【第6話】不浄の産室と、死を呼ぶ手――産褥熱
胃痛に悶絶していたギルド支部長ルシアンが、私の処方した胃薬を抱えて涙目で帰っていった翌日。
私は日当たりのいい縁側で、巨大な黒狼――クロのお腹に埋もれながら、至福の二度寝を堪能していた。
「……ふわぁ。モフモフ、あったかい……。これよ、これこそが私が求めていたスローライフ……」
「クゥ〜ン……」
クロが喉をごろごろと鳴らし、太い前脚で私を包み込むように抱き寄せてくれる。
極上の毛布。最高の抱き枕。
門の外ではバルガスが「先生のお昼寝中である! 静粛にせよ!」と森のリスにまで威圧感を放っているが、まあ静かなら何でもいい。
だが、運命というやつは、私に三時間以上の連続睡眠を許してくれないらしい。
「た、助けてくれぇぇぇッ! 先生! 先生はおいでかいッ!!」
砦の跳ね橋の向こうから、悲痛な叫び声が響いた。
丸太門の隙間から転がり込んできたのは、恰幅のいい中年女性だった。エプロンを締め、たくましい腕に小麦粉と赤黒い染みをこびりつかせた、いかにも肝っ玉母さんといった風貌。
近隣の開拓村を取り仕切る村長の妻であり、村一番のベテラン産婆――マーサだ。
「止まれッ! 何奴だ! 先生の安眠を妨げる者はこのバルガスが――」
「どきなさいよ筋肉ダルマ! 人命がかかってんだよ! 先生、エルシャ先生ぇぇッ!!」
マーサは戦斧を構えるバルガスをフライパンでも叩き落とさんばかりの勢いで突き飛ばし、縁側へ駆け込んできた。
そして私の隣で気持ちよさそうに寝息を立てているクロを見るなり、ヒッと息を呑んで硬直した。
「ひぃっ!? ま、魔獣……!? いや、そんなこと言ってる場合じゃないよ! 先生、頼む、村に来ておくれ!」
「……うぅ……ん……マーサさん? どうしたの、そんなに慌てて……」
私は擦り切れた意識を無理やり引き戻し、クロのモフモフから顔を上げた。
マーサは私の手を取り、大粒の涙をポロポロとこぼした。
「村の若いお母さんたちが……お産を終えたばかりの娘たちが、次々と高熱を出して倒れてるんだ! 震えが止まらなくなって、お腹が焼けるように痛いと泣き叫んで……今週だけでもう三人、命を落とした!」
「……え?」
「教会のお偉い神官様は『不浄な血の穢れだ』『悪魔が産道から潜り込んだ神罰だ』って言って、祈祷の寄付金ばかり巻き上げて何もしてくれない! 今朝も、新婚のリーザの娘が四十度の熱を出して意識を失いかけてるんだよ……! 頼む、先生、助けてやっておくれ……!」
神罰。
産後数日の高熱と激しい下腹部痛。
そして、マーサの衣服に染み付いた、血と膿の混ざり合った異臭。
その瞬間、私の頭の中で警報が鳴り響いた。
前世の産婦人科・公衆衛生学の講義で叩き込まれた、あの暗黒の歴史の記憶が、鮮烈に蘇る。
(……まさか、【産褥熱】……!?)
私は跳ね起き、パジャマ代わりのワンピースの上に白衣代わりのリネンローブを羽織った。
「バルガス、門を開けて! マーサさん、今すぐその産院へ案内して!」
「先生、お待ちを! 護衛に某も――」
「あんたはここで留守番! 男手が入っていい場所じゃないわ、クロ、お留守番よろしくね!」
「ワフッ!」
私はクロの頭を一撫でし、血相を変えて森の小道を走り出した。
今日のお昼寝タイムも、完全消滅が確定した。
◇
開拓村の奥にある共同産院。
その重い木の扉を開けた瞬間、私の鼻腔を強烈な熱気と悪臭が襲った。
「うっ……!?」
換気のための窓はすべて分厚いカーテンで目張りされ、部屋の中は蒸し風呂のように淀んでいる。
薄暗い部屋のベッドには、産後二日目の若い女性が横たわっていた。
顔面は真っ赤に鬱血し、全身をガタガタと激しく痙攣させるような悪寒戦慄。荒い息を吐きながら、下腹部を抱えて苦悶の呻き声を上げている。
そして――ベッドの傍らには、豪奢な祭服を着た神官と、助産見習いの女たちが立っていた。
「悪魔よ、この不浄の女から去れ……聖なる煙にて穢れを祓わん……」
神官が香炉を振り回し、息苦しい煙を室内に充満させている。
だが、私の目を釘付けにしたのは、そんなオカルト儀式ではなかった。
神官と産婆たちの「手」だ。
彼らの着ているエプロンは、乾いた赤黒い血と黄色い膿でガビガビに固まっていた。
そして産婆のひとりが、前の患者の膿がついた素手を洗いもせず、新たな清潔な布に触れるどころか、そのまま呻く妊婦の腰布をめくって内診を行おうとしていたのだ。
「ちょいとリーザ、我慢しなよ。悪霊がどこまで巣食ってるか、中を確かめてやるからね――」
「そこ、触るんじゃないわよォッッ!!!!」
バシィィィィンッッ!!
雷鳴のような平手打ちの音が、淀んだ産室に炸裂した。
産婆の手が弾き飛ばされ、部屋中の視線が一斉に私へと突き刺さる。
「な、なんだいあんたは!? いきなり人の手を引っ叩くなんて――」
「神聖なる悪魔祓いの儀式を冒涜するか、無礼者め!」
神官が色めき立ち、香炉を掲げて怒鳴り散らす。
だが、私の瞳には、もはや彼らを人間として認識する余裕すら残っていなかった。
私の全身から立ち上るドスの利いた殺気に、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
「全員、動くな。一歩でも動いたら、その腕を関節からねじ切るわよ」
「ヒッ……!?」
私の低く冷え切った声に、筋骨逞しい産婆すら息を呑んで後ずさった。
私は産婆の指先と、神官の薄汚れた爪の間を指差した。
「神罰? 悪霊の呪い? よくもそんな寝言が言えたものね。……あんたたち、さっきまで別の化膿した傷の患者を触っていたでしょう?」
「そ、それは……隣の病室の男の傷口を清めていたが……それが何か――」
「その手よ!!」
私の怒声が産室の壁をビリビリと震わせた。
「お産を終えたばかりの子宮はね、胎盤が剥がれ落ちて手のひら一枚分の血管が剥き出しになった、人体最大の生傷なの! そこに、前の患者の膿と腐敗した体液を塗りたくったその汚い手を突っ込んだらどうなるか、想像もつかないの!?」
【病態解説:産褥熱(ゼンメルワイスの悲劇)】
分娩後の子宮内膜創傷面に、外部から溶連菌などの病原細菌が直接侵入・感染する疾患。
細菌は急速に子宮筋層を食い破り、骨盤腹膜炎を引き起こし、血管内へ毒素を撒き散らして致死的な敗血症性ショックを引き起こす。
かつて十九世紀のヨーロッパで、解剖実習を終えた医師たちが手を洗わずに産婦を診察したことで、数万人のお母さんたちが命を落とした「医学史上最悪の医原病」だ。
「悪魔が殺してるんじゃない。あんたたちのその汚れた手が、お母さんたちを殺しているのよ!!」
私の宣告に、産婆たち全員の顔から血の気が引いた。
マーサが震える声で呟く。
「あ、あたしたちの手が……あたしたちが、あの子たちを……?」
「後悔するのは後! 今すぐこの部屋の窓を全部開けなさい! 新鮮な空気を入れなさい!」
私はローブを脱ぎ捨て、腕まくりをした。
「全員、部屋から出て大鍋でお湯を沸かしなさい! 私が本当の『清潔』を教えてあげるわ!」




