↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スローウィンド・ファストシャドー(ライク・ア・ハリケーンⅡ)  作者: ままま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/8

転換点

午前中最後の相談者が来るまで、少し間があった。

机の上に積んだ申請書を整理し、冷めかけた湯呑みの茶を一口飲む。廊下の向こうでコピー機が紙を吐き出す音がしている。


予定時刻の2、3分前に、階段を上がってくる足音がした。

ドアが開いて、入ってきた男の顔を見て、思わず、あっと声が出そうになった。


白髪が少し混じった短い髪。引き締まった顎の線。背筋はすっきりと伸びて、落ち着いた色の半袖シャツの袖から、逞しいと言ってよい腕がのぞいている。

山の上の駐車場で一度見ただけだったが、見間違えようがなかった。


相手は椅子の横で少し足を止め、訝しそうにこちらを見た。

「どうかしましたか?」

「あ、いえ別に」と言いいかけてから、思い直した。

「先日、山の上の駐車場でお見かけしたことがあって」

男の目がわずかに細くなる。

「山の上?」

「見晴らし台のところです。キッチンカーが来ていた」


「ああ、コーヒーを飲んでいた方ですか」

「そうです」

「なるほど」

男はそう言って、少しだけ口元をゆるめた。

「こちらこそ、どこかで見たことがある気がしていたんです」



相談の内容は、事前に聞いていたとおりだった。

既に事業計画や必要な数字も十分にまとめられていて、優秀な経営者だと分かる。大きいプロジェクトを受注する都合で、一時的にキャッシュフローが厳しくなる見込みだという。その間のつなぎとしての融資の相談だった。

資料の確認をしながら、必要な申請書類と申込先の候補を順に説明する。相手は頷きながら、要点だけを短く聞き返してくる。


一通りの話が終わり、お茶を淹れ直すころには、最初のぎこちなさは薄れていた。


「そういえば、見晴らし台のキッチンカー、初めて寄ったんですが、あのコーヒーは絶品ですよね。あれから時々飲みたくなって行ってみるんですが、なかなか会えなくて」

そう言うと、男はなぜか少し嬉しそうな顔をして答えた。

「キッチンカーの彼も、そうとうこだわっているみたいですからね。色々研究して、やっと客に出せるようになったと言っていたから。今度会ったら、褒めてあげてください。喜ぶと思いますよ」


「彼とは長い付き合いなんですか」

そう聞くと、一瞬躊躇してから答えた。

「実は息子なんですよ。と言っても離婚して妻について行ったので、息子なんて言うと嫌がるかもしれませんけどね」

こちらが困った顔をしていると、取り繕うように続けた。

「離婚してから、もう10年くらい経つんで、気にしなくてもいいですよ。私がね、何もかもほっぽり出して、あのバイクで旅に出てしまったもんで。要するに、妻に見捨てられたんです」そう言って苦笑して見せた。

「だから、彼と会ったのも偶然でね。それ以来、時々様子を見に行ってるんですよ」


余計な質問をしてしまったという思いで、話題を変えたくて聞いた。

「あのバイク、何という車種なんですか。この前バイク屋で探してみたんですが、同じものは無くて」

「スズキのGS1200SSです。2000年式のモデルです。当時もそんなに人気がある車種じゃなかったから、中古のタマは少ないですよ」

「ずっとあのバイクですか」

「ええ。新車で買ってから、ずっとですね。いっとき乗らない時期もあったんですが、手放せなくて」


お茶を啜る間、一時の沈黙が落ちる。廊下で誰かの笑い声がして、すぐに遠ざかる。


男のほうから尋ねた。

「あなたもバイクに乗るんですか」

「いえ、乗ってはいません」そう言ってから、少し言葉を足す。

「でも、興味はあります。その、なんて聞いたら良いか迷うんですが、実際のところ、バイクって良いものですか」


自分で言っておきながら、ずいぶん間の抜けた質問だと思った。だが、男は笑わなかった。

机の上の書類を見ながら、少し考えるようにして口を開いた。


「いいか悪いかで言えば、べつに良いとは言えませんね」

「そうですか」

「暑いし、寒いし、雨が降れば濡れる。荷物も積めないし、車に比べれば危ないとも言える」

そう言って、男は肩をすくめた。

「だから、人に勧めることはしないようにしています」


ずいぶんまっとうな答えだと思った。もっと単純に、気持ちいいとか、自由だとか、そういう言葉が返ってくるのかと思っていた。


「それでも乗るんですね」

「ええ」男は短く答えた。その一言のあとに、少しだけ間があった。


「バイクじゃないと見えない景色があるんです」


「なるほど」

それだけ言うのが精いっぱいだった。



男は頷いて、書類の控えを鞄にしまった。

「今日はありがとうございました」

「いえ、こちらこそ」


ドアの前で振り返る。

「もし本当に気になるなら、お勧めはしませんが、歓迎しますよ」

そう言って、少しだけ笑った。


階段を下りていく足音が遠ざかっても、しばらく席を立たなかった。

机の上には、相談で使ったメモと、決裁待ちの書類がいつものように並んでいる。窓の外では、総菜店の換気扇から薄い煙が上がっていた。

午後になれば、また別の相談が入り、別の書類が運ばれてくるだろう。今日もいつもの通りに過ぎていく。


それでも、さっき聞いた言葉だけが、どこにもしまえないまま残っていた。

「バイクじゃないと見えない景色がある」

それを見てみたいと思った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。