第6章:不良在庫の処分と、新しいスタートライン
◆ 「ママの腕の中へ、お引き取りください」
コンペから三日後、駿介の懲罰委員会の結果が出た。不正アクセスによる業務妨害と、会社機密データの持ち出し。加えて、社内恋愛における公私混同の数々。処分は、懲戒解雇だった。
私物をまとめて会社を去るその日、駿介は最後に紡を捕まえようと、廊下で待ち伏せしていた。魂の抜けたような顔で壁に寄りかかり、ガタガタと震えている。紡が通りかかると、駿介は藁にもすがる思いで彼女のスカートの裾を掴んできた。
「つ、紡……! 悪かった! 僕が間違っていたよ! 君の手帳の企画は本当に素晴らしかった! ママもね、ちょっと言い過ぎたって反省してるんだ! だから、僕たちやり直そう! 結婚しよう!」
どこまでも身勝手な言葉に、紡は怒りすら湧かなかった。ただ、哀れみを持って冷ややかに見下ろすだけだった。
紡はバッグを肩にかけ直すと、最高のビジネススマイルを浮かべて言い放った。
「高坂さん、お引き取りください。私の人生にも、我が社のラインナップにも、あなたのような『不良在庫』を置いておくスペースはありません。これからはどうぞ、大好きなママの腕の中で、一生よしよしされていてください。さようなら」
「紡――ッ!!」
無様な叫び声を背中に聞きながら、紡はヒールを小気味よく響かせて、前だけを向いて歩き出した。その足取りは、この五年間で最も軽やかだった。
エレベーターに乗り込み、扉が閉まる瞬間、紡はふと、鏡張りの内壁に映る自分の顔を見つめた。そこにあったのは、もう涙も、怒りもない、ただ穏やかな表情だった。
五年間、あれほど大きな存在だった男が、今はもう、心の中でどんどん小さくなっていく。まるで、長く患っていた熱が、ようやく下がったような、そんな清々しさだった。
◆ 律子への報告のはずが……
その夜、紡は律子の部屋を訪れた。今夜は、律子と二人だけで飲む約束だった。テーブルの上には、律子が奮発したという高級な寿司折と、よく冷えたシャンパンが並んでいる。
部屋に一歩入るなり、紡は思わず息を呑んだ。テーブルの上には、いつもの発泡酒ではなく、見るからに値の張るシャンパンボトルが、堂々と鎮座していたからだ。
「お疲れ様、紡! 完全勝利おめでとう!」
律子はシャンパングラスを高々と掲げた。紡もグラスを合わせながら、胸の奥から込み上げてくる感慨に、しばらく言葉が出なかった。
「律子、本当にありがとう。あの証拠写真がなかったら、ここまで完璧には終われなかった」
「何言ってんの、当然でしょ。あんたを傷つける奴は、私も敵だから」
律子はそう言って、寿司をひとつまみ口に運んだ。
「それにしても、あの母親の電話、最高だったわね。ハンズフリーで会議室中に響き渡ったって聞いたときは、涙出るくらい笑ったわ」
「私も、あの瞬間は思わず笑いそうになった」
紡がくすりと笑うと、律子は急に真顔になり、じっと紡を見つめた。
「ねえ、紡。今だから聞くけど、あんた、あの一ノ瀬くんのこと、どう思ってんの」
紡は思わずむせそうになった。
「な、なに、急に」
「隠したって無駄よ。あんたの声のトーン、あの人の話をするときだけ違うんだから」
図星を突かれ、紡は答えに詰まった。律子は、いつもより少しだけ長く、意味ありげに紡の顔を見つめてから、にやりと笑った。
「ふうん、まあいいわ」
その笑みの奥に何かを隠しているようにも見えたが、紡がそれに気づく前に、律子はグラスにシャンパンを注ぎ足し始めた。
◆ 「え、なんで航くんが!?」
会話が一段落したちょうどその時、玄関のインターホンが鳴った。
「あ、来た」
律子が、あまりにも自然な調子でそう呟き、すっと腰を上げた。紡は寿司をつまんだまま、きょとんとした顔で律子を見上げた。
「来たって……誰か呼んでたの? 今日は二人で飲むって話だったよね」
「いいから、いいから」
律子は取り合わずに玄関へ向かうと、鼻歌交じりに扉を開けた。そこに立っていたのは、手土産の紙袋を提げた航だった。
「あの……お邪魔します」
「え――」
紡は、口に運びかけていたシャンパングラスを、思わず宙で止めた。
「な、なんで航くんが!?」
驚きのあまり、椅子から腰が浮きかける。部屋着のまま、化粧も半分落としかけていた自分の格好を、今さらのように意識してしまい、慌てて髪を手で整えた。
「あんたが噂の一ノ瀬くんね! さあさあ、入って入って」
律子は悪びれる様子もなく、興味津々といった様子で航を部屋の中へと引き入れた。呆然とする紡の横を通り過ぎながら、律子はこっそりと耳打ちしてきた。
「実はね、二日前から誘ってたの。あんたには内緒で」
「……嘘でしょ」
「本当よ。さっきの質問だって、伏線だったんだから。ふふん」
律子は悪びれることなく、むしろ得意げに笑った。
一方の航も、状況を飲み込めていない様子で、部屋の入り口できょとんと立ち尽くしていた。
「あの……甲斐さんから『藤瀬さんも呼んでるので、お礼かねて一緒にどうですか』って連絡もらったんですけど……もしかして、藤瀬さん、聞いてなかったんですか?」
「聞いてなかった……!」
紡が声を裏返らせると、律子はけらけらと笑い出した。
「ごめんごめん、でも二人だけだと、あんたたち絶対、仕事の話しかしないでしょ。だから、ちょっとお節介焼いてみたの」
紡は、恥ずかしさと戸惑いで頬が熱くなるのを感じながら、しどろもどろに言葉を返した。
「べ、別に、変な意味はないから。ただの、お礼の席、だから」
「はい、僕も、そういう認識で来ました」
航も慌てたように言い添えた。二人して余計にぎこちなくなる様子を見て、律子は満足げに腕を組んだ。
「初々しくて何より」
三人での食事は、最初こそ紡と航がお互いに目を合わせられないほどぎこちない様子だったが、律子の遠慮のない突っ込みに、次第に打ち解けていった。
「にしても、あんな性格悪い罠、よく紡に協力してくれたわね。見所あるじゃない」
「藤瀬さんの方が、僕よりよっぽど策士ですよ」
航が苦笑しながら返すと、律子は満足げに頷いた。
「合格。紡のこと、これからもよろしくね」
「……はい」
航が真面目な顔で頷くのを見て、紡は思わず笑ってしまった。
食事も終わりに差し掛かった頃、紡はふと思い出したように口を開いた。
「そういえば律子、前にちらっと言ってた、サロンの常連さんとは、その後どうなったの?」
今度は、律子が露骨に視線を泳がせる番だった。
「な……別に、どうもなってないし。あの人はただのお客さんだから」
「え、なんか赤くなってない?」
「なってないから!」
黙って聞いていた航が、興味深そうに口を挟んだ。
「甲斐さんも、隅に置けないですね」
「うるさいうるさい! 今日は紡の話でしょ、話逸らさないでよ!」
律子が慌てて話題を戻そうとする様子に、紡と航は顔を見合わせ、思わず笑い声を上げた。人をからかうのは得意でも、からかわれるのには滅法弱い――そんな律子の新しい一面を見られたことが、紡にはなんだか嬉しかった。
窓の外はすっかり暗くなっていたが、三人が囲むテーブルの上だけは、いつまでも賑やかな灯りに包まれていた。
◆ 会社での評価、変わっていく風向き
コンペの翌週から、紡を取り巻く社内の空気は、目に見えて変わり始めていた。
社員食堂でも、以前のように独りぼっちで座ることは、もうなくなっていた。誰かが必ず、当たり前のように紡の隣に腰掛けるようになっていた。
かつて紡を避けていた同期や後輩たちが、廊下ですれ違うたびに気まずそうに頭を下げてくるようになった。中には、わざわざ地下オフィスまで足を運び、「あの時は噂を信じてしまって、本当にすみませんでした」と謝罪してくる社員もいた。
紡は、そのすべてに対して、殊更に責め立てるようなことはしなかった。ただ静かに「気にしないでください」と返すだけだった。今さら過去を蒸し返しても、何かが変わるわけではない。それよりも、これから先の仕事に集中したかった。
ある日、あの日会議室で涙ながらに謝罪してきた後輩が、今度は明るい表情で紡のデスクを訪れた。
「藤瀬さん、実は今度、私も新商品の企画コンペに挑戦してみようと思ってて……もしよかったら、進め方とか、少し相談に乗ってもらえませんか」
かつて紡から距離を置いていた後輩の、まっすぐな瞳を見つめながら、紡は温かい気持ちで頷いた。
「もちろん。一緒に頑張ろう」
奪われる側から、今度は誰かに何かを与えられる側へ。その変化を、紡は静かに噛み締めていた。
半年後、社内システムの人事データベースを何気なく検索した際、紡はふと、駿介の名前で検索をかけてみた。表示されたのは「退職済み」の一文だけだった。かつて社内のエースと呼ばれ、輝かしい実績を誇っていたはずの男の痕跡は、もうどこにも残っていなかった。
紡は、その画面をしばらく見つめた後、静かにブラウザを閉じた。
その日の帰り際、律子から届いたメッセージにも、駿介の名前があった。
『風の噂だけど、あの人、結局スーパーもクビになったらしいわよ。理由? ママが毎日のようにお弁当を届けに来ては、店員さんに文句をつけるのが続いて、とうとう店長がキレたんだって。「迷惑行為だ」って、親子ともども出入り禁止にされたらしいわよ』
呆れるを通り越して笑ってしまうような顛末に、紡は思わず声を上げて笑った。あの人たちは、本当に、どこまでも変わらないらしい。振り返る必要はもうない。前を向くべき時間の方が、ずっと大切だった。
ある日、紡と航は、常務直々に呼び出しを受けた。
「藤瀬くん、一ノ瀬くん。今回の『リセット日記』の件、正式に来期の主力企画として、量産ラインの準備を進めることになった」
常務は満足げに続けた。
「それと、藤瀬くんには、新設する『商品開発戦略室』のリーダーを任せたいと思っている。もちろん、一ノ瀬くんも一緒にだ」
「メンバーは、社内公募で集めた、意欲のある若手を数名つける予定だ。藤瀬くんの、あの地道なリサーチ手法を、他の企画にも広げていってほしい」
紡は、思わず言葉を失った。半年前、社内の墓場と呼ばれる部署に飛ばされ、誰からも見向きもされなかった自分が、今こうして、正式にリーダーとしての役割を任されようとしている。
「……お受けします」
紡は深く頭を下げた。隣に立つ航も、いつもの素っ気ない表情の中に、隠しきれない喜びを滲ませていた。
会議室を出た後、廊下でかつての上司――紡の訴えを門前払いにした、あの部長と鉢合わせた。
「藤瀬さん」
部長は、気まずそうに、しかし今度はしっかりと紡の目を見て言った。
「あの時は、君の話を、真剣に聞いてやれなかった。申し訳なかった」
「……ありがとうございます」
紡は静かに頭を下げると、それ以上、多くを語らなかった。過去は変えられない。だが、これから先の関係は、今この瞬間から、少しずつ築き直していけばいい。そう思えるだけの余裕が、今の紡にはあった。
それから間もなく、紡は新人研修の講師として、壇上に立つ機会を得た。
「企画を作るときに大事なのは、机の上で考えることじゃなくて、実際に足を運んで、人の声を聞くことです」
かつて誰にも見向きもされなかった紡の言葉に、新入社員たちは真剣な眼差しで耳を傾けていた。壇上から見渡す景色は、半年前には想像もできなかったものだった。
◆ 地下オフィスからの卒業
商品開発戦略室への異動が決まり、紡と航は、半年間過ごした地下オフィスを引き払うことになった。
段ボール箱に私物を詰めながら、紡はふと、あの初日のことを思い出していた。窓一つない薄暗い部屋、冷たい視線を寄越すだけだった航、そして「噂のドロ沼さん」という言葉。
作業の途中、紡のスマートフォンが震えた。画面には「律子」の文字。
「もしもし、律子? 今、ちょうど荷物整理中で――」
『紡、聞いてよ、この前見ちゃったんだけど』
律子の声には、隠しきれない愉快さが滲んでいた。
『実家の近くのスーパーに買い物に行ったらさ、品出しのエプロンつけた駿介がいたのよ。しかも隣に、ばっちりメイクしたおばさんがついて回ってて、レジの店員さんに向かって「うちの駿ちゃんに、そんな重い作業させないでちょうだい」って、大声で文句言ってたの』
「……それ、まさか」
『十中八九、ママでしょうね。駿介、面接にも一人で行けなくて、志望動機まで代わりにママが喋ったって、共通の知り合いが噂してたわ。おまけに毎日、手作りのお弁当をわざわざ届けに来てるんだって。三十四歳にもなって』
紡は思わず、荷造りの手を止めた。三十四歳の男が、母親に付き添われながらスーパーの品出しをしている光景を想像すると、憐れみよりも先に、乾いた笑いがこみ上げてくる。
「変わらないんだね、あの人も、あの人のママも」
『でしょ。まあ、あんたにはもう関係ない話だけど』
律子はあっさりと言うと、明るい声で続けた。
『それより、新しい部署の話、今度ゆっくり聞かせなさいよ』
「うん、また今度ね」
電話を切ると、紡は小さく息をついた。かつて自分から全てを奪おうとした男の、あまりにも小さくなった今の姿。同情する気持ちは、微塵も湧かなかった。ただ、これでようやく、本当に過去のものになったのだと、静かに実感するだけだった。
「懐かしいですね、ここ」
航が、壁際に積まれたファイルボックスを片付けながら言った。
「最初は本当に、最悪な場所だと思ってた」
紡が正直に言うと、航は小さく笑った。
「僕もです。でも、今となっては、ちょっと名残惜しいかもしれないですね」
窓のない部屋には、この半年間の二人の軌跡が、確かに刻まれていた。深夜まで続いた議論、何度も練り直したコンセプトシート、そして、少しずつ溶けていった航の氷のような態度。
段ボール箱の底から、航が最初に描いてくれた、あの手描き風のロゴのラフスケッチが出てきた。捨てるには忍びなく、紡はそっとそれを鞄の内ポケットにしまい込んだ。
紡は、使い込んだマグカップを段ボール箱に収めながら、静かにこの部屋との別れを噛み締めた。
◆ 年下の特等席
引っ越し作業を終えた夕暮れ時、会社ビルのエントランスを出ると、秋の心地よい風が紡の髪を揺らした。
「藤瀬さん」
後ろから声をかけてきたのは、航だった。彼はいつもの無愛想な仮面を外し、どこか耳を赤くしながら、紡の隣に並んだ。
「新しい部署でも、よろしくお願いします」
「うん、こちらこそ」
紡が微笑むと、航は一瞬ためらった後、意を決したように紡の手をぎゅっと力強く握りしめた。驚いて目を見開く紡に、航は普段の生意気なトーンを少し崩し、真剣な眼差しで言った。
「あの人のいたスペース、もうなくなりましたけど……これから、俺がその特等席、もらってもいいですか。仕事の相棒としても、その、男としても」
年下の不器用で、だけど真っ直ぐな告白だった。
紡は一瞬驚いた後、今度は心からの、これまでで一番眩しい笑顔を咲かせた。
「ふふ、バカなくらい真面目に、考えてあげる」
握られた手を、紡はしっかりと握り返した。二人の影が、夕暮れの中、長く伸びていく。
「藤瀬さんって呼ぶの、そろそろやめません?」
航が、少し照れたように言った。
「じゃあ、紡って呼んで」
「……紡さん」
その響きに、紡の頬が緩んだ。
握られたままの手の温もりが、紡の胸に、じんわりと広がっていく。この半年間、数えきれないほどの困難を乗り越えてきた。だが今この瞬間、そのすべてが報われたような、そんな満たされた気持ちだった。
エントランス前の歩道を、二人はゆっくりと歩き出した。会社のビルを振り返ると、地下フロアの小さな窓に、明かりが灯っているのが見えた。かつて墓場と呼ばれたあの場所から、確かに今、新しい何かが始まろうとしていた。
「お腹すきましたね」
航がぽつりと言った。
「うん、すごく」
紡が答えると、航は少しだけ得意げに笑った。
「じゃあ、奢りますよ。今度こそ、ちゃんと」
「今度こそって、何よ」
「いや、こっちの話です」
紡と航は、笑い合いながら、駅へと続く道を並んで歩いていった。秋の夕暮れに染まる街並みの中、二人の足取りは、どこまでも軽やかだった。
◆ 新しい部署の、いつもの日常
それから一ヶ月後。
商品開発戦略室は、以前の企画開発部があったフロアの一角、日当たりの良い窓際に新設されていた。窓の外には青空が広がり、地下オフィスの薄暗さが嘘のようだった。
新設部署の初日、紡は集まった若手メンバーを前に、短い挨拶をした。
「至らないところも多いと思いますが、精一杯やらせていただきます。何かあれば、遠慮なく声をかけてください」
深々と頭を下げる紡に、メンバーの一人が、恐る恐る手を挙げた。
「あの、藤瀬さんの『リセット日記』の企画書、実は密かに読ませてもらったんですけど……ものすごく感動しました。ああいう、地道なリサーチに基づいた企画の作り方、私も学びたいです」
紡は、少し驚いたように目を見開いた後、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。私も、まだまだ勉強中だから、一緒に頑張ろうね」
かつて「腫れ物扱い」されていた紡が、今は若手から憧れの目で見られる立場になっている。その変化を、紡自身、まだどこか実感が湧かないでいた。
ある月曜日の朝礼で、紡は堂々とホワイトボードの前に立ち、次の企画の方向性についてメンバーに説明していた。かつて、非常階段でうずくまって泣いていた自分からは、想像もつかない姿だった。
「みんなの意見も聞かせてほしいの。より良いものを作るために、遠慮なく」
紡の言葉に、メンバーたちが次々と手を挙げ、活発な議論が交わされていく。その様子を、航は少し離れた場所から、誇らしげに見つめていた。
ある日、常務が航のデザインを見て、感心したように言った。
「一ノ瀬くん、このロゴデザイン、本当に素晴らしいね。こういうセンス、今まで社内で埋もれさせていたなんて、もったいなかったな」
かつて「美大出てるのに、誰も見てくれない」とこぼしていた航にとって、その一言は、何年越しかの、待ち望んでいた評価だった。
「……ありがとうございます」
短く答えた航だったが、その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。紡は、その横顔を見つめながら、密かに、自分のことのように嬉しくなっていた。
「ところで、その室長っていう呼び方、そろそろ慣れました?」
航がからかうように尋ねると、紡は苦笑した。
「正直、まだちょっと落ち着かない。一ノ瀬くんに『藤瀬さん』って呼ばれてた方が、しっくりくるかも」
「じゃあ、二人の時は『紡さん』でいいですか。仕事中は、ちゃんと『室長』って呼びますから」
「うん、それでいい」
そんな些細なやり取りひとつひとつが、紡にとって、かけがえのない日常になっていた。
数週間後、紡に相談を持ちかけたあの後輩が、意気揚々と報告にやってきた。
「藤瀬さんに教えてもらった通り、実際に店頭でアンケート取ってみたら、思った以上に良い反応があって……! 課内の一次審査、通過しました」
嬉しそうに報告する後輩の姿に、紡は自分のことのように誇らしい気持ちになった。
「おめでとう。この調子で、頑張って」
かつて紡自身が誰にも認められず、地下の部署で一人もがいていた頃を思うと、こうして誰かの背中を押せる立場になれたことが、何よりの喜びだった。
ある日曜日、航が珍しく、私服姿で紡のマンションの前に現れた。
「今日、時間あります? ちょっと、行きたいところがあって」
紡は、私服姿の航を見るのが新鮮で、思わずまじまじと見つめてしまった。いつものオフィスカジュアルとは違う、シンプルなシャツとデニム姿は、どこか大学生のような若々しさを感じさせた。
連れて行かれたのは、都内の小さな文具の展示会だった。国内外のデザイナーが手がけた、個性豊かな紙製品が並ぶ会場を、二人は手を繋いで見て回った。
「こういう場所、今度の企画のヒントになるかもって思って」
仕事の話にかこつけながらも、航の耳は、うっすらと赤く染まっていた。紡は、その不器用な誘い方に、思わず笑みがこぼれた。
「デート、下手だね」
「う、うるさいです。初めてなんで」
むきになって言い返す航に、紡はますます頬を緩めた。
展示会の帰り道、二人は近くの公園のベンチに腰掛け、買ったばかりのアイスクリームを分け合った。他愛のない会話をしながら過ごす時間は、これまでのどんな戦略会議よりも、紡の心を穏やかに満たしていた。奪われたと思っていた人生の続きに、今、こんなにも穏やかで幸せな時間が待っているとは、あの誕生日の夜には、想像もしていなかった。
季節はいつしか巡り、窓の外の並木道には、桜のつぼみが膨らみ始めていた。あの誕生日の夜から、もうすぐ一年が経とうとしている。
◆ 書店に並んだ、二人の企画
数ヶ月後、正式に発売された『お一人様用・リセット日記』は、都内の主要書店やセレクトショップの店頭に並ぶようになっていた。
発売から一ヶ月で、初回ロットの五千部は完売し、追加生産が決定したという知らせが届いたのは、ちょうどその頃だった。SNSでは、実際に購入した女性たちから、温かい感想が次々と投稿されていた。
『疲れた夜、これを開くだけで、少し救われる気がする』 『自分を責めなくていいんだって、思わせてくれる一冊』
紡は、そうした声の一つひとつを、大切に読み込んでいた。数字としての成功以上に、こうした生の声こそが、紡にとって何よりの報酬だった。
追加生産の知らせを受けた日、商品開発戦略室では、ささやかな祝杯が上げられた。若手メンバーたちが用意してくれたケーキを前に、紡は柄にもなく涙ぐみそうになった。
「室長のおかげです、本当に」
「ううん、みんなで作り上げたものだから」
紡が謙遜すると、航が横から口を挟んだ。
「藤瀬さんは、そうやってすぐ自分の手柄を過小評価するんですよね。もっと堂々としていいと思いますけど」
その言葉に、周囲からも笑いと同意の声が上がった。かつて一人で戦っていた紡の周りには、今、こんなにも多くの仲間がいた。
ある女性誌からは、『地下から生まれた逆転企画』というタイトルで、紡と航にインタビューを申し込む取材依頼まで届いた。
「お二人にとって、この企画で一番大切にしたことは何ですか」
記者の質問に、紡はしばらく考えてから、静かに答えた。
「地道でも、諦めずに声を聞き続けることです。数字だけでは見えない想いが、きっとどこかにあるはずだから」
その答えに、航も深く頷いた。取材はそれから一時間近く続いたが、二人にとって、これまでの道のりを振り返る、貴重な時間となった。
「窓のない部署から、まさかこんな注目を浴びる日が来るとは思いませんでした」
取材に応じながら、紡は半年前を思い出し、感慨深げに笑った。隣に座る航も、慣れないインタビューにやや硬い表情を浮かべながらも、誇らしげにデザインへのこだわりを語っていた。
ある週末、紡と航は、二人で近所の書店に足を運んだ。文具コーナーの一角、目立つ場所に平積みされた自分たちの企画を目にした瞬間、紡は思わず立ち尽くした。
「本当に、商品になったんだね……」
感慨深げに呟く紡の隣で、航も珍しく、感慨深い表情を浮かべていた。
近くにいた若い女性客が、何気なく手に取り、ページをめくっている。しばらく見つめた後、彼女はそっとレジへと向かっていった。
その光景を、紡と航は、少し離れた場所から、こっそりと見守っていた。
「誰かの毎日に、寄り添えたかな」
「間違いなく、寄り添えてますよ。あの人の顔、見ました? すごく優しい顔してた」
航の言葉に、紡は静かに頷いた。あの誕生日の夜、絶望の底で書き始めたこの企画が、今、見知らぬ誰かの日常に、確かに寄り添っている。その事実が、何よりの誇りだった。
その夜、自宅に戻った紡は、書店で購入したばかりの『リセット日記』を、机の上に広げた。自分が企画した商品を、今度は一人のユーザーとして開くのは、不思議な感覚だった。
日付の欄に、今日の日付を書き込む。そして、コラム欄に、こう記した。
『今日、自分の作ったものが、誰かの毎日に寄り添っているのを見た。頑張ってきて、本当に良かった』
たった五分にも満たない時間だったが、紡の心には、確かな充足感が満ちていった。
◆ 三人の、変わらない夜
その晩、三人は久しぶりに集まり、発売を祝う小さな飲み会を開いた。律子の部屋には、あの日と同じように、シャンパンと寿司が並んでいた。
「乾杯! 商品化、本当におめでとう!」
律子の音頭で、三人はグラスを合わせた。
「あんたたち、結局どうなったのよ。ちゃんと付き合ってるわけ?」
律子が、待ってましたとばかりに切り込んでくる。紡と航は、思わず顔を見合わせ、同時に頬を赤らめた。
「え、えっと……」
「まあ、そんな感じ、です」
歯切れの悪い二人の返事に、律子は呆れたようにため息をついた。
「もう、はっきりしなさいよね。でもまあ、二人とも幸せそうで何より」
「そういえば律子、あのサロンの常連さんとは、結局どうなったの?」
紡が水を向けると、律子は今度は隠すことなく、照れくさそうに笑った。
「実は、来月、初めて二人でご飯行くことになったの」
「え、本当に!?」
紡が身を乗り出すと、律子は珍しく、少女のような笑顔を見せた。
「紡たちにさんざんお節介焼いた分、今度は私が幸せになる番かなって」
その言葉に、三人は顔を見合わせ、温かい笑い声を上げた。それぞれが、それぞれのペースで、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
律子が、改めてグラスを高く掲げた。
「じゃ、あらためて。紡の新しい門出と、この先ずっと、みんなが笑っていられますように」
「乾杯」
三人の声が、重なり合った。
窓の外には、あの誕生日の夜と同じように、街の明かりが輝いていた。だがその光は、もう紡を苦しめるものではなかった。三人で囲むテーブルの上には、これまでのどんな夜よりも、賑やかで温かい時間が流れていた。




