第2章:三十二歳の生き霊退散ダンスと、凍りついた新部署
◆親友の部屋、缶ビールと怒りの咆哮
非常階段を降り、会社を飛び出した紡は、化粧の崩れた顔も気にせず、ただがむしゃらに律子のマンションへと向かった。電車に揺られる間も、涙は止まらなかった。周囲の視線など、もうどうでもよかった。
甲斐律子のマンションのドアが開くなり、紡は玄関先で崩れ落ちるように律子の胸に飛び込んだ。
「よく来た、よく来た」
派手なヒョウ柄のルームウェアに身を包んだ律子は、化粧を落としたすっぴんの顔に、それでも凛とした眼力を宿していた。律子は紡の背中を何度も叩きながら、いつものサバサバした調子とは裏腹に、優しく紡を部屋の中へと引き入れた。ネイルサロンで働く律子の部屋は、壁際に色とりどりのジェルネイルのサンプルチップが並び、テーブルの上には仕事道具の道具箱が置かれている。学生時代からずっと変わらない、雑然としているのにどこか居心地のいい空間だった。
紡と律子の付き合いは、大学の入学式で偶然隣の席になったことから始まった。人見知りで友達作りに苦戦していた紡に、律子は物怖じせず「ねえ、その髪型可愛いね、どこの美容室?」と話しかけてきた。それから十年以上、就職も、失恋も、引っ越しも、お互いの人生の節目を、いつもすぐ側で見守り合ってきた。律子の飾らない物言いに何度救われてきたか、紡は数えきれない。
「とりあえず座って。今、つまみ出すから」
律子はキッチンに立つと、冷蔵庫から缶ビールを次々と取り出し始めた。紡はソファに沈み込むようにして座り、ようやく人心地がついた。非常階段で泣いていたときとは違う、安心感からくる疲労が全身にのしかかってくる。
「で」
律子はビールの缶をテーブルにドンと置くと、紡の向かいにどかりと腰を下ろした。目つきは、これから戦争にでも行くかのように鋭い。
「今日、お店は大丈夫だったの?」
紡がふと尋ねると、律子は事も無げに答えた。
「ああ、予約全部、後輩に回してもらった。こういう時のための後輩でしょ」
律子はネイルサロンで働き始めて八年になる。腕は確かで、指名客も多い。だからこそ、その予約を惜しげもなく手放してまで駆けつけてくれたことに、紡は胸が熱くなった。
「電話で聞いた話、もう一回、頭から全部聞かせて。一言一句、漏らさずに」
紡は、缶ビールのプルタブを開ける気力もないまま、昨日からの出来事をぽつりぽつりと話し始めた。誕生日のディナーで渡された『嫁の心得』のこと。婚約指輪の代わりに見せられた安っぽいメッキの画像。派遣社員からの気の抜けたLINE。半年かけた企画を、駿介の名前で発表されたこと。そして、部長にすら取り合ってもらえなかったこと。
「メッキの指輪って、何それ、詐欺? つか、そのママとやら、頭沸いてんの?」
律子は、話を聞くたびに、逐一相槌ならぬ罵声を挟んできた。
「はあ? 派遣の子に『しゅんぴー』ってあだ名で呼ばれてるって、もう浮気じゃん、それ。てか、紡の企画盗んだ上に、名前まですり替えるとか、頭のネジ何本飛んでんのよ」
紡は、律子の的確すぎるツッコミに、涙を流しながらも、少しずつ笑いがこみ上げてくるのを感じていた。
話し終える頃には、律子の手にあった缶ビールが、怒りのあまりぐしゃりと音を立てて歪んでいた。
「はあぁぁ!?」
律子の絶叫が、狭い部屋中に響き渡った。
「三十四歳にもなって、ママのハンバーグ食ってろってのよ、あのボケナス!! しかも紡の企画パクった上に、若い派遣の子とチャラチャラLINEって、控えめに言って人間のクズじゃない!」
「律子、声、近所迷惑……」
「うるさい、今日だけは我慢してもらう!」
律子は立ち上がると、紡の両肩をがしっと掴んだ。
「いい、紡。あんたね、真面目すぎるのよ。昔からそう。ちゃんとやってれば、いつか誰かが見てくれるはずだって、ずっと信じてきたでしょ。でも現実は、真面目にやってるだけの人間から、平気で企画も男も奪っていくクソ野郎がいるってこと。もう、我慢する必要なんてどこにもないから」
律子の言葉は、いつも飾り気がなくて、まっすぐだった。紡はその言葉ひとつひとつが、じわじわと胸に染み込んでいくのを感じた。
「私、これから、どうしたらいいんだろう」
紡がぽつりと呟くと、律子はにやりと笑った。その笑みには、何か悪だくみをしているような、頼もしい気配があった。
「決まってるでしょ。まずは、今夜はとことん発散すること。それから、明日から本気で戦うこと」
◆伝説の儀式、生き霊退散ダンス
「発散って、どうやって……」
紡が聞き終わらないうちに、律子はクローゼットの奥から、埃をかぶった段ボール箱を引っ張り出してきた。中から出てきたのは、蛍光ピンクとイエローの、目にも痛いド派手なジャージ上下だった。
「これ……まさか」
「そう、あの伝説の『元カレの生き霊退散ダンス』衣装よ!」
律子が高々とジャージを掲げると、紡の脳裏に、大学時代の記憶がぶわっと蘇った。当時付き合っていた彼氏に二股をかけられ、泣きじゃくっていた紡を引っ張り出し、律子が「こんな時こそ、変な格好で踊って笑い飛ばすのが一番!」と言って、深夜のワンルームで謎のダンスを踊らせたことがあった。あのときも、馬鹿げているとわかっていながら、最後には二人で涙が出るほど笑っていた。
あの時の相手は、サークルの先輩だった。二股が発覚した夜、紡はアパートの部屋で三時間泣き続けた。そこへ突然押しかけてきたのが律子だった。手には、なぜか大学の学園祭で使った着ぐるみの一部と、コンビニで買い占めたポテトチップスの山を抱えて。
「泣くだけ泣いたら、次は笑う番でしょ」
そう言って、律子は問答無用で紡を立たせ、意味不明な振り付けのダンスを踊らせた。あの夜以来、二人の間で「生き霊退散ダンス」は、失恋のたびに発動される、なくてはならない儀式になっていた。
「さあ、着替えて!」
「いや、もう三十二歳だよ、私たち……関節が悲鳴上げると思う……」
「うるさい! 三十二歳のポテンシャルを舐めるんじゃないわよ! 若さで誤魔化せない分、意地で踊るの!」
強引に着替えさせられた紡は、律子と二人、リビングの真ん中でおかしなステップを踏み始めた。学生時代の記憶を頼りに、右に跳ねて左に跳ねて、意味不明な振り付けで腕を振り回す。最初は照れ臭さと気恥ずかしさが勝っていたが、律子が本気の変顔で踊り狂う姿を見ているうちに、紡の口から自然と笑いが漏れ始めた。
「駿介なんかー! ママのおっぱいに、溺れて死ねー!」
律子が謎の歌詞を叫びながら踊るのに合わせ、紡もつられて声を上げた。
「マ、ママのおっぱいに、溺れて死ねー!」
膝が笑い、息が上がり、それでも二人は踊り続けた。三十代の身体には少々きつい動きだったが、そんなことはどうでもよかった。ただ、馬鹿になりたかった。何も考えずに、悲しみを身体から追い出したかった。
突然、壁越しにドンドンと苦情の音が響いた。
「ちょっと、うるさいですよー!」
隣人の声に、二人はぴたりと動きを止め、顔を見合わせると、今度は声を殺して笑い転げた。
「やば、通報される」
「今更よ、今更! もう一曲踊るわよ!」
律子はむしろ開き直り、声のボリュームだけを落として、ダンスを再開した。忍び笑いをこらえながら踊る二人の姿は、傍から見ればますます奇妙な光景だったに違いない。
ダンスがひと段落すると、律子はさらに準備していたものをテーブルに広げた。百円ショップで買ってきたという藁人形と、駿介の顔写真をプリントアウトしたもの、そしてゴム製の五寸釘だった。
「これ、いつ用意したの……」
「あんたから電話もらった時点で、コンビニ寄って印刷してきた。準備がいいでしょ」
律子は駿介の顔写真を藁人形にべったりと貼り付けると、満足げに頷いた。
「さあ、紡。憎しみを込めて、思いっきり打ち込みなさい」
紡は差し出されたゴム製の釘を受け取ると、藁人形に描かれた駿介の顔――にっこりと爽やかに微笑む、あの見慣れた顔――を見つめた。
一瞬の躊躇のあと、紡は思い切り釘を打ち込んだ。
「このマザコン!」
「いいぞ、もっとやれ!」
「盗人!」
「その調子!」
「浮気者!」
「まだまだ甘い!」
「ママのハンバーグ、一生食べてろー!」
二人でゲラゲラと笑いながら、藁人形に釘を打ち続けた。傍から見れば完全にホラーな光景だったが、紡の中でドロドロと渦巻いていた悲しみが、笑いと共に少しずつ形を変えていくのがわかった。
明け方近く、疲れ果てて床に座り込んだ紡と律子は、二人並んで壁にもたれかかった。空になった缶ビールが、テーブルの上に何本も転がっている。
「ねえ、紡」
律子がぽつりと言った。
「あんたの企画、私、見たことあるでしょ。あの手帳の企画書。あれ、本当にすごく良かった。誰かに評価されるために作ったわけじゃないって、伝わってくるくらい、丁寧な仕事だった」
「私、思うんだけどさ」
律子は、缶ビールを揺らしながら続けた。
「あんたの企画が良かったのは、数字とか機能だけじゃなくて、『使う人の気持ち』にちゃんと寄り添ってたところだと思うの。忙しくて、自分のことなんて後回しにしてる人の気持ち、あんたが一番わかってるじゃない。だって、あんた自身がそうやって生きてきたんだから」
律子の言葉に、紡ははっとした。自分では意識していなかった、企画に込めていた想いを、律子はちゃんと見抜いていた。
紡は黙って律子の言葉を聞いていた。
「だから、負けんな。あんな男に、あんたの全部を持っていかれるなんて、絶対に間違ってる」
紡の胸の奥に、じんわりと熱いものが広がっていく。悲しみとは違う、もっと確かな何か――闘志と呼べるものが、静かに芽生え始めていた。
「……うん」
紡は小さく頷いた。
「絶対に、取り返す」
そのまま、紡と律子は、狭いソファの上で寄り添うようにして眠りに落ちた。学生時代、失恋のたびにこうして同じ部屋で夜を明かしたことを、紡はぼんやりと思い出していた。あの頃と変わらない安心感が、今の紡を、確かに支えてくれていた。
◆異動命令、社内の墓場へ
翌日から、紡はいつも通り出社し、黙々と与えられた業務をこなし続けた。誰も声をかけてこない中、紡はただひたすら、目の前の仕事に集中することで、心を保とうとした。
だが、社内の空気は、日を追うごとに息苦しさを増していった。すれ違う同僚たちの視線、休憩室での不自然な沈黙。駿介は相変わらず、何事もなかったかのように部内を闊歩し、周囲からは「さすが高坂さん」という称賛の声が絶えなかった。
そんな一週間を、紡は歯を食いしばりながら乗り切った。だが、その我慢も、あっさりと踏みにじられることになる。
翌週、月曜日の朝。紡が出社すると、机の上に一枚の辞令が置かれていた。
『藤瀬紡殿 新規事業準備室への異動を命ずる』
差出人の欄には、人事部長の名前。効力発生日は、今日の午後からとなっていた。
あまりに急な異動命令に、紡は言葉を失った。周囲の同僚たちは、気まずそうに視線を逸らしながら、誰も声をかけてこようとしない。企画開発部のフロアの空気は、既に紡を「いないもの」として扱う準備が整っているようだった。
部長が、気まずそうに紡のデスクへやってきた。
「藤瀬さん、これは人事の決定だから。私にはどうすることも……」
「異動の理由は、何と伺えばよろしいでしょうか」
紡が尋ねると、部長は気まずそうに視線を泳がせた。
「その……部内の風紀を乱したという、匿名の意見がいくつか上がっていてね。人事としても、慎重に対応せざるを得なかったんだ」
匿名の意見――それが誰の手によるものか、紡には考えるまでもなかった。
「わかっています」
紡は、それ以上何も言わなかった。言ったところで、何も変わらないことは、もう十分わかっていた。
ただ一人、後輩の女の子だけが、こっそりと紡のデスクにメモを置いていった。『藤瀬さん、応援してます』と、小さな文字で書かれたそのメモを見て、紡は少しだけ、救われた気がした。
昼休み、荷物をまとめながら、紡は自分のデスクを見回した。半年間、毎晩遅くまで残業して、企画書を練り直してきたこのデスク。壁に貼った小さなカレンダー、使い込んだマグカップ、部下からもらった観葉植物の鉢――積み上げてきたものすべてを置いていくような気持ちで、紡は段ボール箱に私物を詰めていく。
観葉植物の鉢は、二年前、後輩が「藤瀬さんデスクにお花もないので」とプレゼントしてくれたものだった。壁のカレンダーには、月末の締め切りや、取引先とのアポイントが、紡の几帳面な字でびっしりと書き込まれている。引き出しの奥からは、入社一年目に自分で描いた、拙い企画コンセプト画も出てきた。
どれもこれも、紡がこの会社で真面目に積み重ねてきた、確かな時間の証だった。それを一つひとつ段ボールに詰めていく作業は、まるで自分自身の存在を、少しずつ消し去っていくような感覚に近かった。
荷物をまとめる紡の耳に、フロアの反対側から、同僚たちの会話が漏れ聞こえてきた。
「高坂さん、優しいよね。あんな別れ方したのに、藤瀬さんの企画、ちゃんと評価してあげてさ」
「うん、器が大きいっていうか。それに比べて藤瀬さん、あんな騒ぎ方しちゃって、ちょっとね」
紡は、聞こえないふりをして、黙々と手を動かし続けた。真実を知る者は、この会社に、まだ誰一人としていない。
「新規事業準備室」――その名前の響きだけを聞けば、何か新しいことに挑戦する前向きな部署のように聞こえる。だが社内での実態は違った。通称「社内の墓場」「追い出し部屋」。会社にとって都合の悪い社員、扱いに困る社員が送り込まれる、事実上の左遷先だった。
段ボール箱を抱えたまま、紡はエレベーターで地下一階へと降りていく。
エレベーターの扉が閉まる直前、同じ階の同僚たちが数人乗り込んできた。誰もが一様に、紡と目を合わせないよう、階数表示のパネルばかりを見つめている。地下一階のボタンを押す紡の指先を、誰かがちらりと見たのがわかった。だが、それだけだった。誰も、何も言わなかった。
扉が閉まり、エレベーターがゆっくりと下降していく。フロアの数字が減っていくごとに、紡の心も、静かに沈んでいくようだった。
案内された部屋のドアを開けた瞬間、紡は思わず立ち止まった。
薄暗い蛍光灯の下に広がっていたのは、まるで倉庫のような空間だった。使われなくなった什器やファイルボックスが壁際に無造作に積み上げられ、窓一つない室内には、かび臭さとほこりの匂いが漂っている。天井の一部からは配管がむき出しになっており、時折、ゴポゴポと不気味な音を立てていた。
床に転がっていた古い椅子を試しに引き寄せてみると、片方の車輪が取れかけていて、ガタガタと不穏な音を立てた。壁の温度計は故障しているのか、真夏でもないのに二十度を指したまま止まっている。
(ここが、私のこれからの職場……)
紡は込み上げてくるものを、必死に飲み込んだ。だが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。段ボール箱を抱え直し、紡は室内へと足を踏み入れた。
足を踏み入れると、ミシリと床が軋む音がした。壁の一角には、いつのものかわからない古いポスターが色褪せたまま貼られている。かつてこの部署が「新規事業」の名の下に何かを生み出そうとした形跡は、もはやどこにも見当たらなかった。
◆氷点下の同僚、一ノ瀬航
薄暗いオフィスの奥、パソコンのモニターの光だけが煌々と灯る一角に、一人の男性が座っていた。
長めの前髪が目にかかり、首にはヘッドホンをかけている。着崩したシャツの袖からは、細身だが骨っぽい手首が覗いていた。年齢は二十代後半といったところだろうか。彼はモニターに向かったまま、紡が入ってきたことにすら気づいていないように見えた。
「あの、失礼します」
紡が声をかけると、男はようやくこちらに視線を寄越した。値踏みするような、それでいてどこか億劫そうな目つきだった。
「初めまして。今日からこちらに配属になりました、藤瀬です」
紡は精一杯の笑顔を作り、頭を下げた。だが男――一ノ瀬航は、片方のイヤホンだけを外すと、感情のこもらない声で言った。
「ああ、噂のドロ沼さん」
「え……」
「社内で噂になってますよ。婚約者の企画を横取りしたって騒いで、部内をかき乱してる人。今度はこっちに来たんですね」
思いがけない言葉に、紡は一瞬、何も言い返せなかった。ここでもすでに、あの歪んだ噂が先回りしていたのだ。
「それ、違います。本当は――」
「別にいいですよ、事情なんて。僕、興味ないので」
航は紡の言葉を遮ると、再びイヤホンを装着しようとした。その素っ気なさに、紡はさすがにむっとして、もう一度声をかけた。
「あの、少なくとも、これから同じ部署で働くことになるので」
「僕、定時で帰るんで」
航は淡々とした口調で続けた。
「熱血とか、社内政治の巻き添えとか、本当に勘弁してほしいんですよね。ここに飛ばされてくる人って、大体、社内で揉め事起こした人か、腐りきって腑抜けた人か、どっちかなんで。藤瀬さんがどっちのタイプかは知らないですけど、僕の仕事の邪魔だけはしないでください」
言いたいことだけ言うと、航は完全にヘッドホンを装着し、再びモニターに向き直ってしまった。キーボードを叩く乾いた音だけが、薄暗いオフィスに響く。
紡は、それでも食い下がった。
「あの、私の机って、どこを使えばいいですか」
航は、面倒くさそうにヘッドホンを片方だけ外すと、部屋の隅を顎で示した。
「あそこ、多分。前の人が使ってたところ」
「前の人?」
「半年前まで、営業でトラブル起こした人がいたんですけど、結局辞めましたよ。この部屋、長続きした人、見たことないんで」
突き放すような口調だったが、紡はその言葉の端々に、航自身もまた、この部屋の"歴史"を誰よりもよく知っているのだと気づいた。もしかしたら、彼自身も、何かを抱えてここに流れ着いたのかもしれない。
「一ノ瀬くんは、ここでどんな仕事を?」
紡が重ねて尋ねると、航は少し面倒くさそうにしながらも答えた。
「新規事業のネタ探し、ってことになってますけど、実際は誰も期待してないですよ。上からは『何か作れ』しか言われないんで、暇な時に趣味でアプリのデザインとか触ってます」
「アプリの……デザイン?」
紡が意外そうな声を上げると、航は初めて、わずかに目を細めた。
「一応、これでも美大出てるんで。まあ、今の会社じゃ、そんなキャリア、誰も見てくれないですけど」
その一言には、どこか投げやりな響きがあった。紡は、その言葉の奥に、何か複雑な事情が隠れているような気がした。だが、それ以上踏み込む前に、航は「じゃ」とだけ言って、再びヘッドホンをつけてしまった。
紡は、それ以上食い下がらなかった。今日出会ったばかりの相手に、無理に心を開かせようとするのは、性急すぎるとわかっていたからだ。時間をかければいい。紡は、そう自分に言い聞かせた。
紡は、案内された自分のデスク――部屋の隅、埃をかぶった書類の山に囲まれた、あまりお世辞にも快適とは言えない場所――に段ボール箱を置いた。椅子に腰掛け、改めて室内を見渡す。
窓のない部屋。冷たい視線をよこす、たった一人の同僚。企画開発部の華やかなフロアとは、天と地ほどの差がある環境だった。
(ここが、私の新しい戦場)
紡は深呼吸をひとつすると、段ボール箱から使い込んだマグカップを取り出し、デスクの上にそっと置いた。窓一つない薄暗い部屋の中で、そのマグカップだけが、紡の中にまだ残っている「自分らしさ」の証のように思えた。
夕方六時になると、航は宣言通り、迷いのない動きでパソコンをシャットダウンし始めた。
「お先に」
短くそう言うと、彼はヘッドホンを首にかけたまま、足早にオフィスを出ていった。紡は、その後ろ姿を見送りながら、静まり返った部屋にただ一人残された。
蛍光灯の明滅する音だけが響く中、紡は段ボール箱の中身を、ゆっくりと整理し始めた。今日一日で、これほどまでに人との距離を感じたことは、これまでの人生でなかったかもしれない。それでも、涙は出なかった。悲しみよりも、静かな闘志の方が、今の紡には強く根を張っていた。
航は相変わらずヘッドホンをつけたまま、こちらを一瞥もしない。だが紡は、その背中に向かって、心の中でそっと呟いた。
(いつか、絶対に見返してやるから)
パソコンの電源を入れると、古いモニターがゆっくりと起動していく。紡は静かに、これからの企画のためのメモ帳を開いた。
ノートの一ページ目に、紡は大きく一文字だけ書いた。
『リセット』
まだ何も形になっていない、ただの思いつきに過ぎない言葉。だが紡には、これが単なる企画のタイトル以上の意味を持つように思えてならなかった。奪われた自分の人生を、ここからもう一度、自分の手で組み立て直す。その決意そのものが、この二文字に込められていた。
その夜、紡が自宅に帰り着いたのは、日付が変わる直前だった。玄関で靴を脱ぐ間もなく、そのままベッドに倒れ込む。だが、不思議と、心は凪いでいた。
スマートフォンには、律子からの短いメッセージが届いていた。
『初日、お疲れ様。明日からも、あんたなら大丈夫』
その一文を見つめながら、紡は静かに目を閉じた。奪われたものは、まだ何一つ取り戻せていない。それでも今日、紡は確かに、一歩を踏み出したのだった。




