↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スローウィンド・ファストシャドー(ライク・ア・ハリケーンⅡ)  作者: ままま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/8

不器用な風

「ヘルメットだけは、良いものを買え」


無口な店主は、ほかのことには何も口を出さなかった。だが、通販サイトで買ったヘルメットを見ると、頑として、それではバイクを渡せないと言う。仕方なく、店主に言われた通りに、陳列されていた、アライというメーカーのジェットヘルを買うことにした。

値段を聞いて、少したじろいだが、店主の目は「嫌ならバイクは渡さない」と言っていた。


店主がバイクを駐車場へ押していくのに付いていく。


結局、あの黒い小型のバイクを買ってしまった。ホンダの「クロスカブ」という名前だと知った。車体は黒一色で、サイドカバーだけが濃い赤に塗られている。角張ったデザインに、丸いヘッドライトが付いている。

無骨と言って良い見た目だが、それが気に入った。


シートに跨ると、両足の裏がべったりと地面につく。

キーを回す。ニュートラルを示す緑のランプが点くのを確かめて、セルボタンを押す。セルモーターの回る小さな音がして、エンジンが始動した。ド、ド、ド、という、乾いた規則正しい音。

シフトペダルを、つま先で踏み込むと、カチャッ、と小さい音がしてギアが入った。


恐る恐る、右手のスロットルをひねる。


自動遠心クラッチが作動して、バイクは、トコトコと動き出した。びっくりしてスロットルを戻す。

エンジンの回転は落ちたのに、タイヤはまだ転がろうとしている。慌てて両足を突っ張って、靴底で路面を擦るようにして、なんとか停めた。


停まってから、ブレーキを握ればよかったのだと気づく。


顔を上げると、店の入口に、店主が立っていた。こちらを見ているが、口を出そうとはしない。あれだけヘルメットのことはうるさく言ったくせに、駐車場で、じたばたしているのを見ても、何も言わない。


バイクを買うときに言われた言葉を思い出した。


「たとえバイクに乗るのが初めてでも、バイクに乗る以上は、そこで起こることはすべて自分の責任だ。困っていれば助けてくれる奴はいるだろうが、助けてもらう前提で行動するのは違うだろ」


姿勢を正した。背筋を伸ばして、肩の力を抜く。深呼吸をひとつ。浅く息を吐きながら、そっとスロットルを回す。バイクが、トコトコと動き出す。今度は慌てなかった。ちょっとふらついたが、足は出さずに済んだ。

駐車場をゆっくり横切って、店先の道路に出る。ミラー越しに、店主が背を向けて店の中へ戻っていくのが見えた。


見晴らし台を目指すことにした。今日は、あのキッチンカーが来ているはずだ。


山道に入ると、空気の匂いが変わる。

濃い針葉樹の匂いがする。土の匂い、落ち葉の匂い。車に乗っているときは、窓の外を流れるだけだった空気が、直接、顔にぶつかってくる。

場所によって空気の匂いが違うことに気づく。谷に入ると空気の温度が下がる。小さな坂道を越えるだけで、小さな用水路に架かった橋を渡るだけでも、その都度、空気が変わる。

ひなたの草の匂い。道の端に咲く知らない花の匂い。


時速30㎞くらいしか出ていない。それでも、コーナーの度に緊張が走る。

むき出しの身体が感じるスピード感は、車のフロントガラス越しに感じるそれとは、まるで異なっている事を知った。

恐る恐る走っていく。

ゆっくり走っていると、車では素通りしてしまうものが目に入る。倒れかけた古い標識。舗装の割れ目に生えた草。路肩で草を刈る老人がいて、こちらを見て頷く。片手を挙げて挨拶を返す。


「バイクでしか見えない景色」が何のことかは未だ分からない。だが、なぜか、気分が良かった。

仕事の数字も、書類の山も、どこか遠くへ行ってしまう。ただ、前だけを見て走っている。風をより分けるように、味わうように走った。



見晴らし台に着くと、白いキッチンカーが、停まっていた。のぼり旗が風に揺れている。その隣に、黒いバイクが停まっている。丸目二灯。黒一色の武骨なカウル。タンクの右側に走る、古い傷の修復跡。


その近くにクロスカブを停め、サイドスタンドを下ろす。エンジンを切ると、急に静かになる。風の音と、鳥の声だけが残った。


「本当に買ったんですね」

キッチンカーの青年が、こちらを見て笑う。


黒いバイクの男は、椅子に腰掛けたまま、こちらを見ている。何も言わない。ただ、口元をわずかに緩めている。


「モカでいいですか」青年が訊いた。

「お願いします」

「お淹れするまで、少し時間がかかりますけど」

「急いでないんで、大丈夫です」


青年がキッチンカーの中へ引っ込む。豆を挽く音が、小さく聞こえてくる。その音を聞きながら、男の隣の椅子に腰を下ろした。


「さっき、店でバイクを受け取るときに、おやじさんに説教されてしまいましたよ」と言った。

男は、何も言わずに、先を促すようにこちらを見た。


「バイクに乗る以上は全て自分の責任だって。人に頼る前提で乗るなって。そんなの当たり前でしょう。10代の小僧じゃないんだから」


男は、低く笑った。

「それは、ひどいな」

「ひどいでしょ。おまけに高いヘルメットも買わされるし」


「いい店だと思うよ」男は、カップのコーヒーの香りを吸い込みながら言った。

「その言葉の意味は、『だから心して乗れ』ってことだ」


男は、少し間を置いてから続けた。

「バイクというのは、むき出しの体で乗るだろ。車と違って守ってくれるものもない。だから、気持ちいいだけでは済まない。

走っていれば、普段、自分が思っているよりずっと近くに、死があることに気づく。

手や足を無くすことだって、あり得る。それを理解したうえで、自分で選べ。それで乗る理由がなくなるなら、下りればいい。そう言っているんだ」


なるほど、と思った。と同時に、別の思いも湧いてきた。本当に、そこまで決意を固めてから乗るものなのだろうか。単純に、風が気持ちいいとか、走るのが好きだとか、そういう理由では、いけないのだろうか。


言いかけて、やめた。自分で確かめるまでは、何を言っても空回りする気がした。


男も、しゃべりすぎたという顔をして、黙った。

「あなたと話していると、いつも余計なことまで話してしまう気がするな」と、ぽつりと言った。



「この人、語りたがりだから、気にしなくていいですよ」

キッチンカーから、青年が紙コップを持って出てきた。こちらに差し出す。モカの香りが、立ち上る。


青年は自分のコーヒーを手に、クロスカブを見ている。

「いいですね、これ。速いだけがバイクじゃない。ゆっくり走らないと見えないものや、感じられないものもある」


青年は、クロスカブのシートをぽんと叩いた。

「でもね、分かる人には、いずれ分かる。その時まで、死なないようにと思って、おやじたちは世話を焼くんです。たぶんね」



コーヒーを飲み干して、

「また、来ます」と言うと、男がわずかに頷いた。青年が、軽く手を挙げた。


バックミラーに見晴らし台を映しながら、ゆっくり山道を下っていく。日が傾き始めて、樹々の間から斜めの光が差し込んでいた。風は、行きと同じ匂いを、逆の順番で運んでくる。


この町の朝は、何も変わらない。夕方も、何も変わらない。変わらないからこそ、人々は安心して暮らしていける。


だが個人は変わる。変わっても良いはずだ。その変わらない道が、今は少しだけ違って見える。


信号が青に変わる。スロットルをそっと開けると、クロスカブはトコトコと動き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。