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三十二才、お払い箱からのマザコン駆除日記  作者: 久遠 睦


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第3章:這い上がる女の意地、溶け出す氷

◆一人きりのリサーチ、注がれる憐れみの視線


窓のない地下オフィスに配属されて一週間。紡は毎日、朝一番に出社し、誰よりも遅くまで残っていた。

始発に近い電車に揺られて出社し、まだ誰もいない薄暗いオフィスの電気をつける。それが、紡の新しい日課になっていた。静まり返った部屋で一人、パソコンに向かう時間は、孤独ではあったが、同時に、誰にも邪魔されずに考えを整理できる、貴重な時間でもあった。

新規事業準備室に課せられた表向きの仕事は、「将来的な新規事業の種を探ること」という、あってないような曖昧な業務だった。実質的には、飼い殺しに近い。だが紡は、この曖昧さをむしろ利用することにした。

――お一人様用・リセット日記。

恋に破れ、仕事に疲れ、それでも明日を生きていかなければならない大人の女性が、夜のわずか五分間で自分自身を「リセット」するための日記帳。頭の中に浮かんだそのアイデアを、紡はノートに書き殴り始めた。

「誰も私の味方をしなくたって、私の十年のキャリアは嘘をつかない」

そう自分に言い聞かせながら、紡は仕事終わりに毎晩のように文具店や雑貨店を巡った。渋谷、代官山、下北沢。ターゲットとなる三十代女性が実際に足を運ぶ店を回り、棚に並ぶ日記帳やノートを手に取っては、装丁や紙質、ページ構成をひとつひとつ確認していく。時には、レジに並ぶ客に思い切って声をかけ、簡単なアンケートをお願いすることもあった。

「すみません、突然なんですが、少しだけお時間よろしいですか」

見ず知らずの人に声をかけるのは、決して得意なことではなかった。だが、紡は臆さなかった。企画開発部にいた頃の自分なら、こんな泥臭いやり方は選ばなかったかもしれない。けれど今の紡には、失うものはもう何もなかった。

ある日、代官山の小さな文具店で、紡は年配の女性店主から声をかけられた。

「お姉さん、さっきからずっと熱心にノート見てるわね。何か探し物?」

紡が今作っている企画について簡単に説明すると、店主は懐かしそうに目を細めた。

「私も昔、仕事と子育てでいっぱいいっぱいだった時期があってね。あの頃、自分のためだけの時間なんて、一分だってなかったのよ。そういう商品、今の若い人にこそ必要かもしれないわね」

見ず知らずの紡の話に、真剣に耳を傾けてくれたその店主の言葉は、紡の中で、確かな手応えとして残った。この企画は、間違っていない。そう思わせてくれる、小さいけれど大切な出会いだった。

別の日、下北沢の路上で声をかけた三十代の女性は、小さな子どもを抱えながら、疲れた声でこう答えた。

「自分の時間なんて、もう何年も持ててないです。子どもが寝た後、やっと座れると思ったら、そのまま寝落ちしちゃって。日記なんて書く余裕、正直ないですね」

その言葉に、紡ははっとさせられた。忙しい人ほど、自分を労わる時間を持てない。だからこそ、たった五分で完結する仕組みが必要なのだと、改めて確信した。この一言は、後にコンセプトシートの核となる、大切な一文となった。

店頭調査と並行して、紡は競合となりうる商品もすべて洗い出していった。大手文具メーカーが展開する人気の手帳シリーズ、海外ブランドのおしゃれなノート、SNSで話題のステーショナリー――片っ端からリサーチノートに書き出し、それぞれの強みと弱みを分析していく。夜遅く帰宅した後も、紡はベッドの中でスマートフォン片手に、競合分析を続けた。

もちろん、すべての人が親切だったわけではない。渋谷のスクランブル交差点近くで声をかけた女性には、迷惑そうな顔で「忙しいので」と一蹴されたこともあった。断られるたびに、紡の心は少しずつすり減っていった。それでも、紡は歩みを止めなかった。

社内では、相変わらず紡に対する冷ややかな視線が付きまとっていた。エレベーターですれ違った元同僚が、小声で「かわいそうに、まだ窓際で悪あがきしてるんだって」と囁いているのが聞こえたこともある。紡はその声に、あえて振り返らなかった。振り返ったところで、何かが変わるわけではない。今の紡にできることは、ただ前を向いて手を動かし続けることだけだった。

ある日の昼休み、資料を取りに一階のロビーへ向かった紡は、ちょうど打ち合わせを終えたばかりの駿介と鉢合わせした。

「あれ、紡じゃん。まだ、あんな企画のために走り回ってるの?」

駿介は、憐れむような、それでいてどこか愉快そうな笑みを浮かべていた。

「無駄な努力はやめて、大人しくしてた方が、身のためだと思うけどな」

紡は、それに何も答えず、ただ黙って駿介の横をすり抜けた。言い返す価値もない、と思ったからだ。だが、エレベーターの扉が閉まった瞬間、紡は拳を強く握りしめていた。

地下オフィスの隅で、航は相変わらずヘッドホンをつけたまま、黙々と作業を続けていた。紡が毎晩遅くまで残って書類とにらめっこしている姿を、彼はちらちらと横目で見ていたが、声をかけてくることはなかった。

(どうせ、すぐに音を上げて辞めるだろう)

紡には知る由もなかったが、航は内心、そう思っていた。これまでにも、この部屋に飛ばされてきた人間を何人も見てきた。最初こそ意気込んでいても、大抵は一ヶ月もすれば腐り、会社への恨み言を漏らすようになる。紡もどうせ同じだろうと、航は高をくくっていた。


◆「理想論」への反発、譲らない紡


異動から十日ほど経ったある日の午後、紡は思い切って、まとめたコンセプトシートを航のデスクに持っていった。

「一ノ瀬くん、少し見てもらえないかな。新しい企画のラフなんだけど」

航は面倒くさそうにヘッドホンを片方だけ外し、紡が差し出した紙に目を通した。数秒後、彼は小さくため息をついた。

「……これ、本気で言ってます?」

「え?」

「『夜、自分の失敗を笑い飛ばせるコラム欄』とか、『泣いて水滴が落ちても弾く素材のカバー』とか。悪いですけど、こんな情緒的な企画、数字にならないですよ。上は結局、原価率と初動の売上でしか見てくれません」

航の口調には、突き放すような冷たさがあった。

「じゃあ、一ノ瀬くんなら、どんな企画なら数字になると思うの?」

紡が問い返すと、航は少し面食らったような顔をしたが、すぐにいつもの調子を取り戻した。

「トレンドに乗せて、SNS映えするビジュアルにして、とりあえず売れそうな見た目にする。それだけですよ」

「それだけ……?」

「それに、正直言って、藤瀬さんの立場、わかってます? 社内じゃ完全に腫れ物扱いなのに、今さらこんな企画持ち込んでも、まともに取り合ってもらえるとは思えないんですけど」

紡は、一瞬言葉に詰まった。だが、すぐに顔を上げ、航の目をまっすぐに見返した。

「数字にならないかどうかは、まだわからないよ。私、この一週間、渋谷と代官山と下北沢の文具店を全部回って、三十代女性に十五人、直接話を聞いてきた。みんな、忙しい毎日の中で、自分をいたわる時間が全然ないって言ってた。既存の日記帳は、予定管理か、目標達成のためのものばかりで、『何もしなくていい五分間』を肯定してくれるものが、市場にほとんどない」

航は、意外そうな顔で紡を見た。

「……十五人も、直接?」

「うん。休みの日も含めて」

「暇なんですか」

「暇なんじゃなくて、必死なの」

紡はまっすぐに言い返した。

「私、企画を盗まれて、恋人にも裏切られて、社内では誰も味方してくれない。でも、それでもこの企画は、絶対にいいものになるって信じてる。だから、誰にも文句を言わせないくらい、地道にデータを積み上げていくしかないの」

その言葉に、航は少しの間、黙り込んだ。彼の視線が、紡の手元にある使い込んだノートに一瞬だけ向けられる。だが彼はすぐに視線を逸らすと、ぶっきらぼうに言った。

「……好きにしてください。僕には関係ないんで」

そう言って、航は再びヘッドホンを装着し、モニターに向き直ってしまった。

紡は小さくため息をつくと、自分のデスクへと戻った。手応えは、まだなかった。だが、少なくとも今の航の反応は、最初に「噂のドロ沼さん」と切り捨てられたときとは、わずかに違って見えた。

数日後、紡が出社すると、デスクの上に一冊の本が置かれていた。『売れる文具のデザイン心理学』というタイトルの専門書だった。差出人は書かれていない。だが、この部屋に出入りするのは、紡と航の二人だけだ。

「これ……」

紡が航の方を見ると、彼はヘッドホンをつけたまま、素知らぬ顔でモニターに向かっていた。だが、その横顔が、心なしか、いつもより落ち着かない様子だったことに、紡は気づいていた。

礼を言おうとした紡だったが、航は先手を打つように、ぶっきらぼうに言った。

「別に、藤瀬さんのためじゃないですから。ただの、資料整理のついでです」

嘘くさい言い訳だったが、紡はそれ以上追及せず、ただ小さく「ありがとう」とだけ返した。


◆深夜のオフィス、ノートに宿る熱


異動から二週間が経ったある夜のことだった。

二週間かけて集めた声を、紡はノートから一枚のスプレッドシートへと整理し直していた。年齢層別の悩み、既存商品への不満点、理想の価格帯――数字とグラフに落とし込むと、これまで感覚的だったアイデアに、確かな裏付けが加わっていくのがわかった。

時刻は午前二時。とうに終電を逃していた紡は、デスクに突っ伏したまま、いつの間にか眠り込んでしまっていた。窓のない部屋には、パソコンのファンが低く唸る音だけが響いている。開いたノートには、細かい手書きの文字がびっしりと書き込まれている。

『三十代女性が、夜に自分の失敗を笑い飛ばせるようなコラム欄をつける』 『手触りの良いカバー。泣いて水滴が落ちても弾く素材にできないか、メーカーに問い合わせ』 『価格帯は千五百円前後。プチプラでも自分を労わっていいと思える設定に』

たまたま忘れ物を取りに戻った航は、電気もつけっぱなしのオフィスで眠りこける紡を見つけ、思わず足を止めた。

「……何やってんだ、こんな時間まで」

呆れたようにため息をつきながら、航は紡の肩にかかっていた上着をかけ直そうと近づいた。その時、視界の端に、開かれたままのノートが目に入った。

覗き見るつもりはなかった。だが、そこに書かれていた内容が、思いのほか航の目を引いた。

数字にならない、と自分が切り捨てたはずのアイデアの数々。それらは、単なる思いつきの羅列ではなかった。ページの端には、実際に足を運んだ店の名前と日付、話を聞いた相手の年齢層や具体的な悩みまでもが、几帳面な文字でびっしりと書き込まれている。使う人の人生に、どこまでも寄り添おうとする、愛情に満ちた企画書だった。

航自身、ここ数年、会社の歯車として、売れるためだけの無機質なデザインばかりを求められ続けてきた。「かわいければいい」「トレンドに乗せろ」――そんな指示の中で、自分がなぜデザイナーを志したのか、その情熱を見失いかけていた。

だが、この「お払い箱」にされた先輩のノートには、かつて自分が本当に憧れていた「モノ作り」の熱が、確かに宿っていた。

「……あんた、バカなくらい真面目ですね」

航の呟きに、紡がふと目を覚ました。寝ぼけた表情で顔を上げると、航が真剣な眼差しでノートを見つめているのに気づく。

「あ……ご、ごめん、見られた」

「別に、隠すようなことでもないでしょ」

航はふっと視線を逸らすと、いつもより幾分か柔らかい口調で言った。

「……しょうがないな。そのダサいフォントと構成、俺が世界一かっこいいデザインに仕上げてやりますよ」

紡は、一瞬、耳を疑った。

「え、本当に?」

「一回しか言わないんで、しっかり聞いといてください」

航は照れ隠しなのか、早口でそう言うと、紡のデスクに置かれたノートパソコンを勝手に開き、コンセプトシートのファイルを開き始めた。

「まず、このタイトルロゴのフォント、古臭いんで変えます。あと配色、もっと落ち着いたトーンにしないと、狙ってる客層とズレますよ」

矢継ぎ早に飛び出す指摘に、紡は思わず笑ってしまった。素っ気ない態度は相変わらずだったが、その言葉の端々には、確かな熱がこもっていた。

この夜を境に、航の「氷対応」は、少しずつ、しかし確実に溶け始めていく。


◆デザインを巡る、最初のぶつかり合い


とはいえ、二人の共同作業は、決して最初から順風満帆だったわけではなかった。

数日後、航が仕上げてきた最初のデザイン案を見て、紡は思わず眉をひそめた。洗練されてはいるが、どこか冷たく、ミニマルすぎるデザインだった。

「素敵だとは思うんだけど……もう少し、温かみが欲しいかも。この企画のコンセプトって、『自分をいたわる時間』でしょう? これだと、なんだかクールすぎて、逆に気を張らせちゃう気がする」

紡が率直に伝えると、航はムッとした表情を隠さなかった。

「藤瀬さん、それ、単なる好みの問題じゃないですか? 今の若い世代は、ゴテゴテした装飾より、ミニマルなデザインの方が刺さるんですよ。トレンドってものがあるんです」

「トレンドも大事だけど、私が話を聞いてきた十五人は、みんな『優しい雰囲気のもの』を求めてた。データより自分の感覚を優先するのは、良くないと思う」

売り言葉に買い言葉で、二人は珍しくデザインの方向性を巡って言い合いになった。結局その日は、互いに納得しないまま、気まずい沈黙の中で仕事を終えることになった。

翌日、紡が出社すると、航のデスクの上に、昨夜のデザイン案を修正した新しいラフが置かれていた。走り書きのメモが添えられている。

『藤瀬さんの言う「温かみ」、一晩考えました。これでどうですか』

そこにあったのは、ミニマルな骨格を保ちながらも、手描き風の優しいイラストをアクセントに加えた、格段に良くなったデザインだった。

「……すごく、いい」

紡が素直な感想を漏らすと、航は照れくさそうに目を逸らした。

「別に、藤瀬さんのために直したわけじゃないですよ。ただの、デザイナーとしてのこだわりですから」

そのぶっきらぼうな物言いの中に、紡は確かな歩み寄りを感じ取った。意見がぶつかっても、逃げずに、より良いものを一緒に探そうとする――そんな航の姿勢に、紡は少しずつ、信頼を重ねていくようになった。

ある晩、律子から電話がかかってきた。

「紡、元気にしてる? 例の左遷先、大丈夫?」

「うん、実は今、新しい企画を必死に作ってる最中で」

紡が近況を話すと、律子は電話越しに感心したような声を上げた。

「へえ、やるじゃない。あんたのそういう、腐らずコツコツやるところ、昔から尊敬してるんだから」

「ありがとう。あと、一緒に働いてる人が、意外と頼りになる人でさ」

「ほう? 気になるじゃない、その人」

律子の声のトーンが、途端にからかうようなものに変わった。紡は慌てて話を逸らそうとしたが、律子は鋭く聞き逃さなかった。

「今度、その人のこと、詳しく聞かせてもらうから覚悟しときなさいよ」

律子の声には、いつもの茶目っ気が滲んでいた。電話を切った後も、紡はしばらく、口元の笑みが消えないままだった。


◆ 縮まる距離、疲れた身体に届くビターチョコ


翌日から、二人の共同作業は加速していった。

紡が集めてきた市場調査のデータと、航の洗練されたデザインセンスが噛み合うと、コンセプトシートはみるみるうちに説得力のある企画書へと姿を変えていった。

徹夜続きの日々の中、紡が疲れた顔で目をこすっていると、航はふらりと席を立ち、コンビニ袋を片手に戻ってくることが増えた。

「これ、糖分補給」

そう言って、紡の机に無造作に置かれるのは、決まって紡が好きな銘柄のビターチョコレートだった。

「なんで私の好きな味、知ってるの?」

「前に、休憩中に食べてたの見ただけです。深い意味はないんで」

そっけない言い方だったが、紡の頬は自然と緩んだ。

ある時、紡がふざけて「私にも隠れた好みとか知りたいから、一ノ瀬くんの好きな食べ物、教えてよ」と聞くと、航は少し考えてから、ぼそりと答えた。

「……甘いの、実はそんなに得意じゃないです。でも、藤瀬さんが美味しそうに食べてるの見ると、悪くないなって」

思いがけない答えに、紡は思わず頬を緩めた。自分の好きなものを、相手も一緒に楽しんでくれている――そんな小さな共有が、紡の毎日に、確かな温かさを添えていた。

だが、すべてが順調だったわけではない。ある夜、紡が「このまま今日中に修正版を仕上げたい」と航に頼み込んだ時、航は珍しくきっぱりと断った。

「無理です。今日はもう八時過ぎてるんで、僕、帰ります」

「でも、明日までに常務に見せる約束で……」

「約束したのは藤瀬さんでしょ。僕は、定時で帰るって最初に言ったはずです」

突き放すような物言いに、紡は一瞬、カチンときた。だが同時に、根を詰めすぎている自分自身にも、思い当たる節があった。

「……ごめん。無理させてた、よね」

紡が素直に謝ると、航は少し驚いたような顔をした後、小さくため息をついた。

「別に、謝られるようなことじゃないですけど。ただ、藤瀬さんが倒れたら、元も子もないですから」

そう言って航は帰っていったが、翌朝、紡のデスクには、彼が家で仕上げてきたという修正データが、きちんと置かれていた。

「昨日はごめん。ちゃんと休んで、これ作ってくれたの?」

紡が尋ねると、航はぶっきらぼうに答えた。

「別に。ただの気まぐれです」

素っ気ない言葉の裏に、確かな気遣いが滲んでいることに、紡はもう気づき始めていた。

ある日の深夜、サンプル用の紙を並べながら、二人は装丁の手触りについて意見を交わしていた。至近距離で紙の質感を確かめ合っていると、ふと目が合う。航の耳が、うっすらと赤く染まっているのに、紡は気づいた。

「藤瀬さんって……仕事の時は鬼みたいな顔してますけど」

航が、いつもよりわずかに早口で続けた。

「笑うと、その、結構かわいいですね」

「……え?」

紡が驚いて聞き返すと、航は慌てたように顔を背けた。

「な、何でもないです。次、コスト計算の話しましょう。これ、原価どのくらいで考えてます?」

強引に話題を変える航に、紡は思わず小さく吹き出した。年下の生意気な後輩だと思っていた航が見せる、不器用な優しさと、隠しきれない照れ。紡の胸の奥で、じんわりと温かい何かが灯り始めていた。

「コストなら……」

紡は気持ちを切り替えるように、手元の資料をめくった。

「実は、前の部署にいた頃、似たようなコスト計算をやったことがあるの。あのとき、危うく大きなミスをしそうになったのを思い出す」

「ミス、ですか?」

航が興味を示すと、紡は苦笑しながら続けた。

「一年くらい前、別の企画で製造コストの計算式を組んでたんだけど、初期のバージョンに致命的な計算バグがあって。紙の厚みと裁断ロスの計算を間違えてて、そのまま量産してたら、実売価格で大赤字になるところだった」

「よく気づきましたね、それ」

「たまたま、印刷会社の担当さんと雑談してて、数字の桁がおかしいって指摘されたの。あのときは肝が冷えた。それ以来、コスト計算だけは、必ず自分で二重、三重にチェックする癖がついた。古いバージョンのデータは、間違って使わないように、ちゃんと分けて保存してある」

紡はそう言いながら、USBメモリを軽く指先で叩いてみせた。会社のパソコンだけでなく、自分用のバックアップにも、これまで手がけてきた企画の全バージョンを几帳面に残してある。石橋を叩きすぎると笑われたこともあるその慎重さは、いつしか紡の仕事における確かな武器になっていた。

航は、紡が取り出したUSBメモリを、興味深そうに見つめた。

「そういう地味な積み重ねって、案外、見てる人は見てるもんですよ」

その一言が、思いのほか紡の胸に響いた。

「藤瀬さんらしいですね、それ」

航がぽつりと言った。皮肉ではなく、素直な感心の色が滲んだ声だった。

「几帳面すぎて、たまに面倒だけど」

「面倒なくらいがちょうどいいんですよ、こういう仕事は」

紡は小さく笑うと、再び手元の資料に視線を落とした。窓のない地下オフィスに、キーボードを叩く音と、二人の静かな話し声だけが響いている。

作業の合間、紡はふと気になっていたことを尋ねてみた。

「一ノ瀬くんは、どうして今の会社に入ったの? デザインの仕事なら、他にも選択肢があったんじゃない?」

航は、キーボードを叩く手を止めると、珍しく素直に答えた。

「新卒の時、デザイン事務所に何十社も落ちたんですよ。結局拾ってくれたのが、うちの会社の広報部でした。デザインとは名ばかりの、パンフレット作りとか販促物ばっかりで。それでも腐らずやってたら、いつの間にか、こんな部署に飛ばされてました」

「そうだったんだ……」

「藤瀬さんと同じですよ。真面目にやってても、報われるとは限らない。だから、期待するだけ無駄だって、いつからか思うようになったんです」

航の声には、諦めにも似た響きがあった。だが、その一方で、この半年間、紡の企画に本気で向き合ってくれている航の姿は、決して「期待するだけ無駄」と思っている人間の態度ではなかった。

「でも、今は違うでしょう?」

紡が静かに尋ねると、航は一瞬、言葉に詰まった。

「……さあ、どうですかね」

はぐらかすように言うと、航は再びモニターに向き直った。だが、その耳が、うっすらと赤くなっているのを、紡は見逃さなかった。

二人の作業は、次第にリズムを持ち始めていた。朝、紡が前日にまとめた市場データを共有すると、航はその日のうちにラフデザインへと落とし込んでいく。夕方には、互いの成果を持ち寄り、細部を詰めていく。窓のない部屋にこもりきりの毎日ではあったが、そこには、確かな充実感があった。

「このページの余白、もう少し広げた方がいいかも。書き込むスペース、大事だから」

「了解です。あと、表紙の紙、サンプルもう一種類取り寄せてみます」

気づけば、二人の会話は、業務連絡というより、まるで長年のパートナーのような自然なやり取りに変わっていた。

かつては「社内の墓場」と呼ばれていたはずのこの部屋が、今の紡にとっては、誰にも邪魔されずに、自分の企画とまっすぐ向き合える、唯一の場所になりつつあった。

三週間かけて練り上げたコンセプトシートが、ついに一つの形にまとまった夜、紡はプリントアウトした企画書を航に手渡した。

「一応、これで完成、かな」

航は、隅から隅までじっくりと目を通すと、静かに頷いた。

「悪くないですね。というか、正直、かなりいいと思います」

初めて航の口から漏れた、素直な賛辞だった。紡は、込み上げてくる達成感に、思わず目頭が熱くなった。

三十二歳の誕生日、すべてを失ったと思ったあの夜から、まだ一ヶ月も経っていない。それなのに、紡の毎日は、あの頃とは比べ物にならないほど、確かな手触りを持ち始めていた。奪われたものを嘆くのではなく、自分の手で新しく作り上げていく充実感。それは、紡がこれまで経験したことのない種類の強さだった。


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