【第5話】青ざめるギルド支部長と、胃薬の処方箋
翌朝。
澄み渡る青空の下、私の診療所に新たな闖入者が現れた。
「ひ、開けてくれッ! 誰かおらんのかッ!!」
悲鳴のような声とともに、砦の門をくぐり抜けて(バルガスが通したらしい)駆け込んできたのは、豪奢な銀の軽甲冑を身にまとった金髪の麗青年だった。
腰には細身のレイピア。仕立ての良いマント。
どう見ても育ちの良い貴族だが、その整った顔面は今や紙のように真っ白に脱色されていた。
「た、大変だ! 今すぐ避難を……っ! ギルドの魔力観測班が、この裏森に神話級の災厄指定魔獣――『冥府の黒狼』の咆哮を感知した! 一国を滅ぼす災害だ、早く逃げ――」
青年は、縁側で立ち止まり、絶句した。
「……あ?」
青年の視線の先。
ポカポカとした陽だまりの縁側で、私はマグカップを片手に、巨大な漆黒の獣のお腹に背中を預けて優雅にお茶をすすっていた。
包帯を巻かれたその漆黒の巨獣――クロは、気持ちよさそうに目を細め、私の膝の上に大きな顎を乗せて「クゥ〜ン」と甘えた声を漏らしている。
私が「はいはい、いい子ね」と耳の後ろを掻いてやると、太い尻尾をバッタンバッタンと猛烈な勢いで振って、私の顔をペロペロと舐め回した。
「くすぐったいってば、クロ!」
「クゥーゥン♪」
「………………」
青年は、口をあんぐりと開けたまま石化していた。
瞳孔が限界まで開き、指先がガタガタと震えている。
「ふ、ふぇ……フェンリル……!? 成体になれば山を噛み砕くと言われる漆黒の神獣が……喉を鳴らして……腹を見せて……じゃれついて……!?」
「あ、おはようございます。どちら様ですか? 森の狼さんなら、足の怪我を手当てしたら懐いちゃったみたいなんですけど」
「手当てぇぇぇぇッ!? あの神獣を手懐けたというのかッ!?」
青年が頭を抱えて絶叫した。
その瞬間――。
「うっ……! ぐ、ああああっ……!!」
青年は突如、自分の鳩尾を両手で強く押さえ込み、その場に崩れ落ちた。
額から滝のような脂汗が噴き出し、苦悶の表情で砂利の地面をのたうち回る。
「ちょ、ちょっと!? 大丈夫ですか!?」
「い、胃が……焼ける……ッ! 胃に、熱した鉛を流し込まれたような激痛が……ぐ、ああああっ……!」
私はクロの頭を撫でて待てをさせ、青年の元へ駆け寄った。
鳩尾を押さえてうずくまる姿勢。冷汗。吐き気。
「胃痛……? いつから痛むの?」
「ここ、数ヶ月……っ! 冒険者ギルド支部長の激務と……上層部の理不尽な命令と……問題児の冒険者どもの不祥事の処理で……空腹になると、胃が抉られるように痛んで……今朝の衝撃で、ついに限界が……っ!」
青年の身の上を聞き、私は深い哀悼の眼差しを向けた。
(あぁ……わかる。痛いほどわかるわ、その気持ち……)
前世の医学部時代、連日の徹夜勉強と両親からのプレッシャーに胃を苛まれ、常に胃薬を手放せなかった私の暗黒時代がフラッシュバックする。
こいつ、典型的な「激務の中間管理職」だ。
「触診失礼するわね。……ここ痛い?」
「ひぎゃあっ!?」
心窩部に指を当てると悲鳴が上がった。だが、腹壁全体が板のように硬くなる筋性防御はない。虫垂炎や胃穿孔のような急性腹膜炎の兆候ではない。
「激しいストレスと過労による、【急性胃粘膜病変】および【重度ストレス性胃潰瘍】ね。胃酸が過剰に分泌されて、自分の胃の壁を溶かしかけてるのよ」
私は立ち上がり、右手に意識を集中させた。
「【診療室生成】――胃薬セット、投影!」
パッと光が弾け、私の手の中に小さな薬包と錠剤が現れた。
即効性のある制酸薬――炭酸水素ナトリウム(重曹)と、胃酸分泌を根本から強力にシャットアウトする最強のプロトンポンプ阻害薬――オメプラゾール。
「はい、これ。お水と一緒に噛まずに飲み込んで」
「な、なんだこれは……? 白い粉と……奇妙な丸薬……?」
「いいから飲んで! 五分で楽になるから!」
青年はすがるように薬を口に放り込み、私が差し出した水で一気に飲み干した。
炭酸水素ナトリウムが胃内の強酸を即座に化学中和し、オメプラゾールが胃壁のプロトンポンプに結合して新たな酸の分泌をブロックしていく。
数分後――。
「……あ、れ……?」
青年がおずおずと自分の腹部をさすった。
脂汗が引き、血色の悪かった頬に色が戻っていく。
「焼けるような痛みが……消えた……? 胃が……重い鉛を吐き出したように、スーッと軽くなっていく……!?」
「中和完了。でもこれは対症療法だからね。コーヒーとお酒は禁止。脂っこいものも控えて、睡眠をちゃんと取ること。いい?」
私が医学生時代に叩き込まれた生活指導を淡々と述べると、青年はハッと我に返ったように居住まいを正し、地面に膝をついた。
「も、申し遅れました! 私はこの地を治める辺境伯が次男にして、冒険者ギルド支部長を務めております、ルシアンと申します!」
「あ、はい。エルシャです。エルでいいですよ」
「エルシャ先生……! 神話のフェンリルを従え、教会の一級神聖魔術師でも治せぬ私の慢性胃痛を、わずか数分で完治させるとは……! 噂に違わぬ、天上の大賢者であらせられたか……!」
「いや、ただの胃薬です」
「先生! ギルドおよび辺境伯家の総力を挙げ、この診療所を『領地最優先保護特区』に指定させていただきます! 不審者はギルド総出で排除し、先生の安寧をお守りいたしましょう!」
ルシアンは目を輝かせ、私の手を両手で力強く握りしめた。
そして、少し照れたように、すがるような目で上目遣いになる。
「……あ、それと先生。あの奇跡の丸薬……定期的な処方をお願いできますでしょうか……? あれがないと、今後のギルド運営を乗り切れる自信がなくて……」
「処方箋目当ての患者かよ!!」
私のツッコミが快晴の森に響き渡った。
だが、ルシアンは「ふふ、これで激務に耐えられる……」と満足げに笑っている。
門にはSランク戦士のバルガス。
庭には神話級魔獣のクロ。
そして行政のトップであるギルド支部長のルシアンまでが常連患者に加わった。
私のささやかな平穏とスローライフは、音を立てて崩壊するどころか、とんでもない勢いで「国家最高機密レベルの防衛拠点」へと突き進んでいた。




