表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三十二才、お払い箱からのマザコン駆除日記  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/6

第5章:運命の社内コンペ、完全なる逆転劇

◆運命の朝、静かなる闘志


三十二歳の誕生日から、半年が過ぎていた。

あの夜、すべてを失ったと思った自分が、今日、これまでの人生で最も重要な戦いに挑もうとしている。運命とは、皮肉なものだと、紡は思った。

コンペ当日の朝、紡はいつもより早く出社した。街はまだ薄暗く、始発電車の窓には、紡自身の緊張した顔が映り込んでいた。窓のない地下オフィスに一人、静かに座っていると、やがて航がやってきた。

誰もいないオフィスで、紡は静かに、これまでの半年間を振り返っていた。非常階段でうずくまって泣いた日。律子と踊り狂った夜。航に「噂のドロ沼さん」と切り捨てられた初対面。深夜のオフィスで見つけてもらった、あの手書きのノート。数えきれないほどの文具店を巡った日々。

そのすべてが、今日この日のためにあったのだと、紡は静かに実感していた。

「緊張してます?」

「してる。でも、悪い緊張じゃない」

紡はそう答えると、鞄からプレゼン資料の束を取り出し、丁寧に並べ直した。表紙には『お一人様用・リセット日記』の文字と、航が仕上げた洗練されたロゴが並んでいる。半年前の自分が見たら、きっと信じられないような仕上がりだった。

手が震えているのに気づき、紡はそっと自分の手のひらを見つめた。武者震いなのか、緊張なのか、自分でもよくわからなかった。だが、この震えは、あの誕生日の夜に感じた、絶望からくる震えとは、明らかに違う種類のものだった。

窓のない部屋の壁時計は、午前八時を指している。あと二時間で、すべてが決まる。

「藤瀬さん」

航が、珍しく真剣な声で言った。

「今日まで、よくやりましたね」

「一ノ瀬くんがいなかったら、ここまで来られなかった」

紡が微笑むと、航は照れ隠しのように視線を逸らし、タブレットの中身を確認し始めた。そこには、律子から届いた証拠写真と、航自身が記録した不正アクセスのログが、静かに出番を待っていた。

その時、紡のスマートフォンが震えた。律子からのメッセージだった。

『今日、絶対に勝ちなさいよ。あんたなら大丈夫。全力で応援してる』

メッセージと共に、律子は一枚の画像も送ってきていた。彼女が徹夜で作ったという、紡と航の名前が入った、お守り代わりのネイルチップの写真だった。

『これ、心の中で握りしめて、頑張ってきなさい』

くだらないと分かっていても、紡は思わず頬を緩めた。こんな時でも、笑わせてくれる親友の存在が、何よりの支えだった。

短い一文に、紡は静かに勇気づけられた。一人じゃない。そう思うだけで、震えていた指先に、少しずつ力が戻ってくるのを感じた。

「行きましょうか」

二人は資料を抱え、大会議室へと向かった。廊下を歩いていると、向こうから見覚えのある人物が歩いてきた。かつて紡の訴えを門前払いにした、企画開発部の部長だった。

「あ……藤瀬さん」

部長は気まずそうに視線を泳がせた。今日のコンペで紡の企画が役員の目に留まっていることは、当然、彼の耳にも入っているのだろう。

「今日は、頑張ってくれ」

それだけ言うと、部長は逃げるように足早に去っていった。紡はその背中を、感情のこもらない目でしばらく見送った。あの日、真実を訴えても取り合ってもらえなかった記憶は、まだ胸の奥に鈍い痛みとして残っている。だが今の紡には、それを蒸し返している暇はなかった。

「気にしないでください」

隣を歩く航が、ぽつりと言った。

「今日、全部ひっくり返すんですから」

紡は小さく頷くと、大会議室の扉の前に立った。

扉の前で、紡は航と顔を見合わせた。

「最後に確認です。プレゼン中、僕が指示するまで、証拠のタブレットには触れないでください。タイミングが命なので」

「うん、わかってる。全部、一ノ瀬くんに任せる」

紡が頷くと、航は珍しく緊張した面持ちで、深く息を吸い込んだ。

「じゃあ、行きましょう」

二人は同時に、大会議室の重い扉を押し開けた。


◆駿介のドヤ顔プレゼン


大会議室には、社長を筆頭に役員陣がずらりと顔を揃え、企画開発部の社員たちも固唾を飲んで見守っていた。窓から差し込む朝の光が、長いテーブルを照らし、居並ぶ役員たちの緊張した表情を浮かび上がらせている。独特の緊張感が張り詰める中、先に壇上に立ったのは駿介だった。

「これこそが、現代の働く女性が真に求めていたものです」

駿介は自信満々に、盗んだ『機能性手帳』のプレゼンを披露していく。見栄えの良いスライド、滑らかな話しぶり。表面だけを取り繕う技術に関しては、確かに彼は優れていた。

「働く女性が本当に必要としているのは、スケジュール管理とタスク管理を一元化できる、機能性です。デザインも、オフィスシーンに馴染む、洗練されたトーンでまとめました」

スクリーンには、洗練されたモノトーンの表紙デザインと、細分化されたスケジュール欄のレイアウトが映し出される。誰の目にも、優秀なビジネスパーソン向けの、隙のない商品に見えた。

「質問してもいいかね」

役員の一人が手を挙げた。

「この手帳の想定価格帯は?」

「二千円前後を予定しています。競合他社と比較しても、十分な競争力があるかと」

駿介は淀みなく答えた。用意していた想定問答の範囲内だったのだろう。役員たちは満足げに頷いた。

「ターゲットの年齢層は?」

別の役員が重ねて尋ねる。

「二十代後半から四十代の、キャリア志向の女性を想定しています。特に管理職を目指す層に響くデザインを意識しました」

淀みなく答える駿介の姿に、役員たちは、次第に感心したような表情を浮かべ始めていた。誰もが、この企画が駿介自身の緻密な分析の賜物だと、微塵も疑っていなかった。

「私の綿密なリサーチの結晶です」

役員たちは深く頷き、拍手を送る。駿介は満足げな笑みを浮かべながら壇上を降りると、席へ戻る途中、紡とすれ違いざまに耳元で囁いた。

「データ、消えてて災難だったね。まぁ、諦めて僕の引き立て役になりなよ」

自分が幾晩もかけて練り上げたコンセプトが、駿介の口から、まるで自分自身のひらめきであるかのように語られるのを聞きながら、紡の内側には、静かな怒りが積み重なっていった。だが今は、それを表に出す時ではない。

紡は表情を変えなかった。だが内心では、(本当に、これでいいのだろうか)という一抹の不安が、胸をよぎっていた。半年間の努力のすべてを、この数十分に賭けている。失敗すれば、もう後がない。

だが、その不安を打ち消すように、律子の言葉が脳裏に蘇った。『あんたの企画は、誰かに評価されるために作ったわけじゃない』。そうだ、勝ち負け以前に、この企画には、紡自身の想いが込められている。それだけで、十分な価値があるはずだった。

それでも、紡は深呼吸をひとつすると、静かに、これから始まる自分たちの番を待った。


◆紡と航の逆転劇、罠が発動する


続いて、紡と航が壇上に立った。スクリーンに映し出された『お一人様用・リセット日記』のデザインに、会議室の空気が一変する。

「本企画は、恋に破れ、仕事に疲れ、それでも明日を生きていかなければならない、すべての大人の女性のためのものです」

紡は、鞄から実際の試作品を取り出すと、役員たちの前を回るようにして、一冊ずつ手に取ってもらった。ページをめくる音、表紙の手触りを確かめる仕草。実物を手にした役員たちの表情が、次第に真剣なものへと変わっていくのを、紡は感じ取っていた。

紡は、これまでの日々を思い起こしながら、落ち着いた声で説明を続けた。

「既存の日記帳の多くは、予定管理や目標達成のためのものです。しかし私たちが実際に街頭で行った十五人へのインタビューでは、多くの女性が『何もしなくていい五分間』を、日々の中で持てずにいることがわかりました。本企画は、その空白の五分間を、そっと肯定するための日記帳です」

航が続けて、装丁のこだわりを説明する。

かつて「僕、興味ないので」と紡を突き放していた航が、今は堂々と壇上に立ち、自信を持って自分の仕事を語っている。その変化に、紡は密かに胸を打たれていた。

よく見ると、資料を持つ航の指先が、微かに震えていた。紡以外は誰も気づかないであろう、その小さな緊張の証に、紡は思わず頬を緩めた。この年下の同僚もまた、精一杯の勇気を振り絞っているのだと、伝わってきたからだ。

「カバーには、涙の水滴が落ちても弾く撥水加工の生地を採用しています。価格帯は千五百円前後。誰もが気負わず手に取れる、けれど手にした瞬間、自分を大切にしていいと思える一冊を目指しました」

洗練された装丁、丁寧に練られたコンセプト、そして地道な裏付けデータ。役員たちの間から、感嘆の声が漏れ始める。

「量産体制については、どう考えている?」

別の役員からの質問に、航が即座に答えた。

「初回ロットは五千部を想定しています。既存の印刷ラインを活用できるため、追加設備投資はほぼ不要です。納期は発注から約六週間を見込んでいます」

淀みない回答に、役員たちは顔を見合わせ、頷き合った。

「ターゲット層への訴求方法は?」

「SNSでの体験談投稿キャンペーンと、書店・雑貨店とのタイアップを予定しています。試作段階から、実際のユーザーの声を反映させてきたので、共感を呼びやすい訴求ができると考えています」

紡が答えると、常務は満足げに頷いた。

会議室の隅に座っていた、まだ入社数年目という若手役員秘書が、思わずといった様子で小さく呟いた。

「私も、こういうノート、欲しいです……」

その一言に、周囲から小さな笑いが漏れた。硬い雰囲気だった会議室に、初めて温かい空気が流れた瞬間だった。

「なるほど、これは……確かに新しい切り口だな」

常務が身を乗り出しながら呟いた。

別の役員も、感心したように頷いた。

「うちの商品ラインナップには、こういう視点、確かになかったな。若い女性社員たちの間で話題になっているというのも頷ける」

さらに別の役員が、試作品のページをめくりながら、感慨深げに呟いた。

「私の妻にも、こういうものがあれば良かったのかもしれないな。仕事と家庭の両立で、随分と無理をさせていた気がするよ」

その言葉に、会議室の空気が、さらに柔らかいものへと変わっていった。

企画開発部長までもが、驚いたような表情で紡たちの資料に見入っていた。

しかし、その空気を破るように、駿介が勢いよく立ち上がった。

「異議あり! 社長、藤瀬くんの企画は、私の『機能性手帳』のレイアウトや構成を流用した、明らかな盗作です!」

会議室が、一瞬にしてざわめいた。

「うむ、確かに似ている部分があるな……」

役員の一人が呟く。駿介はその反応に勢いを得たように、さらに畳みかけた。

「そもそも、藤瀬くんと私は交際していた仲です。企画の初期段階から、多くのアイデアを共有していました。今回の『リセット日記』も、私との会話の中で生まれたヒントを、無断で流用したものである可能性は十分にあります」

もっともらしい口ぶりだった。事実の断片を巧みに織り交ぜた駿介の主張に、役員の何人かが、疑わしげに顔を見合わせる。

「言われてみれば……お二人は、元々そういう関係だったと」

常務が、困惑した様子で紡の方を見た。

「そうでしょう? 皆さんもわかっていただけますよね。この程度の企画、僕たちの間では、日常的に話していたようなアイデアなんです」

駿介は、さらに自信を深めたように、余裕の笑みを浮かべた。

紡の心臓が、ドクンと跳ねた。掌に、じんわりと汗が滲む。半年かけて積み上げてきたものが、たった数十秒の口先だけの主張で、揺らごうとしていた。

会議室の隅に座っていた、かつての同期や後輩たちの視線が、紡に集まる。あの日、紡から距離を置いた人々の顔にも、今、緊張と困惑が浮かんでいた。

(ここで、退くわけにはいかない)

脳裏に、雨の中、傘も差さずに文具店から文具店へと駆け回った日々や、深夜のオフィスで航と何度も議論を重ねた記憶が、駆け巡った。あの積み重ねを、口先だけの主張に負けさせるわけにはいかない。

紡は静かに息を整えると、まっすぐに前を見据えた。待ってましたとばかりに勝ち誇る駿介に向かって、紡は落ち着いた声で切り出した。

「高坂さん、そう仰ると思いました」

「な、なんだ」

「ではお聞きします。その手帳の、三月のスケジュール欄にある製造コストの計算式、そのまま量産に適用できますか?」

会議室に、一瞬、戸惑いの空気が流れた。何人かの役員が、質問の意図をすぐには飲み込めない様子で、互いに顔を見合わせている。

「えっ? あ、あたりまえだろう! 僕が計算したんだから!」

駿介は、勢いのまま答えた。だが紡は、ゆっくりと首を横に振った。

「いいえ、無理です」

紡の声が、静かな会議室に落ち着いて響く。

「なぜなら、高坂さんが発表されたデータは、私が数ヶ月前に破棄した、計算式に致命的なバグと欠陥がある、二世代前の古いデータですから。ご自身で計算されたなら、そのバグに気づかないはずがありませんよね?」

「な……なんだと……!?」

駿介の顔から、みるみる血の気が引いていく。会議室のあちこちで、ようやく事態を飲み込んだ役員たちが、はっと表情を変えた。

「そ、それは……たまたま古いファイルを参照しただけで……計算式自体は、僕がちゃんと確認して……」

駿介の額から、玉のような汗が流れ落ちた。ネクタイの結び目に手をかけ、無意識のうちに緩めようとする仕草が、彼の動揺を何より雄弁に物語っていた。

しどろもどろに言い訳を並べる駿介に、紡は追い打ちをかけるように続けた。

「では、正しい計算式で量産した場合の原価率は、いくらになりますか? 今この場で、即答できますか」

「そ、それは……」

駿介は答えられなかった。額に汗を浮かべ、視線を泳がせるだけだった。

会議室に、重い沈黙が落ちた。誰も言葉を発さない。企画開発部の部長が、気まずそうに目を伏せているのが、紡の視界の端に映った。あの日、紡の訴えを門前払いにした彼の表情には、今、静かな後悔の色が浮かんでいた。

やがて、部長が静かに口を開いた。

「……私からも、一言よろしいでしょうか」

全員の視線が、部長に集まる。

「以前、藤瀬くんから、この件について相談を受けたことがあります。当時の私は、それを取り合いませんでした。ですが、今思えば、あの時の藤瀬くんの訴えは、真剣そのものでした。私の判断は、誤っていたと思います」

部長の言葉に、紡は思わず目を見開いた。まさか、この場で、彼がそんな発言をするとは、想像もしていなかった。

社長は、厳しい表情で頷いた。

「その件については、後ほど詳しく報告してもらう。だが、今、事実がこうして明らかになったことは、何よりだ」

その沈黙を破るように、常務が低く呟いた。

「高坂くん……計算式のことは、置いておくとしても」

常務の口調が、明らかに変わっていた。

「不正アクセスの件については、どう説明するつもりだ」


◆不正アクセスの証拠、突きつけられる真実


紡が航に目配せすると、航は小さく頷き返した。その瞳には、これまでの半年間を共に戦ってきた者だけがわかる、確かな連帯感が宿っていた。航はすぐさまタブレットを操作し、スクリーンを切り替えた。

そこに映し出されたのは、コンペ前夜、駿介の社内アカウントおよび私用デバイスから、紡の旧アカウントを使って不正アクセスが行われ、共有フォルダのデータが改ざん・破損されたことを示す、タイムスタンプ付きのアクセスログだった。

「泥棒は、どちらでしょうか」

紡の凛とした声が、会議室に響き渡る。

「な、なにを馬鹿な……! これは、紡が僕を陥れるために仕組んだ罠で――」

「罠なら」紡は静かに言葉を重ねた。「高坂さんが、私の旧アカウントを不正に使って侵入してこなければ、そもそも成立しません」

「ま、待て、これはただの確認作業だ! 社内のデータに目を通すこと自体は、別に犯罪じゃないだろう!」

駿介が、なおも食い下がった。その言葉に、一瞬、役員の一人が「まあ、社内データへのアクセス自体は……」と口を開きかけた。

だが、航が静かにそれを遮った。

「アクセスされた時刻は、深夜二時十七分。しかも、藤瀬さんの現行データが保存されていた共有フォルダに、この時刻からわずか三分後、ウイルスを含む上書きファイルが送り込まれています。確認作業なら、なぜデータを破壊する必要があったんでしょうか」

駿介は、その質問に何も答えられなかった。ただ、口をぱくぱくと動かすだけだった。

「そ、そのタブレットのデータだって、いくらでも捏造できるだろう! 藤瀬と一ノ瀬が、グルになって僕を陥れようとしてるんだ!」

駿介は、最後の抵抗とばかりに、声を張り上げた。

だが、そこに、常務が静かに割って入った。

「高坂くん、社内のサーバーログは、情報システム部が独立して管理しているものだ。個人が改ざんできる代物じゃない。それくらいは、君も知っているだろう」

情報システム部出身でもある常務の一言に、駿介の顔から、完全に血の気が引いた。もう、どんな言い訳も、通用しないことを、彼自身が悟ったようだった。

社長が眉間に深い皺を寄せ、駿介を睨みつけた。

「高坂くん、これはどういうことだ!」

それでも、年配の役員の一人が、まだ納得しきれない様子で口を開いた。

「しかし、こうしたデジタルの記録というのは、正直、我々には判断がつきかねる部分もある。何か、もっと明確な証拠はないのかね」

その問いに答えるように、航は静かにタブレットを操作した。

「では、もう一つ、お見せするものがあります」

紡は、覚悟を決めたように、小さく頷いた。いよいよ、最後の切り札を切る時が来ていた。

会議室に、誰も声を発しない、重苦しい静寂が流れた。数秒の沈黙が、これまでのどんな怒声よりも、駿介を追い詰めているように見えた。


◆世界一可愛い最強のママ、大音量で降臨


パニックに陥った駿介は、自分の潔白を証明しようと、ポケットから私物のスマートフォンを取り出し、慌ててプレゼン用のプロジェクターに接続した。

だが、動揺のあまり、彼はスマートフォンの画面がそのまま大スクリーンに「ミラーリング」されていることに気づいていなかった。

その瞬間、静まり返った会議室に、場違いなほど気の抜けた着信音が鳴り響いた。

「ピロリロリ〜ン♪ ピロリロリ〜ン♪」

大スクリーンにデカデカと映し出された発信元の名前――

【世界一可愛い最強のママ】

「ひっ……!」

駿介は焦って通話を切ろうとしたが、手汗で指が滑り、なんとスピーカー通話のボタンを押してしまった。

『もしもし! 駿ちゃん!? 今どこ!? 今日のコンペ、あの行き遅れ紡の手柄は、ちゃんと駿ちゃんのものにできたの!? ママ、心配で昨日の夜も眠れなかったわよ! 終わったらすぐ帰ってきてね、駿ちゃんの大好きなハンバーグ作って待ってるから! あ、そうそう、お隣の奥さんにも、駿ちゃんが今度出世するって自慢しちゃったのよ! だから絶対、失敗しないでよね! ……ちょっと、聞いてるの駿ちゃん!? お返事は!?』

会議室が、凍りついたような静寂に包まれた。三十四歳のエリート社員が、全役員の前で「駿ちゃん」と呼ばれ、母親に泣きついている――その光景に、誰もが言葉を失っていた。

やがて、会議室のあちこちから、失笑にも似た、押し殺した笑い声が漏れ始めた。三十四歳の男が、全役員の前で母親に「駿ちゃん」と呼ばれ、ハンバーグの約束をされている――その光景は、もはや悲劇を通り越して、一種の喜劇と化していた。

「駿ちゃん……だってさ」

「三十四にもなって、ハンバーグて」

役員の一人が、堪えきれないといった様子で、隣の同僚に小声で囁いていた。

「マ、ママ……っ! 切るよ! 今、コンペの真っ最中だから……っ!」

駿介は顔面から血の気が完全に引き、涙目でスマートフォンにしがみついていた。

紡はその光景を、どこか遠いことのように眺めていた。ふと、脳裏に、誕生日のあの夜の光景がよぎる。港区の夜景、シャンパングラス、そして「そろそろ身を固めようか」という声。あの時は、あんなにも眩しく見えた男が、今は目の前で、みっともなく母親にすがりついている。

込み上げてきたのは、勝利の高揚感だけではなかった。五年間という時間を、一体自分は何に費やしていたのだろうという、静かな虚しさが、胸の奥をかすめていった。

だが、航の手は止まらなかった。

「あ、ついでに高坂さんのスマホから、こんな楽しそうなLINEのやり取りも同期で届いてますよ」

スクリーンに次々と、駿介と母親のLINEのやり取りが映し出されていく。

『紡さんの企画、駿ちゃんの実力ってことにしとけば、みんな信じるわよ』 『あの子、頭は悪くないけど、要領悪いから可哀想よね』 『会社の女なんて、駿ちゃんには釣り合わないんだから、早く見切りつけなさい』 『それより、そろそろお見合いの話も進めましょうね。ママが選んだ子なら間違いないから』

画面に映し出される文面の数々に、会議室は水を打ったように静まり返った。誰もが、駿介という人間の"化けの皮"が、完全に剥がれ落ちていく様を、目の当たりにしていた。紡や律子に対する心無い言葉の数々に、会議室からは悲鳴に似たどよめきが上がった。

会議室の後方で、かつて「藤瀬さん、頼りにしてます!」と笑顔で寄ってきていた後輩の女性社員が、両手で口を覆っているのが見えた。彼女もまた、あの噂を信じ、紡から距離を置いていた一人だった。

さらに、律子が命がけで撮影した、駿介が派遣社員の女性とラブホテルから腕を組んで出てくる高画質な写真までもが、大きなスクリーンにドンと並んだ。

「うわぁ……」

「これはひどい……」

「あんな写真まで……」

「もう完全にアウトでしょ、これ」

口々に囁かれる声が、会議室のあちこちから聞こえてくる。同僚たちの間から、ドン引きの声が漏れる。社長は机を強く叩いて立ち上がった。

「高坂くん! 業務妨害、不正アクセス、さらには公私混同! 我が社に君のような人間を置いておくスペースはない! 今すぐ出ていきなさい!」

先ほどまで勝ち誇っていた駿介は、一瞬にして「会社のデータを盗んだ上に、母親に依存し、浮気までしていた男」として、全社員の前で完全に立場を失った。


◆ 圧勝の宣告


会議室の隅では、人事部の担当者が、すでに駿介のもとへと歩み寄っていた。

「高坂さん、本日付けで自宅待機となります。社員証と、貸与しているノートパソコンは、この場でお預かりします」

駿介は、震える手で社員証を差し出した。数分前まで、この会社のエースと呼ばれていた男の手から、その小さなカードが取り上げられる瞬間を、紡は複雑な思いで見つめていた。

「……あの、社長」

会議室はまだ、駿介の醜態の余韻で、ざわついたままだった。だが、紡はその空気を断ち切るように、はっきりとした声で続けた。

紡が静かに声を上げると、社長は驚いたようにこちらを見た。

「僭越ながら、私と一ノ瀬くんの企画について、改めてご判断をいただけますでしょうか」

社長は一瞬、気まずそうな表情を浮かべたが、すぐに真剣な顔つきに戻った。

「ちなみに、藤瀬くん」

社長が、静かに尋ねた。

「君たちの企画の原価計算は、正確なのか」

紡は、迷いなく答えた。

「はい。撥水加工の生地を使用した場合の原価率は、二十八パーセントです。量産ロットによる変動も試算済みで、資料の最終ページにまとめてあります」

即答する紡の姿に、役員たちの間から、感心したようなどよめきが広がった。数字への裏付けの差は、もはや誰の目にも明らかだった。

「もちろんだ。藤瀬くん、一ノ瀬くん、実に見事なプレゼンだった。今回のコンペは、二人の『お一人様用・リセット日記』を、来期の主力企画として正式に採用する」

常務が、紡に向かって小さく頷いた。

「藤瀬くん。正直に言うと、最初にサンプルを見た時から、これは本物だと感じていたよ。地道な努力は、必ず誰かが見ている。今日、それを証明してくれたね」

その言葉に、紡は目頭が熱くなるのを堪えながら、深く頭を下げた。

半年前、地下オフィスに追いやられたあの日、まさかこんな未来が待っているとは、想像もしていなかった。奪われた企画、信じていた恋、築いてきたはずのキャリア――そのすべてを一度は失いかけた自分が、今、こうして自分の力で、新しい何かを掴み取ろうとしている。

会議室に、割れんばかりの拍手が響き渡った。

拍手の中、かつて紡を「情緒不安定」と噂していた後輩の女性社員が、真っ先に駆け寄ってきた。

「藤瀬さん……本当に、ごめんなさい。私、ちゃんと確かめもせずに、酷いこと言って……」

涙ぐみながら頭を下げるその姿に、紡は静かに首を振った。

「もう、いいんです。今は、それより前を向きたいので」

紡の返答は、恨みを込めたものではなく、ただ淡々とした事実だった。だからこそ、その言葉は、後輩の心に、より重く響いたようだった。

少し離れた場所では、かつて「あんまり首、突っ込まない方がいい」と忠告してきた同期の男性社員が、気まずそうにこちらを見つめていた。目が合うと、彼は小さく会釈をした。紡もまた、小さく頷き返した。過去の気まずさよりも、今この瞬間の達成感の方が、紡の心を大きく占めていた。

あの日、紡の訴えを門前払いにした部長が、人混みをかき分けるようにして、紡の元へやってきた。

「藤瀬くん。改めて、謝らせてほしい。それと……よくやった。本当に、よくやった」

部長の声は、心なしか震えていた。かつての気まずさは消え、そこにはただ、純粋な敬意だけが残っていた。

「ありがとうございます」

紡は静かに頭を下げた。過去は変えられない。だが、こうして今、真摯に向き合ってくれる姿勢に、紡は素直に感謝の気持ちを抱いた。

紡は、隣に立つ航と、そっと視線を交わした。半年前、地下の薄暗いオフィスで一人、ノートにアイデアを書き殴っていた自分の姿が、脳裏をよぎる。

あの時は、まさかこんな結末が待っているとは、想像もしていなかった。

会議室の隅では、駿介が人事部の担当者に両脇を支えられるようにして、退室を促されていた。「業務妨害及び不正アクセスの件で、追って懲罰委員会を開く」という社長の言葉が、まだ会議室の空気に重く残っている。

「紡……っ、待ってくれ……!」

駿介がこちらに向かって何か言おうとしたが、人事部の担当者に肩を掴まれ、そのまま連れられていった。かつて五年間、人生を共にしようとした男の、あまりにも小さく、惨めな背中だった。

拍手が鳴り止まない会議室の中、紡はふと、隣に立つ航を見た。半年前まで、互いに口をきくことすらなかった二人が、今はこうして同じ壇上に立っている。

「終わりましたね」

航が小さく息を吐きながら言った。

「うん」

紡は静かに頷いた。だが、不思議と、達成感よりも先に浮かんできたのは、ここまでの道のりを共に歩んでくれた人たちの顔だった。夜通し付き合ってくれた律子。冷たかったはずなのに、いつしか誰よりも頼りになっていた航。

窓のない地下オフィスで始まったこの半年間の物語が、今、鮮やかな逆転劇として幕を閉じようとしていた。だが紡は知っていた。これは終わりではなく、新しい始まりに過ぎないのだと。

紡は静かに視線を外すと、拍手の音の中、まっすぐに前を向いた。拍手が鳴り響く会議室を、紡は航と並んで、しっかりとした足取りで後にした。

会議室を出た紡が真っ先に取り出したのは、スマートフォンだった。律子に、結果を報告しないわけにはいかない。

『律子、勝ったよ。完全勝利』

短いメッセージを送ると、数秒も経たないうちに、返信が届いた。

『は!? まじで!? やったぁぁぁ!!! 今夜、豪華な祝杯あげるわよ、覚悟しときなさい!!』

文字だけなのに、律子の弾けるような喜びが伝わってくるようだった。紡は思わず、声を上げて笑った。

廊下に出ると、航がぽつりと言った。

「藤瀬さん、少しだけ、休憩しませんか。さすがに、僕もちょっと、心臓に悪かったです」

その言葉に、紡は思わず笑ってしまった。いつも冷静沈着な航が見せる、珍しい弱音だった。

「うん、そうだね。少し、休もうか」

自動販売機で買った缶コーヒーを二つ、航が差し出してきた。

「お疲れ様でした、藤瀬さん」

「お疲れ様。……本当に、ありがとう」

缶を受け取りながら、紡は、この半年間の重みを、じんわりと噛み締めた。

窓の外に広がる空を見上げながら、二人は並んで、静かな廊下を歩いていった。まだ何も終わっていない。だが、確かに、大きな一歩を踏み出したのだと、紡は実感していた。

廊下の窓から差し込む午後の光が、二人の影を長く伸ばしていた。あの誕生日の夜、絶望に染まった帰り道とは、まるで違う光景だった。紡は、その光の中を、確かな足取りで歩き続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ