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第三章 初公開

気がつけば、窓の外から聞こえる声は、新緑を揺らす春の風の音から、容赦なく照りつける太陽と蝉時雨の合唱へと変わっていた。伏波さんと最初の南校舎四階の空き教室で「作戦会議」を始めてから、三ヶ月が経とうとしている。 

この三ヶ月で、俺の日常は劇的に変化した。相変わらず教室では周りの空気を読み、求められる完璧な優等生を演じ続けている。けれど、放課後を告げるチャイムが鳴れば、俺の心は一足先にあの埃っぽい空き教室へと向かうようになった。そこは、一日中張り詰めていた分厚い仮面をそっと机の上に置いて、ただの「柳くん」に戻れる、俺にとって唯一の聖域だった。手元にある使い古されたノートは、この三ヶ月の間に俺が書き殴った無数の言葉と、伏波さんがそこに書き加えた複雑なコード進行やメロディのメモで、すっかり真っ黒に埋め尽くされている。 

時には「このフレーズじゃ、私のメロディの疾走感に合わない」と伏波さんにノートを突き返され、俺も俺で「言葉の数を削りすぎたら、この歌詞に込めた息苦しさが伝わらなくなる」と譲らず、夕闇が下りるまで言い争ったこともあった。そんな風に、誰かと本音でぶつかり合うことすら、俺にとっては新鮮で、心地よい時間だった。そして、夏休みを目前に控えた、じっとりと蒸し暑い放課後。エアコンの利かない教室で、窓を全開にして生ぬるい風を浴びながら、俺たちは最後のパズルに挑んでいた。


「――ねえ、柳くん。サビの最後のフレーズ、もう一回見せて」 


伏波さんはギターを抱えたまま、汗で少し額に張り付いた黒髪を払い、ノートを覗き込んできた。三ヶ月前よりも、どこか大人びて見えるその瞳が、俺の書いた文字をじっと追う。俺はシャープペンシルを握り直し、何度も消しては書き直した最後の数行を、ぐっと力を込めて書き換えた。


「これで、どうかな。仮面を被ったままじゃ届かないから、声を枯らしてでも、本当の自分を叫ぶんだって意味を込めた」 


伏波さんは俺が差し出したノートを受け取り、その歌詞を静かに黙読した。一秒、二秒と、沈黙が流れる。やがて、彼女の口元がゆっくりと、弧を描いた。


「……うん。これ、最高。これ以上ないくらい、私たちの歌だ」 


彼女はシャープペンシルを机に置くと、ギターのネックをしっかりと握り直した。


「よし、じゃあ最初から最後まで、通してやってみよう」 


伏波さんの細い指先が、ギターの弦を力強く弾いた。始まったのは、これまでの試行錯誤が嘘のように滑らかで、それでいて胸が震えるほどの疾走感を持ったコード進行だった。夏の青空へ突き抜けていくような、激しくもどこか切ないメロディ。彼女が小さく息を吸い、唇を開く。 

――響き渡ったのは、彼女の圧倒的な歌声だった。俺がこの三ヶ月間、自分の心の奥底から引きずり出してきたドロドロとした本音、息苦しさ、そして彼女によって救われた光。そのすべてが、伏波さんの透明で力強い歌声に乗って、空き教室の壁を、窓を、そして俺の鼓膜を激しく震わせていく。彼女が歌うたびに、俺がノートに閉じ込めていた言葉たちが、まるで命を吹き込まれたかのように色鮮やかに躍動し始める。サビに向けて、ギターのストロークがさらに激しさを増していく。伏波さんは目を閉じ、全身で音を紡いでいた。その姿は、あまりにも綺麗で、ただただ圧倒されるしかなかった。


『――仮面の下の声を、今ここで叫ぶんだ』 


最後の歌詞が、彼女のロングトーンと共に放課後の空間に溶けていき、ジャラン、と余韻を残すコードが鳴り響いて、曲が終わった。静寂が、教室を包み込む。セミの鳴き声さえ、今の演奏の後では遠くのノイズのように思えた。俺は言葉を失ったまま、ただただ、胸の高鳴りを抑えられずに伏波さんを見つめていた。鳥肌が立っていた。


「……できた」 


伏波さんはギターを抱えたまま、ぽつりと呟いた。その目には、微かに涙が浮かんでいるようにも見えた。彼女はゆっくりと俺を振り返り、今日一番の、心の底からの笑顔を咲かせた。


「できたよ、柳くん! 私たちの、最初の曲!」


「あぁ……本当に、すごかった。俺の書いた言葉が、あんな風に歌になるなんて、思ってもみなかったよ」 


俺の言葉に、伏波さんは嬉しそうに何度も頷いた。興奮の余韻で、お互いに肩で息をしている。


「ねえ、柳くん」 


伏波さんはギターを机に立てかけ、身を乗り出すようにして俺の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、すでに次のステップを見据えた、強い光が宿っていた。


「この曲さ、やっぱり、二人だけで終わらせたくないな」


「え……?」


「たくさんの人に聴かせたい。この学校の、周りに合わせて息苦しい思いをしてる人とか、自分を見失いそうになってる人とか。みんなに、私たちの音を届けたいの」 


彼女の言葉に、俺の心臓がドクリと跳ねた。この学校は芸能活動も、こういう活動も厳しく禁止されている。見つかれば、今度こそ本当にタダでは済まない。優等生の柳魄栗としての破滅を意味する。しかし、俺の口から出たのは、そんな打算的なブレーキではなかった。


「……どうやって? ライブハウスに出るの? それとも、ネットに投稿するとか?」 


気づけば、俺の声も興奮で弾んでいた。伏波さんはニッと悪戯っぽく笑い、人差し指を口元に当てた。


「まずは、誰にもバレないように、ネットに音源をアップしてみようよ。顔は出さずに、この教室の風景とか、柳くんの歌詞の文字だけで動画を作ってさ。世界に、私たちの存在をこっそりドロップするの。……どうかな、共犯者さん?」 


その提案は、信じられないほどスリリングで、そして、たまらなく魅力的だった。世界から隠れるために始めた場所で、俺たちは今、世界に向けて声を届ける準備を始めようとしている。


「いいよ。とことん付き合うって、もう決めてるから」 


俺がそう答えると、最終下校時刻のチャイムが、祝福のファンファーレのように静かな校舎に響き渡った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


終業式が終わり、校内にだらけた空気と夏休みを迎える解放感が満ちる中、俺は自分のスマホの画面を凝視したまま、自席で硬直していた。画面に表示されているのは、数日前に伏波さんと一緒に動画投稿サイトへアップロードした、俺たちの最初の楽曲だ。動画の背景は、あの南校舎四階の空き教室から撮影した、オレンジ色の夕焼け空。そこに俺が書いた歌詞のテキストを不器用に乗せただけの、お世辞にも凝っているとは言えないシンプルな動画。 

しかし、そこに刻まれている数字は、到底見間違いとは思えないものだった。


「……じゅう、まん再生?」 


声が裏返りそうになり、慌てて口元を押さえた。桁が変わっている。昨日チェックした時は、せいぜい数百回程度で「誰かが見てくれたね」とのんきに伏波さんと喜び合っていたはずだった。それが、一晩明けてみれば桁が三つも跳ね上がっている。コメント欄は秒単位で更新され、通知のポップアップが止まらない。


『歌詞が刺さりすぎて泣いた』

『サビの歌声の伸びがエグい。誰これ、天才?』

『学校の息苦しさがそのまま音楽になってるみたい。救われた』 


好意的なコメントの嵐が、濁流のように画面を埋め尽くしていく。仮面を被り、周りに合わせて死んだように生きていた俺の、あのドロドロとした本音の言葉が、今、画面の向こうにいる何万人もの見知らぬ誰かの心を激しく揺さぶっている。その事実に、背筋がゾクゾクとするような、これまでに味わったことのない高揚感が込み上げてきた。ポケットの中でスマホが激しくバイブレーションを繰り返す。 

画面を切り替えると、メッセージアプリに伏波さんから尋常じゃない数のスタンプと、文字化け寸前のメッセージが連投されていた。


『柳くん!!!ヤバい!!!見てる!?!?動画信じられないことになってるんだけど!!!』 


俺は震える指先で『見てる。落ち着いて。放課後、いつもの場所で』とだけ返信し、大きく息を吐き出した。


ガラガラッ、といつもより勢いよく空き教室の引き戸を開けると、そこにはすでにカバンを放り出し、スマホを片手に興奮で頬を真っ赤に染めた伏波さんが待っていた。


「柳くん! バズってる! 私たちが作った曲が、本当にバズっちゃったよ!!」 


伏波さんは俺が教室に入るなり、駆け寄ってきて俺の制服の袖を掴んで激しく揺さぶった。セミの鳴き声が窓の外からうるさいほどに響く蒸し暑い教室の中で、彼女の熱量だけがさらに跳ね上がっているようだった。


「あぁ、俺も今さっき確認した。信じられないよ。おすすめのアルゴリズムに乗ったのかな」


「そんなのどうでもいいよ! 大事なのは、柳くんの言葉と私の音が、ちゃんと世界に届いたってこと! ほら、このコメント見てよ!『今年一番の名曲』だって!」 


伏波さんはスマホを俺の目の前に突き出してきた。確かに、絶賛のコメントが並んでいる。誰にも見つからないように、世界から隠れるために逃げ込んできたこの狭い空き教室から放った一発の弾丸が、見事に世界を撃ち抜いたのだ。俺は窓辺の机に腰掛け、空になった炭酸レモンのペットボトルを見つめながら、少しだけ冷静さを取り戻して呟いた。


「でもさ、これだけ再生数が伸びるってことは……それだけリスクも増すってことだよ」 


俺の言葉に、伏波さんはピクッと肩を揺らした。


「リスク、って?」


「この動画、制服や顔は映してないけど、背景の空き教室の窓の形とか、差し込む夕日の角度とか……うちの学校の生徒や先生が見たら、勘のいい奴なら気づくかもしれない。芸能活動禁止の校則がある以上、もし俺たちの正体がバレたら、夏休み明けに待ってるのは平穏な生活じゃないよ。停学か、最悪は退学だ」 


優等生としての打算的な思考が、どうしても頭をもたげる。バズった喜びのすぐ裏側には、これまで必死に守ってきた『安全な居場所』が崩壊する恐怖が張り付いていた。 

しかし、伏波さんは怯えるどころか、フッと不敵な笑みを浮かべた。黒髪を指先でくるくると弄りながら、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。


「何言ってるの、柳くん。私たちは最初から『共犯者』でしょ?」


「……え?」


「周りの目を気にして、ビクビクしながら生きる退屈な日々に逆襲するために、この曲を作ったんだよ。バレたらバレた時。その時は、その分厚い仮面を完全に叩き割って、二人で盛大に笑い飛ばしてやればいいじゃん」 


彼女の言葉には、相変わらず根拠のない、けれど信じられないほどの説得力があった。安全な檻の中で死んだように生きるくらいなら、危険な崖っぷちで自分の歌を歌いたい。そんな彼女の強い覚悟が、俺の胸の奥にある臆病な心を、激しく揺さぶり、溶かしていく。


「……本当に、敵わないな、伏波さんには」 


俺は降参するように苦笑した。胸の奥のモヤモヤは消え去り、代わりに、さらに深いところから熱い塊が突き上げてくる。


「よし、じゃあこの夏休み、どうする?動画がこれだけ注目されてるんだ。このまま一本だけで終わらせたら、一発屋で消費されて終わるよ」 


俺がそう言うと、伏波さんは待ってましたとばかりにニッと笑い、大きなギターケースから愛機を取り出した。


「もちろん、次の曲を作るの!この夏休み、毎日ここに集まって、もっと強烈なやつを世界に叩きつけてやろうよ。今度はもっと、柳くんのドロドロした本音、全部吐き出させてあげるからさ」


「手厳しいな。でも、望むところだ」 


ジリジリと照りつける夏の太陽が、誰もいない古い教室を容赦なく暖めていく。けれど、今の俺たちにとって、その暑さは心地よい応援のようにすら思えた。


夏休みが始まってから二週間が経ち、八月を迎えた街は、アスファルトから立ち上る陽炎で白く霞んでいた。 

校舎での練習が、盆休みの閉鎖期間によって一週間ほど使えなくなった俺たちは、場所を駅前の涼しいチェーンのカフェへと移していた。冷房が効きすぎた店内の片隅、注文したアイスコーヒーの結露が、テーブルの上に小さな水溜まりを作っている。俺はノートを開き、ここ数日で練り上げていた二曲目の歌詞のプロットを修正していた。あの最初の動画は、現在も再生数を伸ばし続け、ついに二十万再生を突破している。ネットの反響は俺たちの背中を強烈に押し、この二週間、俺の頭の中は寝ても覚めても伏波さんの鳴らすメロディと言葉の組み合わせで支配されていた。


「――ねえ、柳くん。これ、見て」 


向かいの席に座る伏波さんが、ストローを咥えたまま、スクールバッグの奥から一枚の紙切れを取り出した。少し折れ目のついた、カラフルで目を引くデザインのチラシだった。俺は作業していたシャーペンを置き、テーブルに広げられたそのチラシへと視線を落とした。

『次世代ノイズ・オーディション――未確認新人ライブ大会』 

派手なタイポグラフィで書かれたタイトルの下には、熱気に満ちたステージの写真と、いくつかの応募要項が並んでいる。開催地として書かれていたのは、俺たちが住むこの街から、電車をいくつも乗り継いでいかなければならない、遠く離れた隣の県のライブハウスだった。


「……これって、ライブの大会?」


「そう。十代の、まだどこにも所属してないアマチュア限定の大会。音源審査を通過した人だけが、夏の終わりにあのステージに立てるんだって」 


伏波さんはアイスカフェラテのグラスを指先で弄りながら、上目遣いで俺を見つめてきた。その切れ上がった瞳の奥には、初めて動画の再生数を見た時と同じ、あるいはそれ以上に強い熱がギラギラと宿っていた。


「他県、なんだね。随分遠い場所だ」


「そこがいいんじゃん。うちの学校の人間なんて誰もいないし、誰も私たちのことなんて知らない場所。芸能活動禁止の校則から、一番遠い場所だよ。……ねえ、応募してみない?私たちのあの曲なら、絶対に音源審査なんて余裕で通るよ」 


彼女の言葉に、心臓がドクリと大きな音を立てた。ネットに動画をアップするのとは、わけが違う。ネットの世界はどこか現実味がなくて、二十万という数字を見ても、画面の向こうの出来事のように処理できていた。けれど、ライブステージに立つということは、肉体を持って、本物の人間の前に自分たちの音楽を晒すということだ。いくら他県とはいえ、公の場に出て演奏すれば、正体が露見するリスクは跳ね上がる。何より、そこには優等生として安全に生きていきたい俺の理性が、強烈な拒絶反応を示していた。


「……伏波さん。動画がバズっただけでも、俺たちは相当危ない橋を渡ってるんだよ。ライブなんて出たら、本当に言い訳ができなくなる」 


俺は声を潜め、アイスコーヒーの氷をスプーンで小さく叩いた。 

しかし、伏波さんはそんな俺の言葉を予想していたかのように、少しだけ寂しげに、でも確固たる意志を込めて首を振った。


「柳くん、画面の向こうからの拍手だけで、本当に満足?」


「え……」


「私は嫌。確かに動画がバズったのは嬉しかった。でも、通知の数字が増えるたびに、なんだか自分が幽霊にでもなっちゃったみたいな気分になるの。私が欲しいのは、誰かが叩いてくれる本物の拍手。私の音が、誰かの体を本当に揺らしたっていう、確かな証拠。それを確かめるために、私はギターを弾いてるんだよ」 


伏波さんはチラシをぎゅっと指先で押さえた。


「これは世界に対する、私たちの本当の逆襲だよ。誰も私を知らない場所で、私のままでステージに立つ。柳くんが書いてくれたあの言葉を、本物の人間の前で叫びたいの。……柳くんは、まだ自分の仮面が愛おしい?」 


その問いかけは、あまりにも残酷で、そして真っ直ぐだった。仮面が愛おしいわけがない。そんなもの、息苦しくて今すぐにでも叩き割ってしまいたいと、この三ヶ月間ずっと思っていたはずだった。他県のライブハウス。誰も柳魄栗という優等生を知らない、誰も俺に期待なんかしていない、真っ白な世界。そこで、自分の言葉がどう響くのか、本当は俺だって、死ぬほど見てみたかった。冷房の風が、俺の首筋を冷やす。

俺は開いたままのノートを見つめた。そこには、周りの空気に怯え、自分を擦り減らしてきた俺の血の滲むような本音が、伏波さんの手によって音楽という翼を与えられるのを待っていた。ここで安全な檻に戻るのか。それとも、彼女の手を取って、さらに深い底へと堕ちていくのか。

答えなんて、最初から決まっていた。


「……音源の提出期限はいつ?」 


俺がそう呟くと、伏波さんは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、弾けたような満面の笑顔を咲かせた。


「お盆明けの消印有効!まだ一週間以上あるよ!」


「わかった。じゃあ、今すぐ二曲目の歌詞を完成させる。音源審査には、一曲目と、今作ってるこの新曲の二つを送ろう」


「さすが私のパートナー!話が早くて助かる!」 


伏波さんは嬉しそうにレモンジュースを追加で注文するために伝票を掴んだ。冷たいカフェの片隅で、他県のライブ大会のチラシが、西日に照らされて不気味なほど眩しく輝いていた。もう、引き返せない。俺たちは夏休みの境界線を越えて、本物のステージへと足を踏み出そうとしていた。

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