表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ほころび庵:番外編  作者: ゆも


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/4

1.雨の夜

 ★ムギside


 朱音は死んだ。


 病室の天井を見ていた記憶が、最後だった。


 白い天井。点滴の音。モニターが鳴っていた。遠くで誰かが泣いている声がした。


 彩音だ、と思った。


 声をかけようとした。でも、声が出なかった。


 手を動かそうとした。でも、動かなかった。


 ただ、天井を見ていた。


 横断歩道を渡っていた。青信号だった。次の瞬間、衝撃があって、気づいたら病室にいた。


 それが、花村朱音の最後だった。


 二十八年。短すぎた。やり残したことが、山ほどあった。


 でも、それ以上は考えられなかった。


 天井が、白くなっていった。


 次に気づいたときには、冷たい雨が降っていた。


 暗かった。


 濡れていた。


 体が、小さかった。


 四本の足があった。しっぽがあった。


 声を出そうとした。


「にゃあ」


 それしか出なかった。


 朱音の記憶は、あった。二十八年分、ちゃんとあった。


 でも、体は猫だった。


 なぜ、という問いは、答えが出なかった。


 出なかったから、諦めた。


 段ボールの中にいた。


 外は雨だった。梅雨の、しつこい雨だった。


 段ボールが水を吸い始めていた。


 寒かった。


 最悪だ、と思った。


 朱音として生きていたとき、死ぬのはもっと穏やかなものだと思っていた。


 でも、死んで、次に気づいたら、雨の中の段ボールだった。


 最悪だ、と、もう一度思った。


 糸を視ようとした。


 視えなかった。


 物心ついたころから視えていた糸が、今は視えなかった。


 猫の目には、糸が視えないのか。


 それとも、死んで生まれ変わったから、力が消えたのか。


 どちらかわからなかった。


 ただ、暗くて、寒くて、濡れていた。


 黙っていれば、このまま終わるかもしれない、と思った。


 でも、黙っていられなかった。


 生きていたとき、いつもそうだった。


 視えるから、放っておけなかった。


 今は、何も視えない。


 でも、やはり、黙っていられなかった。


 声を出した。


「にゃあ」


 雨音に、かき消されるかもしれない、と思った。


 でも、出した。


「にゃあ」


「にゃあ」



★澄江side


 宮下澄江は、その夜、一人で店にいた。


 ほころび庵を始めて、三十五年が経っていた。


 押し切って始めた店だ。


 何か始めないと、自分がどこかへ行ってしまいそうで、始めた。


 霊感はなかった。占いの知識も、独学だった。


 最初の数年は、客が来なかった。


 何度も閉めようと思った。


 でも、続けてきた。


 三十五年、続けてきた。


 今夜は、帳簿をつけていた。


 健二から、先週また電話があった。


「母さん、一人で大丈夫か」


「大丈夫よ」と答えた。


 大丈夫だった。


 でも、正直に言えば、疲れていた。


 三十五年、一人でここにいた。


 相談者が来て、話を聞いて、帰っていく。


 それの繰り返しだった。


 悪くはなかった。


 でも、夜に一人でいると、夫のことを考えた。


 もう何年も経つのに、まだ考えた。


 今夜もそうだった。


 帳簿を閉じて、電気を消そうとした。


 そのとき、聞こえた。


 雨音に混じって、小さな声が。


 にゃあ。


 にゃあ。


 澄江は、立ち上がった。



★ムギside


 声が、届いた。


 足音が近づいてきた。


 人間だ、と思った。


 助けてくれるかどうかは、わからない。


 でも、声が届いた。


 それだけで、十分だった。


 段ボールの蓋が開いた。


 光が入ってきた。


 傘をさした人間が、しゃがんでいた。


 六十代くらいの女性だった。


 雨の中、しゃがんで、私を見ていた。


 糸が視えない私には、この人が何者かわからなかった。


 でも、顔を見た。


 怖い顔ではなかった。


 驚いた顔だった。


 そして、少し、困った顔だった。


 困っているのに、離れなかった。


 私はその人を、まっすぐ見た。


 言いたいことが、山ほどあった。


 寒い。濡れている。助けてほしい。


 でも、声にならなかった。


「にゃあ」しか出なかった。


 それでも、まっすぐ見た。


 朱音として生きていたとき、言葉が届かないことがあっても、目だけで伝わることがあると知っていた。


 目だけで、伝えようとした。



★澄江side



 子猫がいた。


 茶色と白のまだら模様の、小さな子猫だった。


 全身ずぶ濡れで、震えていた。


 澄江はしゃがんで、子猫を見た。


 子猫が澄江を見た。


 その目が、気になった。


 ただの迷い猫の目じゃなかった。


 何かを、伝えようとしている目だった。


 言葉にならない何かを、必死に伝えようとしている目だった。


 澄江は少し迷った。


 猫を飼ったことはなかった。


 アレルギーがあるかもしれない。


 健二に反対されるかもしれない。


 一人暮らしで、猫の世話ができるかどうか、わからなかった。


 でも。


 雨が降っていた。


 子猫が震えていた。


 その目が、まっすぐこちらを見ていた。


 澄江は、子猫を抱き上げた。


 冷たかった。


 ずぶ濡れで、小さくて、震えていた。


 それでも、抱き上げた。


 放っておけなかった。



★ムギside


 抱き上げられた。


 大きな手だった。


 温かかった。


 私はその手の中で、力が抜けた。


 ずっと震えていた体が、少し、緩んだ。


 建物の中に入った。


 雨音が遠くなった。


 暖かかった。


 古い店だった。


 水晶玉があった。赤いテーブルクロスがあった。壁にタロットのポスターがかかっていた。


 占い師の店だ、と思った。


 占い師には何度も会ったことがあった。本物もいたし、偽物もいた。


 この店の主が、どちらかは、まだわからなかった。


 タオルで包まれた。


 温かかった。


 私は、その人を見た。


 六十代くらいの、目の優しい女性だった。


 糸は、まだ視えなかった。


 でも、この人が悪い人ではないことは、わかった。


 放っておけなくて、拾ってくれた。


 それだけで、わかった。



★澄江side


 子猫をタオルで包んだ。


 震えが、少し収まってきた。


 澄江は子猫の顔を見た。


 まだ、あの目をしていた。


 何かを考えている目。


 何かを言おうとしている目。


「変わった子ね」


澄江は言った。


「こんな目をした猫、見たことないわ」


 子猫が、澄江を見た。


 鳴かなかった。


 ただ、まっすぐ見た。


 澄江は少し笑った。


 久しぶりに、笑った気がした。


 今夜は、帳簿をつけながら、少し気持ちが重かった。


 三十五年、一人でやってきた疲れが、夜になると出てくることがあった。


 でも、この子猫を見ていると、少し、軽くなった。


「名前、どうしようかしら」


 子猫の毛色を見た。


 茶色と白が混じった、柔らかい色だった。


 麦畑の色だ、と思った。


「麦みたいな色だから、ムギね」


 子猫が、少し目を細めた。


 怒っているのか、満足しているのか、わからなかった。


 でも、悪くない反応だった。


 澄江は子猫を膝に乗せた。


 雨が降り続けていた。


 でも、店の中は温かかった。


 一人じゃない気がした。


 久しぶりに、そう思った。



★ムギside


「麦みたいな色だから、ムギね」


 そう言って抱き上げた手は、温かかった。


 私はその腕の中で、目を閉じた。


 そのときはまだ、知らなかった。


 この人と、六年以上一緒に過ごすことも。


 この場所が、自分の居場所になることも。


 たくさんの縁を、もう一度見届けることになることも。


 悲しい別れも。


 誰かが前を向く瞬間も。


 新しい命が生まれる春も。


 何も、知らなかった。


 糸が、また視えるようになることも。


 何も、知らなかった。


 ただ、その手は温かかった。


 雨の音が、遠くなっていった。


 私は、目を閉じた。


 ここに来てよかった、とは、まだ思っていなかった。


 ただ、温かかった。


 それだけだった。


 それだけで、その夜は、十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ