第4章:ママ直伝の妨害工作と、張り巡らされた罠
◆急浮上する企画、常務の決断
「お一人様用・リセット日記」のサンプルは、地下オフィスから静かに、しかし確実に社内へと広がり始めていた。
きっかけは、紡が試作品を見せた総務部の女性社員だった。彼女がそのサンプルを気に入り、同僚に見せ、その同僚がまた別の部署の知人に見せる――そんな口コミの連鎖が、いつしか役員フロアにまで届いていた。
「これ、どこの企画? 今までのうちの商品と全然違う」
「なんか、地下の準備室にいる人が作ってるらしいよ」
「え、あの噂の藤瀬さん?」
そんな会話が、給湯室やエレベーターで、ひそひそと交わされるようになっていった。かつて紡を腫れ物扱いしていた人々の間にも、少しずつ、興味と好奇心が芽生え始めていた。
ある朝、紡が出社すると、デスクの上に、小さな付箋が貼られていた。
『藤瀬さん、頑張ってください。密かに応援してます』
差出人の名前はなかったが、丸みを帯びた優しい文字に、紡は見覚えがあった。かつて紡を避けていた後輩の誰かが、こっそり書いてくれたものかもしれない。人の心は、少しずつだが、確かに動き始めていた。
ある日の午後、紡と航が地下オフィスで作業をしていると、内線電話が鳴った。受話器を取った紡は、相手の言葉に思わず背筋を伸ばした。
「……はい。はい、承知いたしました」
電話を切った紡は、興奮を抑えきれない様子で航に向き直った。
「常務が、直接サンプルを見たいって」
数日後、常務は試作品を手に取り、ページをめくりながら満足げに頷いた。
「面白いじゃないか。次の役員合同コンペで、高坂くんの『機能性手帳』と直接対決させよう」
常務が去った後、地下オフィスに戻った紡と航は、しばらく言葉を失ったまま、互いの顔を見合わせていた。
「直接対決、って言われても……」
紡の声は、興奮と緊張とで、微かに震えていた。
「相手はあの高坂さんですよ。しかも、盗んだ企画をベースにしてる。正直、向こうの方が分がいいように見えるかもしれません」
航が冷静に指摘すると、紡は一瞬黙り込んだ。だが、すぐに顔を上げ、力強く言った。
「ううん。私たちには、あの人にはない『本物』がある。地道に集めたデータも、使う人への想いも、全部本物。負ける気がしない」
紡の瞳に宿る強い光に、航は思わず息を呑んだ。
この決定は、瞬く間に社内を駆け巡った。左遷されたはずの紡が、社の主力企画と正面から競い合う――その一報は、紡を憐れんでいた同僚たちの間にも、小さくない衝撃を与えた。
◆ 駿介の焦り、ママへのSOS
一方、この決定に最も動揺したのは、他ならぬ駿介だった。
藁にもすがる思いで母に助言を求める前、駿介は一度、自力での挽回を試みていた。
インターネットで検索した簡易的な原価計算ツールに、適当な数字を打ち込んでは、それらしい表を作り上げる。だが、付け焼き刃の知識では、業界特有の変動費や、印刷ロットごとの単価変化までは、到底再現できなかった。
「くそ、なんでこんなに複雑なんだよ……」
苛立ちながらパソコンを叩いていると、後輩の一人が通りかかり、画面を覗き込んできた。
「高坂さん、それ、原価計算ですか? あれ、この単価、市場相場よりだいぶ低くないですか?」
「あ、いや、これはまだ仮の数字で……」
駿介は慌てて画面を隠した。冷や汗が背中を伝う。もし今、少しでも突っ込まれたら、すべてが崩れ落ちる。そんな恐怖が、じわじわと駿介の心を蝕んでいった。
彼は自室でスマートフォンを片手に、額に脂汗を浮かべていた。紡から奪った企画データは、確かに見栄えのいいコンセプトシートと、ざっくりとした市場分析だけは揃っていた。だが、量産に必要な詳細な原価計算や、製造ラインごとのコスト試算といった、地道な部分はほとんど手つかずのままだった。紡がその部分を、まだ完成させていない段階でデータを持ち出してしまったからだ。
このままコンペに臨めば、常務や他の役員から突っ込んだ質問をされた瞬間、メッキが剥がれる。
焦った駿介は、まず自分で何とかしようと、深夜まで会社に残り、電卓片手に原価計算に挑戦してみた。だが、紙の厚みや裁断ロス、印刷コストといった専門的な数字の絡み合いに、何度計算しても辻褄が合わない。パソコンの画面に映る、意味不明な数式の羅列を前に、駿介は苛立たしげに頭を掻きむしった。
「こんなの、普段どうやって計算してるんだよ……」
紡が半年かけて身につけた知識とノウハウを、一晩で理解できるはずもなかった。時計の針は、容赦なく深夜零時を回っていく。
「くそっ……どうする……」
追い詰められた駿介が縋ったのは、いつも通り、母親だった。
「ママ、聞いてよ。紡の企画が急に役員の目に留まって、僕の企画と直接対決することになったんだ。だけど、細かい原価計算のデータが、正直まだ足りなくて……」
電話の向こうから、聞き慣れた甲高い声が返ってくる。
『あら大変。でも大丈夫よ、駿ちゃん。あの子、律儀な性格でしょう。きっとパソコンのどこかに、まだ細かいデータを残してるはずよ。もう一度、こっそり中を見てみたらどうかしら』
「でも、前に一度アクセスしたのが、もしバレてたら……」
『大丈夫、大丈夫。証拠さえ残さなければ、誰にもわからないわよ。夜中にこっそりやりなさい。ママが昔、経理の仕事してたから知ってるの。夜中は誰も見てないものよ』
母親の言葉に、駿介は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
『それに、駿ちゃん。負けたら困るのは、ママも同じなんだから。近所の奥様方にも、駿ちゃんの活躍、自慢してるんだもの。恥をかかせないでちょうだいね』
母の言葉に、駿介の胸に、微かな反発心が芽生えた。だが、それを口にする勇気は、もう彼には残っていなかった。
「……わかった。もう一度だけ、確認してみる」
電話を切った駿介の顔には、追い詰められた者特有の、危うい決意が浮かんでいた。
駿介の様子がおかしいことに気づいたのは、後輩だけではなかった。普段から鋭い観察眼を持つ経理部の先輩が、ある日、雑談交じりにこう漏らした。
「高坂くん、最近、根詰めすぎじゃない? 顔色、あんまり良くないよ」
「いえ、大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで」
駿介は愛想笑いで誤魔化したが、内心では、自分を覆う"優秀な社員"という仮面が、少しずつひび割れ始めているのを感じていた。
◆不審なアクセス、航の警告
その頃、地下オフィスでは、航がノートパソコンの画面を険しい表情で見つめていた。
「藤瀬さん、ちょっとこれ、見てもらえます?」
紡が覗き込むと、そこには社内サーバーのアクセスログが表示されていた。
「先週から、藤瀬さんの旧アカウントを使ったログイン試行が、何度か記録されてるんですよね。しかも、大体が深夜。IPアドレスも、社内じゃなくて、外部のものです」
紡の背筋に、冷たいものが走った。旧アカウントというのは、紡が異動する前、企画開発部にいた頃に使っていたIDのことだった。異動時に権限は削除されているはずだが、駿介が交際していた頃に一度だけ、共同作業のためパスワードを教えたことがあったのを、紡は思い出した。
「……駿介だ」
「みたいですね」航は淡々と言った。「多分、コンペに向けて、もっと詳しいデータが欲しいんでしょう。あの人が持ってる企画書、正直、中身がスカスカだって噂ですし」
「これ、いつから?」
紡が尋ねると、航はログの日時を指差した。
「三日前からです。最初は失敗してますけど、昨日、一回だけログインに成功してる形跡があります。多分、パスワードを何度か試して、当たりを引いたんでしょう」
「何か、盗まれた形跡は?」
「今のところ、閲覧履歴だけですね。ただのフォルダ一覧を漁っただけで、ダウンロードまではしてない。多分、求めてるものが見つからなかったんだと思います」
紡は、背筋に冷たいものを感じながらも、同時に、ある種の理解が芽生えるのを感じた。駿介は今、藁にもすがる思いで、紡が残したかもしれない"何か"を探しているのだ。
紡は、拳をぎゅっと握りしめた。一度は根こそぎ奪われたものを、また奪われようとしている。だが今度は――紡の胸に、静かな闘志が湧き上がった。
「一ノ瀬くん。これ、逆に使えないかな」
「逆に、って?」
「向こうが盗みに来るってわかってるなら、盗まれても困らないようにすればいい。ううん、それだけじゃなくて――」
紡の目に、鋭い光が宿った。
「わざと、罠を仕掛けたい」
◆紡の罠、撒き餌の準備
その夜、地下オフィスに残った紡と航は、パソコンの画面を挟んで額を突き合わせていた。
「本物のデータは、社内サーバーから完全に切り離す」
紡が言うと、航は頷いた。
「外部のクラウドに移して、二段階認証つきのフォルダに隔離しましょう。これなら、旧アカウントが乗っ取られても、絶対に触れない」
航は、慣れた手つきでクラウドサービスの設定画面を開くと、二段階認証の設定を進めていく。
「認証コードは、藤瀬さんのスマホにだけ届くようにしておきます。これで、万が一パスワードが漏れても、コードがなければ絶対に開けません」
紡は、その手際の良さに感心した。
「一ノ瀬くん、こういうの詳しいんだね」
「まあ、独学ですけど。デザインだけじゃ食っていけないんで、色々齧ってるんです」
航は事も無げに言ったが、紡は改めて、この年下の同僚の引き出しの多さに、驚かされていた。
「でも、もしこれがバレたら、藤瀬さんの方が処分される可能性だってありますよね」
航が、心配そうに眉を寄せた。
「うん、わかってる。でも、黙って奪われ続けるよりは、リスクを取ってでも戦う方を選びたい」
紡の声に迷いはなかった。その強さに、航は小さく息を吐くと、頷いた。
「わかりました。とことん付き合います」
「うん、お願い。それと、もうひとつ」
紡は、デスクの引き出しから、古びたUSBメモリを取り出した。
「これ、一年前――企画開発部にいた頃に、別の案件で作った原価計算のシートが入ってる。当時、紙の厚みと裁断ロスの計算を間違えて、実売価格で大赤字になりかねなかった、あの致命的なバグ入りのデータ」
「あの、前に話してたやつですか」
「うん。あの後、正しい計算式に直して、バグのある方は使わないようにアーカイブに残しておいたの。あのとき同じ轍を踏まないよう、『機能性手帳』の原価計算をしていたときも、実は最初、似たようなミスをやりかけた」
紡は苦笑しながら続けた。
「一度学んでいたから、自分ですぐに気づいて修正できた。でも、修正前の古いバージョンは、念のためこのUSBに、そのまま残してあるの」
航は、紡の意図を察したように、片方の眉を上げた。
「まさか、それを――」
「うん。あえて、サーバーの古いフォルダに戻しておこうと思う。『藤瀬紡_手帳企画_旧データ』って名前で、いかにもまだ生きてるデータみたいに見えるように」
紡の口元に、これまで見せたことのない不敵な笑みが浮かんだ。
「向こうは、細かい数字が欲しくて必死になってる。もし旧アカウントで忍び込んで、それらしいファイル名の原価計算シートを見つけたら――きっと、中身を確認する余裕もなく、そのまま持っていく」
「バグに気づかないまま」
「そう。もし彼が、あのデータをそのままコンペで使ったら――」
紡は静かに言葉を結んだ。
「それは、彼が自分の力で計算していない、何よりの証拠になる」
航は、しばらく紡の顔を見つめていたが、やがてふっと口の端を上げた。
「藤瀬さんって、思ったより性格悪いですね」
「褒め言葉として受け取っておく」
少しの沈黙の後、紡はふと真顔に戻って言った。
「これ、やりすぎかな。相手を騙すようなやり方、正直、気が引ける部分もある」
航は、意外そうに紡を見た。
「藤瀬さんがそれ言います? 散々な目に遭わされてるのに」
「うん、でも……自分まで同じレベルに落ちたくないというか」
航は少し考えてから、静かに言った。
「これは騙してるんじゃなくて、証明してるだけですよ。藤瀬さんの実力を、彼が自分の力だと偽って奪おうとしてる。それを暴くための罠です。悪いのは、最初に盗んだ方でしょう」
その言葉に、紡は迷いを振り切るように、小さく頷いた。
「……そうだね。ありがとう」
その夜、二人は本物の企画データを外部クラウドへ移し終えると、旧アカウントの権限がまだ生きているフォルダに、バグ入りの古い計算シートを静かに戻した。まるで何事もなかったかのように、社内サーバーの片隅に置かれたそのファイルは、罠だとは誰にも気づかれないよう、慎重に偽装されていた。
◆律子、単独潜入捜査
その週末、律子は仕事終わりに、こっそりと駿介の会社近くで張り込みを始めていた。
きっかけは、紡から聞いた、あの誕生日の夜の「しゅんぴー」LINE事件だった。あんな薄っぺらい男が、まだ懲りずに女性関係を続けているに違いない――そう踏んだ律子は、ネイルサロンの常連客で、探偵事務所に勤めているという女性から、こっそり尾行のコツを教わっていた。
「基本は、絶対に目を合わせないこと。あと、スマホのカメラは音を消しておくこと」
その教えを胸に、律子はビル街の物陰から、駿介が退社する様子をじっと見張った。一日目は空振り。二日目も、駿介はまっすぐ帰宅しただけだった。
それどころか、二日目には、律子自身が不審者と間違われ、駿介の会社のビル警備員に声をかけられるというハプニングもあった。
「あの、何かご用でしょうか」
「あ、いえ、その……友達を待ってるだけです!」
律子は慌てて誤魔化し、その場を後にした。心臓がバクバクと鳴っていた。
「はぁ……こんな地味な作業、やってられないんだけど」
愚痴をこぼしながらも、律子は諦めなかった。紡があれだけ傷つけられたのだ。生半可な気持ちで終わらせるつもりはなかった。
三日目の夜。駿介は、会社を出ると、いつもとは違う方向へ足を向けた。律子は距離を保ちながら、その後を追う。駅前の居酒屋で、見覚えのある若い女性と合流する駿介の姿が見えた。あの、誕生日の夜にLINEを送ってきた派遣社員だった。
二人は親密な様子で店に入っていく。律子は、通りの向かいのカフェに陣取り、辛抱強く待った。
二時間ほど経った頃、店から出てきた二人は、腕を組みながら、路地の奥にあるラブホテルへと吸い込まれていった。
「……見つけた」
律子は震える指でスマートフォンを構え、シャッター音を消した状態で、何枚も写真を撮り続けた。日付と時刻が自動で記録される設定にしてあったことを、律子は心の中で自分を褒めた。
証拠を撮り終えた律子は、その場を離れながら、静かに呟いた。
「紡、待ってなさい。最高の置き土産、用意してあげるから」
◆ 律子の潜入捜査、決定的な証拠
「紡、あんた聞いて驚かないでよ」
その晩、紡のスマートフォンに、律子から電話がかかってきた。声には、抑えきれない興奮と、どこか勝ち誇ったような響きがあった。
「今夜、ついに決定的な瞬間を押さえたわ」
律子はスマートフォンで撮影した写真を、次々と紡に送ってきた。そこには、駿介と派遣社員の女性が、腕を組みながらラブホテルから出てくる、鮮明な写真が写っていた。時刻も日付も、しっかりと記録されている。
「これ……」
「証拠写真ってやつよ。あんたの結婚を壊した挙句、あんたの企画まで盗んだクズには、これくらいの制裁は当然でしょ」
律子の声には、親友を傷つけられたことへの、静かな怒りが滲んでいた。
「一ノ瀬くんのタブレットに、全部データ送っておいたから。あんたたち、上手いこと使いなさい」
「律子……ありがとう」
紡の声が震えた。感謝の気持ちと同時に、こんなにも自分のために動いてくれる友人がいることへの、温かい感動が込み上げてくる。
「お礼はいいから、コンペで絶対に勝ちなさいよ。私、当日は仕事の合間にこっそり結果聞くんだから」
律子はそう言って、明るい声で電話を切った。
◆前夜のサイバー攻撃、罠の発動
コンペ前夜。誰もいなくなったオフィスビルに、駿介の姿があった。
心臓が痛いくらいに脈打っていた。もし誰かに見つかったら、言い訳のしようがない。だが、後に引くことはできなかった。コンペで醜態を晒すことに比べれば、今この瞬間のリスクなど、取るに足らないものに思えた。
母親の助言通り、深夜を選び、人目を避けて忍び込んだ彼は、以前一度だけ使ったことのある紡の旧アカウントで、社内サーバーへとログインした。
「……あった」
フォルダの中に見つけたのは、『藤瀬紡_手帳企画_旧データ』という名前のファイルだった。開いてみると、確かに詳細な原価計算のシートが並んでいる。駿介の顔に、安堵の笑みが広がった。
「これだ……これがあれば、明日は乗り切れる」
一瞬、ファイルの中身を詳しく確認しようかとも思った。だが、時刻はすでに深夜二時を回っている。悠長に検証している時間の余裕は、駿介にはなかった。
彼は中身を精査することもなく、そのままファイルを自分のUSBにコピーした。次に、紡の企画データが保存されているはずの共有フォルダを開くと、あらかじめ用意していたウイルス入りのファイルを上書きし、データを完全に破損させた。
「フハッ……これで、明日のプレゼンは僕の独壇場だ」
駿介は、誰もいないオフィスで、一人満足げに笑い声を漏らした。ここまですれば、もう負けることはない。紡の顔が屈辱に歪む様を想像すると、罪悪感どころか、むしろ愉快な気持ちさえ込み上げてきた。
暗いオフィスの中、駿介は邪悪な笑みを浮かべながら、静かに立ち去っていった。
彼は知る由もなかった。自分が今しがた盗み出したデータが、紡と航が周到に用意した「撒き餌」であることも――そして、本物の企画データは、とうの昔に、彼が決して触れることのできない場所へと移されていたことも。
◆決戦前夜、静かなる確信
翌朝、出社した紡と航は、サーバーの共有フォルダを開いた瞬間、思わず顔を見合わせた。
画面いっぱいに表示されたのは、無数のエラーメッセージと、文字化けしたファイル名の羅列だった。昨夜まで確かにあったはずのデータが、跡形もなく破壊されている。だが、二人の表情に、動揺の色はなかった。
「予定通り、来ましたね」
航が画面を見ながら言うと、紡は静かに頷いた。
「うん。あとは、彼があの古いデータを、そのまま使うかどうか」
「使うでしょう。時間がなさすぎて、確認する余裕なんてなかったはずです」
航は、アクセスログを確認しながら、確信を持って言った。
「見てください。昨夜二時十七分、旧アカウントで『藤瀬紡_手帳企画_旧データ』のファイルが、確かにダウンロードされてます。予定通り、罠にかかりましたね」
紡は、そのログを見つめながら、静かに息を吐いた。長かった策略が、ついに動き出した瞬間だった。
紡は深く息を吸い込むと、窓のない地下オフィスの天井を見上げた。
その日の夕方、紡と航は、明日のプレゼンに向けて、最後のリハーサルを行っていた。
「じゃあ、もう一回、頭から通しでやってみましょう」
航の指示に、紡は頷くと、資料をめくりながら説明を始めた。市場調査のデータ、コンセプトの核心、デザインの意図――何度も練習を重ねてきた言葉が、次第に淀みなく口から出るようになっていた。
「いいですね。声のトーンも、落ち着いてて説得力あります」
航の評価に、紡は少しほっとした表情を浮かべた。
プレゼン資料の最後には、実際に街頭で集めた声を、いくつか匿名で引用したスライドも用意されていた。
『子どもが寝た後、自分の時間なんて何年も持ててない』 『忙しい毎日の中で、自分を労わる時間が欲しい』
生の声を並べたそのページを見て、航はぽつりと言った。
「このページ、一番刺さると思います。数字じゃ動かない人も、これなら心が動く」
紡は、深く頷いた。半年前は言葉にできなかった想いが、今、確かな企画書という形になっていた。
航が、紡の肩にそっと手を置いた。
「明日、絶対に上手くいきますよ」
いつになく優しい声に、紡は少し驚きながらも、頷いた。
「うん。一ノ瀬くんが隣にいてくれるだけで、心強い」
「役者は揃った」
律子が命がけで手に入れた浮気の証拠。航が用意した不正アクセスのログ。そして、紡自身が仕掛けた、バグ入りの罠。
明日のコンペで、これまで奪われてきたすべてを――紡は静かに、しかし確かな決意を込めて、取り戻すつもりだった。
窓のない地下オフィスの天井を見つめながら、紡は静かに目を閉じた。半年前、あの誕生日の夜、すべてを失ったと思った自分に、今の紡は伝えたかった。
――大丈夫。ちゃんと、取り戻せるから。
明日は、長かった逆転劇の、最後の総仕上げになる。
帰宅した紡は、久しぶりに、鏡の前でゆっくりと自分の顔を見つめた。あの誕生日の夜、絶望に染まっていた顔は、もうそこにはなかった。代わりにあったのは、多くの人に支えられ、自分の足で立ち上がった、一人の女の顔だった。
『明日、頑張って。応援してる』
律子からの短いメッセージに、紡は静かに微笑んだ。
『ありがとう。絶対に、勝つから』
そう返信すると、紡はスマートフォンを置き、静かに目を閉じた。




