私の存在が、あんたの光になったって言ってくれたんだもん。優勝できないまま、死んでたまるかっての……」
彼女の目から、今度は悔し涙ではなく、明日を生きるための、確かな力を持った涙が、一筋だけこぼれ落ちた。耳の奥では、まだ彼が鳴らしたあの深海色のギターの音と、初めて聴いた彼の剥き出しの歌声が、二人の消えない誓いのように、美しく、激しくリフレインし続けていた。
私たちの共犯関係は、ここからが本当の始まりだ。どんな過酷な運命が待ち受けていようとも、あの人が私の光であり、私があの人の音である限り、私たちの不協和音は、決して世界に負けることはないのだから。
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あのステージの夜から、世界は私たちの知らないところで勝手に回り、そして激しく狂い始めていた。
結果から言えば、魄栗は大会で優勝することはできなかった。既存の形に収まらない彼の、叫ぶような、そしてあまりにも個人的な「音」は、保守的な大人の審査員たちには正当に評価されなかったのだ。校則の枠に綺麗に収まった別の優等生バンドが、無難な金メダルを手に入れた。
けれど、あの夜に生配信されていた彼のステージは、画面の向こう側にいた無数の「仮面を被って生きる若者たち」の心を、文字通り一瞬でぶち抜いてみせた。誰かが切り抜いた一本の動画。それがSNSの荒波に乗った瞬間、瞬く間に拡散されていった。『完璧な優等生が、一人の女の子のためだけに歌った、狂おしいほどのラブソング』
そんなキャッチコピーと共に、彼が命を削るようにして叫んだあの曲は、またたく間に100万回再生の壁を突き破り、今や街のいたる所で流れる大ヒット恋愛ソングとしてバズり散らかしていた。
学校では、生徒会長候補の魄栗が実はそんな天才的な楽曲を作る男だったと、バレていない。
隣の席の、一匹狼の伏波乃愛のために歌われた歌だなんて、クラスの誰も気づいていない。ただ一人、俺たちの「嘘の仮面」だけが、ネットの海の底で美しく輝いていた。
そんなまばゆいほどの朗報とは、完全に真逆のベクトルで、私の肉体は静かに「終わり」の秒読みを開始していた。
八月が終わり、窓の外の世界から蝉の鳴き声が消え失せる頃。私の身体は、もう砂時計の最後の数粒が落ちていくような、そんな絶対的な限界を迎えていた。強力な薬の投与も、もう私の病魔を食い止める盾にはならなかった。それどころか、日ごとに増していく副作用の苦痛は、私の意識を朦朧とした深い霧のなかへ引きずり込もうとする。
もう、自力で指先を動かすことすらできなかった。シーツの上に置かれた私の右手は、血管が青白く浮き彫りになり、まるで見栄えの悪い枯れ木のようだった。かつてあんなに激しく、世界のすべてを呪うようにギターを掻き鳴らしていたあの右腕が、今や自分の意志では一ミリも持ち上がらない。
肺の機能はさらに低下し、鼻のチューブだけでは酸素が足りず、ゴツゴツとした大掛かりなマスクが私の顔の半分を覆っていた。息を吸うたびに、胸の奥でバリバリとガラスが割れるような激痛が走る。そんな私の枕元で、スマホの画面に映し出される「100万回再生」の数字は、まるで遠い異世界の出来事のように思えてならなかった。
「……ねえ、乃愛。今日は新しく入ってきたコメントを持ってきてあげたよ」
面会時間の夕暮れ。ドアを開けて入ってくる魄栗の声は、いつだって驚くほど穏やかで、優しかった。彼は学校での騒ぎや、ネットでの狂乱を、まるで他人の噂話でもするように淡々と私に聞かせてくれた。制服の第一ボタンまで完璧に留めた、いつもの姿。けれど、毎日私の看病のために病院へ通い詰める彼の制服は、以前よりも明らかに肩のあたりが緩くなり、その横顔の輪郭も、私を心配するあまり鋭く削げ落ちていた。
「すごいね……はくり……。ミリオン、達成だって……」
マスクの隙間から、私は這い出るような、掠れた声で言った。言葉を発するだけで、肺が引きちぎれそうなほどに痛む。でも、どうしても彼に「おめでとう」を言いたかった。
「ああ。でも、こんな数字、俺にとってはなんの価値もないよ」
魄栗はパイプ椅子を引き寄せ、私の動かない手を、いつものように両手でそっと包み込んだ。彼の体温が、冷え切った私の指先に染み込んでくる。でも、もうその温かさを「心地いい」と感じるだけの神経すら、私の身体からは失われつつあった。ただ、彼が私の手を握るそのかすかな圧迫感だけが、私が今ここに生きている唯一の証明だった。
「俺は、お前に聴かせるためだけにあの歌を歌ったんだ。世界中の奴らがどれだけ絶賛しようが、お前がその腕で、また俺の隣でギターを弾いてくれなきゃ、何の意味もない。……だから、こんなところで満足して眠るなよ、乃愛」
彼の瞳の奥にあるのは、世界を置き去りにした、狂おしいほどの執念だった。優等生の仮面を完全にかなぐり捨てた彼のその瞳が、私に向かって「生きろ」と、声にならない悲鳴を上げ続けている。
ごめんね、魄栗。魄栗がくれたあの歌を、私は毎日、何百回も、何千回も、頭の中でリフレインさせているよ。あの歌のなかで、私は今でも、あんたの最高の歌詞と音響に合わせて、世界をぶちのめすようなギターを弾き続けている。
でも、私の肉体は、もうすぐ本当に動かなくなっちゃう。視界の端から、夕暮れのオレンジ色が、だんだんと、だんだんと深い闇の紺色に塗り潰されていく。
「……待って、てね、はくり……」
私は残された最後の力を振り絞って、彼の大きな手のひらを、ほんの少しだけ握り返した。耳の奥では、100万回再生されたあの恋の不協和音が、二人の消えない絆のように、美しく、激しく鳴り響き続けていた。
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九月の終わり、高く澄み渡った秋の空からは、あのジメジメとした梅雨の湿気も、すべてを焼き尽くすようだった夏の熱気も、完全に消え去っていた。世界をバズに巻き込んだあの曲は、インターネットの海を泳ぎ続け、今や200万回再生という圧倒的な数字を叩き出して、街中のあらゆる場所で流れる大ヒット恋愛ソングへと化けていた
学校でも、SNSでも、完璧な優等生が隠し持っていた狂おしい愛の歌として崇められている。けれど、そんなまばゆい光とは完全に真逆の陰へ、私の肉体は加速度を上げて沈み込んでいた。医師たちの苦渋の決断によって投与された強力な薬剤は、病気を治すためのものではなかった。それは、私の奪われゆく意識と声を、ほんの一時だけ、奇跡のように現世へと繋ぎ止めるための、命の前借りのような劇薬だった。
「これで、少しだけなら外の空気を吸いに行けるよ」
車椅子を押す魄栗の手のひらから、いつもの温かい体温が伝わってくる。鼻の酸素チューブも、顔を覆っていた大掛かりなマスクも、今だけは外されていた。私は何ヶ月ぶりかも分からない病院の敷地内、中庭のベンチの傍らで、秋の乾いた風をその肌に直接、受け止めていた。
「すごいね、魄栗。200万回だって……。あの、一匹狼の伏波乃愛のために書かれた歌だって、誰も気づいてないのにね」
マスクのない私の口から溢れ出たのは、驚くほどにハッキリとした、だけどどこか切ない私の本当の声だった。薬の力で一時的に動くようになった右手を伸ばし、彼の制服の袖をそっと掴む。魄栗は車椅子の横に静かに膝をつき、俺の視線と同じ高さで、真っ直ぐに私を見つめていた。完璧な優等生、生徒会長候補としての仮面は、もうそこにはない。ただ、私を失う恐怖と戦い、それでも私を愛し抜くと決めた、剥き出しの魄栗がそこにいた。
「そんな数字、お前が隣にいなきゃ、ただのバグみたいなもんだよ。俺の歌詞も、俺のエディットした音響も、お前がその腕でギターを鳴らして、初めて完成するんだから」
彼はそう言って、自嘲気味に、だけど愛おしそうに笑った。その笑顔の裏で、彼の大きな手が私の細くなった手を、今度は絶対に離さないという強い力で握りしめてくる。
「ねえ、魄栗。私ね、あのライブ配信、一人で病室で見てたんだよ」
ハラハラと色づいた銀杏の葉が、私たちの足元へと落ちていく。秋の日差しは優しくて、だからこそ、この時間がもうすぐ終わってしまうのだという予感が、私の胸をひりひりと痛ませた。
「画面の向こうの魄栗に、私の声なんて届くわけないのにさ、私、みっともないくらい大声で泣いちゃった。魄栗が私のために、あんなに格好いい歌を歌ってくれるなんて思わなかったから。……私ね、魄栗の未来を奪っちゃったって、ずっと自分を責めてたんだよ。ギターを真っ二つにして、春に同じクラスになれて、これからって時に再発してさ、何も成し遂げられないまま、魄栗を置いていくのが怖かった」
涙が、私の頬を伝って、秋の光を浴びてキラキラと輝きながら落ちていく。
「でも、あの歌を聴いて、私、救われたの。私の存在が、魄栗の光になってたんだって、初めて知ったから。……だからね、私、もう一ミリも後悔してないよ」
「乃愛……」
魄栗の瞳から、堪えきれなくなった涙が一滴、こぼれ落ちて私の手の甲を濡らした。その涙は、驚くほどに熱かった。そのとき、私は悪戯を思いついた子供のように、ふっと不敵な笑みを浮かべた。指先に残る最後の力を振り絞って、彼のブレザーの襟元をぐっと手繰り寄せる。
「……ねぇ、魄栗のファーストキスは、私のッ!」
驚きに目を見開く彼の言葉を遮るように、私は自分から静かに唇を重ねた。
カサカサと乾いた秋の風のなかで、触れ合った唇だけが、驚くほどに熱く、柔らかかった。ほんの一瞬の、だけど私たちにとっては世界のすべてが停止したかのような長い時間。声は届かなくても、言葉にしなくても、私たちのすべての想いがその一瞬に溶け合って、お互いの魂の奥深くまで染み渡っていくのが分かった。離れたとき、彼の顔は耳の根元まで真っ赤に染まっていて、私はそれを見て、今日一番の、昔みたいな意地悪で明るい笑顔を弾けさせた。
「置いていくなんて言うな。例えこの薬の効き目が切れて、またお前が眠りについたとしても、俺たちの共犯計画は終わらない。お前が鳴らせないなら、俺がお前の音を世界中に響かせ続ける。200万回だろうが、1000万回だろうが、お前の生きた証を、俺がこの世界に永久に刻みつけてやるから」
赤くなった顔のまま、彼のその叫びのような誓いは、あまりにも重く、そして狂おしいほどの愛に満ちていた。私はゆっくりと、だけど確かな力で、彼の温かい手をもう一度握り返した。
「うん。……ありがとう、私の最高の相棒。私の、大好きな、共犯者」
だんだんと、薬の効果が薄れていくのが分かった。指先から少しずつ感覚が消え去り、視界の端から、美しい秋のオレンジ色が、深い深い紺色の闇へと塗り潰されていく。けれど、私の耳の奥では、200万回再生されたあの恋の歌と、今交わした柔らかな体温が、二人の消えない誓いのようにはっきりとリフレインし続けていた。
私たちの共犯関係は、こんなところでは終わらない。例えこの肉体が終わりを迎えても、あの人が私の光であり、私があの人の音である限り、私たちの音楽は、決して世界に負けることはないのだから。
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ある日の放課後。俺は久々に、一人で乃愛と過ごした思い出の空き教室へと足を運んでいた。
夕暮れの西日が斜めに差し込む誰もいない教室は、あの日、高二の春に同じクラスになって、彼女に新しいギターをプレゼントしたあの放課後と、何一つ変わらない姿でそこに静まり返っていた。埃の舞う空気、窓の外から聞こえる運動部の遠い掛け声。そのすべてが、記憶の中の彼女の笑顔と重なって、俺の胸をどうしようもない寂しさで満たしていく。
あの時、彼女はここでギターケースを開けて、目を輝かせていた。中庭で『ファーストキスは私のッ!』と笑ったあの柔らかな唇の感触が、今でも俺の肌にはっきりと残っている。あの劇薬の逢瀬の後、乃愛は再び、深い昏睡の闇の中へと戻っていった。もう自力で言葉を発することも、目を開けることもできなくなり、ただ心電図の無機質な電子音だけが、彼女がまだこの世界に踏みとどまっていることを示すだけの状態になっていた。俺は、彼女のいなくなった隣の席の机の端に、そっと腰掛けた。
ポケットからスマートフォンを取り出す。画面に表示される再生回数は、今日もまた数字を増やし続けている。世界中の見知らぬ奴らが、俺たちの愛の歌を聴いて、泣いたり笑ったりしている。なのに、その歌の本当の主役である彼女は、今もあの真っ白な檻の中で、一人で死の恐怖と戦い続けている。
「なぁ、乃愛……。俺、また新しい歌詞を書いたんだ。お前が目を開けたら、すぐにでも音を合わせられるようにさ……」
誰もいない空間に呟いた言葉は、虚しく壁に跳ね返って消えた。どれだけミリオンを連発しようが、世界中が俺を天才と称えようが、この腕の中に彼女が戻ってこなければ、そんな数字はただのゴミクズだ。俺たちの共犯関係は、二人でなければ意味がない。
その時だった。
静まり返った木造の空間に、手の中でスマートフォンが突然、牙を剥いたように激しく震え出した。
ブーッ、ブーッ、と響く無機質なバイブレーションの振動が、誰もいない空き教室の床や、夕暮れの陽光を浴びて煤けた机に不気味に共鳴する。画面に映し出された通知を見た瞬間、俺の心臓は、あの日彼女が倒れた時以上に、いや、これまでの人生のどの瞬間よりも激しく、狂ったような音を立てて跳ね上がった。
液晶画面に白く浮かび上がっていたのは、病院の代表番号でもなければ、主治医の名前でも、乃愛の両親の連絡先でもなかった。
――【乃愛】。
液晶の光が、網膜の奥を鋭く刺す。ずっと深い昏睡状態の闇の中に沈み、自力で指一本動かすことも、目を開けることも、ましてや誰かに連絡をすることなんて絶対にできなくなっていたはずの、俺の最愛の共犯者の名前が、そこにはっきりと表示されていた。
「嘘だろ……」
脳髄を鈍器で直接殴られたような衝撃のなか、俺の全身の血が逆流していく。思考が完全にフリーズするよりも早く、俺の身体は本能だけで動いていた。震える指先で通話ボタンをスライドさせ、貪るようにスマートフォンを耳へと押し当てた。受話器を握る手のひらは、一瞬で冷たい汗に濡れていた。
「……もしもし! 乃愛!? お前、目を覚ましたのか……!?」
誰もいない空き教室で、俺は我を忘れて声を張り上げていた。完璧な優等生としての冷静な声音なんて、その瞬間にどこかへ消し飛んでいた。喉の奥が引きちぎれそうになるほど、ただ彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。
受話器の向こうから返ってきたのは、ひどく静かで、今にも秋の冷たい風に溶けて消えてしまいそうなほどに掠れた、だけどどうしようもなく愛しい少女の声だった。
『……あはは、びっくりした? 魄栗、大きな声出しすぎだよ……。教室に、すっごく響いちゃってるんじゃない?』
それは、数日前に薬を使って中庭で話したあの時よりも、ずっとずっと細く、命の最後の灯火を無理やり擦り合わせるような、消え入りそうな声だった。彼女の声の奥からは、ゴツゴツとした大掛かりな医療機器の警告音のような電子音が、不規則に、そして冷酷に、ピッ、ピッ、と鳴り響いている。その冷たい機械音が、彼女が置かれている状況の異常さを、そしてタイムリミットがすぐそこまで迫っていることを、残酷なまでに俺の脳裏へと突きつけてきた。
「乃愛、お前、どうして……。看護師さんはどうしたんだよ。容体は大丈夫なのか? 今、どんな状態なんだ?」
『ううん……大丈夫じゃない、かな。……ねえ、魄栗。怒らないで聞いてね。私ね、もう、本当にダメみたい』
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、俺の世界からすべての色が完全に消え去った。西日のオレンジ色も、黒板の深い緑色も、放課後の校舎の匂いすら、全部がどす黒い闇に塗りつぶされていく。胸の奥が、冷たい氷の塊で満たされていくようだった。
『先生たちもね、さっきからすっごくバタバタしててさ。でもね、さっき一瞬だけ、本当に奇跡みたいに意識がハッキリ戻ったの。その時、自分の身体の内側で、直感で分かっちゃった。あ、私の身体、もう本当に限界なんだなって。砂時計の砂が、もう全部落ちちゃうんだなって。だから、看護師さんが先生を呼びに部屋を出た一瞬を狙って、ベッドの脇にあったスマホで、魄栗に電話したの。最後に、どうしても声が聴きたくて。どうしても、伝えなきゃいけないことがあって』
「何言ってるんだよ……! 冗談だろ、乃愛! 200万回再生だぞ!? お前と俺で作ったあの曲が、インターネットの海でバズって、今や街中のあちこちで流れて、みんなが俺たちの不協和音を聴いてるんだ! お前が戻ってきて、またあのギターを弾かなきゃ、何の意味もないんだよ! 優勝できなかったけど、俺たちの音楽は世界に届いたんだろ!? これから二人で、もっとすごい景色を見に行くんだろ!?」
受話器を握りしめる俺の手が、激しく小刻みに震える。爪がスマートフォンのケースに食い込み、プラスチックがきしむ音が耳元で鳴る。叫ぶ俺の言葉を、乃愛は優しく、だけど決定的な静けさで遮った。その静けさが、かえって俺の恐怖を何倍にも膨らませた。
『知ってるよ……。だって私の頭の中でもね、今もずっと、あの歌が200万回以上、何回も何回も鳴り響いてるもん。魄栗が私のために、あんなに格好いい歌を歌ってくれたこと、私、一生の宝物だよ。ううん、もう死んじゃうから、来世までの宝物にするね。一匹狼の伏波乃愛を、あんなに特別な女の子にしてくれて、本当にありがとう。周りに合わせて生きてた魄栗が、私のために仮面を脱いでくれたこと、本当に嬉しかった』
「死ぬなんて言うな! 今すぐ行く、今すぐそこに行くから、だから待ってろ!」
俺は思い出の空き教室を飛び出した。ブレザーを翻し、誰もいない夕暮れの廊下を、狂ったように走り始める。
校則違反? 周りの目? そんな下らない仮面は、もうどうでもよかった。そんなもので俺たちの関係が縛られてたまるか。ローファーが床を叩く激しい音が、静まり返った木造の校舎に不気味に木霊する。右手にスマートフォンを強く押し当てたまま、俺は階段を一段飛ばし、二段飛ばしで駆け下りていく。視界が激しく上下し、冷や汗が全身から噴き出してくる。心臓が、肋骨を突き破らんばかりに暴れていた。
『走らなくていいよ、魄栗……。私のために、そんなに息を切らさないで。最後くらい、カッコいい、いつもみたいに落ち着いた声を聴かせてよ……。私、魄栗の声が、世界で一番好きなんだから。だから、私のためにその声を優しく使って』
「うるさい、黙ってろ! お前が俺を置いていくなんて、俺たちの共犯契約のどこにも書いてないだろ! 戻ってくるって、あの中庭で、俺の手を握って約束したじゃないか! 嘘つきの仮面を被るのが俺たちのルールだけど、あの中庭の言葉まで嘘だったなんて言わせないぞ! 俺は絶対に信じないからな!」
学校の正面玄関の重いガラス扉を、壊すような勢いで押し開け、赤く染まった秋の街へと躍り出る。
冷たい夕方の風が正面から俺の頬を叩き、肺がちぎれそうになるほど激しい呼吸が喉をジリジリと焼く。足がもつれそうになりながらも、走る足を止めることなんて絶対にできなかった。
一秒でも早く、君のいるあの白い部屋へ辿り着かなければ、すべてが終わってしまう、二度と会えなくなってしまうという絶対的な恐怖が、俺の背中を無慈悲に押し続けていた。
街行く人々の視線や、すれ違う車のクラクションの音なんて一切目に入らない。ただ、病院までの最短距離だけが脳裏に浮かんでいた。視界の端で、赤く染まった街路樹の葉が、まるで俺たちの終わりを嘲笑うように舞い落ちていくのが見えた。
『あはは……そうだね、約束、破っちゃってごめんね。でもね、私、本当に、本当に幸せだったんだよ。高二の春に、まさか魄栗と同じクラスになれるなんて思わなかった。席が隣になってさ、教室ではお互い仮面を被って他人のフリをしてるのに、放課後になったら、二人だけの秘密の教室で、音楽を作って……。大人の言うことも、学校の規則も、全部あざ笑いながら、二人だけの音を重ねていた。あの日々だけが、私の本当の人生だった。私が私でいられた、唯一の時間だったんだ』
受話器の向こうで、乃愛の声がだんだんと小さく、途切れ途切れになっていく。彼女の激しい呼吸の音と、機械の不規則な電子音が、彼女の命の終わりが秒読み段階に入っていることを残酷に告げていた。光回線を通じて届くその声が、細い糸のように、今にも引きちぎれそうだった。それでも彼女は、俺のために、その細い糸を繋ぎ止めようと言葉を紡ぎ続けていた。
『中庭で、あんなに真っ赤な顔をしてキスしてさ。私、自分の人生に、もう何も悔いはないなって思ったの。昔の病気が再発して、最初は神様をすっごく呪ったし、死にたくないって、あんたの前で子供みたいに泣きじゃくっちゃったけど……。でもね、魄栗に出会えて、光になれて、私の人生は、世界で一番特別で、最高の一匹狼の人生になったよ。だからね、もう私は怖くないんだ。魄栗は私の音を覚えていてくれるから』
「乃愛! 息を整えろ! 頼むから、俺を一人にしないでくれ……っ! お前がいなくなったら、俺は誰のために歌詞を書けばいいんだよ! 誰のために音響を調整すればいいんだよ! お前じゃなきゃダメんだ、乃愛!」
アスファルトを激しく蹴りながら、俺の目から熱い涙が次から次へと溢れ出し、夕暮れの街並みをドロドロに遮っていく。涙が風に流されて後ろへと飛んでいく。周りに合わせて、大人の顔色を窺って、自分を押し殺して、嘘の優等生を演じ続けるしかなかった退屈で灰色だった俺の世界に、鮮烈な青と黒の光をくれたのは、他ならぬ彼女だった。彼女がギターを弾いてくれたから、俺は自分の言葉に命を吹き込むことができたんだ。彼女がいなくなってしまったら、俺はまた、あの息もできない真っ白な檻の中に一人で閉じ裂かれてしまう。それだけは、それだけは耐えられない。
『……これからはね、私が作ったメロディと、魄栗が書く最高の歌詞で、もっとたくさんの人を救ってあげてね。200万回じゃ足りないよ。1000万回、1億回、魄栗の天才的な音響で、世界中をぶちのめしてきてよ……。私、いつだって、魄栗の歌の中にいるから。あのギターの中に、私の魂をずっと置いておくから……。だから、魄栗は、前を向いて。私の大好きな、世界で一番格好いい共犯者でいて』
「乃愛……乃愛!! 聞こえてるか! 待ってろ、あと少しで着くんだ、あと少しで……! 病院の門が見えた、だから、だからまだ切るな!」
『大好きだよ、魄栗。……私のファーストキスをあげるくらい、世界で一番、愛してる……』
それが、彼女が魂の底から振り絞った、最後の言葉だった。
次の瞬間、受話器の奥から、ツーーー、という、すべての終わりを告げる平坦な電子音が響き渡った。
「嘘だろ……乃愛? おい、乃愛、返事をしてくれよ! 乃愛――っ!!」
走りながら、スマートフォンの画面を見つめる。通話はまだ繋がっている。画面のタイマーは今も秒数を刻み続けている。なのに、向こう側からはもう、あのかすれて愛おしい呼吸の音も、医療機器の不規則な電子音も、何一つ聞こえてこなかった。ただ、冷徹な沈黙だけが、受話器を通じて俺の鼓膜を容赦なく塞いだ。
「あああああ――っ!!」
俺は獣のような咆哮を上げながら、病院の正面玄関へと滑り込むように駆け込んだ。自動ドアが開くのがもどかしくて、体当たりするようにして中へ入る。床に擦れるローファーの音が、静かな病院のロビーに不快に響く。受付の看護師が驚いた顔で立ち上がるが、そんなものを無視して俺は突き進んだ。エレベーターを待つ時間すら惜しくて、非常階段の重い鉄の扉を押し開き、彼女のいる最上階の病室へと、一段ずつ脚を痙攣させながら駆け上がった。肺が破裂しそうで、視界は涙と汗で何も見えない。心臓が痛い。だけど、そんな痛みはどうでもよかった。ただあいつの部屋へと向かって、身体を動かし続けた。
そして、彼女のいる病室のドアへと体当たりするように飛び込んだ。
「乃愛――ッ!!」
バタン、と激しい音を立てて開いたドアの先。
夕暮れの西日が斜めに差し込む真っ白な病室の中で、乃愛は頭に淡い青色のバンダナを巻いたまま、まるで深く、静かな眠りについたかのように、穏やかな顔で横たわっていた。彼女の枕元で、心電図のモニターは、ただ一本の、冷徹な緑色の直線を描き続け、ツーーーという無機質な音が、終わりのシンフォニーのように病室に響き渡っていた。
周りを取り囲む医師や看護師たちが、静かに首を横に振る。その顔には、一瞬だけ奇跡のように意識を取り戻して電話をかけた少女への、驚きと哀悼の念が浮かんでいた。彼女の手には、まだ先ほどまで握られていたスマートフォンが、力なく握られていた。
「……あ、あぁ……嘘だ、ろ……」
俺は膝から崩れ落ちるように彼女のベッドの脇へ駆け寄り、その冷え切ってしまったガラス細工のような右手を、両手で強く、強く握りしめた。もう、いくら握りしめても、あの中庭のときのように、彼女が俺の手を握り返してくれることはなかった。指先は氷のように冷たく、彼女の魂がもうここにはいないことを無慈悲に伝えてくる。彼女の唇は静かに閉じられたま目で、二度とあの意地悪で明るい笑顔を見せてくれることはないのだという冷酷な現実が、俺の胸の骨を粉々に打ち砕いた。
「なんでだよ……乃愛……。これからだろ、俺たちの続きは、ここから始まるって言ったじゃないか……っ! 200万回再生されたんだぞ!? 世界が俺たちの歌を認めたんだぞ!? なんでお前がここにいないんだよ……っ!」
俺は彼女の冷たい胸に顔を埋め、品行方正な優等生の仮面を完全にかなぐり捨てて、子供のように声を上げて、大粒の涙を流しながら大声で慟哭した。涙が彼女のパジャマの胸元を濡らし、静まり返った病室に、俺の引きちぎれそうな悲鳴だけが虚しく響き渡る。周りの大人の静止する声なんて、今の俺には一切届かなかった。ただ、世界で一番愛した共犯者を失った絶望だけが、俺のすべてを支配していた。
窓の外を見上げると、秋の夕暮れは、あの日彼女に新しいギターを渡した放課後の空と全く同じ、燃えるようなオレンジ色に世界を染め上げていた。彼女はもう、この真っ白な天井を見つめて苦しむ必要はない。髪が抜け落ちる恐怖に怯えることも、肺を引きちぎられるような激痛に耐えることもない。すべての苦しみから解放されて、静かな旅路へと就いたのだ。
けれど、俺の耳の奥では、200万回再生されたあの曲が、正式にミリオンを達成した二人の不協和音が、そして彼女が最期に受話器越しに遺した『大好きだよ、世界で一番、愛してる』という剥き出しの歌声が、消えない炎のように、激しく、熱くリフレインし続けていた。
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それから数日後。秋の冷たい雨が、病院のコンクリートを、アスファルトを、そして世界全体を灰色に濡らすなか、乃愛の葬儀は執り行われた。空からは、彼女が逝ってしまったことを世界中が拒絶するかのような、容赦のない土砂降りの雨が降り注いでいる。世界をバズに巻き込んだあの曲は、インターネットの海の底で今も増殖し続け、200万回再生を超えて街のあちこちで流れているというのに、この式場の周りだけは、まるで音を奪われたかのような圧倒的な静寂に包まれていた。まるで、世界からすべてのメロディが消失してしまったかのような、不快な静けさだった。
彼女の生前の強い遺言通り、葬儀はクラスの連中にも、学校の教師たちにも一切知らされることなく、ごく身内だけで静かに、厳かに進められた。祭壇の真ん中に飾られた遺影のなかで、乃愛は頭に何も巻いていない、あの高二の春に同じクラスの隣の席で出会った頃の、艶やかな黒髪を少し乱したままで不敵に笑っていた。周囲をすべて拒絶するような、それでいて俺の前にいるときだけ見せてくれた、あの最高に生意気で愛おしい一匹狼の笑顔。その瞳は、額縁の向こうから、今の俺の無力さをじっと見つめているようだった。お前はこれからどうするんだ、と、無言で問いかけられているような気がして、俺は視線をまっすぐに保つことすら困難だった。
完璧な優等生としての仮面をなんとか顔に張り付け、ただの「隣の席のクラスメイト」として一番後ろの席に座っていた俺は、読経の音も、線香の匂いも、親族のすすり泣く声も、何もかもが遠い世界の出来事のように感じられていた。ただ、目の前の棺の中に、あの秋の中庭で俺の唇に触れてくれた、あの温かかった彼女の身体が、もう呼吸を忘れたただの抜け殻として横たわっているという現実だけが、冷徹に俺の胸を締め付け続けていた。
乃愛は本当に死んでしまったのか。
何度も心の中で問いかける。けれど、返ってくるのは不気味な読経の残響だけだった。去年の夏祭りに告白されて、付き合うことになって、校則にバレないように二人で音楽の道を歩んできた。あの夏の事故で、俺がお前を庇って車に轢かれたとき、二人の思い出のギターは真っ二つになった。
それでも、高2で同じクラスになって、俺がこれまでの大会賞金をすべて使って君に新しいギターをプレゼントしたとき、君はあんなに嬉しそうに笑っていたじゃないか。
昔の病気が再発して、だんだん体が弱っていくのを、俺に心配をかけまいと必死に隠して、いつも以上に明るく振る舞っていた乃愛。
夏の大会で、俺が一人舞台で歌ったあの曲を、病院のベッドで一人で聴いて、感動して泣いてくれた乃愛。秋になって、強力な薬を使って一時的に話せるようになったとき、病院の敷地内の中庭で『魄栗のファーストキスは私のッ!』って言って、あんなに柔らかく唇を重ねてくれた乃愛。
そのすべての記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡っては、目の前の白い棺という現実にぶつかって粉々に砕け散る。出棺が終わり、火葬場の白い煙が秋のどんよりとした空へと溶けて消えていくのを見届けた後、俺は一人、がらんとした式場のロビーに立ち尽くしていた。
これから、どこへ行けばいいのだろう。明日から、学校のあの隣の席に、乃愛はもう座っていない。放課後の空き教室に行っても、シールドをアンプに繋ぐあの細い指先を見ることは二度とできない。俺がどれだけ完璧な歌詞を書いても、天才的な音響操作を施しても、それを世界に叩きつけるための「音」は、もうどこにも存在しない。世界はただ、灰色の雨に濡れるだけの、空っぽの檻に変わってしまった。
世界からすべての音が消え去ったような圧倒的な絶望のなかで、俺のブレザーの袖を、誰かがそっと引いた。
振り返ると、そこには乃愛の母親が立っていた。泣き腫らして真っ赤になった目で、だけどどこか、娘によく似た強い光を宿した瞳で、彼女は俺のことを見つめていた。その両腕には、大きな黒い塊が、壊れ物を扱うように大切そうに抱えられていた。
――あの、ギターケースだった。
「魄栗くん、だよね」
お母さんの掠れた声が、静かなロビーに響く。俺は喉の奥を詰まらせながら、言葉を返すこともできず、ただ小さく頷くことしかできなかった。優等生の仮面が、その声の前でミシミシと音を立ててひび割れていく。
「乃愛がね、意識を失う少し前……あの、中庭でお散歩から戻ってきた日の夜に、これをどうしてもあなたに渡してほしいって言っていたの。もし自分に何があっても、このギターだけは、絶対に魄栗くんに手渡してねって。あの子、病室でもずっと、このケースを愛おしそうに見つめていたのよ。あなたが自分のために、大会の賞金を全部使って買ってくれた大切な宝物だからって」
お母さんはそう言って、ずっしりとした重みのあるギターケースを、俺の両腕へと委ねてきた。受け取った瞬間、あの夏の事故のとき、真っ二つに割れてしまった二人の象徴が、形を変えて、今再び俺の胸へと戻ってきたのだと感じた。ずっしりとした木の重みと、革の匂い。これはただの楽器じゃない。乃愛の命そのものだ。あいつが命を削りながら、俺のために残してくれた、最後の共犯の証拠だ。
「それからね、これ……。あの子、もう指先がほとんど動かなくて、ペンを持つのもやっとだったはずなのに、夜中に看護師さんの目を盗んで、ベッドの上で一生懸命書いていたの。あなた宛ての手紙。……受け取ってあげてね」
手渡されたのは、ノートを破った切れ端、不格好に折り畳まれた一枚の紙切れだった。俺は、震える両手でその紙を受け取り、涙が溢れそうになるのを堪えて、深く、深く一礼した。
お母さんは「乃愛を、見つけてくれてありがとうね。あの子、あなたと出会えて、本当に幸せそうだった。あの子の一生は短かったけれど、あなたのおかげで世界で一番輝いていたわ」と小さく呟き、静かに去っていった。
手の中に残された、ずっしりとしたギターの重みと、一枚の紙切れ。俺はそれを強く握りしめたまま、降りしきる雨の中へと歩き出した。傘もささず、ただ冷たい雨に打たれながら、俺の足は自然と、あの場所へと向かっていた。
学校へと戻る足は、意識するよりも早く、自然とあの場所へと向かっていた。
放課後の、誰もいない、夕暮れの西日が斜めに差し込む思い出の空き教室。
ガタガタと軋む古い木造のドアを開け、俺はあの日彼女にギターをプレゼントした時と全く同じ、窓際の席にそのケースをそっと置いた。窓の外からは、雨が上がったばかりのグラウンドから運動部の遠い掛け声や、秋の風が木々を揺らす音が聞こえてくる。
だけど、この教室の中だけは、まるで時間が止まってしまったかのように、深い、冷たい静寂が満ちていた。俺は、隣の席だった彼女の机の上に腰掛け、ポケットから折り畳まれた手紙を取り出した。
ゆっくりと、破らないように、宝物を扱うような手つきで、慎重に紙を開く。そこに並んでいたのは、かつてこの教室で楽譜の端に殴り書きされていたような、あの元気で生意気な文字ではなかった。何度もペン先が震え、線が途切れ、歪み、インクが滲んでいる。筆圧すらまともにかけられないほど、弱々しい字で書かれた手紙だった。けれど、一文字一文字を必死に紡ごうとした、彼女の凄まじい執念と生への祈りが、その白く大きな紙面から痛いほどに伝わってきた。
俺は、呼吸を止めて、彼女が遺した最期の「本音」に目を落とした。
『魄栗へ この手紙を読んでいるってことは、私はもう、隣でギターを弾けなくなっちゃったんだね。約束、また破っちゃって本当にごめん。私さ、昔の病気が再発したって分かったとき、本当は世界のすべてが嫌いになったんだ。どうして私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないんだろうって、毎日毎日、病院の白い天井を見つめながら、神様を呪ってた。一匹狼なんて気取ってたのもさ、ただ周りから可哀想な目で見られたくなかっただけ。他人に深く踏み込まれて、自分の脆い部分を知られるのが、本当は怖くて怖くて仕方ががないの。私の心は、ずっと真っ白な病院の檻の中に閉じ込められたままだったんだ。でもね、そんな私のくだらない仮面を、全部ぶち壊してくれたのが、音楽であり、何より、魄栗だったんだよ。高二の春に、まさか同じクラスになれるなんて思わなかった。席が隣になってさ、教室ではお互い「優等生」と「一匹狼」の仮面を被って他人のフリをしてるのに、放課後になったら、二人だけの秘密の場所で、世界をあざ笑うみたいに最低で最高の不協和音を重ねて。私のために最高の歌詞を書いてくれて、天才的な音響操作で私の音を世界一美しく歪ませてくれたとき、私は生まれて初めて、「あ、私はここに生きてていいんだ」って思えた。病室の天井を見つめて泣いていた過去の私も、その瞬間に、全部救われた気がしたんだ。だからね、魄栗のライブ配信を病室で見たとき、私、本当に嬉しかった。声は届かないって分かってたけど、画面の向こうで、君が私のギターを抱えて、声を枯らして歌ってくれたあの瞬間、私たちの魂は、間違いなく一つになってたよ。歌はね、200万回どころか、私の心の中で、今も1億回以上、鳴り響き続けてる。魄栗の存在そのものが、私の暗闇だらけだった人生に、数え切れないほどの光をくれたんだよ。だから、お願い。魄栗、もう泣くのはやめて。前を向いて、大好きなパートナー。
私がいない世界なんて、ただのゴミクズだなんて言ったら、絶対に許さないからね。魄栗は天才なんだから。私の代わりに、その最高の声で、その完璧な歌詞で、もっとたくさんの人を救ってあげなきゃダメ。周りに合わせて生きるのが息苦しいって泣いてる、学校での魄栗みたいな奴らの仮面を、今度はあんたがその歌で、全部ぶち壊してきなさい。私は死なないよ。私の音を、私の存在を、その胸の熱さを覚えていてくれる限り、私はいつだって魄栗の音楽の中にいる。そのギターの中に、私の魂のすべてを置いていくから。弦を弾くたびに、私は魄栗のすぐ隣で、一緒にシンフォニーを鳴らしてる。
私たちは、最高の共犯者で、世界一の恋人だったんだから。前を向いて、魄栗。最高の音楽を、世界中に叩きつけてきて。大好きだよ。生まれ変わっても、また魄栗の隣の席がいいな。 伏波乃愛 より』
手紙を読み終えた瞬間、俺の目から、堰を切ったように涙が溢れ出し、紙面を濡らしていった。歪んだ文字の上に、俺の涙がぽたぽたと落ちて、彼女の名前を、最期の言葉をドロドロに滲ませていく。
「バカ……本当に、バカだな、お前は……」
誰もいない空き教室で、俺は手紙を胸に強く抱きしめ、声を上げて泣いた。君は最期まで、自分の苦しさや死の恐怖なんて一言も書かずに、俺のことばかりを心配して、俺の背中を押そうとしていた。指先もまともに動かない劇痛のなかで、俺を前に行かせるためだけに、この文字を必死に紡いでいたのだ。
泣くのをやめて、前を向け。
乃愛の弱々しい字に込められた、そのあまりにも強くて純粋な願いが、俺の砕け散っていた心の破片を、一つずつ手繰り寄せ、繋ぎ合わせ、俺の胸の奥に新しい火を灯していくのが分かった。乃愛は俺を置いていったんじゃない。俺のなかに、その音楽の中に、永遠に溶け込んだんだ。俺はゆっくりと涙を拭い、机の上に置いていたギターケースを開いた。
夕暮れの激しいオレンジ色の光を浴びて、ギターがまばゆいほどに輝いた。そのネックを握りしめると、かつてあの中庭で触れ合った、彼女の柔らかな体温と、あの剥き出しの愛の記憶が、目に見えない電流となって俺の全身を駆け巡った。
「……ああ、分かったよ、乃愛」
俺は、彼女のいなくなった隣の席の机を見つめながら、静かに、だけど絶対に揺らぐことのない声で呟いた。完璧な優等生の仮面なんて、もう必要なかった。俺は、彼女が命を懸けて愛してくれたこの声を、二人の不協和音を、今度こそ世界中のすべての奴らの鼓膜に叩きつけてやる。200万回じゃ足りない。1000万回、1億回、乃愛が生きて、俺の隣で輝いていたその証を、俺の歌詞と音響で、この下らない世界のルールごと全部ぶち壊して、永遠に刻みつけてやる。
俺はギターを強く抱え、静かに目を閉じた。耳の奥では、乃愛の愛おしい笑い声と、俺たちの新しい曲のメロディが、かつてないほど激しく、美しく鳴り響き始めていた。俺たちの共犯契約は、肉体が滅びようとも、世界の果てまで、永遠に終わらない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
数年後。あの日、秋の空き教室で一人、彼女の魂を掴むようにしてギターを鳴らした俺は、今、再び光の渦の中に立っていた。
そこは、かつて二人で目指し、届かなかったあの大会の規模を遥かに凌駕する、数万人の熱狂が地鳴りのように鳴り響く巨大なドームのステージだった。交錯する無数の青と黒のレーザーライト。客席を埋め尽くす光の海。誰もが俺の名前を叫び、俺たちが生み出した音楽を求めていた。
制服の仮面を脱ぎ捨て、プロの音楽家として歩み出した俺の傍らには、あの日、乃愛のお母さんから受け取った、あのギターが誇らしげに佇んでいる。幾千ものステージを共に潜り抜け、無数の傷が刻まれてもなお、そのギターは世界で一番美しく輝いていた。
「ラスト、いくぞ……!」
マイクに向かって俺が叫ぶと、地を揺るがすような大歓声がドームを包み込んだ。俺は深く息を吸い込み、乃愛のギターを構えた。そのネックに触れるたび、あの秋の中庭で交わしたファーストキスの熱さが、病室で流した彼女の涙の熱さが、そしてあの弱々しい字で書かれた手紙のぬくもりが、目に見えない電流となって俺の全身を駆け巡る。
――聴いててくれよ、乃愛。
心の中でそう呟き、俺の指先が激しく弦を弾いた。ドーム中のスピーカーから、世界を完全に支配するような、重厚で激しいディストーションの音が爆発した。俺が天才的な音響操作でエディットした、世界で一番美しく歪んだあのメロディ。かつて200万回再生を超えてバズり散らかした、俺たちの不協和音。今や1000万回、1億回を超えて世界中に鳴り響く、世界で一番狂おしい愛の歌。
イントロの疾走感に背中を押されるようにして、俺はセンターマイクへと歩み寄り、声を極限まで枯らしながら、天国の彼女に向かって届けるように歌い始めた。
「“ずっと、周りの色に染まることだけが、正解だと思ってた”」
数万人の観客が、俺の叫びに合わせるように激しく身体を揺らし、拳を突き上げる。だけど、俺の視線はその無数の光の海の、さらにその先――抜けるように高く、燃えるようなオレンジ色に染まる天の向こう側だけを、真っ直ぐに見つめていた。
「”僕たちは、一人じゃ生きられない欠陥品だ。仮面を被らなきゃ、世界と戦えない臆病者だ。だけど、二人揃えば、どんな世界のルールだってぶち壊せる。聞こえるか、僕の共犯者。僕たちの、最高の、不協和音を――っ!!“」
サビに差し掛かった瞬間、俺の目から、溢れそうになる熱い涙がこぼれ落ち、ステージのライトを浴びてキラキラと輝いた。声は届かないかもしれない。
どんなに大きなドームで歌おうが、世界中で何億回再生されようが、天国にいる君には、この肉声は一瞬も届かないのかもしれない。そんなことは分かっている。
けれど、俺の耳の奥では、そしてこのギターの弦の震えのなかでは、今もお前が『任せなさいって!』と不敵に笑いながら、一緒に激しいリフを掻き鳴らしているのが、はっきりと聴こえていた。
(乃愛――! 見ててくれ! 俺はこれからも、お前と一緒に歌い続けるぞ――っ!!)
曲のラスト、俺は空を仰ぎ、喉が引きちぎれんばかりの咆哮を天に向かって解き放った。
最後の一音が、ドロドロに燃えるようなオレンジ色の残響を残して、ゆっくりと世界の果てへと溶けて消えていく。割れんばかりの、地鳴りのような拍手と歓声がドームを包み込むなか、俺はマイクから一歩離れ、天を指差して、世界で一番不敵な、あいつに負けないくらいの格好いい笑顔を浮かべてみせた。
どんなに残酷な運命が俺たちを切り裂こうとも、お前が俺の光であり、俺がお前の音である限り、俺たちの共犯契約は、永遠に、絶対に終わりはしない。




