疼き
山道で黒いバイクを追いかけて、アクセルを踏み込んだ日から10日が過ぎた。
朝の交差点には、いつものように黒いバイクが現れる。
8時ちょうど。丸目二灯。タンクの右側の古い傷の修復跡。いつものように横断歩道の前で立ち止まり、左へ曲がって消えていくのを見送った。
以前はただの見慣れた風景だった。だが今は、あの静けさの奥に、隠された緊張を感じる。抑え込まれた力が、静かに身を伏せているような、そんな気配だ。
静かに走っていくバイクが、本当は獰猛な黒い獣であることを知ってしまったのだ。
山道で聞いた咆哮が、まだ胸のどこかに残っている。
あれは、何者にも束縛されない、自由な獣の咆哮だった。
事務所に着くと、いつものように補助金と融資の相談に対応する。同じ相談者が、同じ相談を、数年おきに繰り返す。だが、その日は一つだけ違った。
「課長さん、俺ももう五十なんでね。思い切って工場を閉じることにしたよ」二代目の言葉に驚いた。
以前から金属加工工場を買い取りたいという話があることは聞いていたが、二代目がそれを受けるとは思っていなかった。ところが、もう取引先の了解ももらっており、仕事の引き継ぎの話も進んでいるのだという。
「値段もね、思ってたよりずっと良かったんです。こっちは古い町工場だし、二束三文に買い叩いてくるんだろうと思ってたんだけど」
二代目は、机の上の湯呑みに手を伸ばしながら言った。
「従業員も、そのまま引き取ってくれることになって。そこが一番でかかったですね」
言いながら、どこか肩の力が抜けたような、さっぱりした顔をしている。
「じゃあ、しばらくはゆっくりできそうですね」
そう言うと、二代目は笑って首を振った。
「どうだろうな。とりあえず女房と旅行でも行くつもりです。温泉でも行って、うまいもん食って、何もしないで何日か過ごせたらそれで十分かなと思ってます」
「そのあと、何か考えてるんですか」
二代目は少し黙った。窓の外の、白くなりはじめた換気扇の煙を見たまま、口元だけで笑う。
「まあ、ひとつだけ。昔からやりたかったことがあって」
「工場とは、関係ないことですか」
「関係ないですね。親父には言えなかったし、たぶん女房にも、ちゃんとは言ってない」
そこで言葉を切る。言いかけて、やめた、という感じではなかった。そこまでは話すつもりがないのだと分かった。
「今さら、って気もするんですけどね」とだけ言う。
「今さらでも、いいんじゃないですか」と返すと、しばらくこちらの顔を見てから、
「そうですね。今さらでも、いいのかもしれないな」と笑う。
つられて笑いながら、いつの間に刺さったのか、胸の奥に棘の痛みを感じていた。
その日の帰り道、川沿いの通りを歩いていた。家へ帰るには遠回りだったが、まっすぐ帰る気になれなかったのだ。
薄く流れる川の風を感じながら歩き続ける。十月の川は、夏の終わりの空気を帯びて、鈍く光っていた。
川に面して、小さな建物があった。一階はスチールの扉、二階の窓に、シンプルな看板が掛かっている。建築設計事務所、と読めた。
その前に、黒いバイクが停まっていることに気づいた。丸目二灯。黒一色の武骨なカウル。タンクの右側に走る、古い傷の修復跡。
二階の窓に明かりがついている。人影が、図面を覗き込んでいるのが見えた。
その夜はなかなか寝付けなかった。布団の中で長いこと天井を見つめていた。
「最近、変よ。上の空で」
「そうかな」
「何か、あったの?」
「何も」
妻の問いに、適当に答える。
頭の中では、あの黒いバイクが、コーナーを深くバンクして消えていく背中が、何度も繰り返されていた。
あの時に感じた高鳴りは何だったのだろう。それを知りたいと思った。
そこに二代目の妙にさっぱりした顔が浮かんでくる。




