不器用な風
「ヘルメットだけは、良いものを買え」
無口な店主は、ほかのことには何も口を出さなかった。だが、通販サイトで買ったヘルメットを見ると、頑として、それではバイクを渡せないと言う。仕方なく、店主に言われた通りに、陳列されていた、アライというメーカーのジェットヘルを買うことにした。
値段を聞いて、少したじろいだが、店主の目は「嫌ならバイクは渡さない」と言っていた。
店主がバイクを駐車場へ押していくのに付いていく。
結局、あの黒い小型のバイクを買ってしまった。ホンダの「クロスカブ」という名前だと知った。車体は黒一色で、サイドカバーだけが濃い赤に塗られている。角張ったデザインに、丸いヘッドライトが付いている。
無骨と言って良い見た目だが、それが気に入った。
シートに跨ると、両足の裏がべったりと地面につく。
キーを回す。ニュートラルを示す緑のランプが点くのを確かめて、セルボタンを押す。セルモーターの回る小さな音がして、エンジンが始動した。ド、ド、ド、という、乾いた規則正しい音。
シフトペダルを、つま先で踏み込むと、カチャッ、と小さい音がしてギアが入った。
恐る恐る、右手のスロットルをひねる。
自動遠心クラッチが作動して、バイクは、トコトコと動き出した。びっくりしてスロットルを戻す。
エンジンの回転は落ちたのに、タイヤはまだ転がろうとしている。慌てて両足を突っ張って、靴底で路面を擦るようにして、なんとか停めた。
停まってから、ブレーキを握ればよかったのだと気づく。
顔を上げると、店の入口に、店主が立っていた。こちらを見ているが、口を出そうとはしない。あれだけヘルメットのことはうるさく言ったくせに、駐車場で、じたばたしているのを見ても、何も言わない。
バイクを買うときに言われた言葉を思い出した。
「たとえバイクに乗るのが初めてでも、バイクに乗る以上は、そこで起こることはすべて自分の責任だ。困っていれば助けてくれる奴はいるだろうが、助けてもらう前提で行動するのは違うだろ」
姿勢を正した。背筋を伸ばして、肩の力を抜く。深呼吸をひとつ。浅く息を吐きながら、そっとスロットルを回す。バイクが、トコトコと動き出す。今度は慌てなかった。ちょっとふらついたが、足は出さずに済んだ。
駐車場をゆっくり横切って、店先の道路に出る。ミラー越しに、店主が背を向けて店の中へ戻っていくのが見えた。
見晴らし台を目指すことにした。今日は、あのキッチンカーが来ているはずだ。
山道に入ると、空気の匂いが変わる。
濃い針葉樹の匂いがする。土の匂い、落ち葉の匂い。車に乗っているときは、窓の外を流れるだけだった空気が、直接、顔にぶつかってくる。
場所によって空気の匂いが違うことに気づく。谷に入ると空気の温度が下がる。小さな坂道を越えるだけで、小さな用水路に架かった橋を渡るだけでも、その都度、空気が変わる。
ひなたの草の匂い。道の端に咲く知らない花の匂い。
時速30㎞くらいしか出ていない。それでも、コーナーの度に緊張が走る。
むき出しの身体が感じるスピード感は、車のフロントガラス越しに感じるそれとは、まるで異なっている事を知った。
恐る恐る走っていく。
ゆっくり走っていると、車では素通りしてしまうものが目に入る。倒れかけた古い標識。舗装の割れ目に生えた草。路肩で草を刈る老人がいて、こちらを見て頷く。片手を挙げて挨拶を返す。
「バイクでしか見えない景色」が何のことかは未だ分からない。だが、なぜか、気分が良かった。
仕事の数字も、書類の山も、どこか遠くへ行ってしまう。ただ、前だけを見て走っている。風をより分けるように、味わうように走った。
見晴らし台に着くと、白いキッチンカーが、停まっていた。のぼり旗が風に揺れている。その隣に、黒いバイクが停まっている。丸目二灯。黒一色の武骨なカウル。タンクの右側に走る、古い傷の修復跡。
その近くにクロスカブを停め、サイドスタンドを下ろす。エンジンを切ると、急に静かになる。風の音と、鳥の声だけが残った。
「本当に買ったんですね」
キッチンカーの青年が、こちらを見て笑う。
黒いバイクの男は、椅子に腰掛けたまま、こちらを見ている。何も言わない。ただ、口元をわずかに緩めている。
「モカでいいですか」青年が訊いた。
「お願いします」
「お淹れするまで、少し時間がかかりますけど」
「急いでないんで、大丈夫です」
青年がキッチンカーの中へ引っ込む。豆を挽く音が、小さく聞こえてくる。その音を聞きながら、男の隣の椅子に腰を下ろした。
「さっき、店でバイクを受け取るときに、おやじさんに説教されてしまいましたよ」と言った。
男は、何も言わずに、先を促すようにこちらを見た。
「バイクに乗る以上は全て自分の責任だって。人に頼る前提で乗るなって。そんなの当たり前でしょう。10代の小僧じゃないんだから」
男は、低く笑った。
「それは、ひどいな」
「ひどいでしょ。おまけに高いヘルメットも買わされるし」
「いい店だと思うよ」男は、カップのコーヒーの香りを吸い込みながら言った。
「その言葉の意味は、『だから心して乗れ』ってことだ」
男は、少し間を置いてから続けた。
「バイクというのは、むき出しの体で乗るだろ。車と違って守ってくれるものもない。だから、気持ちいいだけでは済まない。
走っていれば、普段、自分が思っているよりずっと近くに、死があることに気づく。
手や足を無くすことだって、あり得る。それを理解したうえで、自分で選べ。それで乗る理由がなくなるなら、下りればいい。そう言っているんだ」
なるほど、と思った。と同時に、別の思いも湧いてきた。本当に、そこまで決意を固めてから乗るものなのだろうか。単純に、風が気持ちいいとか、走るのが好きだとか、そういう理由では、いけないのだろうか。
言いかけて、やめた。自分で確かめるまでは、何を言っても空回りする気がした。
男も、しゃべりすぎたという顔をして、黙った。
「あなたと話していると、いつも余計なことまで話してしまう気がするな」と、ぽつりと言った。
「この人、語りたがりだから、気にしなくていいですよ」
キッチンカーから、青年が紙コップを持って出てきた。こちらに差し出す。モカの香りが、立ち上る。
青年は自分のコーヒーを手に、クロスカブを見ている。
「いいですね、これ。速いだけがバイクじゃない。ゆっくり走らないと見えないものや、感じられないものもある」
青年は、クロスカブのシートをぽんと叩いた。
「でもね、分かる人には、いずれ分かる。その時まで、死なないようにと思って、おやじたちは世話を焼くんです。たぶんね」
コーヒーを飲み干して、
「また、来ます」と言うと、男がわずかに頷いた。青年が、軽く手を挙げた。
バックミラーに見晴らし台を映しながら、ゆっくり山道を下っていく。日が傾き始めて、樹々の間から斜めの光が差し込んでいた。風は、行きと同じ匂いを、逆の順番で運んでくる。
この町の朝は、何も変わらない。夕方も、何も変わらない。変わらないからこそ、人々は安心して暮らしていける。
だが個人は変わる。変わっても良いはずだ。その変わらない道が、今は少しだけ違って見える。
信号が青に変わる。スロットルをそっと開けると、クロスカブはトコトコと動き出した。




