【第7話】白い魔法水と、小さな命の逆転劇――骨盤位分娩
「マーサさん、村中から木灰と消石灰をかき集めてきて!」
「は、はいよっ!」
私の指示に、さっきまでの傲慢さをかなぐり捨てたマーサが脱兎のごとく駆け出していった。
産室の窓が全開にされ、初夏の爽やかな風が淀んだ悪臭を吹き飛ばしていく。
私は小屋から持参していた【診療室生成】の携行品――10%次亜塩素酸ナトリウム液(さらし粉水溶液の原液)を取り出し、清潔な水で希釈して消毒桶を満たした。
ツンとした、前世のプールサイドを思わせる刺激的な塩素臭が立ち込める。
「いい? これが消毒水よ。お産に携わる人間は、爪の先から肘の上まで、石鹸とこの水で皮膚が擦り切れるくらい洗いなさい! 器具と布はすべて熱湯で煮沸滅菌! 一度床に落ちた布は、二度と患者に触れさせないこと!」
私の徹底的な衛生指導のもと、産婆たちが必死の形相で手を擦り合わせる。
高熱を出していたリーザには、解熱鎮痛作用のあるヤナギ樹皮の煎じ液と、大量の電解質水を経口投与。さらにマイルームから持ち出した抗生剤を慎重に投与すると、数時間後には四十度近かった熱が三十七度台まで下がり、荒かった呼吸がスースーと穏やかな寝息へと変わった。
「熱が……下がった……!?」
「神官様の祈祷でもビクともしなかったのに……!」
産婆たちが驚愕に目を見張る中、表の廊下からけたたましい叫び声が飛び込んできた。
「た、大変だ! 納屋のアンナの陣痛が始まっちまった! でも様子がおかしいんだ、足から……赤ん坊の小さな足先が先に出てきちまったんだよッ!!」
産婆たちの顔が再び恐怖に染まる。
「逆子かい……!? そんなの、母子ともに助かるわけがないよ……!」
「諦めるな! 先生、アンナを助けてやってくれ!」
マーサが私にすがりつく。
私は消毒水に両手を浸し、鋭く告げた。
「運ぶ暇はないわ、私がそっちへ行く! 煮沸した布と温湯を大量に持ってきて!」
◇
薄暗い納屋のベッド。
若い妊婦――アンナが、激しい陣痛に狂乱してシーツを掻きむしっていた。
下半身を覆うシーツをめくると、破水した産道から、胎便に汚れた赤ん坊の小さな二本の足が力なく垂れ下がっていた。
「ひぃっ、早く引っ張り出さないと赤ん坊が窒息しちまう!」
見習い産婆が半狂乱で赤ん坊の足首を掴み、力任せに引っ張ろうとする。
「手を離しなさいッッ!! Hands-off the breech!!」
私の鋭利な怒声が納屋を切り裂いた。
産婆の手を叩き落とし、私はベッドサイドへ滑り込む。
「引いちゃダメ! 骨盤位分娩で足を無理に引っ張ったら、赤ちゃんの両腕が頭の上にバンザイして(上肢挙上)、一番大きな頭が産道に引っかかって抜けなくなるの!」
頭から生まれる通常の分娩と違い、逆子は「一番柔らかいお尻や足」から先に出てくる。
力任せに牽引すれば、首が子宮口に締め付けられ、腕が引っかかり、数分で臍帯が圧迫されて胎児は窒息死するのだ。
「いい、アンナさん、私の目を見て! 深呼吸して、陣痛の波に合わせて自然に息むのよ! 私が合図するまで、絶対に無理に力まないで!」
「ひ、ふぅ……っ! ひ、ふぅ……っ!」
私は赤ん坊の体に一切触れず、自然な陣痛による下降をじっと待った。
陣痛の波とともに、赤ん坊のふっくらとしたお尻が、次いで腰が、ゆっくりと回旋しながら滑り出てくる。
(……まだ、まだ我慢……よし、肩甲骨の下角が見えた!)
「ここからよ!」
私は清潔な布で赤ん坊の骨盤を愛護的に把持した。
体幹をゆっくりと半回転させ、引っかかりかけていた右腕を胸の前を通して自然に抜き去る(レーヴゼット手技)。次いで逆方向に回転させ、左腕もするりと抜いた。
残るは、最大の関門――後続児頭の娩出!
赤ん坊の胸が出たことで、へその緒が赤ん坊の頭と母体の骨盤の間に挟まれ、完全に血流が途絶えている。
タイムリミットは、あと三分。
「アンナさん、最後のひと息み! 全力でいくよッ!!」
私は自分の左前腕の上に、赤ん坊の小さな体を腹ばいに乗せた。
そして左手の中指を赤ん坊の口の中へ滑り込ませ、下顎骨を優しく下方へ引き寄せる。
【手技:モーリソー・スメリー・ファイト法】
指で赤ん坊の顎を胸へと強く引かせることで、頭部を前屈させ、頭の断面積を「最小径」にして骨盤を通す古典的かつ最強の救急手技!
「顎を引いて……骨盤のカーブに合わせて……上へ誘導……抜けてっ……!!」
ニュルンッ!!
柔らかな感触とともに、赤ん坊の頭部が産道を完全に滑り出た。
「出たよッ!」
「あ、赤ん坊が……!」
産婆たちが歓声を上げかけた――その瞬間、室内の空気が再び凍りついた。
生まれた赤ん坊は、ぐったりと弛緩して動かなかった。
全身がチアノーゼで青白く、呼吸をしていない。産声が上がらないのだ。
「し、死んでる……? 息をしてないよ……!」
「神様、そんな……!」
「黙りなさい! まだ死んでない!!」
私は赤ん坊を温かい清潔なタオルで包み、即座に平らな台へ寝かせた。
へその緒の根元を触る。トク、トク、と微弱だが確実に脈が打っている。
(二次性無呼吸ね。触覚刺激じゃ戻らない……陽圧換気(人工呼吸)よ!)
頭をわずかに持ち上げ、気道をまっすぐに確保する(スニッフィング・ポジション)。
指に巻いたガーゼで口と鼻の粘液を素早く掻き出す。
そして私は、自分の口を大きく開き、赤ん坊の小さな鼻と口を一度に丸ごと覆い被せた。
「すぅ……っ、ふぅぅぅ……」
肺を破裂させないよう、大人の頬の膨らみ分の空気だけを、優しく、リズミカルに吹き込む。
(吸って、ツー、スリー、吸って、ツー、スリー……戻ってきなさい! あなたのお母さんが待ってるのよ!!)
三回目の吹き込みを終えた、その時だった。
ビクッ、と赤ん坊の小さな胸が大きく波打った。
青白かった皮膚に、サーッと鮮やかなピンク色の血色が差していく。
そして――。
「――ぎゃぁぁぁぁぁぁぁッ!! おぎゃぁぁぁぁッ、おぎゃぁぁぁぁッ!!」
納屋の屋根を突き破らんばかりの、力強い産声が響き渡った。
「な……っ」
「泣いた……! 赤ん坊が、息を吹き返したよッ!!」
納屋の中が、割れんばかりの歓声と号泣に包まれた。
アンナが涙をボロボロとこぼしながら、胸の上に抱き寄せられた我が子を抱きしめる。
マーサをはじめとする百戦錬磨の産婆たちが、膝から崩れ落ち、まるで本物の神仏を見るような目で私を見上げていた。
「先生……! あんた、いや、先生は……天から遣わされた、命の聖母様だ……!」
拝むように手を合わせる女たちを見下ろしながら、私は全身の力が抜け、その場にペタンと座り込んだ。
「……ふぅ。疲れたぁ……。もういいから、みんな手洗いを忘れないでね……。私は帰ってお昼寝するから……」
だが、この奇跡の救出劇が、私の平穏な生活に「第二の災厄」を招き寄せる引き金になるとは、疲れ切った私の頭では予測すらできていなかった。




