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三十二才、お払い箱からのマザコン駆除日記  作者: 久遠 睦


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第1章:完璧なはずの誕生日に、地獄のファイルを添えて

◆32歳の誕生日という「落とし穴」


港区の夜景は、今日も残酷なくらいに美しかった。

店内には、上品なピアノの旋律が控えめに流れている。数えきれないほどのシャンデリアの光が、白いテーブルクロスの上で柔らかく揺れていた。

窓際の一等席、シャンパングラスの向こうに広がる東京タワーのオレンジ色の光。藤瀬紡(ふじせ つむぎ)は、その景色を眺めながら、自分がとても幸福な女であるはずだと、必死に自分に言い聞かせていた。

三十二歳の誕生日。交際五年になる恋人と、こうして高級フレンチの個室で向かい合っている。誰がどう見ても、順風満帆な人生の一場面だ。

中堅文具メーカー「セントラル・ステーショナリー」の企画開発部で働く紡は、真面目でコツコツ働くタイプだった。派手さはないが、地道な仕事ぶりで社内の信頼は厚い。二十代の頃は「石橋を叩きすぎて壊す」と揶揄されたこともあったが、三十を過ぎてからは、その慎重さが「藤瀬さんに任せれば安心」という評価に変わっていた。

実は、ここ数週間、紡は密かにこの日を心待ちにしていた。駿介が休日に一人でデパートへ出かけていたことや、スマートフォンをやけに大事に扱うようになったことに、紡は気づいていた。もしかしたら――そんな淡い期待を抱きながらも、外れていたら恥ずかしいと、律子にすら打ち明けずにいた。だからこそ今夜は、いつも以上に気合を入れて、新しく買ったワンピースに袖を通してきたのだった。

目の前に座るのは、同じ会社の企画開発部でエースと呼ばれる高坂駿介(こうさか しゅんすけ・三十四歳)。仕立ての良いネイビーのスーツを寸分の隙もなく着こなし、シャンパングラスを傾ける仕草すら、どこかのCMのワンシーンのように様になっている。

――出会った頃の駿介は、今とは少し違っていた。

紡がまだ入社二年目、右も左もわからず作った企画書を、当時すでに部内のホープだった駿介が真っ先に手に取ってくれたことがあった。

「これ、視点が面白いね。ちゃんと現場のお母さんたちの声を拾ってる」

先輩たちが誰も見向きもしなかった新人の企画書に、駿介はそう言って赤ペンでいくつもコメントを書き込んでくれた。あの時の、後輩の意見にも真剣に耳を傾けるまっすぐな眼差しを、紡は今でもふとした瞬間に思い出す。

もうひとつ、忘れられない記憶がある。二年前、紡が初めて任された大型クライアントとの商談で、大きな失敗をしてしまった夜のことだ。企画の詰めが甘く、先方から厳しい指摘を受け、同期にも先輩にも呆れられ、誰もいなくなった会議室で一人、自己嫌悪に沈んでいた。

そこへ、駿介がコンビニのホットコーヒーを二つ提げてやってきた。

「誰だって失敗する。大事なのは、次にどう挽回するかだろ」

彼はそう言うと、紡の隣に座り、作り直した企画書に夜遅くまで付き合ってくれた。終電も逃し、始発を待つ間、他愛のない話をしながら笑い合った、あの温かい時間。あの夜の駿介は、紡にとって、誰よりも頼りになる存在だった。

翌朝、寝不足の目をこすりながら出社した紡に、駿介はコンビニで買った栄養ドリンクをそっと差し出しながら言った。

「次のプレゼン、今度は俺も同席するから。一人で抱え込むなよ」

あの言葉に、どれだけ救われたことだろう。

半年ほど前からだろうか。駿介の口から「ママが」という言葉が、以前よりずっと頻繁に出るようになったのは。

「今夜、飲みに行こうよ」と誘っても、「今日はママが夕飯用意して待ってるから」と断られることが増えていった。最初は親孝行な人だと微笑ましく思っていた。だが、次第にその頻度は増え、まるで門限のある学生のように、駿介は決まった時間になると足早に帰っていくようになった。

紡は、そのことに小さな違和感を覚えながらも、深く考えないようにしていた。誰にでも、家族を大切にする時期はある。仕事が落ち着けば、きっと元に戻るはずだと、自分に言い聞かせていた。

その「いずれ」が、まさかこんな形で訪れるとは、当時の紡には想像もつかなかった。

だからこそ、この五年間、多少すれ違うことがあっても、頑張ってこられたのだ。あの頃の駿介はきっと、まだどこかにいるはずだと、信じてきたから。

「紡、三十二歳の誕生日おめでとう」

駿介の声で、紡は回想から引き戻された。彼は形の良い唇に、いつもの爽やかな笑みを浮かべている。

「僕たちも付き合って長いし、そろそろ身を固めようかと思ってね」

心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

――プロポーズだ。

五年間、ずっと待っていた言葉。仕事も順調で、恋人からはついに結婚の意思表示。三十代前半、誰もが羨むロイヤルロードを、自分は着実に歩んでいる――そんな幸福感が、紡の胸いっぱいに広がった瞬間だった。

「これ、僕からのプレゼント兼、結婚の条件ね」

駿介がテーブルの上に滑らせてきたのは、小さな指輪のケースではなかった。

紡の心臓が、期待でさらに高鳴った。きっと指輪は、この後でサプライズとして渡されるのだろう。そう思いながら差し出された包みを受け取ると、手に伝わってきたのは、想像していたビロードの小箱の柔らかさではなく、紙の束特有の、硬く角ばった感触だった。

A4サイズの、几帳面にファイリングされた分厚い書類の束。表紙には、まるで社内の企画書のように整った明朝体フォントで、こう印字されていた。

『高坂家・嫁の心得(監修:僕のママ)』

紡の頭の中で、何かがピシリと音を立てて凍りついた。


◆ドン引きのマザコン条件と、最悪の通知音


「え……これ、何?」

聞き間違いであってほしいと願いながら、紡は書類の表紙をなぞる。駿介は「ああ、これね」と、まるで何でもないことのように、身を乗り出してページをめくって見せた。

『第一条:紡さんの年齢(三十二歳)を考慮し、我が家の跡取りを早期に出産すること。同時に、私の母(駿介の祖母)の介護が必要になった際は即座に仕事を辞め、専業主婦として家庭に入るべし』

『第二条:駿介の給与はすべてママが管理する。紡さんへのお小遣いは月額一万円とする。ただし美容院代は月一回、五千円以内で申請可』

『第三条:毎朝五時に起床し、高坂家秘伝の出汁を使った朝食を用意すること。なお味の最終判断はママが行う』

『第四条:高坂家の嫁として、駿介の実家(世田谷)へは週三回の顔出しを義務とする。手土産は必ずママの好きな和菓子店「花菱」のものに限る』

あまりの内容に、紡は震える指で書類をめくる手を止め、抗議の声を絞り出した。

「週三回って……仕事もあるのに、そんなに実家に通えるわけ、ないじゃない」

紡がまず食いついたのは、皮肉にも一番地味に思えた第四条についてだった。だが駿介がそれに答えるより先に、紡の口からは、次から次へと疑問が溢れ出してきた。

「ちょっと待って……お小遣い一万円って、私にも働いてお給料もらってるんだけど?」

「もちろん紡の給料は別だよ」駿介はさも当然のように答えた。「でも結婚したら、家計は基本的にママの管理下に入るのが高坂家のルールだから。紡の給料も、家計に組み込むことになると思う」

「え、私が稼いだお金も……?」

「そこはママとよく相談してみて。ママ、昔経理の仕事してたから、お金の管理はすごく得意なんだ」

「それに、朝五時起きって……高坂家秘伝の出汁って、一体何なの? そこまでして、味の最終判断がママっていうのも、正直、意味がわからないんだけど」

「ママの舌はプロ級だからね。紡もそのうち、褒めてもらえるようになるよ、きっと」

駿介は、まるで褒め言葉のように、事も無げに言ってのけた。

紡は次のページをめくった。そこには、さらに信じがたい一文があった。

『第五条:紡さんの友人関係は、高坂家にふさわしいかママが事前に審査する。特に「甲斐律子」という人物については素行に問題があるとの情報があるため、結婚後の交流は禁止とする』

「律子のこと、審査したの……!?」

紡の声が裏返った。学生時代からの親友の名前が、見ず知らずの「ママ」に勝手に品定めされ、交流禁止にされている。もはや常識の範疇を超えていた。

「ああ、ママがSNSまで調べてくれてね。ネイルサロンで働いてる子でしょ? ちょっと派手すぎるから、紡には合わないだろうって」

「駿介、これ、さすがにおかしいと思わない? 私の友達関係にまで口を出すなんて」

「おかしくないよ。家族になるっていうのは、そういうことだから」

駿介はにこやかに、しかし一切揺らぐことなく言い切った。その揺るぎなさが、逆に紡を絶望させた。この男は、本気でこれが「愛情」だと信じているのだ。

紡は、最後のページに目を落とした。そこにはまだ、続きがあった。

『第六条:結婚式の日取り、会場、招待客リストは、すべてママの意向を最優先とする。紡さん側の招待客は、双方の家格のバランスを考慮し、五名以内に制限する』

「五人って……律子はもちろん呼ぶけど、他の友達とか、会社の人とか、ほとんど呼べないじゃない」

「仕方ないよ、高坂家は結構な名家だから。バランスが大事なんだ」

「駿介の家って、そんなに名家なの?」

「まあ、ママ曰く」

その言葉に、紡はもう、何かに反論する気力すら失っていた。

読み進めるごとに、紡の手が小刻みに震えていく。冗談だと思いたかった。だが駿介の顔には、微塵の悪意も、微塵の照れもない。むしろ、良いことを教えてやっているのだという、親切心すら滲んでいた。

「ちょっと、駿介……これ、本気で言ってるの?」

「もちろん本気だよ。だって、ママがすごく心配してるんだ、紡のこと」

「私の、何を?」

「年齢だよ」駿介はあっさりと言った。「紡ってもう三十二歳でしょう。女性としては、正直、崖っぷちじゃない。ママが言うには『そんな悠長にキャリアなんて言ってる場合じゃない』って。だからわざわざ時間を作って、この心得を監修してくれたんだ。ありがたいと思わなきゃ」

紡は、自分の耳を疑った。五年間、この男の隣で積み上げてきた時間、企画開発部でコツコツ築いてきたキャリア、その全部が「悠長なもの」だと切り捨てられた気がした。

「あ、ちなみに婚約指輪だけど」

駿介がスマートフォンの画面をこちらに向ける。そこに映っていたのは、安っぽい光沢を放つメッキのリングの画像だった。

「ママが『本物はもったいないから、これで十分でしょ』って言っててさ。届いたらこの画像通りのやつ、渡すね」

眩暈がした。目の前の景色が、シャンパンの泡のようにグラグラと揺れて見える。

その時だった。

テーブルの上に置かれた駿介のスマートフォンが、場違いなほど能天気な音を立てて震えた。

「ピロリロリ〜ン♪」

画面には、ハートの絵文字だらけのメッセージが躍っていた。

『しゅんぴー、まだお仕事終わらないのぉ? 寂しくてぴえんだよぉ』

送信者の名前は、社内の派遣社員――駿介の下について三ヶ月ほどの、二十代前半の女性だった。

紡の脳内で、何かがブチブチと音を立てて千切れていく感覚があった。怒りでも、悲しみでもない。もっと根源的な、五年間信じてきたものが根こそぎ引き抜かれるような、乾いた喪失感だった。

「駿介」

紡の声は、自分でも驚くほど静かだった。

「今の、何?」

「ん? ああ、部下からの連絡。今、大事な話してるのに、ちょっと空気読めない子でさ」

駿介は悪びれもせず、スマートフォンを裏返してテーブルに置いた。それだけだった。まるで小さな虫が飛んできて追い払った、程度の反応。

この日のために用意していた、駿介の好きなブランドのネクタイが入った紙袋を、紡はテーブルの下でそっと握りしめた。渡すタイミングを、もう永遠に失ってしまった気がした。

「『しゅんぴー』って、あの子、あなたのことそう呼んでるの?」

紡が尋ねると、駿介は一瞬、ばつが悪そうな顔をしたが、すぐにいつもの余裕を取り戻した。

「ああ、部下たちの中で、そういうノリが流行ってるんだよ。深い意味はない」

「三ヶ月前に配属されたばかりの子が、あなたのことを愛称で呼ぶくらい、仲がいいんだ」

「紡、それ、束縛? 今どき、そういうの、あんまり良くないと思うけどな」

駿介は、悪びれるどころか、逆に紡をたしなめるような口調で言った。まるで、疑うこと自体が紡の落ち度であるかのように。

紡は、目の前の男の顔を、まじまじと見つめた。整った顔立ち、爽やかな笑み、仕立ての良いスーツ。五年間、確かに愛していたはずのその顔が、今はまるで見知らぬ他人のように見えた。

「……お会計、お願いできる?」

紡は震える声を必死に抑えて言った。駿介は不満げに眉をひそめたが、「まあ、今日はめでたい日だし」と、それ以上は追及しなかった。紡がまだ、この結婚を受け入れるとでも思っているかのように。

タクシーに揺られながら、紡は窓の外を流れていく夜景をぼんやりと眺めていた。膝の上に置かれた紙袋の中には、あの『嫁の心得』が入ったファイルが、まるで重石のように沈んでいる。

(これで、終わりにしよう)

心の中では、はっきりとそう決めていた。だが不思議なことに、涙は出なかった。ただ、五年間という時間の重みが、じわじわと胸に広がっていくだけだった。二十七歳から三十二歳までの、人生でいちばん忙しく、いちばん充実していたはずの時間。その全部を、目の前の男に捧げてきたつもりだった。

駿介と過ごした五年間を、紡は指折り数えるように思い返した。一緒に見た映画、初めて旅行した沖縄の海、体調を崩した紡のために買ってきてくれた薬。ひとつひとつは、確かに幸せな記憶のはずだった。それなのに、今はどの記憶も、色褪せて見える。まるで、最初から偽物だったかのように。

マンションの部屋に帰り着くと、紡はスーツも着替えないまま、ソファに崩れ落ちるように座り込んだ。スマートフォンの画面には、駿介からの能天気なメッセージが一件届いていた。

『今日はありがとう! ママにも紡が喜んでたって伝えとくね』

紡は、その文面を見つめたまま、しばらく指一本動かせなかった。何をどう伝えれば、この男に現実を理解させられるのか、もはや想像もつかなかった。

その夜、紡は一睡もできないまま、朝を迎えることになる。


◆キャリアまで強奪される翌朝


翌朝、洗面所の鏡の前に立った紡は、隠しきれないクマを化粧下地で丁寧に伸ばしながら、自分に言い聞かせた。

(絶対に、弱っているところは見せない)

駿介にも、社内の誰にも、下を向いた姿を見せるつもりはなかった。鏡に映る自分の顔をじっと見つめ、紡は小さく頬を叩いて気合を入れると、いつも通りのパンツスーツに袖を通し、家を出た。

だが、その決意は、出社してすぐに、あっさりと打ち砕かれることになる。

出社してすぐ、企画開発部の朝礼で、部長が満面の笑みで声を張り上げた。

「みんな、聞いてくれ! 次の秋の主力商品コンペだが、高坂くんが提出してくれた『働く女性のための機能性手帳』の企画を、我が部の代表として役員会へ推薦することが決定した!」

会議室に拍手が起こる中、紡は自分の耳を疑った。

スクリーンに大きく映し出されたのは、紡がこの数ヶ月、毎晩遅くまで残業し、休日を潰して街頭アンケートを取り、何度も企画書を書き直して作り上げた『働く女性のための機能性手帳』――その企画書そのものだった。表紙のデザインも、目次の構成も、紡が何度も書き直した末にたどり着いた、あの形そのままだった。

違うのは、たった一点。

企画書の右上、作成者の欄に印字された名前が「藤瀬紡」ではなく「高坂駿介」になっていることだけだった。

「高坂くんの発想力には、いつも驚かされるよ」

部長が満足げに続ける横で、駿介は謙遜するように軽く頭を下げてみせた。その堂々とした態度に、紡は言葉を失った。隣の席に座る同期が、小声で「さすが高坂さん、やっぱセンスあるよなぁ」と呟くのが聞こえる。

紡は、朝礼の間、指先ひとつ動かせなかった。頭の中が真っ白になり、周囲の拍手の音だけが、やけに遠くから聞こえてくる。目の前で、自分の半年間が、まるで最初から存在しなかったことのように塗り替えられていく。その現実を、紡はただ、呆然と見つめることしかできなかった。

朝礼が終わるなり、紡は駿介の腕を掴み、無理やり給湯室へと引っ張り込んだ。

「駿介、どういうこと!? どうして私のパソコンからデータを持ち出したの!? あれは、私が半年かけて作った企画よ!」

普段は温厚な紡が声を荒げるのも構わず問い詰めると、駿介はフッと鼻で笑い、これまで見せたことのない冷ややかな目を向けてきた。

「盗んだ? 人聞きが悪いな」

「盗んだんでしょう、実際に!」

「僕たちは結婚するんだから、二人の財産は共有だろう?」駿介は悪びれる様子もなく、むしろ紡の理解力の低さを憐れむような口調で続けた。「それに、男の僕が実績を上げた方が、高坂家にとっても都合がいいんだ。ママも言ってたよ、『男を立てられる賢い子でよかった』って。むしろ僕は、紡の企画を評価して、表舞台に出してあげたんだ。感謝してほしいくらいなんだけどな」

あまりの理屈に、紡は言葉を失った。怒りを通り越して、目の前の男が何を言っているのか、脳が処理を拒否している感覚すらあった。

「駿介……二年前、あなたが夜中まで付き合ってくれたこと、覚えてる? 『誰だって失敗する、大事なのは挽回することだ』って、言ってくれたよね。今、まさにそれをしてるのは、私の方じゃないの?」

紡は、縋るような思いで、かつての駿介に語りかけた。

一瞬、駿介の目に、迷いのようなものが揺れた気がした。だがそれも、ほんの一秒にも満たない時間だった。

「……昔の話だろ、それ」

駿介は、視線を逸らしながら、吐き捨てるように言った。

「いつまでも、そういう青臭いこと言ってるから、紡は上に行けないんだよ。ママも言ってた。優しさだけじゃ、この先の人生、渡っていけないって」

その言葉に、紡は、かつて自分が信じていた駿介が、もうどこにもいないのだと、はっきりと悟った。

「……訂正して。今すぐ、部長に本当のことを話して」

「無理だよ」駿介はあっさりと言った。「もう役員会に推薦されちゃったんだから、今更『実は元カノの企画でした』なんて言えるわけないだろう。紡だって、そんな見苦しい真似、僕にさせたくないよね?」

元カノ、という言葉に、紡は一瞬遅れて気づく。もう自分は、駿介の中で「婚約者」ですらなく「元カノ」として処理されているのだと。

呆然としたまま自分のデスクに戻った紡は、震える指でノートパソコンを開いた。せめて、いつ、どうやってデータが持ち出されたのか、それだけでも確認しておきたかった。

企画書のファイルを調べると、最終更新日時は、紡が最後に保存した日から二日後になっていた。その日は、紡が体調を崩して有給を取っていた日だ。おそらく、駿介はその隙を見計らって、紡のパソコンに直接触れたのだろう。かつて交際していた頃、何度か席を外す紡に代わって「これ、印刷しておいてあげるよ」と申し出てくれたことがあった。あの親切心も、今思えば、いつかこうして利用するための布石だったのかもしれない。

そう思うと、紡の中で、ただの怒りとは違う、冷たい何かが芽生え始めた。感情のままにぶつかっても、この男には通用しない。ならば、証拠を、事実を、一つひとつ積み上げていくしかない。

さらに悪いことに、駿介は既に先手を打っていた。

給湯室から自分のデスクへ戻る途中、紡は思わず足を止めた。ロッカールームの扉の隙間から、聞き覚えのある声が漏れてきたからだ。

「ねえ、聞いた? 藤瀬さん、高坂さんに婚約破棄されて、それで逆恨みして、盗作だとか言いふらしてるらしいよ」

「えー、怖い。最近、様子もちょっとおかしかったもんね。情緒不安定っていうか」

「深入りしない方がいいかもね、今は」

聞き覚えのある声は、少し前まで「藤瀬さん、頼りにしてます!」と笑顔で寄ってきていた後輩の女の子のものだった。紡は、扉を開けて反論する気力すら湧かなかった。ただ、静かにその場を離れた。

自分のデスクに戻ると、同期の男性社員が、気まずそうに声をかけてきた。

「藤瀬、あの、大丈夫か? なんか、高坂と揉めてるって聞いたけど……」

「ちゃんと話せば、わかってもらえると思う」

紡がそう答えると、同期は困ったように視線を逸らした。

「いや、まあ、そういうことなら……あんまり首、突っ込まない方がいいかなって、俺は思うけど」

そう言って、彼はそそくさと自分の席へと戻っていった。誰もが、火の粉が飛んでくることを恐れているようだった。真実がどうであるかよりも、面倒事に巻き込まれないことの方が、今のこの部署では優先されているのだと、紡は思い知らされた。

その日の午後には、部内にこんな噂が広まっていた。

「藤瀬さん、婚約破棄されたことを逆恨みして、高坂くんの企画を盗作だって騒いでるらしいよ」 「最近ちょっと情緒不安定みたいだから、あまり刺激しない方がいいって」

納得できないまま、紡はその足で部長室へと向かった。せめて上司にだけは、真実を知ってもらわなければならない。

「部長、少しお時間よろしいでしょうか。折り入って、ご相談したいことが」

デスクで書類に目を通していた部長は、顔を上げると、心なしか気まずそうな表情を浮かべた。

「ああ、藤瀬さん……何かな」

紡は深呼吸をしてから、できるだけ冷静に、事実を正確に伝えようと言葉を選んだ。

「今回の『働く女性のための機能性手帳』の企画ですが、あれは元々、私が半年かけて作成したものです。街頭アンケートのデータも、コスト試算も、すべて私のパソコンに保存していたもので――」

「藤瀬さん」

部長は紡の言葉を遮った。困ったような、それでいてどこか腫れ物に触るような視線を紡に向ける。

「気持ちはわかるよ。だが、高坂くんとはプライベートでいろいろあったんだろう? 正直、部内でも君のことを心配する声が出ていてね……感情的になって、こういう話をするのは、あまり感心しないな」

「感情的になんて……! これは事実です。パソコンのアクセスログを調べていただければ――」

「アクセスログの調査なんて、社内でそう簡単にできることじゃないのは、藤瀬さんもわかるだろう」

「では、せめて、企画開発部内で改めて検討する場を設けていただくことは……」

「藤瀬さん」

部長は、今度は少し強い口調で紡の言葉を遮った。

「高坂くんは、もう役員会に推薦されているんだ。今さらそれを覆したら、部としての面子にも関わる。頼むから、これ以上、事を大きくしないでくれないか」

部長は困り顔のまま、やんわりと、しかし確実に紡の訴えを門前払いにした。既に、駿介が流した噂が、部長の耳にまで届いていたのだ。

「今は頭を冷やして、業務に集中してくれないか。頼むよ」

紡は、それ以上食い下がることができなかった。目の前にいるのは、五年間、真面目に働く紡の姿を、誰よりも近くで見てきたはずの上司だった。それなのに今、彼の目に映っているのは、ただの「面倒な問題を起こす社員」でしかなかった。

部長室を出た紡の足取りは、鉛のように重かった。正しいことを、正しいと証明する手段すら、今の自分には残されていなかった。

昨日まで「藤瀬さん、頼りにしてます!」と笑顔で寄ってきていた後輩の女の子も、同期の男性社員も、みんな紡と目を合わせようとしなくなった。ランチに誘っても「今日はちょっと」と濁される。エレベーターで一緒になっても、気まずそうに視線を逸らされる。

昼、社員食堂に足を運んだ紡は、いつも同僚たちと囲んでいた四人掛けのテーブルに、誰も座っていないことに気づいた。少し離れた席では、以前一緒にランチをしていた後輩たちが、こちらをちらちらと窺いながら、小声で何かを話している。紡はトレイを持ったまま、結局、隅の一人掛けの席を選んだ。

味のしない定食を、紡は機械的に口に運んだ。半年前までは、ここで企画の相談をしたり、他愛のない雑談で笑い合ったりしていた。その日常が、こんなにもあっけなく消えてしまうものだとは、想像もしていなかった。

昼休み、誰もいない非常階段の踊り場で、紡は一人、膝を抱えてうずくまった。

五年間積み上げてきた恋も、半年かけて作り上げた企画も、そして築いてきたはずの社内での信頼も――たった一晩で、根こそぎ奪われてしまった。

(どうして、こんなことに)

込み上げてくる涙を、紡は必死に堪えようとした。だが、堪えれば堪えるほど、涙腺は決壊寸前になっていく。

その時、スマートフォンが震えた。画面に表示されていたのは、学生時代からの親友、甲斐律子(かい りつこ)からのメッセージだった。

『紡、誕生日どうだった? 写真送ってよ』

その一文を見た瞬間、紡の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。

膝を抱えたまま、紡は震える指でスマートフォンを操作し、律子に電話をかけた。コール音が二回鳴ったところで、律子の明るい声が応答する。

「もしもーし、紡? どうしたの誕生日の――」

「律子……」

紡の声が震えているのに気づいたのだろう、律子の声色が一瞬でシリアスなものに変わった。

「……紡? 何かあった?」

非常階段の冷たいコンクリートの壁に背を預けたまま、紡はしゃくりあげながら、これまでの顛末をぽつりぽつりと話し始めた。プロポーズと引き換えに渡された「嫁の心得」のこと。派遣社員からの気の抜けたLINE。半年かけた企画を盗まれたこと。そして、社内で完全に孤立してしまったこと。

電話の向こうで、律子がしばらく黙り込んだ。紡は、律子が絶句してしまったのだと思った。

だが次の瞬間、律子の声が、怒りで震えながら響いた。

「……は? ちょっと待って、今すぐそっち行くから。今夜、絶対うちに来て。仕事終わったら即行だからね」

「え、でも」

「いいから!」律子の声は、有無を言わせぬ強さだった。「今夜は、とことん付き合ってあげる。三十二歳の女をナメた報いってやつを、じっくり考えようじゃないの」

学生時代、就職活動でことごとく落とされ、紡が自信を失いかけていた時も、律子はいつもこうして、有無を言わせぬ強引さで紡を励ましてきた。あの頃から変わらない親友の声に、紡は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。

「わかった。仕事終わったら、そっち行く」

「うん、待ってる。あと、来る前にコンビニで甘いもの買ってきなさいよね。今夜は糖分がいるわ」

律子らしい気遣いに、紡は思わず小さく笑ってしまった。涙で濡れた頬のまま、久しぶりに浮かんだ笑みだった。

電話を切ったあと、紡は非常階段の窓から見える曇り空を見上げた。

昨日までの自分は、幸福な結婚を目前にした、順風満帆な三十二歳のはずだった。それが一夜にして、恋人にも、キャリアにも、社内の居場所にすら見放された「お払い箱」になってしまった。

だが――紡の胸の奥で、悲しみとは違う何かが、静かに、しかし確かに芽生え始めていた。

このまま黙って、全部を明け渡してたまるものか。

窓の外に広がる曇り空の下には、いつもと変わらないビル群が立ち並んでいる。その中のどこかに、今も駿介がいて、何事もなかったかのように仕事をしているのだろう。

だが、紡はもう、その景色に怯える必要はなかった。奪われたものを、指をくわえて見ているだけの自分ではいられない。今はまだ何も持たない、ただの「お払い箱」かもしれない。それでも、ここから這い上がってやる――そう心に誓いながら、紡は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。


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