2.息子と彼女と指輪
十月のある朝、健二さんから電話があった。
「母さん、今週末行っていいか」
「もちろんよ」
澄江さんが言った。
「神楽さんも一緒?」
「ああ」
健二さんが言った。少し間があった。
「報告がある」
電話が切れた。
澄江さんが私を見た。
「ムギちゃん、聞いてた?」
私はそっぽを向いた。
聞いていた。
「報告って、なんでしょうね」
澄江さんが言った。
にこにこしていた。でも、目が少し潤んでいた。
わかっているくせに、と思った。
でも、何も言えなかった。言える方法がない。
私は○(マル)を作った。
澄江さんが「そうね」と笑った。
週末の午後、健二さんと神楽さんが来た。
神楽さんの左手に、細いリングがあった。
私は窓から、二人が商店街を歩いてくるのを見ていた。
並んで歩いていた。
二人の糸を確認した。
健二さんの赤い糸と、神楽さんの赤い糸が、互いに向かって、太く、温かく輝いていた。
一月に初めて来たときより、ずっと太くなっていた。
白い糸も増えていた。
新しい家族の縁が、生まれようとしていた。
「澄江さん、こんにちは」
神楽さんが暖簾をくぐりながら言った。
「いらっしゃい」
澄江さんが立ち上がった。
健二さんが「母さん」と言った。
「なに?」
「報告がある」
澄江さんが「ええ」と言った。
神楽さんが左手を、少し前に出した。
「先週、プロポーズしていただいて」
神楽さんが言った。
「お返事をする前に、澄江さんに会いたくて、来ました」
澄江さんが「まあ」と言った。
神楽さんが続けた。
「返事をする前に、澄江さんの顔を見たかったんです。健二さんのお母さんの顔を見てから、決めたいと思って」
澄江さんが、神楽さんをまっすぐ見た。
神楽さんが、澄江さんをまっすぐ見た。
しばらく、二人で見合っていた。
それから、澄江さんが言った。
「よろしくお願いします」
神楽さんの目が、潤んだ。
「こちらこそ」
神楽さんが言った。
「よろしくお願いします」
お茶を飲みながら、健二さんが言った。
「母さん、驚かないの」
「驚かないわよ」
澄江さんが言った。
「わかってたから」
「いつから」
「神楽さんが初めて来た日から」
澄江さんが笑った。
「目を見ればわかるわよ。ちゃんと健二を見ていたから」
神楽さんが照れた。
「式は、来年の春を考えていて」
健二さんが言った。
「小さくやりたいんですけど」
「そうね」
澄江さんが言った。
「でも、ムギちゃんは呼んでね」
「式場に猫は無理だろ」
健二さんが苦笑いした。
「じゃあ、前撮りだけでも」
澄江さんが言った。
「前撮りも難しいと思う」
「ムギちゃん、どう思う?」
澄江さんが私を見た。
私はそっぽを向いた。
式場に猫が来られるわけがない。
でも、前撮りなら、考えてやらないこともない。
神楽さんが「ムギちゃんと撮りたいです」と言った。
私は神楽さんを見た。
この人は、本当に根が真っ直ぐだ。
○(マル)を作った。
「ムギちゃんが○を作った」
神楽さんが笑った。
「前撮り、一緒にお願いします」
健二さんがお手洗いに立った隙に、澄江さんと神楽さんが二人になった。
神楽さんが、静かに言った。
「澄江さん、一つお願いがあって」
「なに?」
「健二さんのお父さんのこと、もう少し教えてもらえませんか」
澄江さんが少し驚いた顔をした。
「お父さんのこと?」
「はい」
神楽さんが言った。
「健二さんが、夢でよく会うって言うから。どんな人だったか、もっと知りたくて」
澄江さんが少し間を置いた。
「頑固で、不器用で、でも根は真っ直ぐで」
澄江さんが言った。
「健二にそっくりだったわ」
「そうなんですね」
神楽さんが言った。
「健二さんの根の真っ直ぐさが、お父さんからなんだって、わかって、嬉しかったです」
「どうして?」
「受け継がれているものがあるって、わかったから」
神楽さんが言った。
「お父さんから健二さんへ。そして、私たちの家族へも、受け継いでいけたらと思って」
澄江さんが、目を閉じた。
一秒。二秒。
目を開けたとき、笑顔だった。
「ありがとう」
澄江さんが言った。
「そう言ってもらえて、よかった」
私はその場面を、カウンターの端から見ていた。
澄江さんの糸が、今日は今まで見た中で一番温かかった。
白い糸が、健二さんの方向へ、神楽さんの方向へ、太く、輝いていた。
受け継がれていく、縁の糸だった。
神楽さんが私を見た。
「ムギちゃん」
私はカウンターから降りた。
神楽さんの前まで歩いた。
「来年の春、式をするんですけど」
神楽さんが言った。
「健二さんと澄江さんと、ムギちゃんがいてくれれば、それで十分な気がして」
私はそっぽを向いた。
式場には、行けない。
「でも」
神楽さんが続けた。
「ほころび庵で、写真を一枚撮らせてもらえませんか。ここが、縁の始まりの場所だから」
私は神楽さんを見た。
縁の始まりの場所。
この人は、わかっている。
この場所がどういう場所か、ちゃんとわかっている。
私は、○(マル)を作った。
神楽さんが笑った。
「ありがとう、ムギちゃん」
健二さんが帰り際、澄江さんに言った。
「母さん、嬉しそうだな」
「嬉しいわよ」
澄江さんが言った。
「泣かないの?」
「泣かないわよ」
澄江さんが言った。
「嬉しいんだから」
健二さんが少し笑った。
「でも、目、潤んでるよ」
「潤んでいないわ」
澄江さんが言った。
潤んでいた。
神楽さんが「澄江さん、これからもよろしくお願いします」と言った。
「こちらこそ」
澄江さんが言った。
二人が出て行った。
澄江さんが窓から二人を見送った。
商店街を並んで歩いていく、健二さんと神楽さん。
二人の赤い糸が、夕暮れの光の中で輝いていた。
澄江さんが、静かに言った。
「受け継がれていくのね」
私は澄江さんを見た。
「お父さんから健二へ。健二から、神楽さんへ」
澄江さんが私を見た。
「ムギちゃんも、この場所で見てきたものを、受け継いでいってね」
私はそっぽを向いた。
受け継ぐ、という言葉が、胸のあたりに落ちた。
縁は、消えない。
形を変えて、人から人へ、場所から場所へ、時代から時代へ、受け継がれていく。
それが、この物語のテーマだった。
それが、この商店街の、ほころび庵の、在り方だった。
秋の夕暮れが、商店街を橙色に染めていた。
ほころび庵の暖簾が、風に揺れた。
明日も、誰かが来る。
縁は、続いていく。




