第二章 始まりの音
「お腹、空いた……」
六時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、俺は机に突っ伏した。いつもなら、放課後はクラスの誰かしらに声をかけ、愛想よく談笑しながら「優等生」としての役割を完璧にこなす時間だ。けれど今日ばかりは、そんな仮面を維持する体力すら残っていなかった。
原因は、昼休みにある。
話しているうちに、気がつけばお互いに用意していた昼食に一切手をつけないまま予鈴が鳴ってしまったのだ。
五時間目と六時間目は、文字通り地獄だった。お腹の虫が静まり返った教室に響かないよう、ずっと腹筋に力を入れていたせいで、意識が遠のきそうだった。ポケットの中で、スマホが短く震える。画面を見ると、今日交換したばかりの『のあ』からメッセージが届いていた。
『南校舎の4階、一番奥の空き教室にきて。ギター持っていくから』
「……容赦ないな、本当に」
俺はため息を漏らし、重い体を無理やり引きずって教室を出た。南校舎の4階。そこは普段、使われていない物置や古い準備室ばかりが並び、生徒はおろか先生すら滅多に立ち入らない、学校の盲点のようなエリアだ。ほぼ行くことのないそのフロアの階段を上る足取りは、空腹のせいで鉛のように重い。薄暗い廊下を進み、一番奥の引き戸をそっと開ける。
ガラガラ、と寂びた音が響いた。埃っぽい匂いのする教室の片隅、夕日が斜めに差し込む窓辺に、伏波は大きな黒いギターケースを抱えて、ぽつんと座っていた。
「遅い。お腹空きすぎて干からびるかと思った」
俺の姿を見るなり、伏波は不満そうに唇を尖らせた。
「誰のせいだと思ってるんだよ……。俺、伏波さんのせいで、お弁当食べる時間なかったんだけど」
「えっ、あ、ごめん……私も食べるの忘れてたから、お互い様ってことで」
伏波さんは少しだけ気まずそうに視線を泳がせると、自分のスクールバッグから、がさごそと何かを取り出した。
「はい、これ。お詫び」
机の上にコト、と置かれたのは、購買で売っている人気のコッペパンと、チョコレートの菓子パン。それから紙パックのいちごオレだった。
「お昼のお詫び。これなら、ここで食べても怒られないでしょ?」
「……ありがとう」
俺は遠慮なくチョコレートの菓子パンの袋を破り、一口かじりついた。甘い味が、飢えた体に染み渡っていく。
「ん、おいしい……」
「でしょ? 私、これ大好きなんだよね」
伏波さんもチョコレートパンを小さくちぎって口に運び、幸せそうに目を細めている。昼間の、屋上で俺を「一種の脅迫」してきた時の張り詰めた雰囲気はどこへやら、今の俺たちはただ、放課後の空き教室でこっそりパンを分け合う、お腹を空かせた高校生だった。夕方の静かな教室に、二人がパンを咀嚼する音と、ストローがズズッと音を立てる気まずくも心地いい音だけが響く。
「……ねえ、柳くん」
いちごオレを飲み終えた伏波さんが、窓の外の茜色の空を見つめながら呟いた。
「ここ、誰も来ないから好き。屋上もいいけど、ここはもっと、世界から隠れてるみたいでさ」
「そうだね。俺も、こういう静かな場所、嫌いじゃないよ」
いつもなら、周りの顔色を窺って「そうだね、すごく良い場所だね!」と過剰に同調するところだ。でも、今の俺は、ごく自然なトーンで本音を口にできていた。お腹が満たされていく感覚と一緒に、胸の奥のしんどい塊が、少しずつ解けていくような気がした。
「よし、お腹もいっぱいになったし!」
伏波さんはパンのゴミを素早くまとめると、ギターケースのジッパーを勢いよく引いた。夕日を浴びて、木目の美しいアコースティックギターが姿を現す。
「これから毎日、放課後はここで作詞の作戦会議ね。逃げようとしても無駄だから」
「……最初から逃げる気はないよ。もう『共犯者』になっちゃったんだからさ」
俺が苦笑しながら言うと、伏波さんは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、今日一番の綺麗な笑顔を咲かせた。
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夕日が差し込む南校舎四階の空き教室。オレンジ色の光が、埃の舞う空間を斜めに切り裂いている。伏波さんはアコースティックギターを愛おしそうに膝の上で抱え直すと、細い指先でぽろん、と優しく弦を爪弾いた。静まり返った室内。アンプも通していない生音のはずなのに、その透き通った音色は驚くほど深く、俺の胸の奥の、普段は誰にも触れさせない閉ざされた領域まで真っ直ぐに染み渡っていくようだった。
「――それでね、柳くん」
伏波さんはネックを左手で支えたまま、窓の外の茜色の空に視線を落とした。その横顔は、昼間に屋上で俺を脅迫してきた時の刺すような鋭さは消え失せていて、どこか遠くの、手の届かない場所を見つめているかのように儚げだった。
「私さ、中学の頃までは本当に普通の子だったんだよね。ううん、普通っていうか、今の柳くんと似たような感じ。親の言うことをちゃんと聞いて、先生に褒められるような、いわゆる典型的な『良い子』。周りの友達の流行りに合わせて、みんなが笑うタイミングで合わせて笑って、一歩引いて空気を読んで。嫌われないように、目立たないように、でも優秀でいるように。そうやって生きてたの」
彼女の口から溢れ出た過去は、俺の胸に鋭いナイフとなって突き刺さった。今の俺がまさに、その「死んだような優等生」の状態そのものだからだ。周りに合わせて自分を殺す、あのじわじわと胸が侵食されていくような痛みが、彼女の静かな声を通して生々しく鼓膜を揺らす。
「でもある日突然、気づいちゃったんだよね。私、誰のために笑ってるんだろうって。みんなが喜ぶ私を演じているうちに、本当の私がどこに行っちゃったのか、分からなくなっちゃったの。自分の心が完全に空っぽになっていく感覚がして、それがすごく、怖かった」
伏波さんは一度言葉を区切り、愛おしそうにギターの木目を指先でなぞった。
「周りの期待に応えるために、自分の本当の気持ちを削って、すり減らして……。そんなの、生きてるって言わないじゃん。ただの、プログラムされたロボットと同じ。だからね、高校に入ったら、絶対に自分の好きなことを誰にも邪魔されずにやろうって決めてたの。どんなに怒られても、どんなに否定されても、これだけは譲らない。それが、このギターだったんだよね」
彼女の細い指先を見ると、弦に触れる部分が少しだけ固くなっているのが分かった。彼女がどれだけ真剣に、どれだけの孤独な時間をこの楽器に捧げてきたのかが、言葉以上にその指先から伝わってくる。芸能活動禁止という、この学校の厳しい校則なんて、彼女にとっては自分の存在を証明するための戦いに比べれば、些細な障壁に過ぎないのだろう。
「私は、私が私であるために、ここで歌う。世界に対して、私はここにいるんだぞって叫ぶためにね。でも結局高校に入ったらそれ以上にひどい『一匹狼』なんて言われる状態になっちゃった。……ねえ、柳くんは? なんでそんなに、いつも完璧な『優等生』の仮面を被り続けてるの?」
不意に、真っ直ぐで、一切の不純物を含まない瞳が俺に向けられた。俺の心の奥底に隠した暗闇を、無理やりこじ開けて暴き立てるような、強い視線だった。いつもなら、いつもの俺なら、適当な冗談を言って話を逸らすか、愛想のいい無難な嘘を吐いてやり過ごす場面だ。それが一番安全で、誰も傷つかず、自分のテリトリーを守れる方法だから。ゆっくりと口を開くと、自分でも驚くほど泥臭い本音が、堰を切ったように溢れ出てしまった。
「……俺はさ、ただ怖いんだよ。他人の期待を裏切るのが」
自分の声が、情けないほどに微かに震えているのが分かった。けれど、一度話し始めたら、もう止まらなかった。
「自分が原因で、周りの空気がピリついたり、誰かががっかりした顔をしたりするのが、たまらなく恐怖なんだ。幼い頃からずっと、周りの顔色を窺って、求められる役割を演じることで自分の居場所を確保してきた。誰の期待にも完璧に応えて、誰からも嫌われないポジションを維持していれば、波風は立たないし、自分が傷つかずに済むから」
俺は自嘲気味に笑い、視線を落とした。
「でもさ、高校に入って、また新しいクラスで同じことを三年間繰り返すのかって思ったら、昨日の朝、なんだか急に息の仕方がわからなくなっちゃってさ。これから先もずっと、このしんどい思いを死ぬまで続けていくのかなって、絶望に似た何かが胸に詰まって……。昨日、あの公園に行ったのも、ただ誰も俺を知らない場所で、一人になって頭を冷やしたかっただけなんだ」
すべてを吐き出し終えて、俺は深く、重いため息をついた。こんな格好悪くて、脆くて、情けない本音を他人に話したのは、生まれて初めてのことだった。話し終えた瞬間、猛烈な後悔と、拒絶されるのではないかという不安が脳裏をよぎる。優等生の化けの皮が剥がれた俺なんて、きっとひどく退屈で、価値のない人間に見えるに違いない。
しかし、伏波さんは幻滅するどころか、からかうような素振りすら見せなかった。彼女は何も言わず、ただ優しくギターの最も低い弦を一つ、親指で弾いた。ボォン、と重厚で温かい振動が、静かな教室の空気を震わせる。その音は、俺のドロドロとした告白を優しく包み込んで、消し去ってくれるかのように響いた。
「そっか。やっぱり、昨日、私の歌を聴いてた時の柳くん、今にも消えちゃいそうな顔してたもんね」
「……そんなに酷い顔、してたかな」
「してたよ。今にも泣き出しそうで、でも何かを必死に堪えてて、世界中で自分一人しかいないみたいに寂しそうな顔。でもさ、もう安心しなよ。これからは、ここに来ればその重くて分厚い仮面、そこに置いておいていいからさ」
伏波さんはギターを抱えたまま、悪戯っぽく、でもどこか包容力のある笑みを浮かべた。
「私の前ではさ、格好悪いところも、やる気のないところも、全部見せていいよ。優等生の柳魄栗じゃなくて、ただの『柳くん』でいなよ。ここを、君の逃げ場所にしてあげるって、昼間も言ったでしょ?」
その言葉が、俺の乾ききった胸の奥に、信じられないほどの優しさで染み込んでいく。ただの俺でいていい場所。そんなものが、この息苦しい学校の中に存在するなんて、想像すらしていなかった。伏波乃愛という少女は、俺が必死に守ろうとしていた歪な壁を、いとも簡単に壊して、その中にある弱さを肯定してくれた。
「ほら、湿っぽい話はここまで! 作詞のヒントになるかもしれないから、柳くんの好きなもの、もっと教えて!」
彼女はカバンから、使い古されて端が擦り切れた一冊のノートを取り出し、机の上に広げた。シャープペンシルを武器のように構え、俺を覗き込んでくる。
「好きなもの、って言われてもな……」
「なんでもいいの! 食べ物でも、音楽でも、景色でも。柳くんの心が動くものを知りたいの。それが歌の言葉になるんだから」
そこからは、本当に脈絡のない、とりとめもない会話が続いた。お互いの好きな音楽のジャンルについて話すと、伏波さんは激しいロックから古いフォークソングまで雑食に聴くことが分かり、俺が普段、流行りのJ-POPを周りに合わせるために義務的に聴いていたことを白状すると、「これからは本当に好きな曲だけ聴きなよ」と怒られた。趣味の話になると、伏波さんは見た目のクールな印象に反して、B級のホラー映画が大好きだという意外な一面が発覚した。「でもね、実際にお化け屋敷に入ると、腰が抜けて一歩も動けなくなるんだよね」と悔しそうに告白する彼女が可笑しくて、俺は仮面を被ることなく、心からの笑声を上げてしまった。
逆に、俺が実はかなりの甘党で、今日の昼休みのせいで引き起こされた極限の空腹状態のあと、さっき奢ってもらったいちごオレが五臓六腑に染み渡るほど嬉しかったことを伝えると、彼女は「単純だなぁ」とケラケラと笑った。作詞に直接関係あるのかわからないような、たわいもない雑談。
けれど、相手の反応を頭の中でシミュレーションすることなく、言葉を慎重に選ぶ必要もない会話が、これほどまでに楽しいなんて思いもしなかった。誰の顔色も窺わずに、ただ自分の思ったことを口にする。それだけで、肩の荷がすっと軽くなっていくのが分かった。
気がつけば、窓の外の景色は鮮やかな茜色から、夜の始まりを告げる深い藍色へと移り変わっていた。電気をつけていない教室の隅はすっかり暗くなり、お互いの顔の輪郭が夕闇の中に溶け始めていく。それでも不思議と不気味さはなく、むしろ世界中に二人きりしかいないような、奇妙な連帯感がそこにはあった。
――キーンコーンカーンコーン。
突然、静まり返った校舎に、無機質で大きな電子音が響き渡った。最終下校時刻を告げる、校内の警告チャイムだ。
「あ、嘘、もうこんな時間!?」
伏波さんが飛び上がるようにしてスマホの画面を確認する。液晶の光に照らされた彼女の顔が、焦りで引きつっていた。時計の針は、完全下校時刻のわずか五分前を指している。
「やばいやばい、急がないと先生たちの見回りに捕まる! 南校舎は特に、容赦なく鍵閉められちゃうよ!」
「ギター、早くケースにしまって! 俺、そっちの筆記用具とかノートまとめるから!」
俺たちは昼休みに続いて、またしても大慌てで荷物をカバンに詰め込んだ。伏波さんがギターをケースに収め、ジッパーを閉める金属音が静かな教室に荒々しく響く。俺は机の上のノートとペンをひったくるようにカバンに押し込み、チャックを閉めた。
「よし、行くよ!」
引き戸を勢いよく開け、誰もいない薄暗い廊下へと飛び出す。足音をできるだけ忍ばせながら、しかし全力に近いスピードで階段を駆け下りた。一階に近づくにつれ、職員室の方から先生たちの話し声や、鍵の束がジャラジャラと鳴る音が聞こえてきて、生きた心地がしなかった。もしここで見つかれば、「放課後に男女二人で立ち入り禁止に近い空き教室にいた」という、優等生としては一発でアウトな事態になる。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。
しかし、伏波さんはそんなスリルすら楽しんでいるかのように、俺の手首を軽く引っ張りながら、暗闇の中を迷いなく突き進んでいく。彼女の細い手のひらの熱が、俺の腕を通じて伝わってきた。裏口のガラス扉をすり抜け、夜の帳がすっかり下りた校庭へと飛び出した時、俺たちは同時に大きな息を吐き出した。冷たい夜風が、全速力で走って火照った体にひどく心地よかった。正門を抜けて学校の敷地外に出ると、追っ手から逃げ切った安心感から、どちらからともなく自然と足取りが緩やかになった。
「ふぅー、焦ったー! 心臓バクバクだけど、なんとかセーフだね!」
伏波さんは大きなギターケースを背中に背負い直しながら、子供のように愉快そうに笑った。その瞳は、夜の暗闇の中でも街灯の光を反射してきらきらと輝いている。
「本当に心臓に悪いよ、伏波さんと行動してると。俺の平穏で無難な高校生活の計画が、台無しだ」
「あはは、お堅い優等生にはこれくらい刺激的な方がいいでしょ? ほら、生きてるって感じするじゃん」
街灯がぽつぽつと等間隔で灯り始めた、静かな通学路を俺たちは肩を並べて歩く。昼間のあの騒がしい喧騒が嘘のように静まり返った夜道を歩いていると、ふと、隣を歩く伏波さんの喉が小さく鳴ったのが聞こえた。そういえば、放課後に小さな菓子パンを半分こして、いちごオレを飲んだきりだ。おまけにさっきの猛ダッシュだ、相当喉が渇いているのだろう。
「……ねえ、柳くん。ちょっと、喉乾かない?」
伏波さんが道沿いにある自動販売機をチラリと見つめながら、あからさまな態度で言った。その視線は、完全にカラフルな缶が並ぶディスプレイへ釘付けになっている。分かりやすすぎるそのおねだりに、俺は少しおかしくなって、ズボンのポケットから小銭入れを取り出した。今日、彼女に無理やり振り回されたのは確かだけど、それ以上に、俺の心の奥の闇を救い上げてくれたのは間違いなく彼女だ。お昼にパンを買ってきてくれたお礼も含めて、これくらいは奢っても罰は当たらないだろう。
「伏波さん、何がいい? 一本選んでよ」
俺が自動販売機の前に立ち、財布から小銭を取り出すと、伏波さんはパッと顔を輝かせた。
「え、本当に奢ってくれるの!? やった、柳くん最高!」
「お昼のお礼。それに、俺のつまらない長話に付き合ってくれたしね。ほら、気が変わらないうちに早く決めて」
「じゃあ、迷わずこれ! そこの、一番冷えてそうな炭酸のレモンジュース!」
伏波さんが勢いよくボタンを押すと、ガコン、と重い音を立てて冷えたアルミ缶が取り出し口に落ちてきた。続いて、俺は自分の分の、ブラックの缶コーヒーのボタンを押す。冷たい缶が手のひらに心地よい刺激を与えた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう! いただきまーす」
伏波さんは嬉しそうに缶を受け取ると、プシュッと小気味いい音を立ててプルタブを開けた。そして、ゴクゴクと勢いよく喉を鳴らしてジュースを流し込んでいく。少し上を向いた彼女の首筋のラインが、街灯の光に照らされて白く浮かび上がっていた。
「ぷはぁー! 生き返る! やっぱり、放課後に命がけで先生から逃げ切った後のジュースは最高だね!」
幸せそうに満面の笑みを浮かべる彼女の横顔を、俺は一瞬、言葉を失って見つめてしまった。その飾らない姿が、なんだかひどく眩しくて、胸の奥がチクリと疼く。俺は気恥ずかしさを隠すように、慌てて缶コーヒーを口に含んだ。独特の苦い液体が、少しだけ速くなっていた心臓の鼓動を落ち着かせてくれるような気がした。
「柳くんって、結構優しいんだね。最初に話しかけた時は、もっと冷たいっていうか、中身のないロボットみたいな人かと思ってたけど」
「……随分な言われようだな。俺はただ、どこにでもいる普通の高校生だよ」
「ううん、もう普通じゃないよ。だって、私の大事な『共犯者』になっちゃったんだからさ」
伏波さんはそう言って、誇らしげに小さく胸を張った。その言葉が、不思議と嫌な気はせず、むしろ妙に心地よく胸の奥深くに居座り続けた。共犯者、という響きが、俺たちの間に特別な境界線を引いてくれているような気がして、悪くないと思ってしまう自分がいた。やがて、通学路の先にある街の明かりが強くなり、目的地の駅のロータリーが見えてきた。
家路につくサラリーマンや、他校の制服を着た生徒たち、送迎の車で行き交う賑やかな改札口の前。誰も俺たちのことなど気留めない、ノイズに満ちた現実の世界。俺たちの、誰にも言えない特別な時間が、もうすぐ終わろうとしていた。
「じゃあ、私はこっちの路線のホームだから、ここで」
伏波さんは自動改札機の向こう側、青い案内板を指差して、俺を振り返った。
「うん。また明日、学校でな」
「うん、また明日! あ、作詞のヒント、今日の雑談の中からちゃんと考えておくこと。私の心を動かすような言葉、期待してるからね、パートナー」
伏波さんは大きなギターケースを背中で少し揺らしながら、ひらひらと軽快に手を振った。そして、定期券をかざして改札を通り、人混みの中へと滑り込むように消えていく。彼女の艶やかな黒髪が、人波の向こうで名残惜しそうに揺れ、やがて完全に見えなくなった。一人残された俺は、手の中のすっかりぬるくなった缶コーヒーを最後の一口まで飲み干した。いつもなら、学校が終わって駅に着く頃には、一日中仮面を維持し続けた反動で、鉛のような重い疲労感がドッと押し寄せるはずだった。なのに、不思議と今日は体が軽かった。
それどころか、明日またあの息苦しい学校へ行くことが、少しだけ楽しみになっている自分さえいることに気づく。周りに合わせて仮面を被り続けるだけの、灰色で退屈だった俺の高校生活。それが、伏波乃愛という風変わりな少女に出会ったことで、少しずつ、でも確実に、鮮やかな色を帯びて変わり始めていた。
俺は空になった缶を近くのゴミ箱に投げ入れると、胸の奥に残る温かい余韻を確かめるようにして、自分の乗るべき電車の改札へと足を踏み入れた。




