転換点
午前中最後の相談者が来るまで、少し間があった。
机の上に積んだ申請書を整理し、冷めかけた湯呑みの茶を一口飲む。廊下の向こうでコピー機が紙を吐き出す音がしている。
予定時刻の2、3分前に、階段を上がってくる足音がした。
ドアが開いて、入ってきた男の顔を見て、思わず、あっと声が出そうになった。
白髪が少し混じった短い髪。引き締まった顎の線。背筋はすっきりと伸びて、落ち着いた色の半袖シャツの袖から、逞しいと言ってよい腕がのぞいている。
山の上の駐車場で一度見ただけだったが、見間違えようがなかった。
相手は椅子の横で少し足を止め、訝しそうにこちらを見た。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ別に」と言いいかけてから、思い直した。
「先日、山の上の駐車場でお見かけしたことがあって」
男の目がわずかに細くなる。
「山の上?」
「見晴らし台のところです。キッチンカーが来ていた」
「ああ、コーヒーを飲んでいた方ですか」
「そうです」
「なるほど」
男はそう言って、少しだけ口元をゆるめた。
「こちらこそ、どこかで見たことがある気がしていたんです」
相談の内容は、事前に聞いていたとおりだった。
既に事業計画や必要な数字も十分にまとめられていて、優秀な経営者だと分かる。大きいプロジェクトを受注する都合で、一時的にキャッシュフローが厳しくなる見込みだという。その間のつなぎとしての融資の相談だった。
資料の確認をしながら、必要な申請書類と申込先の候補を順に説明する。相手は頷きながら、要点だけを短く聞き返してくる。
一通りの話が終わり、お茶を淹れ直すころには、最初のぎこちなさは薄れていた。
「そういえば、見晴らし台のキッチンカー、初めて寄ったんですが、あのコーヒーは絶品ですよね。あれから時々飲みたくなって行ってみるんですが、なかなか会えなくて」
そう言うと、男はなぜか少し嬉しそうな顔をして答えた。
「キッチンカーの彼も、そうとうこだわっているみたいですからね。色々研究して、やっと客に出せるようになったと言っていたから。今度会ったら、褒めてあげてください。喜ぶと思いますよ」
「彼とは長い付き合いなんですか」
そう聞くと、一瞬躊躇してから答えた。
「実は息子なんですよ。と言っても離婚して妻について行ったので、息子なんて言うと嫌がるかもしれませんけどね」
こちらが困った顔をしていると、取り繕うように続けた。
「離婚してから、もう10年くらい経つんで、気にしなくてもいいですよ。私がね、何もかもほっぽり出して、あのバイクで旅に出てしまったもんで。要するに、妻に見捨てられたんです」そう言って苦笑して見せた。
「だから、彼と会ったのも偶然でね。それ以来、時々様子を見に行ってるんですよ」
余計な質問をしてしまったという思いで、話題を変えたくて聞いた。
「あのバイク、何という車種なんですか。この前バイク屋で探してみたんですが、同じものは無くて」
「スズキのGS1200SSです。2000年式のモデルです。当時もそんなに人気がある車種じゃなかったから、中古のタマは少ないですよ」
「ずっとあのバイクですか」
「ええ。新車で買ってから、ずっとですね。いっとき乗らない時期もあったんですが、手放せなくて」
お茶を啜る間、一時の沈黙が落ちる。廊下で誰かの笑い声がして、すぐに遠ざかる。
男のほうから尋ねた。
「あなたもバイクに乗るんですか」
「いえ、乗ってはいません」そう言ってから、少し言葉を足す。
「でも、興味はあります。その、なんて聞いたら良いか迷うんですが、実際のところ、バイクって良いものですか」
自分で言っておきながら、ずいぶん間の抜けた質問だと思った。だが、男は笑わなかった。
机の上の書類を見ながら、少し考えるようにして口を開いた。
「いいか悪いかで言えば、べつに良いとは言えませんね」
「そうですか」
「暑いし、寒いし、雨が降れば濡れる。荷物も積めないし、車に比べれば危ないとも言える」
そう言って、男は肩をすくめた。
「だから、人に勧めることはしないようにしています」
ずいぶんまっとうな答えだと思った。もっと単純に、気持ちいいとか、自由だとか、そういう言葉が返ってくるのかと思っていた。
「それでも乗るんですね」
「ええ」男は短く答えた。その一言のあとに、少しだけ間があった。
「バイクじゃないと見えない景色があるんです」
「なるほど」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
男は頷いて、書類の控えを鞄にしまった。
「今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
ドアの前で振り返る。
「もし本当に気になるなら、お勧めはしませんが、歓迎しますよ」
そう言って、少しだけ笑った。
階段を下りていく足音が遠ざかっても、しばらく席を立たなかった。
机の上には、相談で使ったメモと、決裁待ちの書類がいつものように並んでいる。窓の外では、総菜店の換気扇から薄い煙が上がっていた。
午後になれば、また別の相談が入り、別の書類が運ばれてくるだろう。今日もいつもの通りに過ぎていく。
それでも、さっき聞いた言葉だけが、どこにもしまえないまま残っていた。
「バイクじゃないと見えない景色がある」
それを見てみたいと思った。




